2007年06月02日

音楽の「言語性」とは?(114)

何かと物議を醸しがちなショスタコービチ「交響曲第7番」だが、第3楽章については、比較的その「対象」とならずに済んで来たように思われる。 
当初、四つの楽章それぞれに付けられていた標題(削除されたとは言え、こういうものの常で、結局「言及されないことはない」のだが)の中で「祖国の広野」というものが割り当てられたこの楽章は、描写の対象が「自然」という「最もケチのつけにくい題材」であることと、とりあえずは「そのイメージに合った」音楽となってはいるため、これを彼の「この種の音楽」の「傑作」とみなす意見もあるほどだが、それはともかくとしても、最初と最後の楽章の持つ、どうにも拭い難い「胡散臭さ」や、第2楽章の「薄もや」で隠蔽した(つもりの)独善的な「回想」とやらに比べれば、はるかに「問題の少ない」ものであることは確かであろう。
これが「成功し易いネタ」であるとしても、彼がこの楽章の冒頭から作り出す、管とハープによる凍りついたような「硬い」コラールと、それに続くヴァイオリンによるレチタティーヴォ風の単旋律の野太い「歌」という組み合わせは、どう見ても「交響的」というよりは「オペラ的」であり、幾分安易さを感じさせるとしても充分に効果的であり、印象的である。
とは言え、それでなくとも「即興性」の強い作風の彼が、この交響曲で「実践」した「安易に長くする傾向」は、この楽章でも歴然で、前回述べたように、直前の第2楽章との形式的、性質的類似とも相まって、双方合わせて半時間以上かかる「冗長さ」には、しばしば辟易させられる。
ことに形式上の類似は「ほぼ同一」と言って良いほどのもので(どちらも大体においてa-b-a-c-a’-b’-a’’の形に収まっている)、作曲者の「配慮」とも採れなくもないが、むしろ「無作為」振りを示すものと言って良い。(マーラーとかブラームスのような人なら、このような場合、必ずどちらかを「それと分るほど」短くし、長い方、例えば第3楽章なら「二重変奏曲」などに仕立てることだろう。無論、形式を「同一」にすることなど「論外」であって、絶対にあり得ない。)
ショスタコービチの場合、さらにフィナーレでも標題音楽的な「サラバンド」を挿入することで「似たような図式」を「三たび繰り返す」という事態を招いており、この作曲家が具体的な「手本」を「参考」にしなかった場合、「どういうことになるか」を示している。
冒頭から強奏されるコラールは「荒々しさ」や「古風さ」を装うべく不協和音が多用され、機能和音が拒否されているが、実際には上声が示している「旋律線」が重要であり、これに続くヴァイオリンの「歌」と共通の動きを示しているが、これが第1楽章第二主題に由来するものであることは、その「性格」からしても当然であろう。
ヴァイオリンの第一主題は「何か既知のものの引用」のようにも聴こえるが、実際の音の動きはかなり即興的であり、幾分民族音楽風のものを感じさせ、「イメージ喚起」的である。
これとコラールが交替しながら互いに変化しつつ進むが、「変奏」とかいうよりは「同一のものが持続している」感じが強く、「時間遅滞による停滞感」と「空間の広さ」が重ね合わされている。
フルートによって第二主題が現れるが、長調か短調が明確でない第一主題から「明確に長調」となる以外には目立った差異が無く、これも同じ楽想の敷衍に属しているが、実際に第一主題後半部を「引き延ばした」ような性格を持ち、これまた延々と続く。
コラール含めた第一主題部が復帰し、中間部となるが、これまたテンポが速くなり、リズムの固執が見られる、という前楽章同様の「構図」であって、繰り返す通り、この後の処理共々、「同じ趣向」の楽章を連続させようとした、としか考えられないような類似だが、だとしても「その意図」が何であるかは良く解らない。
はっきりしていることは、それがどう見ても「効果的ではない」ことであるが。
中間部は一貫して付点リズムによる「騎馬行」を思わせるような動きが一貫して用いられ(途中でリズムが細分化され、マーラーの「第7」冒頭楽章の序奏部を思わせる部分がある)、これも「イメージ喚起」に徹している。
音楽の進行自体は彼が交響曲の冒頭楽章の「展開部」で見せるような手法が見られ、一種の「行進曲」風の性格による攻撃的なリズム反復と、クライマックスと一致した第一主題部の回帰(ここでもコラールが金管で復帰)、という典型的なパターンを示しているが、第3楽章の中間部という「この位置」であることが、どうにも疑問を抱かせる。
この「第7」では、例の「ボレロ」が第1楽章の「展開部」の「代用」であった以上、「この種の音楽」が現れる余地が無かった訳ではあるが、では「代わりに出現すべき場所」として「ふさわしい」ものがあるとすれば当然「フィナーレ」が相当なのであって、しかし意味論的には「ふさわしくない」のだとすると、敢えて「前倒し」して「ここでやる意味」があるのかどうか、これも良く解らず、そもそも「違った処理」を「何故しないのか」も謎である。
主部の回帰については、当然「短縮されている」こと、第二主題が前楽章同様に低音域に移され(あれほど際立って低くはないが)、ヴィオラ、チェロが用いられること、コーダで「暗い領域」が準備されてアタッカの指示のもとにフィナーレに直結していること以外には述べるべき点がない。
この「暗い領域」は、それまでの音楽の感触に第1楽章の「世界」が「侵入」することでフィナーレを「準備」しようとするものだが、第一主題とコラールの「暗い変奏」であることで「移行」する性格を失っており、そのためフィナーレでさらに「序奏」が必要である、という「境界」の曖昧さを生じている。無論、ベートーヴェンの「第5」のイメージを利用しようとしたものであるこの「措置」は、これからやって来るのが「勝利」であるとはいうものの、取り敢えず、これまで「先延ばし」してきた「闘争」を描かねばならない、という以上「違った意味」にならざるを得ず、ここにも作曲家の「計算違い」があるように思えてならない。
しかも、彼は肝心のフィナーレを「長く持ちこたえる事が出来ない」のである。(以降、次回。)
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2007年05月26日

音楽の「言語性」とは?(113)

ショスタコービチ「交響曲第7番」の第2、第3楽章は、当初付されていた標題によれば、それぞれ「回想」、「祖国の広野」という具合で、冒頭楽章「戦争」、フィナーレ「勝利」との間に挟まれた、いわば「本題から少し離れた」、「補足」的な意味の「間奏曲」ということにでもなろう。
とは言え、はっきりと「祖国」と記した第3楽章と比べ、題から想像されるような「民族の歴史」云々ではなく「何か個人的なもの」と感じられる第2楽章では明らかにスタンスが違い、そこでは、どうも焦点の合わない音楽とも相まって、「間奏」としての性格をより強く感じさせる。
そのあたりの事情に配慮したのかどうか知らないが、両者には音楽的には類似点が多く与えられ、「本題」の両端楽章における「ハ短調/ハ長調」から大きくはなれた「ロ短調/ニ長調」の調性や殆ど「同一」と言っても過言でない構成、余り明確でない旋律を延々と続ける傾向などによって「連続性」が与えられている。もっとも、「大スケール」が前提のこの交響曲にあっては中間楽章にも「それなりの長さ」が必要でもあり、このような措置を講ずることは「変化の乏しさ」を生ずることにもなりかねず、実際、第1楽章の半分ほどの長さの第2楽章と、それよりも幾分長くかかる第3楽章、という組み合わせは、全体のバランスからして性格上あまり「劇的」にも出来ない事情や、「内容以上に長い」この交響曲にあって、ご多分に漏れず「その長さを実現する」為の「繰り返し」や「蛇足」が各所で行われており、これらに「退屈」を感じずに済ますことは、なかなか難しい。
「薄もやで覆われた憂愁と夢想」という、作曲者のロマンティックな「注釈」(勿論彼はシベリウスとかではない)に期待した上で第2楽章を聴くと、多くの聴き手は肩すかしを喰わされるだろうが、普通であればショスタコービチ得意の「スケルツォ楽章」が書かれるはずの場所で(彼がこの曲種で見せる、いつもの「辛辣さ」を「発揮」するのが、この交響曲の趣旨上「好ましく無い」とでも思ったのであろうか)、当該「スケルツォ」を「中間部」に貶める形で、前後をミディアム・テンポの、性格の曖昧な「薄い音楽」(これが「薄もや」である、とでも言う積りであろうか)が囲んでいる、という造りで楽章を「拡大」している。(フランクが彼唯一の、しかし極めて相対価値の高いその「交響曲」で緩徐楽章の中間部に「スケルツォ」的特徴を与え、主部の回帰で結び合わせる、という「離れ業」を披露しているが、それを思い出させる。フランクのように全体を「三楽章構成」とすれば「納得の行くやり方」だが、無論、ここではそのような「凝った造り」は見られない。それどころか、ここではさらに本来の「緩徐楽章」たるべく、似たような造りの第3楽章が続く、という具合で、はなはだ「マズイ結果」となっている。)
冒頭からヴァイオリンに出る、ほぼ単旋律で続く第一主題は、幾分スケルツァンドな性格を持ち、「フーガの入り」のような感じも与えるが、無論そのようなものではなく、まるで「いい加減な鼻歌」のように、取り留めの無い「適当な」旋律が延々と続く。大音響の冒頭楽章と比べれば確かにコントラストは強いが、どう見ても「選び抜かれた音」とは言いかねる「弛緩した音楽」は、第二主題に至って彼好みの「短ー短ー長ー長」という軽いダンス音楽風のリズムに乗って、オーボエが短調ではあるものの暗さは無い「小唄」のような旋律を出すに至って「くだけた雰囲気」となる。
これに最初の部分がピッツィカートで復帰して続き、早くも「三部形式」を作るが、「トリオ」はさらにこの後で、嬰ハ短調の分散和音に乗って、いつものような「鋭さ」を幾分欠いた「スケルツォ風」の音楽が始まるが、これは「第6交響曲」の当該部分に類似しており、それに「第5交響曲」を結ぶ例のファンファーレに酷似したものが取り混ぜられる。(この部分自体はマーラーの「第2」の第3楽章の影響が顕著である。)
これは長くは続けられず、主部が幾分短縮されて復帰するが、第二主題が今度は珍しいバス・クラリネットの長いソロとして現れ、より「疲れた感じ」を誘う。(まさに「ふさわしい」楽器法ではあるが)これを契機に元々薄いテクスチュアは「さらに薄く」なり、「停滞感」が増加したあげく、前述の軽いリズムが第一主題と結び合わされて、予定調和的な長調の響きで閉じられる。
主部の音楽には、バレエ音楽の短いナンバーを「スローモーション化」したような特徴が見られ、意図的であるにせよ、その「弛緩した」状態は、実際の「音」同様、「室内楽」にこそ「ふさわしい」ようなもので、「これがどのような交響曲であったか」を考え合わせると、この楽章の「中身」は、第1楽章の「ボレロ」同様、作曲者の「見識」を疑わせるようなものがある。
彼は「大真面目」であったとしか考えられないのではあるが、この「憂愁と夢想」は「居眠り半分の鼻歌」にしか聴こえず、何か「とてつもない勘違いをしている」か、まるで「締め切りにでも追われ」、「仕上げの時間が足りない」としか思えないような「出来具合」を示しており、演奏によっては「悪夢」に思えるほど長く、退屈である。(以降、次回。)
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2007年05月19日

