2008年08月16日

音楽の「言語性」とは?(153)

ショスタコービチ「交響曲第14番」の中でも、彼の作品を知る者に最も「馴染みのある感じ」を与える第5楽章「用心して」は、第3楽章から第8楽章まで連続して用いられるアポリネールの詩による音楽の中で、第8楽章と共に、六つの楽章を二つに分ける最後の位置にそれぞれ置かれ、一つの「区切り」を与える役目を果たしている。
それは通常の「交響曲」における「スケルツォ楽章」のようにキャラクタライズされた、急速なテンポによる音楽であるが、さきの第2楽章と共に、彼が若い頃から常に得意としてきた、いわば「顔」とも言える部分を為している。通常なら「主たる部分」ではないこの種の音楽に重要な役目を負わせるのは、彼が「マーラーから受け継いだもの」の一つであるが、彼の方法はマーラーのように「重み」と「複雑さ」を与える方法は採らず、「俗な音楽」への嗜好を丸出しに、「皮肉で乾いた音楽」を書いてきたのは周知の通りであって、この楽章もその「お馴染みのショスタコービチ」である。
但し、彼はここで意識的に「十二音」を多用することで「ひねり」を入れており、冒頭の耳慣れた感じの行進曲調のシロフォンの旋律が「調的でありながら」五度、四度音程を中心にしながら短二度の「ずらし」を用いて「実は十二音である」という「工夫をする」ことで(このような「作り」は、明らかに「意識的なもの」で、ショスタコービチが珍しく「注意深く振る舞っている」ことを示す。)、少し後で出る、弦の三連符によるざわざわした音形共々、「十二音の使用」自体が、おそらくは悪意的に「パロディーの対象」とされていることを明らかにしている。
続くトムトムの、これまた彼好みのリズムや他の打楽器の用法は、どうしてもストラヴィンスキーの「兵士の物語」を思い出させずにはおかないが、ソプラノ独唱の使用が「その感じ」を和らげる。
しかしその独唱パートは、リフレインされるシロフォンを始めとする器楽部と比べると、どうも印象が薄く、短二度音程に固執する第1楽章以来の「例の動き」を繰り返し、「聴かせどころ」であるはずの、一度だけ現れる「アダージョ」の指示もさほど効果的ではない。
楽章開始当初の「鮮やかな印象」の薄まりは音量の増加によって補填されるが、最後に再び「兵士の物語」調が喚起され(「意図的でない」とすると「迂闊」と言う他無いのだが)、ショスタコービチが当初のテンションを持続出来ていない印象を与える。
この楽章が「短い」ことは当然で、同様のことは第8楽章でも繰り返される。(以降、次回。)
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2008年07月26日

音楽の「言語性」とは?(152)

ショスタコービチ「交響曲第14番」の第4楽章は、この交響曲の、全部で十一ある楽章に「通常の交響曲」のような四つの区切りを想定していた、という彼の構想では、その第一部分、即ち「冒頭楽章のコーダ」を為す事になるのだが、確かに「そのような操作」は図られているようである。
冒頭と同様な極めて薄いテクスチュアや「基本動機」たる短三度モティーフの繰り返し、前楽章の終わりから続き、そのまま独唱に付き添い続けるチェロ独奏は(最後にはコントラバスの独奏と挿げ代わり薄気味悪いものとして残るのだが)、音色的な変化こそ与えられているものの、その「実質」は冒頭楽章の弦の用法と同様のものであり、まばらに鳴らされるチェレスタや、クライマックスでの変ロ音のチューブラ・ベルの使い方は前楽章のものと全く変わらず、という具合に「回帰性と連続性」への配慮は充分にされている。
「自殺」という題を持つアポリネールの詩については解説しないが(前楽章と同じ詩人である、といいうことも音楽上の類似性の担保になっているのであろう)、この楽章の子守唄のような緩やかな八分の六拍子と、冒頭の「シドシラシドシラ」という音形は、明らかに詩の「三本のゆり」というフレーズから発想されている。(詩はこの後「十字架の無い私の墓の上で」と続くのだが、しかし冒頭の旋律の音列、リズムは明らかに「十字架の形」を示しているが、意図的なものであろう。)
このような「楽章配置」と「材料」からは「新鮮味のある音楽」は期待できそうに無い訳だが、しかし、ありきたりの素材がかえって「象徴性」を生み出す、という事も可能である、という格好の例が結果的には実現しており、前楽章と同様に実際の書法や即興がかった構成は「最上」とは言えないものの、彼のヴェテラン作曲家の「腕の冴え」は、ここでは「シェーナ」として、「オペラ的なもの」として作用して、この楽章を印象を強いものとしている。
このような、ある意味では「ルーティーンな書法」が、アクチュアリティを保ち得るのは驚きでもあるが、それも「作品単体として」の話であって、これが彼の晩年における「基本型」と知れば、その濫用ぶりに辟易もさせられるのではあるが。(以降、次回。)


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2008年06月28日

音楽の「言語性」とは?(151)

