2007年03月24日

音楽の「言語性」とは?(104)

ショスタコービチの「交響曲第4番」の第2楽章は、特に何も記されてはいないものの、明らかに「スケルツォ」であるが、この交響曲の特異な三楽章構成、巨大な前後楽章とのバランスや内容において独自な性格を持たされており、彼の他の作品に良く見られる、「いかにもそれらしい」曲調の、「軽めの」それとはいささか毛色が違っている。
前述通り、これには、緩徐楽章を欠くこと、「スケルツォ」的曲想が前後楽章に頻発することなどが作用しており、中庸なテンポや意図的に「明確さ」を欠いた旋律を用いて、彼がこのような楽章で良く見せる「通俗性」への接近、具体的な「引用」そのものであるかのような「俗っぽさ」は排除され、直裁な表現によらない、何か「周縁を巡る」ような「暗喩性」が際立っている。(類似の音楽を、彼は「第10交響曲」の第3楽章でも書くことになるが、しかし例の「DSCH」音形などの、いささか度を過ぎた「アナグラム遊び」のために鋭さを欠き、「意味不明」の気味無しとはしない。)
この短い楽章は(といっても九分程度かかるが)A-B-A'-B'-A''の構成(A'は展開的、B'は強調的、A''はコーダと一致する。)を採り、冒頭楽章の途方も無い「見通しの悪さ」から一転してシンプルな形式とはなるが、音楽そのものはマッシヴな量感を避け、絶えず対位的な動きが付きまとう線的な書法、「レントラー風」とは言われるが(「マーラー風」とも言われる由縁だが、実際にはそれほどにはこの面での直裁な「影響」は感じられず、あくまで「イメージ的利用」に留まると見るべきである。)、あまり明確でない主要主題のリズム構造など、複数以上の「曖昧な要素」のために、残す印象は外見以上に複雑である。
いきなりヴィオラの単旋律で始まる主題(このヴィオラの音色の「性格」は楽章全体を象徴している。)は、述べた通り、第1楽章で「予告」されていたものだが、例の「第三主題」とも繋がりが深い。息の長い旋律ではあるが、リズムははっきりせず、少なくとも印象的な開始音形(「f-d-f-a↓」、「f-d-f-g↓」の分散和音的な動き、これは常に同じで変形されない。)には三拍子の律動は感じられず、そのため「序的」な、「冠詞的」な性質も備えている。
この開始は明らかに「調的」であるが、以後の運びは必ずしもそうではなく、多くは「無調的」である。この特性のために、主題の再現の「入り」は際立つことになり、これがフーガ的な扱いに適している事ははっきりしている。(実際A'では「フーガ」として現れる。)
この主題は冒頭部以外は反復されず、一種の「無窮動」として進行するが、次第に規則的リズムが導入されることで「レントラー風」の特徴が明らかになる。第1楽章で目立っていた「突発性」はリズム的な挿句として残されており、痙攣的な同音反復や半音階下降で現れる。
B部分に先立って、そこで執拗に繰り返される「長ー短ー短」のリズム・オスティナートが導入されるが、こうした所にも作曲者の入念な工夫がある。但し「つなぎ」の部分では、ティンパニの強打や木管のトリル、A'への移行ではティンパニと金管の強奏など「どぎつい音色」が単独で現れ、主部とのコントラストが図られ「移行部」を明確にする。
トリオは明確な旋律性を持つが、無調的でもあり、何かの「歌をもじった」もののような、パロディー性を備えている。この主題は良く指摘されるようにオスティナート共々、この後の「第5」の「シリアスな」第1楽章の第一主題を殆ど直接的に「予告」しているが(というより「第5」で「引用」されている)、ここでの扱いと考え合わせると実に「意味深長」であり、むしろ「第5」の方が「パロディー」として聴こえるような面もあることも考えると、「第5」のあまりの「成功」のために、他の幾多の「類似個所」を持つ先行する「第4」を発表することで、それが「色褪せる」ことを恐れたのか、とも勘ぐりたくなる。
B主題の冒頭は無論「基本動機」に基づいているが、音が下に一つ付け加えられ「三全音」の響きが「無調」の感じを増加させる。ここでも基本的には音色は薄く、やがて高潮するものの、これも「突発的」な扱いでA'へと移り、フーガとなる。
またしても「弦のフーガ」であるが、「主題の入り」だけが明確で、「曖昧さ」の感じはさらに増幅させられる。次に木管のみによるストレッタ、金管の強奏によるグロテスクな凱歌のようなB'という手順で、こちらは断続的ではない、一体化させられた進行となる。(B'で木管の対位旋律を伴う点も、A部分の特徴を備えている。)