音楽の「言語性」とは?(112)

ショスタコービチの「交響曲第7番」は、彼の十五の交響曲の中でも「第5」に次いで有名な作品であろうが、初演の「大成功」以来、当時のソ連の「体制」側でも、「西側」でも歓迎され、人気を博して来た、という、彼の作品としては、むしろ「異例な部類」である、という点でも共通している。
(「第1」のような「鳴り物入り」の成功もあるが、大抵は「体制」から何がしかの批判が加えられるか、前衛が全盛の「西側」では、その「古いスタイル」の為に「専門筋」からは常に揶揄されたが、それでも一部の作品は一般聴衆にはアピールするものがあった。)
とは言え、「第5」の場合の「成功」の具合はいささか異なっていて、前者ではともかくも「音楽的に成功」と見なしうるのに対し、「第7」ではもっと「外部の事情」が作用しており、「レニングラード」という、今となってはいささかコメントに詰まるような「タイトル」が示している通り、大戦中の有名な「レニングラード攻防戦」の最中に「まさにそこにいた」作曲家による(彼は「最前線」では勿論無かったにせよ、実際に国防軍の一員として参加した。これによる「高揚感」は、この作品に直接的に作用している。例の「ショスタコービチの証言」では、これが「ずっと前から構想」され、描かれるべき「仮想敵」も一般化されて、ソ連の「体制側」に摺り替わったような、「もっと広いヴィジョンによる内容」であるかのような記載があるが、第1楽章の非常に解り易い内容の通り、文字通り「眉唾もの」であろう。)「戦いと勝利のドキュメント」とでもいったものとして作られ、体制側にも「戦意高揚」「国威発揚」の「都合良い品」として扱われ、戦勝による「ハイな気分」の国民にも気に入られ、「西側」にも「反ファシズム」の象徴として「飛び火」した、という「特殊な状況」を差し引いて考える必要があろう。(これはマイクロフィルム化されて「国家機密」として「輸出」され、アメリカではこの曲の「初演権」を巡って争いが生じる、という前代未聞の「茶番」まで発生した。その地位と名声からトスカニーニが最終的にその「権利」を獲得したが、この彼の情熱は「音楽的理由」からではなく、強烈な「ファシズムへの憎悪」から来たものであって、後年、熱から覚めたトスカニーニが、これを「大いに恥じた」、というのも有名な話である。無論、それは「音楽的良心」によるものであろうが。)
この、彼の交響曲中で最大規模の作品は、外見的、内容的にも「モニュメンタル」たるべく作られ、また「そのように」受け取られて来たというものの、これは彼には散見される「困った作品」の一つであって、それまでに書かれた六つの交響曲と比べても最も完成度が低い。
でか過ぎる外見に比例して「薄味」で荒く、未整理の挙げ句の「引き延ばし」を随所に散りばめることによって規模を拡大し、最終的にはベルリオーズ、マーラーばりに「金管の別働隊」まで動員して「盛り上げる」ものの、いずれにせよ、効果は極めて外面的なものに傾いている。
この曲のように「人気」と「実際」に「大きなギャップがある」例はクラシック音楽には稀であるが、初演時の「リアルな状況性」の余韻が消えると、さすがに「批判的な意見」も飛び出すようになり、「交響曲」としてはあまりに「緩過ぎる」構造や冗漫さ、露骨に標題的な内容(実際、四つの楽章には「戦争」「回想」「祖国の大地」「勝利」というストレート過ぎる「標題」が付けられていたが、あまりにも露骨過ぎるためか、「撤回」されたようである。)などに矛先が向けられている。
彼は、この曲における「内容」に見合う形で、「解り易さ」のために平明な旋律を多用し、「壮大さ」を実現させるため「本来のスタイル」を離れて「自己拡大」を限界まで行い、「長くなる」のが「定例」であり「必然」であるブルックナー、マーラー並み(「第三主題」まで必要としたブルックナーが長くなるのは当然だが、マーラーの「長さ」は、むしろ「それでも圧縮した結果」の印象を与えることすらある。)の規模の作品としたが、どうにも「無理」が感じられ、しばしば「堪え難い長さ」の印象を与え、「時間の浪費」に感じられることすらある。
その特徴が典型的に現れている第1楽章は、半時間ほどを要し、マーラーの第1楽章やフィナーレの大規模なものに匹敵するほどであるが、密度や構成においては全く比較にならず、それどころか「裏技」でこれを実現している始末である。
無論、この曲でも最も「有名な部分」である、ソナタ形式の展開部と「そっくり差し替えられた」、楽章の中ほどにおける(十分もかかる)「敵の侵入」の描写がそれであるが、その音楽は、小太鼓の一定のリズム・オスティナートが際限無く繰り返される上に、旋律が不変のまま(ショスタコービチでは幾分かは変化が加えられはするが)楽器法を変えながらクレッシェンドする、という手法は、調性や拍子、リズムが異なるとは言え、誰が聴いてもラヴェルの「ボレロ」を思い出さずにいられないもので、「類似」と範疇を超えて、ほとんど「パクリ」であり、名の知れた作曲家が「このような場合」で使用するのは「常軌を逸している」ようにも思える。
このような手法が見られることもあって、素材は楽章の規模の割には少なく、主題的にも類似性が強く、当然に考えられるような「対立的な構図」は、主題上では避けられ、代わりに進行自体が著しく描写的である。
冒頭、いきなり第一主題が強奏されるが、「ハ長調」という「このような作品にふさわしい」調性が選ばれ、いかにも「それらしい」旋律が現れる。「ドソ↓レソ↑ミ」と入る開始は、伝統的な「ソドレミ」という上昇パターン(「第5」のコーダのコラールと同様である)の変化形であり、「長調」を象徴する「ドレミ」の音形に、これに前置される「ソ=ド」の四度、ないし五度の安定した音程は無論「軍楽調」を示す、ラッパや太鼓の象徴であり、まさにこれらの楽器で盛んにカデンツを挿入し、「行進曲調」と相まって紛う事無き「対象」を指し示している。(これは「人間の主題」と呼ばれる事もあらしいが、どうも作曲家には「あずかり知らぬこと」のようである。)
これには三小節目で増四度であるfis音が続き緊張を与えるが、これはト長調への傾斜を示すものでなく、続きのハ短調の出現共々、「安定した状況に無い」ことを表しているようである。
他に分散和音や音階上昇が挿入され、「前進的」な傾向を示すが、第一主題部は変奏部や挿入部を交えて何度も現れる形で拡大され、かなりの部分が「省略可能」であって(かねてから「無駄な音符」が多いとは言え)、こうして構造はブロック化して大規模となり、早くも「壮大化」の意図が明らかとなる。
第二主題は「第5」以来の「定型」となった弦のオスティナート音形に乗って出る「歌謡的な旋律」であるが、第一主題の副次部に含まれる音階上昇で始まり、分散和音形や下降音階も用いられる。
これは変拍子を交えて長い音価でどんどん「ゆっくり延びて行く」傾向となり、第一主題部、この後の中間部の規則的なリズムと対照を無し、「空間化」が感じられ、「自然の描写」といった印象を与える。二度ばかり違った形で弦に現れる和声的なゆっくりしたカデンツは、この交響曲でも最も美しい時間を実現しているが、ここでも「引き延ばし」が見られ、即興的なフレーズの挿入や旋律自体の反復が顕著で、これまた「省略可能」であり、第二主題部最後のピッコロ、ソロ・ヴァイオリンの「受け渡し」などは完全に「蛇足」であろう。
そして問題の「ボレロ」が始まるが、この「敵の侵入」を表現していると思われる部分は、しかしパロディカルな主題によっており、この「出典」について論議を呼び覚ましている。
この「戦争の主題」と呼ばれる主題(これが「ソ連軍を表した」ものか「ドイツ軍を示す」ものかについても何故か意見が分かれているらしい)の後半にある音階的下降部分については、レハールの「メリー・ウィドウ」の「ダニロ登場の歌」の引用、という説があり、そこでの「神聖な祖国を忘れさせてくれる」という歌詞共々「意味深なもの」と受け取られているが、主題の開始部そのものは「ドレドソ↑」と始まる動き自体、第一主題に基づくものであり、旋律に与えられた付点リズムと同音反復が「サラバンド」の動きを暗示していることは、ショスタコービチ自身がこの曲の第4楽章で明らかにしており、そこでは明らかに「葬送」のイメージを与えられている。(これは「第15番」のフィナーレにおける同様な構造の部分でも用いられている。)
「戦争主題」の反復経過についてはわざわざ触れるまでも無かろうが、やがてグロテスクさが増し、第一主題が「悲劇的に」歪められて再現し(これも相当に引き延ばされる)、「戦争の主題」と絡められ、第二主題が「モノローグ」として同様に「悲劇的な姿」で続く、という経過の「解り易さ」はR.シュトラウスの交響詩以上の「標題音楽らしさ」であり、深刻ながらも、表層的な感じを拭えない。
この後、提示部に「より近い形」で第二主題部がさらに続き(第一主題もトリオのように挿入される)、「戦争の主題」が「事態が続いている」ことを示すように、「遠くで響いている」ように途切れ途切れに弱奏され、閉じられる、と言えば「筋書き」を全部辿った事になる。
こうして、皆が「歓迎すべきもの」でなければならない「大勝利」へに向けての準備の一つを終えた訳だが、ファシストを嫌ってアメリカに逃れたものの、不遇を囲い、しかも死期の迫っていたバルトークが、このようなものを聴かされ、それが「大歓迎」されるのを見せられて「どのように感じたか」は、広く知られており、彼は口を極めて罵っただけでは済まず(バルトークの歯に衣着せぬ毒舌は有名である)、これとは到底比較にならぬ「大傑作」である「管弦楽のための協奏曲」において、その第4楽章の中で「罵倒を永遠に記録化する」ことによって「完全に復讐した」が、この仕打ちにショスタコービチは傷つき、以後、自分の作品の「さらなる新たな再作曲」ほどでは無いにせよ、その「新作」の中に、「バルトークの作品の一部」を強迫的に「作曲することになった」ことも有名である。(以降、次回。)
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2007年05月12日