ショスタコービチ「交響曲第14番」では、マーラー「大地の歌」の前例に倣ってか、二人の独唱者が交互に歌う形が採られているが、マーラーのように「楽章ごとに交替する」のでは無く、明らかに意図した上で「バランスが崩されて」いる。
即ち、バス独唱で曲を開始した後、ソプラノ独唱(一部バスが歌う箇所があるが、重唱とはならない。)による楽章が5つも続き、バス独唱による楽章3つを経て、冒頭の音楽が今度はソプラノ独唱と共にリフレインし、最後の、象徴的に短い「結び」で二つの独唱が重ね合わされる、という配置なのだが、これは一見、バランスを欠いているように見えるものの、実際には曲の前半、後半の区切りとも一致し、それぞれの独唱者の「受け持ち時間」の配分も取れている。
第3楽章「ローレライ」にバス独唱の部分が設けられているのも、勿論、アポリネール作による「テキスト上の理由」からではあるが、この「バランス上の問題」から意図された配置でもあることは間違いない。
また、この楽章は比較的長い「オーケストラ間奏部」を持ち、そのため、この交響曲の中でも最も長い楽章の一つとなっているが、これも「後半部」の開始である、バスが歌う第7楽章と対応する特徴で、この二つの楽章の「間奏部」では、十二音列による弦とウッド・ブロックの使用という書法、楽器法上の共通性も設定され、この傑作での実にショスタコービチらしからぬ「絶妙な配置」を見せる部分となっている。
この「間奏部」は、「交響曲」らしく「動機操作」に基づいているのも共通した特徴であるが、この第3楽章ではテキストの流れに即して二度ほど現れ、形式上の拡大にも貢献している。
但し、前楽章から鞭の連打で続く音楽は、その構成上の見事さにはどうも見合っておらず、件の「間奏部」は前作「交響曲第13番」の第4楽章に出てくる、マーラー風の「トランペットのファンファーレ動機にそっくり」で、彼にありがちな「意図的な引用というにはやや不適切」な部類に属するようにも思われ、ここまでで最も「無調感」の強い音楽も、対話式の進行(これもマーラーの「角笛歌曲」の「塔の中の囚人の歌」を思い出させる点がある)に幾分不釣り合いで、「象徴性」の演出には役立つはずの「調性感」をわざわざ回避した理由が、次の楽章への配慮も含めた「曲全体の構成上の問題」から発生しているとは推測されるものの、これが聴き手が「この題材に期待するもの」とはやや異なり、「どうも違和感を拭えない」のも確かであろう。
しかし、この特徴が、さきの「鞭」に対応して二回鳴らされる「第13番」の時と同じ変ロ音チューブラ・ベルで始まる、楽章の後半部のアダージョの「調的な部分」を良く際立たせているのも確かで(但しこれは彼の友人ブリテンの「戦争レクイエム」の第3楽章の「天使の登場」部分の書法に極めて近い。)、旋律そのものは先行部分からの再利用でありながら、全く「別の音楽」を響かせ、この楽章全体を極めて印象深いものに「高める」ことに成功している。
彼は、ここではこうして難しい「綱渡り」に成功した訳であるが、こうした危うさは、ここで訪れた「静けさの印象」と共に、次の楽章にも引き継がれる。(以降、次回。)

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2008年06月07日

音楽の「言語性」とは?(150)

ショスタコービチ「交響曲第14番」第2楽章には、彼の交響曲ではここが「定位置」となる「スケルツォ」相当の音楽が書かれている。次のアタッカで連する第3楽章にもスケルツォ的な性格が認められ、さらに第4楽章へもアタッカの指示があることを考えると、彼が「第8」でも同じような配置をしていたことが思い出させるが、音楽の密度は全く違っている。
先行楽章と同じ詩人ロルカによる「マラゲーニャ」と題された音楽は、詩人の出身地の民俗舞曲の名で、当然のごとくその音調を模倣することもあり、彼得意のパロディックな「引用」めいたスタイルが、この交響曲で顕著な「無調の調的な使用」と相まって、これまでの作品で散見された「俗性丸出し」の、コピー品のような安っぽい響きとは違った「上の段階」に至っているように思われる。
第1楽章の弱音と短三度、短二度音程の世界を突き破り、いきなりフォルテで現れる調子外れの四度音程の連続による音形は(おそらくギターの音を想定しているのであろう)、この楽章の基調であり、声楽パートも几帳面に音高を変えつつ繰り返される。舞曲調とはいいながら、本来そうであるべき三拍子はトリオ部に相当する「マラゲーニャ」の音調までとっておかれ、短三度、短二度音程の利用もその箇所に集中している。ブツ切れのような流れの悪い「舞曲調」は低弦の半音階と四度音程を繰り返す動きによって連続性が保たれているが、声楽部も不規則な入り方をしており、舞曲の持つ「規則性」と、そこから発生する快感は意図的に除去されている。それを増強するように何度も用いられる、八分音符の刻みから三連符、十六分音符、六連符、三十二分音符という風に細分化されクレッシェンドする刻みの音形は、気付かれにくいが全曲の「結び」の予告でもある。
そして、カスタネットの音色でようやく調子良くなったように見せかけたあげく、主部の再現が省略され、放り出されるように次の第3楽章の鞭の音が響く。(以前の彼ならば、こうした「リズムの快感」を追求したところであろうが、この厳しい「第14番」では、そのような事は完全に「御法度」なのである。)
第1、第2楽章は、彼のこれまでのやり方を踏襲しているに過ぎないようにも見えるが、素材を絞り、コントロールする、という「基本」を改めて踏まえた上での「短く書くこと」への意識が、新たな緊張を生んでいるのである。
これら二つの楽章は「交響曲であるため」の条件付けをこうしてクリアしているのだが、もう一方の側面である「歌であること」の要素は、次の第3、第4楽章で開陳される。(以降、次回。)