B'はこの楽章のクライマックスであり、音楽的にも明確性を備えるが、同時に第1楽章の開始の「引き延ばしされた再現」であり、同時に、全曲の終結を「予告」するような性質も持っている。
即ち、グロテスクな表現が「パロディー」から「悲劇性」へと移行する過程が抽出されて現れているのだが、ここではコーダとして機能するA主題の対位を伴わない単独での再現が、ダンス・ミュージックのような軽々しいバスの繰り返しと打楽器のリズム・パターン(「第15番」のコーダで「引用される」として有名なもの)に乗ってトレモロで奏され、「曖昧さ」に引き戻されて閉じられる。
落ち着いたテンポのために時間はかかるものの、これらの経過は極めて簡潔に緊密に行われており、この作曲者としては異例なことに全く「的確」であって、特に「興に乗って書き飛ばされる」ことの多いショスタコービチの「スケルツォ楽章」として際立って完成度が高く、意味深長である。
実際には「ダ・カーポ」の無い、不可避の「経過」をそれは示しているが、二つの主題の特性そのままに、「平凡さ」を装うことでそれは可能となる。しかし、その「平凡さ」は剥き出しであってはならず、微妙な「匙加減」を必要とするのだが、この楽章が「特にマーラー的」とされるのは「レントラー」というよりも、まさに「その部分」なのであって、マーラーの「第2」、「第4」、「第7」のそれぞれの該当楽章に「先例」を見いだし得るであろう。これらの楽章の「浮動」し、「流動」する要素で表出される「周縁的な表現」こそが、ショスタコービチがここで「受け継いだはず」のものなのである。(以降、次回。)
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2007年03月17日

音楽の「言語性」とは?(103)

ショスタコービチの「第4交響曲」の第1楽章は、彼の交響曲楽章として最も大規模、かつ複雑なものに属し、これに比肩するものとしては同じ曲の「フィナーレ」である第3楽章位しか無い。(単に「演奏時間」だけで言えば「第7」「第8」のそれぞれ冒頭楽章が「同等」であるが、これらは「遅いテンポの部分の占める割合」や、「第7」では例の「ボレロもどき」の部分などの「冗長な展開」によって「そうなっている」ので、実際の「内容」や「情報量」としては「第4」より稀薄である。またそのような性質のために、演奏によって所用時間に「ばらつき」があるが、音の数自体が多い「第4」では演奏時間の「誤差」は少ない。指揮者によっては、これら以外の曲でも、特定の楽章を異様に長く「引き延ばす」場合があり、全体の演奏時間が驚くほど違うことがある。)
ともあれ、コラージュ風の部分もある自由な形式の第3楽章に対して、第1楽章はソナタ形式をベースにした構造を土台に組み上げられており、いつもの比較的「感覚的に流す」部分も少ない上、「詰め込み過ぎ」と言えるほど多くの要素が盛り込まれており、非常に振幅も激しい。
その複雑さのために「形式感」は明瞭で無いが、おのおのの主題提示と確保に直接「展開」が続くような進行が続き、その都度クライマックスを作るような構造が積み重ねられているため、当然規模は大きくなり、そのため見通しが悪くなっているのである。
この楽章は明らかに「第2」「第3」の「交響曲らしくない実験」を本来的な「交響曲楽章」に「還元」しよう、とする試みであるが、前作の意図的な「無形式」から脱却しようとする傾向は、特に「再現部」(「第2」「第3」では「合唱の導入部」に相当する)における工夫に典型的に現れている。一方で、楽章のただ中で「展開部」の代用として急速な「フガート」を導入する手法も三たび現れる。(この手法は晩年の作品でも「13番」のフィナーレなどにも用いられている。)
さらに、オペラ創作が彼にもたらしたと思われる音楽的モーション、前後の脈絡と関係無く現れる「シナ」の部分や激情的なクライマックスが多く見られ、相当に「劇的な要素」が入り込んでいるが、「第4」では、このような部分と全体の流れの中で常時「軋轢」が生じており、他の作品には見られない独特な緊張感をもたらしている。
「やり過ぎ」とも言えるほどの「多主題」共々、これらは「過渡期」の特徴を示してもいるのだろうが、この「過剰さ」(オペラが以後「改作」には書かれなかったのは象徴的で、「題材」云々の問題はともかく、オペラの作曲が要求する機敏さや素材の豊富さを、彼は受け付けなくなっていったように思われる)にも関わらず、我々はここに既にイメージ通りの「ショスタコービチ」を聴く事が出来る。(無論「改訂され続けた」という事情は考えねばなるまいが。しかし、それにも関わらず、作品の特質は保持されたままなのである。)