音楽の「言語性」とは?(111)

ショスタコービチ「交響曲第6番」の終曲である第3楽章は、彼の書いた音楽の中でも際立って「陽気な性格」のものであるが、その「浮かれ度合い」は、しかし、彼の他の同趣旨の音楽では良く見られるような「皮肉」や「風刺」といった要素を含んでいない、という点で異例である。
彼好みの「ギャロップ調」に始まるこの楽章は、いわば「本気で羽目を外した」一例であって、彼の「シリアスな作品」としては稀な部類に属する、と言えよう。(似た趣向の「ピアノ協奏曲第1番」のフィナーレと比べても、熱に浮かれたような「単一性」という点で質を異にしている。要するに、ここには「覚めた目」の入る余地が無いのである。)
これは確かに「交響曲のフィナーレ」として仕立てられてはいるものの、実際には「もっと軽い」音楽、彼のバレエ音楽とか映画音楽、「ジャズ組曲」とかに含まれるような、短い「気晴らし」のようなナンバーと「同じ根」を持つものであって、彼は要するに「これを楽しんでいる」のである。
(彼は「娯楽的な音楽を提供したい」と発言したことがあるらしいが、それが「体制向き」の席での、「交響的作品について」の文脈の中で語られたものであるというのは注目に価する。)
このような性質のために、音楽は「実際の内容」よりは大規模なものとなり、その「経過」の長さによって「到達感」が増幅される「最終局面」としての馬鹿げたような「乱痴気騒ぎ」が、「交響曲」としては凡そ「ふさわしからぬもの」として全曲を閉じることになる。
この交響曲全体に顕著な「即興性」は、ここに至ってさらに強くなるが、その「興に任せた」自由さは、ここでは音楽の性質に「はまって」おり、ことさら「荒さが目立つ」ようなものではない。
外形を拡大する必要性から様々な所で「反復」や「引き延ばし」が行われているが、開始部からその要素は顕著である。
いきなり出る第一主題は「長ー短ー短」リズムの同音反復で始まるが、これはロッシーニの「ウィリアム・テル」序曲の最終部の、知らぬ人のない「行進曲」を思い出させる。(彼の愛用するこのリズムは、まさに「それに由来する」ものであることは、ショスタコービチ自ら「交響曲第15番」の第1楽章で直接「引用」することで明らかにしている。)
fis音の反復の後は主音hのオクターヴ跳躍が現れ、これがロ短調であることを示すが、e音の反復や木管楽器でト短調の音階下降が「合いの手」のように挟まれることで調性感は曖昧にされている。
中間部的な主題第二部分を挿んで再三再四に渡って奏されるこの主題のうち、最初の二小節は「不変」であるが、二回目の同音反復は様々な位置で現れ(e,h,g,a,cなど)カプリッチョ風な性格を強調する。(そして木管の「合いの手」であるが、「フレーズの引き延ばし」であると共に、マーラーの「第5」の最終部分で「脱線」を引き起こす、やはり木管によって奏される雪崩のような「下降音階」の影響下にあると思われる)
第一主題部の旋律的要素や構成は、ベートーヴェン「第3」の第3楽章スケルツォとの類似性が感じられ、同音反復モティーフや、その「意外な落とし方」、木管の使い方(ベートーヴェンのトリオ部における)など、ショスタコービチには散見される「元ネタが透けて見える」一例となっている。
第二主題は比較的安定したニ短調となり、分散和音形とオクターヴ跳躍に基づくが、より「通俗性」に接近しており、サーカスの音楽か何かのように聴こえる。これは前打音を持つ同音反復部が旋律に挟み込まれ、さらにそれが取り出されて反復されることで「道化」の性格が強調され、こうして、いよいよ音楽が「本題」に入った事が示される。
またしても繰り返される第一主題部の後、第一主題、第二主題からの派生部を経過して中間部となるが、彼自身の「第4交響曲」の第3楽章の主部のように「三拍子のスケルツォ風の音楽」が始まるが、ここでは「この場にふさわしく」、ワルツ風の要素も多く含まれる。最初のファゴットの旋律は第二主題から派生したものであるが、後の展開にとってあまり重要なものでもなく、殆ど「自由即興をそのまま書き取った」ような「暴れっぷり」であり、「第4」の場合と同様に「通俗性」をたっぷり込めながら「オーケストラ的演奏効果」に配慮しつつ進む。
中間部の終わりでファゴットに民謡風の旋律が現れ「第二の中間部」が始まったかと思わせるが、これも気まぐれであって、ほどなくソロ・ヴァイオリンが「移行部」を演じ、主部を回帰させる。(これもどうやらベートーヴェンの「レオノーレ序曲第3番」の「ネタ」のようであるが。)
再現部は短縮され、一通りの経過を繰り返してコーダへと「一直線に進む」性質のものとなっている。移行部として第一主題部に含まれる動機を拡大した音階的フレーズを経て、中間部冒頭の旋律が今度は四拍子として「ギャロップ調」で復帰し、いよいよサーカスかミュージカルのフィナーレのような「ノリ」となる。コーダ自体も三部形式であり、第二主題部の前打音モティーフを用いた、登場人物が各自「口上」を述べるような、言語的効果を持つ部分を挿んで「乱痴気騒ぎ」は最高潮となり、最後は「伝統的な」主和音連打をもって目出度く「打ち上げ」となる。
派手で「大向こう受けする」、「演奏効果のあがる」「拍手のもらえる」結びである一方、「交響曲全曲の終わり」としては明らかに「それらしくない」「整合性に欠ける」このフィナーレは、各楽章の「動機操作上」の共通性をも結局は「吹き飛ばして」しまい、いわば「力ずくで持って行って」しまう。
作曲家の言う、何がしかの「気晴らしの音楽」が、ここで実現されているにせよ、これが冒頭楽章からの納得の行く「帰結」であるとは到底言えず、「まるで連続性の無いものが三つ束ねられた」ような印象は拭えない。
この、マーラーの「第7」の第2、第3、第5楽章を抜き出したような構図は、「新機軸」というよりは、いささか「省略し過ぎ」でもあって、強すぎるコントラストと、始めと終わりで全く異なる音楽の「密度」は、結局は、そのまま聴き手に投げかけられる「疑問」となる。
この結果が「偶然の産物」というのは言い過ぎにせよ、作曲者の「周到な計算の結果」でも無いでもあろうことはおそらく確かで、彼が「第5」で地位を固めた後、余裕を与えられて「肩の力を抜いた」、いわば「流れに任せる」ようなやり方が生んだ「一回限り」の成果として、しかし、彼の交響曲としては明らかに「オリジナルな」成功作に属することは間違いない。
ある意味では、この後の巨大な「第7」の方が(世間的には成功したにせよ)これよりもずっと「バランスを欠いて」おり、私としては「第6」よりも唖然とさせられる。
そこにおける途方も無いような「自己拡大感」は恐ろしく空疎であり、始末の悪い事に、それでいて「共感を強いている」のである。(以降、次回。)
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2007年05月05日