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2008年05月17日

音楽の「言語性」とは?(149)

ショスタコービチの最良の作品となった、全曲歌入りの「交響曲第14番」の作曲にあたって、これを単なる「オーケストラ伴奏付き歌曲集」とせず「その名にふさわしいもの」とするためか、最初から、十一からなる楽章を「四つの部分」として構成すること、即ち、通常の「交響曲」における「楽章数」と合致する「区分け」をしたらしいのだが、実際の「結果」として、聴き手がそのような「区切り」を彼の「意図通りに感じ取る」ことが出来るようなものとして仕上がったかどうかは、やや疑わしい。
これは、彼の作品で毎度お馴染みの「計算違い」とも思えるのだが、しかし、ここでは「交響曲」における通常の楽章配置、「ソナタ楽章」「緩徐楽章」「スケルツォ」「フィナーレ」といったものをベースにした構成法はマーラーの前例(「第8」「大地の歌」)もあってか、採用されておらず、むしろ扱われている詩の内容や状況ごとに区分けされ、前述の「交響曲」の楽章におけるキャラクタライズはそれぞれの楽章ごとに「基本的な類型」として認められるに過ぎない。
いずれにせよ、この「交響曲」には最初から、当然それに期待されるべき大規模な「冒頭楽章」が欠落しており、その第1楽章は、むしろ変奏曲における最初の「主題提示」の持つ意味に近いものとして設定されたのだが、「深き所より」という象徴的な題を持つロルカの詩のごとく(例によって詩の内容には立ち入らないが)、間接的、思索的な、不気味に打ち沈んだその音楽は「感傷性」の入り込む余地の無いものとして「死を巡る諸相」への導入を、結果的には見事に果たすこととなった。
「歌入り」のためか、「無調」とは言っても調性感の顕著なこの作品だが、その開始も即座に転調していくとは言え、はっきりとしたト短調であり、執拗に現れる「ドシドラ」と聴こえる音形のため、いくら変化しても調性の影がつきまとう。(この音形は、周知のグレゴリオ聖歌「怒りの日」の引用とされることがあり、本人も「そのつもり」だったかも知れないが、それも含めて、とどのつまりは彼が偏愛する「短三度音程」の「徹底的利用」の一例であって、前作「第13」の冒頭部とも素材的には共通しており、例の「第11」で聴かれたフレーズも入り込んでいる。)
声楽の入りも同様に短三度音程で始まり、素材的には導入の器楽部と全く共通で独立性は無く、歌の導入以後も、背景の弦楽の音調が楽章全体を支配している。(この導入部は彼の「第10」第1楽章のそれを思い出させるが、そこにあったクラリネット主題のような「情緒性」「旋律性」は完全に退けられている。)
五分あまりのこの楽章は、その静止したような時間と詩の象徴性によって全曲の「基調」を提示しており、以後の楽章は、同じ音楽が別の詩で復帰してくる第10楽章も含めて、この「基調」からの「加減具合」によって作り上げられている。
この第1楽章の音楽は、実際に鳴らされていない時も全曲に渡って「存在している」のであり、それがまさに「死」と結びつけられているのである。(それは「基本動機」の利用云々という側面も無論あるのだが、それよりももっと深いレヴェルで「浸透している」のである。)
これはショスタコービチがここに至って発見した「構成法」であり、以後の作品にも用いられることになる。(最も有名な例は「弦楽四重奏曲第15番」であろう。この最後の四重奏は「傑作」とされるようだが、どうも心許無い。あまりに長く、緩い構成であり、それを補うべき緊張が、やはり不足しているように思われる。しかし、彼の「弦楽四重奏曲」の中では、最も良いものには違いない。)
この楽章は彼の書いた「冒頭楽章」としては最もシンプルなものであるが、その位置付け、性格付けによって最も見事な「冒頭楽章」足り得ている。(以降、次回。)

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2008年04月19日

音楽の「言語性」とは?(148)