冒頭から強烈な響きが聴かれるが、「a-g-f」と三度順次下降する音形はこの曲の「基本動機」ともいうべきもので、これは多くの素材に含まれることになる。この部分は主部ハ短調の二度上のニ短調、もしくは三度下のイ短調と見ることが出来るが、いずれにせよ第四音「ファ」が半音上がる特徴を示していて、ここから生まれる長二度音程も重要である。(第2楽章のニ短調もここから生じる。)
また、背景の「c-des」の不快なトリラー音形における半音のぶつかり合いも頻繁に利用され、しばしばクライマックスでも用いられる。
これは簡潔にハ短調の和音連打に接続するが、これに乗って現れる第一主題は行進曲風の特徴を示しており、シロフォンを含むオーケストレーション共々、マーラーを思い起こさせる。(特に「第6」)
第二主題とも思える静かな副次部は音階上昇と下降の順が逆になっているが、調的には対照を為しておらず、また変拍子のために性格的にも落ち着かないままである。
この部分には後に現れる「第二主題」の「予告」が嵌め込まれており、作曲者の配慮が伺われる。
拍子の変化の多さは両端楽章の特徴でもあるが、特に三拍子による、本来「スケルツォ」に該当するような楽想が多く出現し、第1楽章においてもかなりの割合を占める。
これは、第2楽章が題されてはいないが明らかに「スケルツォ」であることを考えると興味深い。(これはこの楽章のやや異例な中庸なテンポを「正統化する」が、通常「三楽章制」で省略されるのが「スケルツォ」であることにも反している。そのため、「代償」として、第3楽章開始部で「最も遅いテンポ」=ラルゴ=が現れるのである。)
これも高潮したスケルツォ的部分と接続されるが、まだ第一主題の「圏内」であることが第一主題と副次部を「重ね合わせる」ことで示される。
しかし、これが済んでもなお「第二主題」は現れず、第一主題に含まれる同音連打を敷衍した別の「スケルツォ的要素」が現れ、「シナ」を作って「突発的クライマックス」を形成する。(このような部分や「興奮状態」が「脈絡」から外れている個所となる訳だが、これらは前述の「劇的要素」の導入であると共に、アドルノの指摘する所の「マーラーの『突発』」個所の影響も指摘出来るかも知れない。この交響曲の、意図的にバランスを欠いた構成自体もマーラー的であるが。)こうしてようやく「第二主題」となる訳だが、既にこの時点で楽章の三分の一が経過しているという具合で、通常なら、とうの昔に「展開部」には到達していよう、という長さである。
第二主題の冒頭の動きである「ソドレミ」(短調形で「ミラシド」、「基本動機」の逆行形を含む)の上昇は、良く言われるように、直接的に「第5」のフィナーレ主題(と例のコーダ)に繋がるものであるが、ここではファゴット・ソロによる静かな提示、薄い響き、三拍子によるが拍節感に乏しいリズム共々、いかにも「含みのある」扱いとなっている。そしてこれも第三主題の「予告」を含みながらワルツ風の三拍子へと変化して行き(この部分にはアルバン・ベルクの影響が感じられる。)、またもクライマックスへ続き、頂点で極めてショスタコービチ的な第三主題(「ドレドレシドラソ」、後の作品でも頻繁に現れる動きである)が現れる。これは直ちに第二主題と組み合わされ、互いに「補完関係」にあることが示される。
続いて、ようやく始まる展開部は、第一主題が今度はピッコロで軽々しく、皮肉っぽく奏されて開始されるが、彼の気に入りの「ギャロップ」風でもあり、これもスケルツォ的性格を有している。この部分では重い響きを避け、木管主体のオーケストレーションであるが、突然中断され、これまでの「経過時間」を埋め合わせる為に、弦の「急速なフガート」が開始される。速すぎる為に判別し難いほどだが、これは第一主題に基づいており、前述通り「展開部」を事実上代用する。
これによって「決定的クライマックス」が築かれるが、この後に続くべき「再現部」はまたも持ち越され、第一主題の再現の「あるべき個所」には、さらに別の「ワルツ兼スケルツォ」が現れる。
ここで奏される旋律は初めて現れる「主題」のように思えるが、伴奏の和音連打でも解るように、第一主題から派生しており、第2楽章の主題の「予告」でもある。
さらなる高潮部を経て(マーラーかベルクを思わせるクレッシェンドによる)、序奏部が不協和音による合いの手を伴ってグロテスクに回帰し、マーラーばりの短い再現部となるが、これは実際にはコーダとも一致しており、「解消」されていく経過のように響く。