音楽の「言語性」とは?(110)

何はともあれ「スケルツォ」という曲種に関しては「優れた使い手」であったショスタコービチであるが、後年になる程「ああ、またか」と思わせる「ルーティンな書き方」が良く見られるとは言え、まだ若いうちは、作品ごとの「書き分け」に気を配っている様子である。
この「ジャンル」の始祖にして「最高峰」であるベートーヴェンを別格として、以後のいわゆる「ロマン派」が、これをどうも「不得手」にしていたらしいこと、その連鎖を打開して新たな「価値」を加え、「スケルツォ」を「主役」に据えることさえも出来たマーラーについても以前述べた通りだが、その「マーラー以後」では、その作風からしてもこの曲種にぴったりの「適役」であるショスタコービチは、最も「スケルツォ」を愛用した一人であろう。(プロコフィエフだって同様だが、彼は「スケルツォ」に対してはむしろ慎重で、「屋上屋を重ねる」ような効果を嫌ってか、ソナタ楽曲に「判で押したように」これを使うことはせず、作品ごとの「バランス」に配慮しながら採用を決めていたと思われる。これも既に述べたことだが。)
ショスタコービチには、実際には「スケルツォ」と題された楽章を有しない構成を持つ曲も少なくないにせよ、速いテンポの音楽には「そのような要素」が多く含まれることが良くあり、彼独特の皮肉な、神経質な身振りへと繋がっていることも周知の通りである。(彼が「このような要素」を目立って「回避」する時は、「体制向き」の作品や「歴史賛美」めいた標題音楽のようなものを書く場合であって、交響曲の場合でも幾つかが該当する。いずれにせよ、それらは彼としても「第一級の作品」とはとても言い難いものが殆どのようであるが、面白い現象である。)
とは言え、彼はマーラーほどには大胆ではなく、「スケルツォ」をベートーヴェン以来の伝統に沿った「従属的な」楽章として(とは言えベートーヴェンでも「第9」では最早「そのようなもの」では無くなっているが)、形式的、内容的にも「比較的シンプルな」ものとして書いている。
このため、彼の「スケルツォ楽章」は、幾分「間奏曲」的なものとして、彼の「比較的ルーズな構成感覚」や「冗長さ」という欠点も少なく、「小粒ながらスパイスの効いた」もの、或いは前述のように、彼の「作風」の「縮図」のようなものとして聴こえることが多く、マーラー的に複雑で多層的なものは(その影響下にある「第4」のそれを含めても)無いにせよ、長さの割には強い印象を残す。
このようなキャラクターは、交響曲においても「第1」「第4」「第5」と保たれて来たが、大まかな外形や、リズムの固執とか、ある種の音形とかの「共通要素」も見られるにせよ、それぞれに「書き分け」がされており、キャラクターの違いは明白である。(特に、速度感の違いや「基本」となる音色感を前面に出す楽器法の差による区別が特徴的である。)
そして「第6交響曲」の第2楽章においては、さらなる「工夫」が見られ、無窮動風に連ねられる素材が、あまり明確でない形式と共に「流動的な」感じを与え、彼の他の「スケルツォ」にも類似物が無いような、独特な「通俗性」と「微妙さ」の入り混じった音楽としている。(但し、この「流動感」のヒントは、マーラーの「第2」の同様の楽章から得ているように思われ、これは一部の素材やファンファーレの導入などの類似からも推測される。)
遅めのテンポでも七分あまりの音楽であるが、短い単位で材料が次々と投入され、極めて変化に富んでいる。動機的な共通性や派生関係は前楽章との関連共々(オクターヴ跳躍とか同音反復とか)、大まかには認められるが、いずれにせよ即興性も顕著であり、「適当な遊び」の要素にも事欠かない。
小クラリネットによる冒頭の旋律は、1オクターヴの音階的順次下降に始まるが、この主題提示部に代表される無定形な「流動性」は、主に伴奏部に現れる十六分音符の「リズムの刻み」が一貫して現れることで最後まで確保される。(これもマーラーの事例と同様である。)次に現れるヴァイオリンの旋律は音階的上昇とオクターヴ跳躍に基づいており、面白い対照を為しているが「第二主題」というには隣接しすぎており、実際、冒頭部の変奏が後に続き、また次の同音連打と分散和音による冒頭部からの「派生」旋律が現れることで、「無定形な」ロンド性が早くも確立される。これにファンファーレ風の部分が続くが、これは「第二主題」から派生したもので、元の主題の回帰へと直結し、さらに冒頭部の変化形へと戻る。
中間部ではオクターヴ跳躍を基本とする切れ切れの旋律が、リズム的には一定のまま膨らませられるが、これは、この曲で最も「ロシア的な感じ」がする部分であると共に、クロス・リズムや三拍子を二分割するリズムによって、主部とはっきり区別される。
これがこの楽章のクライマックスを作り、ティンパニのソロが残って減衰すると「再現部」該当の部分となるが(目立つのは、この最初の部分で主題とその「鏡像形」が同時に奏される個所だが、無論何の「必然性」もなく、「お遊び」であろう)、これはかなり縮小されると同時に、「第二主題」の後にはピッコロによって「新主題」の導入が為され(とは言っても、この「新主題」は、第二主題と分散和音主題から派生したものと解される。また、幾分かは、次の楽章の主題の「予告」的な役割もあると見て良い。)、中間部主題の再現を挿んで、実質的にはコーダを形成している。
ここでは弱音域に傾いた音勢と共に、終止形と半音階的下降がしきりに繰り返され、「終わりが近い」ことを示すのだが、何、メンデルスゾーンを思い出させるような繊細さと陰影があり、ショスタコービチには珍しい、他の作品には見当たらないような印象的なページとなっている。
最後は「新主題」と「ソロ」部分のティンパニの弱奏、ホルンの木霊のような響きによって閉じられるが、コーダ部の音の動きには、何となく「ジャズ的なもの」の影響も感じられる所で、この作曲家が、「ジャズ組曲」などというものも作っていたことを思い出させる。
こうして、音楽はフィナーレの「乱痴気騒ぎ」に引き継がれる訳だが、結局、第1楽章と第2楽章の間の「断層」は埋められず、第2楽章とフィナーレの間にせよ、テンポの速さという極めて漠然としたもの以外には実際には類似性が無い。
この第2楽章の「取り留めなさ」は「象徴的なもの」であると同時に「謎掛け」のようにも思えるが、これがあくまで「結果的に発生した」ものであることもおそらく確実で、しかし「第5」に見られる「計画性」よりは「ショスタコービチらしい」ように感じられるのは皮肉である。(以降、次回。)
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2007年04月28日

音楽の「言語性」とは?(109)