冷水を浴びさせられる羽目になったこともあるにせよ、ごく若くして成功を収め、善かれ悪しかれ、注目を浴び続けてきた「恵まれた存在」であったショスタコービチではあったが、真に「それにふさわしい存在」であったかは疑わしく、「傷の多い作品」の羅列の挙げ句、掛け値なしの「傑作」、それも「最高傑作」と呼び得る作品が生まれたのは、彼のスタイルがとうの昔に「時代遅れ」と見なされ、創作力の枯れ果てた「恐竜のような存在」と思われた頃になってからだった。
とは言っても、それまでと同様、ベートーヴェンばりに「傑作の森」が続く訳では勿論無く、一般には彼の「晩年の境地を示す」とか言われる室内楽系の作品に典型的な、気難しく痩せたテクスチュアが目立つ「貧相な響きの音楽」が基調である作品の中、突発的に「傑作」が散見されるに過ぎない訳だが、何故か「歌入り」の作品ではその書法が良いバランスを作り出し、言葉と音楽が融和した彼独自の「傑作」を見いだし得ることになる。(実際、彼の晩年の作品から「めぼしいもの」を選び出す、ということになると、「歌入り」の作品が大半を占めるだろう。不思議なことに、老いたショスタコービチは「歌」が付くと「スカ」を出さなくなっているのである。特に「第13」「第14」「ミケランジェロの詩による組曲」は、どれも彼の「最重要作」ということになるだろう。)
その中でも疑いなく「最高の出来」であるのは「交響曲第14番」と名付けられた十一曲の「歌」を綴り合わせた作品だが(これに「死者の歌」とかいうオカルティックな副題を付けて呼ぶことがあるようだが、どうにも間違いとしか言いようの無いもので、「その名にふさわしいような詩」は扱われておらず、作曲者の意図に沿っているとも思えない。)、外形から言えば「十一」という「いささか多すぎる楽章数」や、「全体に渡って歌が支配する」構成、「管楽器抜き」の弦と打楽器によるオーケストラ編成からは「交響曲」という名はふさわしくないようにも見える。
しかしこれは毎度お馴染みの「ご乱心」から「そう呼ばれている」訳では無く、これよりは「交響曲らしく見える」「第13」と時とは違って、彼は初めから「交響曲」として構想したことがはっきりと述べられており、実際、彼としては緊密な書法や構成がそれを裏付けている。
但し、この曲からマーラーの「大地の歌」を連想しない聴き手は少なかろう。「死」を主たるテーマとした作品と思われること、男声と女声が楽章ごとに交替しながら進むことや、マーラーの「テノールとアルト」に対して(マーラーではアルトでなくバリトンで歌われることもあり、作曲家もそれを想定していた)ショスタコービチが「ソプラノとバス」を用いていることも彼が十分に「意識した結果」であることを示しており、これを「交響曲」として仕上げる気にさせた理由にマーラーの作品がかなり影響しているのは誰の目にも明らかである。
これに加えて「重要な関係」について彼の口から述べられており(この作品に関してはショスタコービチは多くの「正しい情報」を提供している。)、彼がマーラーと並んで「生涯に渡り影響を受け続けた存在」であるムソルグスキーの傑作の一つである歌曲集「死者の歌と踊り」に、彼がオーケストレーションを施す機会があったのだが、その際に、この作品の「不足分」を感じ、彼なりに「続編」を書こう、という気になった(これは「歌曲集」とは言っても四曲しか無く、音楽の「分量」としても確かに充分では無いきらいは確かにある)、というのが大きな契機であった、というのである。
先輩作曲家には常に「謙虚な態度」を示すショスタコービチとしてはこれは珍しいことであろうが、「死」というものが当時の彼にとって「近しい存在」であったこと、長年の病気の末、「死」に直面するような事態に陥る状態にあり(実際この作品は病院で完成したと伝えられる)、その非常に切迫した心境が作用してか、「続編」が「本編以上の出来」を示す、という滅多に無い事態を呼び起こした。(ホルストの「惑星」に「冥王星」を付け足す、というような愚行=これには本物の「冥王星」が「惑星」から「除名される」というケッサクこの上ない「オチ」が付くことになったが=とは違い、このような「真の続編」であるような例は、他に思い浮かばぬほどである。)
この曲に感じられる異常なまでのリアリズムは、まさにその「状況」がもたらしたものであろうが、
ここでの彼は「情に溺れる」チャイコフスキーのような轍を踏まず、むしろ冷静に、厳しく高いテンションで描ききって我々を驚かせる。
「感傷味」の一切無い静謐さと背中合わせの不気味に落ち着いた響きも、彼独特の皮肉に乾いた諧謔も、無類の完成度で立ち現れ、いつもの彼には長過ぎる一時間弱を短く感じさせるが、その緊密さは確かに「交響曲」と呼ばれるにふさわしく、その名を正当化する。(以降、次回。)




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2008年03月22日

音楽の「言語性」とは?(147)