冒頭同様にハ短調の和音連打となって「型通り」の再現かと思わせるが、驚くべき事にこれに乗って奏されるのは「第二主題」のほうであり、巧妙に「融合」が図られている。(明らかに第一主題のコンテクスト上で別の旋律が現れる訳だが、むしろ、この方が第二主題の「本来の姿」を感じさせる。このように、この楽章には様々な構成上の工夫が随所に散りばめられている。)
これは長くは続かず沈静化してバランスが確保されるが、イングリッシュ・ホルンのソロとなり、いつもの「モノローグ」の音楽へと移行する。
これはソロ・ヴァイオリンによる第一主題副次部、今度は低音のファゴット・ソロによる「抜け殻のような」第一主題の再現へと逆の順を辿って行き、「a-g」の二度下降音形をハ短調和音の上に鳴らしながら巨大な冒頭楽章は全てを「保留」したまま閉じられる。
それは、「余りにも多くの事が起きすぎた」ので冒頭に「回帰」する他は無いのだが、もはや「同じものにも戻れない」ことを皮肉っぽく確認しているようである。
そして、「スケルツォ書き」ショスタコービチの数ある同種の楽章の中でも、最も優れた、暗喩的な楽章が呼び出されるのである。(以降、次回。)
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2007年03月10日

音楽の「言語性」とは?(102)

「第4交響曲」は、ショスタコービチの実質上の「最初の交響曲」=少なくとも最初の「本格的な交響曲」となったのだが、良く知られているように「初演直前」という所になって作曲者によって何故か「撤回」され、そのまま手元に留め置かれた。
にもかかわらず、この作品は「その存在自体」は明らかにされたまま(つまり「第4」という番号を与えられたまま)後続の作品が何曲も発表される中でも黙殺され続け、ようやく「初演」となった頃には実に四半世紀以上が経過していた。
この作品が「反古にされなかった」のは、勿論、作曲者がこれを「重視していた」ことを示しており、またこうした「経過」を経たためか、この作曲家としては実に「異例な事」に、何回かに渡って「手を入れ続けた」作品となった。
これについては明言されており、まだ「発表前」の時点で=「失敗だったので演奏されなかった」というのは真に受けるべきでないだろうが=「長過ぎ、不完全で構成等も悪いと思った」が「気に入っており」、「何年もかけて手直しした」(!)という、いつもの「速筆」の挙げ句の「書きっ放し」状態からは考えられない発言が伝えられている。(この「改作」の過程が解らないのは残念だが、「初期稿」なるものは伝えられており、「最終稿」とは相当異なるようだが、これについてはいずれ別に考えてみたい。せっかくショスタコービチが珍しくもここまで「入れ込んだ」のだから、まずはその「成果」を良く見ていきたいと思っている。どうやら、これは「それだけの事はある」ものになっているのだから。)
この発言の時点では「満足していない」旨を述べているが、果たして「完全に納得した」から「発表する気になった」のだろうか。いずれにせよ、この曲の規模や素材の豊富さ、多様さ、振幅の大きさは、これを保持しようとする限り、極めて高度な要求を作曲者に突きつける(聴き手にもだが)のは確かで、晩年になるまでこの作品が「持ち越された」のは、むしろこの「内的な要求」の方が大きいのかも知れない。彼はこの作品の「重要性」「特質」を良く理解しており、異例な経過共々、作品への「執着」を示しているのであろう。
実際、発表されてみると「第4」が「重要作」であることはすぐ明らかとなり、作曲家の「判断」が正しかったことを示したし、いわば「ミッシングリンク」であったこの曲が、後続の作品に対して極めて重要な「意味」を持っていた事も確認された。
実際、ここに現れた様々な要素は後に「再利用」され、或いは「引用」されており、直後の成功作「第5」自体が、この曲と多くの共通性を有していることも指摘されている。(これは「第4」の「耳障りのする個所」を取り除いて形式をオーソドックスにし、整理して短くし、要するに「刺を取り除いた」ようなものになっている。この事実は、この「大名曲」の立場を幾分「微妙なもの」にした。作曲者は「第4」の発表によって、このような「ネタバレ」を懸念した可能性もある。確かに、これを「前提」として聴くと後続の交響曲は、いささか「貧相に見える」場合もあり、何より「第4」に起因する「既視感」が頻出するのである。)