ショスタコービチ「交響曲第6番」は、勿論「第5」ほどの演奏機会は無いにせよ、特にフィナーレにおける、派手で陽気な演奏効果のためもあってか、ショスタコービチに注目する指揮者が割と好んで採り上げる曲であって、彼の交響曲の中では比較的耳にする機会に恵まれていた部類と言えよう。
しかし、三楽章構成によるこの曲は、「第4」のそれとは違って、明らかに「柱」たるべきソナタ楽章を欠いており、曲を開始する重苦しいラルゴ楽章(彼によく見られる「ラルゴ」という速度表示は=シュニトケなどにも受け継がれるが=「額面通りの指示」というより、例えば「アダージョ」という「より一般的な」表示よりも「重く暗い」ような、ある程度まで音楽の「内容」を示しているもののようである。)は、残りの二楽章を足したよりもさらに長い上、その後続二楽章の正反対な「明るさ」と極めて強いコントラストを示しており、しかもその「ギャップ」を「緩和する」ような措置が施されていないため、聴き手に不可解な感じを与える。
書法の点でも、冒頭楽章と残りとでは大きく異なっており、効果的で「聴き映えする」オーケストレーションを施され、「第5」での勿体振りを臆面無くかなぐり捨てた、「俗っぽさ丸出し」の後続楽章に対して、ラルゴは、その「遅さゆえの長さ」(小節数で言えば後続楽章それぞれの半分以下である)にも関わらず、音楽的な密度まで相対的に「薄く」なっており、まばらな音と繰り返し、引き延ばし、漠然とした構成によって、まるで「時間の流れ方」が異なっている。
一応は楽章ごとに速度を増すような配列になっているものの、動機的にも短三度音程やオクターヴ跳躍といった共通要素によって統一感への「配慮」が見られるものの、いずれにせよ「溝」は埋められておらず、「交響曲」としては、「はなはだ異形」であることは否定出来ない。
このような「構図」がマーラーに由来していることは確かであるが(特に「第5」「第7」)、基本的な楽章配列は、ベートーヴェンのいわゆる「幻想風ソナタ」、「月光」の別名で良く知られる「第14番」に倣っているようにも思われる。これは、このソナタの冒頭楽章の第一主題に現れる、付点リズムの動機がこの曲にそのまま用いられていることからも「影響関係」は確実と言えよう。(このリズムは、ショスタコービチが「弦楽四重奏代15番」や「ヴィオラ・ソナタ」といったその最後の作品群で繰り返し用いており、彼にとって何か「象徴的な意味」を持つものであるらしい。)
冒頭から「e-g-e-e↑」という印象的な短三度とオクターヴ進行による動機で開始されるが、これは前作「第5」の開始のエコーでもあることは確実で(「第8」ではもっと露骨に似通っている)、わざとカノン的な処理を回避している。この後続いて現れる、やはり短三度進行を軸とする、もう一つの重要な動機「g−a-b-cis↓-h-cis-d」共々、フーガ主題と対旋律のような性格を持っているにも関わらず(二番目の動機に付けられるトリルが「その感じ」を強めている)、とりたてて「対位法的処理」は行われず、これらから派生した、漠然とした即興的な進行が続くばかりで、挙げ句の果てに、二つの動機を逆順、或いは正順で「接合」しただけの無造作な旋律が現れ、楽器を変えて取り留めなく続くが、これには、オルガンのペダルの即興のような三連符による無窮動風の動きが付随し、これも楽器を変えながら流れる。
クライマックスもあるにはあるが、対位法的な「累積」の結果や感情的な高潮というよりも、何か「楽器法的なもの」に過ぎず、便宜的なものにしか感じられない。
この傾向は次の副次的な部分になると漸増し、弦のトリルの弱奏を背景に、冒頭の短三度動機に基づくマーラー=シューベルト的な「長調ー短調」の交替モティーフによる旋律がモノローグ風に漠然と奏されて始まり、「月光ソナタ」の付点リズムも信号音的に現れ、より「薄い」音楽となる。
これもた一度はクライマックスを築くものの、またしても「実体感」に乏しく、フルートにマーラーの「第2」の終楽章(合唱導入の前の個所)や「大地の歌」の終楽章を思い出させるカデンツァ風な動きが現れるに至って、いよいよ「虚無感」が強くなる。(特に後者の開始部からの影響が強く感じらる。)
こうして、マーラー的な「死の音楽」や、それからバルトーク的な「夜の音楽」の両方を想起させながら音楽は進行するが、やがて最初の二つの動機が、当初は有していたはずの「緊張感」を取り去られたまま「抜け殻のように」回帰し、最後は副次的部分の主題の冒頭をもって「閉じるでもなく」閉じられる。
この楽章の構造は漠然としていて掴み所が無いが、中間部とも見える「副次的部分」に主部との関連があり、続いて再現部風な短いコーダが付けられたものと解され、「全く自由な形式」ではない。
いずれにせよ、この楽章は全く「密度」を欠いており、同時に「第5」の緩徐楽章にあったような「感情性」にも乏しく、そして顕著な即興性のために統合性を欠き、まるで客観的な「事象」のように響く。
これは、以後のショスタコービチで良くお目にかかる「薄い音楽」の最初の現れであるが、このような「密度」の無い「解体したような」音楽は彼独特のものであると同時に、何か「退化」か「麻痺」したかのような「硬直感」を感じさせ、やがてこれらは晩年には「作品全体」を覆い尽くすに至るが、ここでの彼はまだまだ生気に満ちており、後続二楽章では彼の「通俗的な」好みを全開してみせ、楽しませてくれる。
そこでは、この冒頭楽章の「余韻」は全く感じられず、文字通り痕跡ごと「消し飛ばされて」いるのだが、このような特質は「過渡的な様式」を感じさせるとは言え、かえって「意味深く」感じられるものでもある。(以降、次回。)
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2007年04月21日

音楽の「言語性」とは?(108)