ある作曲家の音楽を「聴き始める」時、大抵は「代表的作品」とされているものから入っていくのが筋であって、それはディスクを通じての場合でも、FM放送を頼りに聴きつなぐ場合でも(要するに「演奏会で取り上げられる頻度」と一致していることが多いので)同じなのだろうが、私が音楽に染まり始めた時分は、最近のように「全集ものセット」などというものが驚くような安価で手に入ることなど想像も出来なかった時代であって、限られた小遣いは当然にベートーヴェンやマーラーに(それも数ヶ月に一度)流れ、おまけに「お望みの音楽を揃えているような図書館」も無い、という具合だと、もっぱらFM放送で「本の上では知っている未知の作品」を心待ちにする他は無かった。
ところが、このような「偶然」に頼っていると、思わぬ「誤解」が生まれるもので、ブラームスを「第2交響曲」で知って「なるほど本に書いてある通りのすごい作曲家」と思い込んで興味を持ったものの、結局現在に至るまで「それ以上に感じられる作品」にお目にかかれなかった(一番がっかりしたのが「第1交響曲」で、書物上では存在する「偉大さ」は全く感じられなかった)時以上の「買いかぶり」をする羽目になったのがショスタコービチで、ご多分に漏れず「第5交響曲」で入った時は、「何となく荒っぽいがとにかく人好きのする音楽」と思って何となく納得した程度だったが、次に聴いた「第14番」には「これはすごい」とすっかり驚いてしまい、何とか機会を捉えては彼の音楽を聴いてきた。交響曲で言えば「第6」とか「第8」「第10」とかの気に入った作品はあったものの、「第5」で感じた「荒っぽさ」「仕上げのマズさ」はやっぱり感じたし、「第1」「第9」は何度聴いても「不真面目」に感じられ、「第15」も当初はそのような作品と思えた。ずっと経ってから聴くことが出来た「第13」と「第4」には「非常に合点がいった」が、「そのほかは論外」だった。勘違いかと思ってどれも何回も聴いたが(当時は誰でもそうするようにカセット・テープに録音する習慣が付いていたので)結論は同じで、その他の作品、協奏曲や室内楽にも、ちらほら「良い作品」もあるにせよ、彼の「交響曲」より「勝っているような点」は、格別、感じられなかった。
ブラームスの時は「うんざりさせられること」(とりわけ「いつまで経っても地べたを這いつくばっている」ような「徘徊趣味」)はあったものの「作品の出来自体にがっかりさせられること」は少なかったが、ショスタコービチでは、その「がっかり」が余りにも多く(「こんな作曲家を褒めそやす理由」に「政治的な問題が関わっていること」を理解する機会は与えてくれたが)、ベートーヴェンやマーラー、ヴァーグナー、ハイドン、それからシューベルトやシューマン、ドヴォルザーク、ベルリオーズなどの「比較的良く耳にする作曲家」の中で、どんどん「ランキング」は低下していき、後から聴いたシェーンベルク、ベルク、ウェーベルンは勿論のこと、ドビュッシーやラヴェル、ルーセル、オネゲルなどのフランス系やバルトーク、コダーイ、ヤナーチェク、シベリウス、英国ならウォルトン、ヴォーン・ウィリアムズ、ブリテン、米国のバーバーやバーンスタイン、同じロシアならプロコフィエフやストラヴィンスキーなどを知るにつれ、彼の「相対的順位」は、文字通り「底なしに」下がっていくのだった。(そして、それは今でも「下がりっぱなし」である。)
このところの「メモリアル・イヤー」とかで彼の音楽が注目された折、丁度このページでも「順番」が巡ってきたので敢えて集中的に取り上げてみたものの、特に「新たな発見」も無く、かえって「ボロ見え」の連続でいい加減にイヤになっていたが、ようやく「第13」に続いて「第14」に辿り着き、かつての「スゴイ作曲家」が、ここでは健在なのを再確認して、安堵した。
ここでの彼は、まるで別人のような集中力を見せ、彼の「交響曲」としても長い部類の一時間弱を、「大地の歌」を思い出させるような二人の独唱者の起用、弦楽オーケストラと打楽器という変則的な編成からは想像しがたいような深みと幅のある響きを引き出し、見事に持ちこたえてみせる。
これは疑いない彼の「最高傑作」であって、彼にはいつも見えていた訳では無い、個人的ヴィジョンを超えた「高み」の感触を、「死」というシリアスこの上ないテーマを通して見せてくれる。
傑作とは言え、彼のこれまでの作品の「エコーたっぷり」の「第13」と比べても、まるで突然変異のような「絶対性」をもって響くこの「第14」は、その「救いの無さ」共々、晩年の彼で無ければ書けなかった、しかし一度限りの「最高傑作」なのであった。(以降、次回。)
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2008年03月15日

音楽の「言語性」とは?(146)

もしも、ショスタコービチの「交響曲第13番」が、彼自身の「森の歌」とかプロコフィエフの「アレクサンドル・ネフスキー」のような、俗受けする「肯定的フィナーレ」で結ばれたとしたら、果たしてこの作品が=万人が認めるようなものでも無いにせよ=「傑作と呼ばれるようなもの」として残ったものかどうか、極めて怪しかろう。
これらのカンタータの「讃歌的終結」や、彼の「交響曲」で言えば「第5」とか「第7」とか前作「第12」のような「お馴染みの終止法」は、詩も音楽も「ネガティヴそのもの」の内容の、「第13」に付されたら、これらの作品以上に「取って付けたようなもの」として響くことは確実で、この「交響曲」全体を、まさに「台無し」にしたに違いない。
彼がフィナーレのテキストとして、「出世」という、要するに「出世をしないことを自分の出世とする」という詩の最後の句に象徴される、この曲では守られてきた「反体制」的な内容のものを選んだのは大成功であったが(とは言え、これは「第11」「第12」の作曲家の作品としては幾分空々しく思えるのだが)、それだけでは十分な担保とは言いがたく、この詩にのせて前述のような音楽を「書いてしまう危険」も大いにあったには違いないが、賢明にも彼はここではそれを回避し、しかも「第8」の時のような「不発」にも堕せず、あの「第4」の第3楽章フィナーレと並ぶような「含蓄ある結び」(この曲こそ、「第13」の前にようやく「初演」にこぎつけた、作曲家が発表もせず「番号付き」のまま温め続けたという「おそらく最も重視していた」と思われる作品であった)を書くことに成功した。
しかも、巨大な「謎掛け」のような「第4」のそれと比べて、簡潔さ、理解しやすさ、微妙さという点でアドバンテージを持っており、この後の「変則的」と呼ぶ他無い「第14」「第15」のフィナーレよりも、さらに優れているように思われる。
ベートーヴェン以来、「フィナーレ」は、大曲になればなるほど「難関」となったが、ショスタコービチでは「殆ど常に問題を抱えている部分」であって、特に「交響曲」では「シンフォニスト呼ばわりされる作曲家」仲間のシベリウスなどよりも明らかに見劣りがするが(シベリウスは彼の半分以下の七曲ではあるが、どれ一つとして「同じような終結」を書かなかった。さすがに晩年「沈黙を守る」だけのことはある、という訳である。)、ここでは、初期の「チェロ・ソナタ」や、中期の「ピアノ五重奏曲」のような「成功例」に見られたような、必要以上に肩肘張らない「柔らかい」フィナーレを、しかし他に彼の作品に「類似品」が見いだせないような、絶妙な音楽を残した。
形式的にはこの「交響曲」の中でも最も見通しが良く、素材も限られており、それらの反復と過度でない変化の交替であって、ほぼ「A-B-A'-B'-A"」と見て良いが、比較的短いが極めて印象的な弦のピッツィカートによる「A'」が「再現」というよりは「間奏」の役割を果たした後、展開的な、フガートを含む「B'」、そしてコーダを兼ねた「A"」という具合で良く整理されており、いつもの、やや雑然とした書き方とは大いに異なる。
「A」「B」とも主題そのものは基本的には殆ど変化せず、オーケストレーションの変化と幅次部の変化によって差異が生じるのだが、他の楽章よりも「音楽自体の論理」で動く傾向が強く、これも「フィナーレ」にふさわしい扱いとも言えよう。
第4楽章からアタッカで続くが、二本のフルートによる、明るい主題Aの導入は、ここで初めて現れる「明らかな三拍子」もあって実に鮮やかであり、似たような趣向の「第8」の同様な部分のファゴットよりもはるかに効果的であるが、同音反復と音階順次下降を組み合わせた動きと、続く半音階的な動きは、第1楽章の冒頭主題に倣っており、これ自体が見事な対照を為している。
これは弦に移って反復され、やがて日が陰るように半音階が増え(冒頭楽章の金管の半音階に対応する)四拍子に拍子が変化するが、このA部分は反復ごとに器楽による「前奏」「間奏」「後奏」としても機能している、続くB部分は声楽部であるが、極めて「スケルツァンド」であって、それは弦を引き継いで現れる、彼が「狂言廻し」として常用する「ファゴット・ソロ」で早々に明らかになる。その「長ー短ー短」のリズムでも解る通り、続く声楽部もこれまでの「書き方」を忠実になぞっており、特に第1、第2楽章に近いものとされているのは、明らかに意識的なものと思われる。
それまでの音楽が「パロディックに蒸し返されている」訳だが、これは歌詞の内容を考えても「もっともなやり方」であって、またA部分の「特別な三拍子」を引き立てる効果も持っている。
そのA部分の回帰は、ホルンの吹き流しと弦の弱奏の応答(これはシューベルト「大ハ長調交響曲」第2楽章の、シューマンが「天使が降りてくる」と呼んだ有名な部分を思い出させる。)から弦のピッツィカートによって静かに行われる。(三拍子ということもあって、マーラー「第5」の同様な部分が想起されるが、いずれにせよ、実に忘れがたい印象をもたらす。)
半音階的ブリッジに続く発展的なB'はベートーヴェン「第9」に倣ったのか、「器楽によるフガート」を持つが、フガート主題は、声楽の歌い出しの音形に続くシンコペーションのためか(これは先行する弦の半音階的ブリッジ部に存在している)「マタイ受難曲」を思い出させることがあるようで=無論「Laß ihn kreuzigen!-十字架につけるべし」の箇所だが、周知の通り、これはバッハの「独創」なのではなく、記譜上これが「十字架の形」になるためである=これは内容からいっても「意識的な引用」であるのは、珍しくも「間違いない」ように感じられる。
フガートは「お馴染みのクライマックス」を築くが、「ブリッジ」が今度は木管で現れると、ファゴット独奏が段々と口ごもるような動きを見せ、「ついに沈黙」し、音楽はテキストを強調するフォルテシモからアダージョへと移行してコーダに入る。
ハープを伴った弦の和音がしきりに鳴らされ、バス独唱が、全曲で最も「カンタービレな調子」で、しかし穏やかに「結論」を述べていくが、ト長調からト短調に傾斜し、「諦念の気配」を感じさせる。
そして、B冒頭の動機によるバス・クラリネットを「つなぎ」として、温存されていたチューブラ・ベルで主音の変ロ音が鳴らされると、「覚醒する楽器」である管楽器は沈黙し、ソロ・パートの弦でA部分が復帰して、この編成ならではの「甘美さ」を漂わせ、音楽は色合いを変えてゆらめきながら、静かに充足した響きへと達する。
最後の局面で「第4」を閉じた楽器でもあるチェレスタがBの余韻を奏でるが(チェレスタと、その補強のハープは、不協和な長二度下の変イ音を終止まで延ばすようにスコアに書かれているのだが、楽器の性質上、これは不可能なのであって、これは作曲家の「想念」と共に、あくまで「譜面上にのみ存在している」、「不完全終止」なのである)、もはや何も乱されず、音楽は最後に鳴らされるチューブラ・ベルの主音と共に、明るい変ロ長調の主和音の響きと共に消えてゆく。この最後の二分あまりは彼に起こった「奇跡」のようであり、当初の「バビ・ヤール」からは想像も出来なかった「高み」へと我々を誘う。
これを聴くと、ショスタコービチはこれを「最後の交響曲」と考えたかもしれない可能性を感じさせるが、結局あと二作は「交響曲」を書くことになる。
しかし「第14」があるとは言え、彼がこのような「充足した響き」を書くことは、もう無かった。(以降、次回。)