ショスタコービチの「交響曲第5番」の一般的人気に最も良く貢献しているのがフィナーレである第4楽章であることは間違い無かろうが、際立って良く知られたこの音楽は、同じ作曲家の、明らかな「体制向き」のド明るい「機会音楽」の一つである、派手派手しい「祝典序曲」などと同じように、吹奏楽などにも編曲されて独立して演奏されることもある。
このような「用途」にも適した(と言っても「吹奏楽編曲」というのは、いささか節操のないものでもあるらしく、「ポピュラー名曲」の類は片っ端から採り上げられているようにも見える。とは言え、「交響曲」の楽章が取り出されて演奏されるのは珍しかろう。どうも選択のポイントは「金管の活躍度合」にあるらしく、おそらくは同様の理由で、矢代秋雄の「交響曲」の、やはり第4楽章であるフィナーレなども聴かれることがある。)
いずれにせよ、この楽章が突出したポピュラリティを得ているのは確かで、「終わりよければ全て良し」でも無いが、開始部からしばらく続くショウ・ピースじみた進行や(演奏によってはグリンカの「ルスランとリュドミーラ」序曲の親戚のようにも響く)コーダの盛大なコラールは、それまでの陰々滅々とした音楽から聴き手を一気に「開放」させ、躁状態に導く。
これは前述したようにベートーヴェン以来「第5交響曲」に「一般に求められてきたもの」にも合致しているようにも見え、実際以上にこのフィナーレを「そのようなもの」に見せて来たように思われる。初演時から人々はこれを「闘争と勝利」の表現であると信じて疑わず(「何に対するもの」であるかは別としても)、交響曲全体を「伝統に沿ったもの」として歓迎してきたのである。
内容の真偽について議論は尽きないとしても、それなりの価値のあるヴォルコフの「ショスタコーヴィチの証言」の発表以来(これについては、ショスタコービチが自身の死後の「イメージ」を「保身」するために利用したのではないか、という意見があるらしいが、私はこれを完全に支持する。彼はこの行為によって、自己の作品に後から「付加価値」を与える事に成功した。実際には「書かれなかったもの」を存在するように見せ掛け、これによって己の作品の荒さ、詰めの甘さを「意味深さ」と錯覚させる「魔法」を使うことになったのである。)ショスタコービチの作品に取り沙汰されるようになった「裏の意味」だの「真の意図」だのは当然このフィナーレにも影響し、作曲者が「真の意味が解らない奴は馬鹿だ」と言ったとか言わないとかいうのも含め、これが「何を表現しているか」について疑問を抱かせ、特に「勝利」云々について考えさせることになった。
もっとも、この楽章については従前からムラヴィンスキー、コンドラシンのような旧ソヴィエト系の指揮者とバーンスタインに代表されるような「西側」における「解釈の違い」、特にテンポ設定の差による顕著な「印象の違い」が問題とされて来た所で、「意味」の差が生じるかはともかくも、意見を二分してきたのではあるが。(作曲者は、どうも後者の「快速テンポ」を想定していた、とも思える。前者らの「遅いテンポ」には、これを「大フィナーレ」に「拡大解釈」しようとする意図が見られ、このため実際にはさほど長く無いコーダを「肥大化」させるため、とりわけ楽章後半部からの極端な減速による「大クレッシエンド」を設定している。このために、前半部分では速いテンポを採るムラヴィンスキーなどの演奏ではアンバランスを生じるが、そこでは、この楽章が持っている不均衡な構成がより強調されることになる。また、後者のテンポも最初から指示よりも早く採られている。スコア上のメトロノーム表示は頻繁なテンポ変化を要求しているが、誤植もあるとされるものの、いささか無理な面があり、また、「流れ」の重視のためか、殆どの指揮者は「その通り」には演奏しないようである。)
主和音の強奏とティンパニの「d−a」の連打に続いて有名な第一主題が出るが、テンポ指示通りに演奏すればこれは「序」のようにも響き、弦による即興的な後続部分からが「本題」のようにも見える。(このあたりはいかにもピアノの無茶弾きを書き写したようにも見え、この交響曲でも最も書き方が「荒い」部分である。)前述通り、これらは冒頭楽章の速い部分、特に「行進曲」部分を「よりアクティヴにした」ような性格を持っているが、極めて解り易い主題自体には「元ネタ」の存在も感じられる所で、この「絶対に失敗出来ない」フィナーレでの「安全策」として「人好きのする旋律」をひねり出そうとした際に「参考」としたものは、どうもドヴォルザークの「新世界」(!)のフィナーレでは無かったか、という感じがする。旋律自体の構成要素(ミラシド、といった基本的な材料)だけでなく、後続部分や第二主題の表情性、そこにおけるトランペットの補充音形を聴くと、無論確証など無いものの、基本的な「ヒントを頂戴した」のではないか、という気がするのである。
さらに「ネタ」は「もう一つ」あり、こちらの方は間違い無く「確実」だと思われるのだが=マーラーの「第1」のフィナーレである。これは主題自体もかなり類似しているが(マーラーの第一主題の第三小節目以降にショスタコービチの主題と音形もリズムも一致したものが出て来る。以後の荒れ狂うような進行のキャラクターも類似している。)、それだけで無く、楽章の構造の共通性という点で「参考」という以上のものが見られる。
但し、マーラーのものは倍ほどの長さがあり、ショスタコービチが「省略したもの」の中には、主題提示までの長い序や、それだけで一部分を為すカンタービレな第二主題部、コーダの「予告」と、それに付随する=マーラーが「最も優れた部分」と呼んだ=長調からニ長調への「直接的移行」、第二主題の回想による「真のクライマックス」ともいうべき極めて印象的な部分など、この曲ならではの「天才的な個所」が複数含まれる。(もっとも、これらを真似したら「簡単にバレてしまう」が。)
ショスタコービチは第二主題を行進曲風のものに変えたが、(この主題冒頭は四度音程に基づいており、チャイコフスキー「第6」第3楽章の主題なども思い出させる。)その後の「自由な形式」は、マーラーの先例を明らかに踏襲しており、冒頭楽章の回想(しかし、それはこの部分の最初に出される「長ー短ー短」のリズムが「そう思わせる」ためで、実際には冒頭楽章の材料が直接的に用いられる個所は第一主題部に僅かに現れるだけである)、ここでは、すぐにマーラーの場合と同様の第二主題の材料による進行に移る。
しかしこれを長くは続けず、エピソード風となり、第3楽章の「民謡風主題」や、この楽章の第一主題に基づく旋律が「叙情的部分」を形成する。(この部分の最後で現れるいかにも「意味ありげな」「歌曲の引用」=「苦しみから解き放たれる」云の歌詞を持つ=は、確かに「額面通り受け取っても良い」ように思われるが、にも関わらず「たまたま同じフレーズが出て来てしまった」ので「引用してみた」可能性を、この作曲家の場合は除去出来ない。)
この後の「奇妙に勢いを削がれた」第一主題の再現は、コーダで同じ材料を使う以上「当然の措置」でもあるが、それ以上にマーラーにおける「先例に倣った」ものである。この後のコーダへの移行の仕方、コーダ自体の書法(金管主体、弦などの刻みの多用、打楽器、ユニゾンの使い方)もマーラー無しには考えられないようなものとなっており、ショスタコービチがいかに慎重に「踏み外さない」ようにしたか、が良く解る。
物議をかもすコーダは言うまでもなく第一主題の「長調形」と冒頭楽章の序の二番目に現れる順次音階下降を用いたモティーフを用いたものである。(これが短調に傾斜しているのを「問題視」する向きもあるが、同様の書き方である「第7」や「第12」の同様の部分の例を見ても解る通り、むしろ「癖」のようなもので、特に「意味を探る」には価しない。)このコーダにはマーラーと、マーラーが「第1」のコーダで「引用した」シューマンの「第3」のフィナーレのエコーが聴かれるが(それにマーラー「第3」のようなティンパニの「d−a」の連打で終わる。これは、ここではマーラーの「第1」「第3」ほどの重要な「中心音程」では無かったはずであるが。)、この意図的な「類似」は、聴衆を「安心させる」には充分であり、交響曲の「結び」として「疑問を抱かせる」恐れがない。
最近言われる「二重の意味」だの「強制された歓喜」だのは「後からかけられた魔法」の仕業であって、おそらくは「幻視」に過ぎないのである。
この「約束された成功作」は、作曲家が悪どいまでに張り巡らした「俗なる要素」と「踏襲」によって「成る可くして成った」のであって、その「一発必中」は、それらの「助け」を借りて行われたものである。皮肉なことに、人気のフィナーレが最も「他者への依存度」が高いのは述べた通りで、まだまだ「第5を書く」にしては若かった作曲家の「独自性」が「どのようなもの」であったか示している。作曲家がこれに不満なのは当然であって、さきの彼の発言が実際にあったとしたら、それは「自嘲的なもの」と考えるのが自然であろう。
そして彼は「第8」における、同様の構想の「焼き直し」で「真の意図による」フィナーレを書くことになる。それはまさに、これとは「正反対」のようなものである。(以降、次回。)
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2007年04月14日

音楽の「言語性」とは?(107)

ショスタコービチ「第5交響曲」の第2楽章は短く明快なスケルツォであるが、前後楽章の重苦しさの間に置かれて良い「息抜き」となっている。
また、ここではサーカス音楽でも思い起こさせるような「通俗性」が臆面も無く導入されており、辛辣ではあるが底暗さは無く、彼の音楽としては「愛想の良い」ものに属する。
調性感もはっきりとしており(イ短調であるが、マーラーにおいてこの調が持つ意味、「運命の調」たる、殺気立ったような切迫感はまるで無く、中間部含め、長調に傾く部分も多い。)、シンプルな三部形式による構成も実に見通しが良く、この作曲家の同様な楽章で良く見られる「無駄な音符」も少なく、最も「良くまとまった」、「解り易さ」に配慮したスケルツォと言える。
このように陽気な「軽さ」を装っているとは言え、いきなり低弦で導入される主題が第1楽章第一主題の旋律線を殆どそのまま模倣しているように、続く木管のモティーフ、弦による十六分休符を持つ弾むようなフレーズ、これ見よがしな金管のファンファーレなど、後続の材料のいずれもが同様に先行楽章にも見られた音階的順次下降に基づいており、違ったキャラクターが次々と登場するような展開でも「交響曲」としての動機的配慮には事欠かない。
これはトリオ部のヴァイオリン・ソロによる良く知られた旋律でも同様であるが、そこでは跳躍する音程が反復の度に幅を広げる媚びるような動機によって、「引用」されたような通俗性は、より強度なものとなっている。これらの動機群は、彼の「癖」と言って良い、まるで「時間稼ぎ」のような同音反復やジグザグした音階進行で繋ぎ合わされるが、いつもの「即興を書き留めた」ようなものではなく、良く整理され、そのためか五分にも満たない長さながら「必要充分」であり、その「分量」自体も効果的である。
形式は実にシンプルであるが、先の主題に固執するトリオ部、主部の再現におけるオーケストレーションの変化には配慮されており、この面における「繰り返し」を避けることで情報量を上げているが、主部の再現にピッツィカート・セクションが現れるのは、明らかにベートーヴェンの偉大な「第5」を意識している、と思われる。但し、ここではパロディ的な意味合いが強く、あの劇的な効果は微塵も無い。また、コーダでトリオ部の音楽が短く再現されるのもベートーヴェン流儀であるが、例の陽気な旋律が今度は狭い音程で、短調的、半音階的に変化して現れる。但し、これを「暗い」意味においてとらえるのは適切でなく、酒場の合唱のような効果的な結び方も含めて、やはりパロディーと解釈すべきであろう。
三日ほどで書かれた、と伝えられている第3楽章ラルゴは、「純なる緩徐楽章」として評価の高いものということであるらしいが、ショスタコービチの音楽としては、その「主情性」や、なまな「悲劇的表現」によって、むしろ際立って「異例」であり、どうも違和感を感じる。
この楽章は、実質的には冒頭楽章の第一主題部を「感情的に拡大」したものであって、当初の「抽象性」から手元に引き寄せられ、握りつぶさんばかりのオペラティックと言って良いような「悲劇的身振り」へと変化させられ、実際の所「チャイコフスキー的」ですらある。
弦の分奏や金管パートの削除によって「繊細に」オーケストレーションされているが、それはこのような特質を幾分「客観化」し、隠蔽する効果は持つものの、むしろ「ポーズ」でもある。
冒頭の主題は当然のように音階的進行に基づき、三度音程と二度音程を基本としているが、前者には音が一つ付加されて四度進行、後者では短二度でなく長二度の音程が中心となり、このため当初は曖昧な「抑えた感じ」を与える。(多く現れる二度音程は冒頭楽章序奏の二番目の動機に基づくが、そこではシークエンスとして用いられていたことを思い出させる。)
次第に「短調的」な響きが支配的となり、半音階下降の「嘆き」や、これも冒頭楽章の「エコー」であるフルートの旋律、チャイコフスキー風な盛り上がりを経てロシア民謡風な旋律がオーボエで順次現れ「材料」が出揃うが、この「民謡風」な部分が中間部と見なせよう。
主部はこの後、いよいよ「本来の姿」である、激した「悲劇性」を露にして展開されるが、クライマックスに聴かれるグロテスクなシロフォンの響きを除けば、まるでロマン派音楽のようでもあり、
ここでの「表現」が実際どこまで「本気」であるのかについて、かえって疑問を抱かせる。
一般には「額面通り」受け取られている、ここでの「悲劇性」は、「感情性」も含めて「演じられたもの」である可能性、「どうウケるか」考えた上での「感情に直接訴えかける」態度が存在する可能性がある。前述の「純度の高い」オーケストレーションに象徴される(最後も御丁寧にハープによる「民謡風」主題と出し抜けの長調和音によって「具合良く」閉じられる。)「見せ掛け」は、ブルックナーの同様の楽章やマーラーの「第3」や「第4」の緩徐楽章を踏襲したとも思える構成共々「わざとらしい」と感じられてこなかったのは、このような音楽に「疑念」を挟む余地が無い、と信じられていたからであり、「情緒的であること」が音楽としては「問題とするに当たらない」為である。
この楽章は先行する第2楽章同様、実際「俗なるもの」に依存しているのだが、たちの悪いことに、発表以来、交響曲の「内的な核心」であるとされ、次のフィナーレが「勝利の表現」であると信じて疑わない態度を援護した。
そのフィナーレへの「移行」は実際にはスムーズでは無く、そのギャップはこの後「力ずくで」埋められていくのだが、際立って有名なその第4楽章が、これまた「問題」であることは既に述べた通りである。(以降、次回。)
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2007年04月07日