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2008年03月08日

音楽の「言語性」とは?(145)

「実際の音楽の出来」そのものとは必ずしも一致していないにせよ、ショスタコービチが、彼の「交響曲第13番」で、第1楽章「バビ・ヤール」と並ぶ「中心楽章」として「恐怖」という題を持つ第4楽章を書いたらしいことは確かであろう。それは扱われている詩の題材と、その内容の共通性と「重さ」にも一致する訳だが(ここで用いられるチューブラ・ベルの響きもこれを裏打ちしている。)特に「バビ・ヤール」という「固有地名」と「ユダヤ人問題」から、その対象を「ロシア自体」に広げてみせる、という意味では、この楽章には重要な役割があることになろう。
彼の音楽も、ここでは第1楽章には残っていた「芝居がかった身振り」から一歩踏み込んだ「底なしに暗い」晩年の典型的なスタイルを示しているが、前述したように、「歌」の存在が曖昧さと晦渋さを和らげているため、弦楽四重奏に見られるような「唯我独尊」ぶりは見られない。
形式的には極めて自由であって、この「交響曲」の他の楽章で感じられる、何がしかの形式上の「基本形の応用」という面が無く、詩に沿った「通作」に近く、前楽章の静けさを引き継いで始まり、最後も静かにアタッカで第5楽章へと移行してしまうため、全体は極めて経過的、発展的な性格が強く、先行する第3楽章の素材が多く用いられるため、「展開部」風にも見える。
これはマーラーの「第5」の第1、第2楽章の関係にもやや近く、少ししてから現れる、どうしても「マーラーの引用」に聴こえるトランペットの弱奏による三連符のファンファーレ動機=これはマーラーの曲と同じ嬰ハ短調であり、動機の反復の際にフルートが用いられるのも、マーラーの当該楽章の「有名な楽器法」と同様であって、クライマックスの結びにおけるマーラーの第1楽章の響きへの接近や、「革命歌か労働歌の引用」のような合唱のユニゾンによる行進曲風の旋律の存在=これはマーラーの第2楽章に現れる有名なチェロの長いカンティレーナに呼応するようにも感じられる=などもあって、彼が「またしても偉大な先輩を思い起こしている」のは確実であると思われる。
こうした具合で、どうしたことか彼の音楽は奇妙なまでに自作、他作のエコーに満ちており、楽章最初の弦の弱奏のユニゾンによる持続音とティンパニ、テューバによる響きはヴァーグナー「ジークフリート」における大蛇ファフナーをどうしても思い出させるし(これが「引用」だとしても、「あまりにも安易」であろう。同じような「効果」を目指したと思われる、彼の友人ブリテンの先行作品「戦争レクイエム」最終章の冒頭部と比較すると「その差」は歴然としている。)、次いで現れるホルンのソロによる動機は彼自身の「第11」冒頭部に現れるトランペットのものと同様のもので、随所にある付点リズムに象徴される「軍隊調」もお馴染みのものである上、クライマックスに向けて出現する持続する十六分音符による二度音程を繰り返して音階的に動く動機はプロコフィエフの「第7」とチャイコフスキー「第6」の第1楽章を想起させる、という具合で、色々と連想させられる度合いの多さには首を傾げたくなるほどである。
彼はおそらく「極めて真剣」なのであろうが、この「引用だらけ」のような音楽は「その意図」にふさわしいものとも思えず(例によって「そのつもりではない」と考える方が自然なのではあろう)、「皮肉」であるには重すぎる響きも含め、この「交響曲」では「最も問題のある部分」に見える。
しかしながら、最後に和らいだ長調の響きが現れ、フィナーレの変ロ長調へと移る部分はショスタコービチではお目にかかることの少ない「絶妙な瞬間」であって、意外な題を持つ第5楽章フィナーレ「出世」、前述通り、彼の書いた「最高のフィナーレ」にふさわしい「準備」を為している。(以降、次回。)

ラベル:音楽
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2008年03月01日

音楽の「言語性」とは?(144)

ショスタコービチ「交響曲第13番」全五楽章のうち、後半の三楽章は、アタッカで続けて演奏される。これは同じように五楽章構成であった彼の「第8」と同様であるが、楽章の配置と比重は異なっており、ここでは冒頭楽章が「第8」ほどには重くなく(歌われる詩の内容はともかくも)、さほど長い訳でもない上、「第8」では第2、第3楽章にスケルツォ、フィナーレの前に緩徐楽章であるパッサカリアが置かれていたのに対して、ここでは逆に、スケルツォの次に二つの緩徐楽章が続く格好となっており、実際に書かれる音楽はともかく、こうした「構成」には気を配るショスタコービチの好みを良く表す一例となっている。(以前述べた通り、これは実際以上に彼の作品群に「幅があるように見せる」効果があるのだが、実は「ブロック遊び」のようなもので、同じものを組み合わせて色々な形を作ってみせるのだが、彼の場合「ブロック」そのものの種類は多くなく、「同じ音楽が違った順番で現れているに過ぎない」場合が多い。しかし、この「第13番」の場合では「プラス・アルファ」が確かにあり、こうした時に彼の「傑作」は出来上がるのである。)
さて、「二つの緩徐楽章」といっても、そこで扱われる詩には関連性は無く、音楽的にも(いささか似ているものの)書き分けられている。
第3楽章は「商店にて」という題が付けられ、これだけでは何の題材であるかまるで解らないのだが、「ソヴィエト女性のたくましさへの賛美」ということになるらしく(といっても「ファウスト的なもの」や「ヴェーヌス賛美」とは多いに異なる。)、この音楽に感じられる、リズムのシークエンスの多さからくる「子守唄調」の感じも、これと結びつけられたものと言えよう。
冒頭に低弦で出るモティーフは、短三度に固執する動きや同一リズムの繰り返しなどの点からいっても、冒頭楽章の開始主題と関連性があるのは明らかで、独唱の入りに先んじて現れるヴィオラの半音階的な対位線も、同じ部分の金管によるモティーフとの類似が意識されているのは間違いない。
声楽の動きも同様に第1楽章の動きに準じており、弱音での進行がずっと続くのは、単にこの楽章の特徴というよりは、冒頭楽章、第2楽章と同じ「四拍子主体」というハンディキャップを埋める効果もある。(しかもこれは次の第4楽章でも同様で、フィナーレに至って「三拍子主体」の楽想が初めて現れる。このリズム的な単調さはこの曲独特の情調を醸し出す一因となっていることは確かではあるが、これに学んだのか、彼は次の「第14番」では、この問題を見事に回避している。)
過度にエスプレッシヴォでない「子守唄調」は、「第8」の、やはり弱音部ばかり続く第4楽章を思い出させるが(少ししてから現れるホルンの長いオブリガートなども同様に「第8」を彷彿とさせる。)、形式的にも「変奏曲」とも採れるような構成においても類似している。
これまで通り、詩の進行が重視されているのは同様で、かなり自由な構成であり、かつ「第二主題」の扱いはさほど重視されておらず(しかも「差異化」は主部の持続するオスティナート的なシークエンスの中断、合唱の入りと、それに断続的リズムの「伴奏」が現れることで為されるが、素材そのものは「むしろ同一」なのである。この部分に現れるウッドブロック等の効果は印象的だが、これも「第14番」で「より大きな効果」を発揮する。)、クライマックスにおいてその材料が効果的に(しかし部分的に)利用されるものの、むしろ挿入部を持つた「単一主題的な音楽」と言えよう。
序奏のように見える「低弦の旋律」は、実は「主題」であって、声楽部は「派生的」であるのだが、これらが「展開」というのでなく反復、変奏される過程は「第8」の先例同様に「オーケストレーション」に、大きく依存するものの(特に弦とチェレスタ、ハープによる「変奏」は、彼の作曲した中でも文句なしに「美しい」楽段を為している。)、詩に応じて設定される強音部とクライマックスの効果もあって、この交響曲でも最も見事な部分を形成している。
この意図的に「毒抜きされた」ページは、額面通りの「讃歌」なのであって、前作「第12番」の唖然とするような「空虚な讃歌」の嘘くささを知る者には、まさに信じがたいような「成就」である。
しかしながら、この交響曲の「最高の瞬間」は、まだ残されている。
それは「おそらくショスタコービチ最高のフィナーレ」である、第5楽章なのである。(以降、次回。)



ラベル:音楽
posted by alban at 23:12| Comment(0) | TrackBack(0) | 音楽 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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