音楽の「言語性」とは?(106)

かねてから天下周知の「大名曲」とされるところのショスタコービチ「第5交響曲」であるが、彼の名が専らこの曲によって「あまねく知られていた」頃ならいざ知らず、他の作品についても比較的良く知られるようになった昨今、交響曲で言えば「第7」とか「第9」「第10」といった「聴かれていない訳でも無かった」もの以外にも、晩年の最後の三曲や「第8」、それから「第4」などに対する認識は、「第5」の地位を、少なくとも「絶対的ではない」ものにした、と言って良かろう。(無論、「ショスタコービチから何か一曲」という時に、まずこれが「筆頭に挙がる」状況は変わらないだろうが。特に、彼の音楽に熱心でもない演奏者が「まあ、やってみようか」という時には、この曲は外見、内容共に最も「無難なもの」として映るであろうことは確かである。)
これが「最高傑作」かどうかについての論議はともかくとしても、十五曲の内の五番目(実質的には二番目か三番目であるが)であるこの曲の突出したポピュラリティが、彼としては珍しいオーソドックスな楽章構成や入念な動機操作、全体の流れを「ベートーヴェン・タイプ」に見せかけた内容と共に、「解り易さ」に配慮した、耳触りの良い旋律や響きの(良く似た素材による「第4」の不協和音の多さと全体の巨大さに比較すると、これが扱いなれた材料による「再構成品」であることは明らかである。)もたらす「俗受けする要素」に富んでいることに起因しているのは確かで、これは彼の「ひねた」作品群の中では、むしろ「異例」ですらある。(この傾向をさらに誇大妄想的に拡大したのが「第7」だろうが、こちらは質的、内容的価値はさておき、「ともかく人気だけは」ある。)
ことに、ブラームスの「第1」同様、曲の「人気の源」である例のフィナーレ(吹奏楽編曲などで派手派手しく「ショウ・ピース」的に演奏されることもある。)は、この交響曲に付けられていた「革命」とかいう、いわれの無い馬鹿げた「副題」(この類なら御本人が「命名」したものが他に複数ある)がようやく取れた最近になって、やれ「二重の意味」だの「裏の意味」だのと取り沙汰されるものの、これが聴衆に対して持つ「効果」について充分配慮しつつ「狙い済まして」組み上げられたものであることは否定出来ず、ここで「失敗」することが絶対出来ない作曲当時の「状況」を考え合わせると、到底「裏の意味」など盛り込むような余裕など無かったとも思われる。(そんな「芸」が出来る位なら、そもそも「第4」を引っ込めたりはしないだろう。)
これは「第5」の「書き直し」のように見える「第8」と、その「アンチ・フィナーレ」の存在が裏打ちしており、そこでは作曲家が「ここで本当に書きたかったもの」に再度取り組んでいる印象を与えるが、少なくともそれは「内容」においては「第5」を完全に超克している。
ともあれ、自己のスタイルを確立した彼が「一発必中」として書き、そしてものの見事に「当てて見せた」最大のヒット作品は、確かにそれに価する出来映えを示しており、良く練られた構成はこれを「交響曲」として申し分無い外見上のバランスに仕立てている。
これは無駄の無い(この作曲家としては極めて異例な)冒頭楽章が如実に示しているところで、限られた材料によって、比較的遅いテンポを基本としながらも簡潔にまとめられており、この作品でも最も見事な楽章となっている。
冒頭には導入部が置かれ、カノンによる上昇ー下降の音形、順次音階下降(「ミレドレドシド」という具合に次第に下降する)の音形が順次提示されるが、後にも折につけ現れる。前者は「縁取り」のような意味を持ち、その序的性格を保持されたまま挿入句として用いられ、後者は主題に挟み込まれるように一体化されて頻繁に利用されるが、必ず順番は不変のまま、隣接して用いられる。
さらにこれには重要な「材料」が含まれ、後の音楽の進行を決定する。
一つはバッハのオルガン・トッカータの開始のようなフランス風序曲の付点リズム、もう一つはその導入句に含まれる「d-a」の四度音程で、特に後者の四度音程は、この曲の主題群の「基本音程」となる。この二つの材料を組み合わせたものが伴奏音形として定着すると、順次音階下降による主題が導入されるが、「第4」の回で述べたとおり、これは前作の第2楽章スケルツォのトリオ部で現れた旋律に酷似しており、三拍子から四拍子に移されているものの、音高も一致しており、殆ど「引用」と言って良いほどである。
これこそ、「その意図」について考えさせられるが、この楽章の深刻そうな素振りの「底にあるもの」の在処について示しているようにも思われる。
主題は序の材料を交えながら切れ切れに、曖昧に進行するが、所々に印象的な「調的な響き」が現れ、聴き手の興味を引き続ける。このような「流れの重視」は、やはり「第4」のトリオ主題に用いられた「長ー短ー短」の同音反復によるリズム・オスティナートに伴われた「第二主題」たる、ビゼーの「ハバネラ」をどうしても思い出させる部分(これも「引用」だろうか。フレーズを不規則に引き延ばし、何とか「バレる」のを避けようとしているようにも見える。)でも顕著で、調的な響きが重視される。「長ー短ー短」のリズムは「ラドシ」「ドミレ」といった三度音程の動機に変化し、断片的な進行が第一主題部の感じを導入するが、これが展開部への準備となる。
展開部では、これまでのゆったりした進行を埋め合わせるようにアレグロのテンポが導入されるが、「動機的展開」というよりも同一の音楽が「加速」されている感じが強く、そのため「歪んだ」印象を与える。これは第一主題がグロテスクな「行進曲」として現れる部分で決定的なものとなり、何か標題楽じみたもの、或いは交響詩的な「意味」を思い起こさせる。
再現部への移行は巧妙であり、導入部の付点リズム部分が速いテンポのままクライマックスとして拡大されて現れ、「第4」の冒頭楽章の同様な部分のような「つなぎ」のユニゾンによる「レチタティーボ」、「長ー短ー短」リズムの再帰から第二主題で元のテンポとなり、さんざん利用された第一主題の再現は省略され、コーダにおいてその「雰囲気」が回想されるのである。
再現部の音楽はかなり短縮され、変化を受けるが、響きと流れはかえってスムーズなものとなり、主題の伴奏音形に乗ったコーダもむしろ不安感は薄らいでいる。主題の逆行形がフルートで奏される導入も何か象徴的であるが、提示部では目立たなかったオーボエによる「ミファミラ」といったショスタコービチでは必ず出て来る音形が今度はソロ・ヴァイオリンで「シェエラザード」のように現れ、当初の深刻さはどこかに消えてしまっている。
こうして、簡潔で「陽気」といっても良いようなスケルツォが呼び出されるが、消え去った音楽は派手なフィナーレにおいて「より攻撃的な姿」で復帰する。
第1楽章は明らかに「問題」を「保留」しているのだが、そもそも、それ自体が「存在したかどうか」は、主題の「引用」も含め、開始部の「思わせぶりな態度」共々、実際は明らかではない。
この楽章は「第4」の終結部と同様、本当はリアリティを欠いているのだが、やはり「悲劇的な外見」が実際以上に「効果」を生じている一例なのである。(以降、次回。)
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2007年03月31日

音楽の「言語性」とは?(105)

ショスタコービチ「交響曲第4番」のフィナーレとなる第3楽章は、冒頭楽章同様、巨大、且つ複雑なものであるが、一応はソナタ形式のアウトラインを備えていた先行楽章よりも、さらに自由で独特な構成を持ち、他には類例の無いようなものとなっている。
特に、楽章半ばに「展開部」の代用として差し替えられたとも言える、通俗的な、バレエか映画音楽を思わせるような「メドレー」部分は聴き手を面喰らわせ、出し抜けに接続される全曲のクライマックス共々、ことによると「意味不明」とも思われかねない危険性も抱えている。
とはいえ、これはあくまで「交響曲」なのであって、主要主題のクライマックス、コーダにおける再帰などの動機操作にも事欠かず、彼が初期に追求していた「定型によらない交響曲」の「集大成」と言って良い仕上がりを見せている。重要なのは、これが「悲劇的なもの」に収斂されていくようにまとめられている事で、これによって得られる「効果」と「説得力」を、その質的内容共々、マーラーの交響曲に学んだ、とも考えられよう。
冒頭は明らかに「葬送行進曲」として始まるが、既に述べた通り、この全曲で最も遅いテンポは「緩徐楽章」の欠如に対する「穴埋め」であると共に、変化の急激なこの交響曲にあって、その「はっきりした性格」が最も長く持続する部分である、という点においても重要である。
この特質は、この部分だけで一つのクライマックスを持ち、明らかに「まとまり」を与えられているため、この冒頭部は「間奏曲」のようにも聴こえるのだが、実際には「行くべき場所」を指し示しており、そのことは後に明らかにはなるものの、少なくとも「序奏」に見えるような外見によって、当初はその重要性が隠蔽されているのである。
ファゴットによる主題は殆ど直接的にマーラーを連想させ、まるで「引用」のように響く。(マーラーの「第2」の冒頭楽章や「第7」の第2楽章、歌曲「Nicht widersehen!」と調性や感じも似ているが、旋律線そのものが想起させるのは、皮肉にもマーラーで馴染みの「葬送音楽」の数々ではなく、「第3」の第2楽章のメヌエット調の主題である。試しにどちらかを三拍子化、もしくは四拍子化、長調化、短調化してみると良い。)重要なのは主題冒頭の短三度順次上行であり、これは同音連打とともにオスティナート化される。続くオーボエに現れる半音階的な旋律も重要で、こちらは後に繰り返し扱われている。間奏部、金管の強奏によるクライマックス、御馴染みの弦による模糊としたエピソード部に続いて主題が回帰し、主部へと移行するが、期待される「アレグロ」はまたしても「スケルツォ調」であり、しかも最も「それらしい」ものである。これは大規模に展開されるが、しかし「ソナタ風」ではなく、最初の楽想に新しい要素が次々と重ねられるようにして進行する。
主題は短三度下降の反復、音階上昇に始まるが、これが「基本動機」に基づくものであることは言うまでもない。第1楽章における「第2楽章の予告」や同じく第1楽章の第二主題の「もじり」(但し「ソドレミ」の「ミ」にどうしても「到達しない」ように繰り返される)、主題冒頭の三度下降だけが執拗に繰り返されるなどのパロディックな扱いが頻出し、いよいよ「メドレー部」が始まる。
面倒だが経過を辿ると、バレエの一場面のようなピッコロのポルカ、これもバレエのような第1楽章第二主題に基づく主題で始まるワルツ(具体的な「動きの描写」のようなものも伴う。アレグロ主題も現れる。)、ファゴットのソロによるコミカルな行進曲、第二のワルツ(ファゴットが用いられるため「継続」のように聴こえる)、アレグロ主題による移行部、弦による同音連打動機による無窮動的な部分(この後でオーボエに現れる基本動機を含む主題「ソド↑ソラシソ」は重要で、「終わりを告げる」性格を持っており、クライマックスへの移行部、コーダでも現れる。)弦による旋律的エピソード(基本動機による)、アレグロ主題のワルツとしての再帰、再び無窮動的な移行部(マーラーの「第1」のスケルツォにおける同様な部分からの「引用」を含む)、というのがここでの「手順」だが、こうして見ると、アレグロ主題の再帰や、楽想や楽器法の類似による連関やロンド的構造、特定の旋律の「意味付け」によって、それなりの「計算」は働いており、見掛けほどには「興の向くまま」書かれている訳では無いことが解る。
この部分の「意味」については論議があろうが、マーラーばりの「世の成り行きの描写」である、とするのが「もっともな見解」として支持される所であろう。
全曲の頂点は「メドレー」のデクレッシェンドの後、突然やってくるが(これもマーラーと関連づけて語られる事の多い。即ち「第7」のフィナーレにおける「突然の勝利」である。)、二台のティンパニの組み合わせによる主音、属音の独特なオスティナートがミニマル・ミュージックのように果てしなく強打される中、金管群が「ソソソ♯ラ、ソファミ」を主材料とするコラールを開始する。(これは「基本動機」のうちの三度順次下降と半音のぶつかりを組み合わせたものに他ならない。)
やがて短調に傾斜して「葬送行進曲」の二つの主題が順番を逆にしてコラールと重ね合わされ、最大点に達する。輝かしいはずのクライマックスが、こともあろうに「葬送行進曲」と一体化させられる訳だが、この強引な措置によって、変化の激しい交響曲の「行く先」はついに確定し、「悲劇性」の名目と共に諸相を呑み込んで、全てに決着を付けることとなる。
これ以後からは諸主題から抽出した動機による「解体部」となる。
ティンパニの連打は主音cのみ弱奏となり、「ラシドシ」という「葬送行進曲」のオスティナートの変形とオーボエ主題、マーラー的な「長調ー短調和音」の変形、例の「終わりを告げる主題」がヴァイオリンに現れ、チャイコフスキーの「第6」のフィナーレのコーダを思い出させるシンコペーションによる主音連打に乗って(葬送を示す大太鼓のトレモロも現れる。)、弦群はハ短調の主和音を弱奏し続ける。(これまでの不協和音に満ちた経過から、これは極めて新鮮に感じられるが、このような響きの構造は「第8」「第15」の結びでも踏襲される。)
チェレスタがクロスリズムで「新しい素材」であるハ短調の分散和音動機をまばらに奏し(この楽器は後の「第13番」でも曲を閉じることになる)、遠くからの響きを模した弱音器付きのトランペットが「オーボエ主題」の冒頭を響かせることで、「情景」が遠のきつつあることが示され、音楽は「モレンド」の指示のもとに消え去る。チェレスタは最後にはハ短調和音から外れ、a音とd音を奏して「開放して」終わるが、これが冒頭楽章冒頭のニ短調への傾斜を反映していることは言うまでもなく、結果として「円環」を為してはいるが、音楽自体は必ずしも符合しておらず、各楽章の「繋がり方」も複雑である。
前述通り、あまりにも情報量の多い音楽を「閉じる」為に用意された「悲劇性」は、「勝利」の身振りと隣り合わせられることでリアリティを確保しているように見えるが、マーラーの「第6」と違って、いずれも「降って湧いた」ようなものとして与えられているために、「幻視」のようなものとして立ち現れ、「葬送行進曲」による「予告」も、むしろ後の時点での「引用」と見るべきであって、
決して「必然的」なのではない。
「悲劇性」は、突然立ち現れて「全てを呑み込む」ようなことも「認められる訳」だが、ショスタコービチは「曖昧な描写」によってこれを実現する事で、かえって先立つ音楽にも「意味深長さ」を付与することに成功したのである。
チャイコフスキーとは違って、ここでは「感情の吐露」のようなことは一切行われておらず、そのような表現も必要としていない。ここでの「悲劇性」は象徴的なものであって、相対化が可能であり、
そのために「後から前を透視する」ようなことが可能なのである。
我々はそれが最初から「潜んでいたもの」のように考えるのだが、どこからやってきたか解らないようなものが「それ」なのであって、いつの間にか知らぬ間に「張り付かれている」ことに気付くのである。
彼はこれ以上の「豊かな内容」の「交響曲」を書かなかったが、それが「成立事情」によるものでもあることは述べた通りである。(以降、次回。)
タグ:音楽
posted by alban at 21:43| Comment(0) | TrackBack(0) | 音楽 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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