作曲者は「撤回」の理由については「本当の所」を説明していないが、「定説」となっている、一旦は成功を収めたはずのオペラ「ムツェンスク郡のマクベス夫人」が、当局から、例の良く解らない「形式主義」という名のもとに批判を受けたため、「第4」で、またその「餌食」になるのを恐れた、というのはおそらく最も「大きな理由」なのだろう。(オペラの方は「第4」初演と連動するように、これも彼としては異例の「改作」をされ、「カテリーナ・イズマイロヴァ」として発表されている。これは「当局」をも納得させたようだが、現在では「原典版」を評価する向きも多い。「原型をふくらます」形での手の入れ方は、おそらく「第4」と共通のもので、作曲者の作品への「執着」がここでも示されている。単にタイミングとして「OK」だったからというだけで無く、不遇だったが出来の良い作品を、何とか「陽の当たる形」で残そう、という「執念」でもあろう。)
今となっては、これらの曲が何故「批判された」のか理解し難い所だが(二曲ともこの作曲家の最も「ノっていた」時代の傑作である)、これらの「出来事」によって、当時、実際感じられたであろう「身の危険」が、彼に深刻な「影響」を与えたことは疑い無く、さらに晩年まで永く続いた「病気」の影響とも相まって、やがてはあの「枯れ果てた」ような作風へと至る訳だが、そう時間も経たないうちから感じられる(交響曲で言えば「第7」あたりから)、次第に強まっていく「反復性」や「強迫性」、「希薄さ」や「空転」の印象、「冗長さ」は、おそらくこれから発しており、何より作曲者の「精神状態」を反映している。
それらは著しく「個人的なもの」であって、既に述べたが、良く言われる作品の「二重性」にせよ、作曲者が自分の「意図」と周囲への「配慮」に未整理のまま「引き裂かれた」結果であって、彼が自分をコントロールしかねたあげく、「結果」としての「曖昧さ」が生じたに過ぎない。(彼が創作を完全に「コントロール出来た」ような時は「11番」とか「12番」というような、プログラムじみた「困った作品」になる事が多い。)
彼が「そのような状態」になる以前の「第4」を、何とか「意図通り」に「実現」しようとした自体も発表を長引かせたのだろうが、これが明らかに「スランプ」を感じさせる「体制迎合的」な「12番」(「11番」もだろうが)の後に初演され、その後で、まるで「反動」のように傑作「13番」(これなどは「当局」の差し金で歌詞の変更を余儀なくされている)それから混じりっけなしの「死へのリアリズム」に徹した、おそらくは「最高作」である「14番」を生み出すに至ったのは興味深い。(但し二曲とも全編歌付きで、形態共々「オーソドックスな交響曲」ではないのは周知の通りである。)
こうして「第4」は彼の「傑作」として残され、その規模にも関わらず(ショスタコービチの交響曲は、実はそれほど長いものは多く無く=演奏にもよるが=大体65分位かかるこれより長いのは「中身の割には」やたらと長い「第7」しかない)、密度が高く、無駄が少なく、「雑多な楽想の集合体」に見える大規模な両端楽章も、実際にはかなり考えて書かれている。
ショスタコービチの中では「最もマーラーに近い」と言われるこの「第4」だが、楽想の類似や引用だけでなく、全体の「構成法」自体もマーラーに学んだものと言える。
この曲は、彼自身認めていた「ブレーク・スルー」であり、いわばショスタコービチの「エロイカ」であるが、さすがにこの後はベートーヴェンのようにはいかず、「傑作の森」どころか、危うく枯れかけた「大樹」の後には「まばらな林」が続くのだが。(以降、次回。)
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2007年03月03日

音楽の「言語性」とは?(101)

ショスタコービチの「交響曲第2番」「交響曲第3番」は事実上「姉妹作」とも見なせよう。
それは題材の共通性(革命、メーデー)と共に、形態の上での類似(極めて自由な形式による単一楽章、終結合唱付き)が見られる上、「第3」では「第2」を踏まえての、「別のアプローチ」が明らかに「意図的に」為されているからである。
「合唱交響曲」とは言え、これは「ベートーヴェン以来」の「偉大な系譜」に属するようなものではなく(但し、それらの作品の持つ「オーラ」を、当時のソヴィエトの「社会状況」に「転写」しようとした形跡は認められる。即ち、過去の音楽の「偉大さ」を「社会自体のそれ」に「摺り替え」ようとする試みである。)、彼自身の意欲的な「実験」、前衛的なものへの傾倒を(実際、彼は「第2」の頃シェーンベルクなどに熱中していたらしい)社会的、政治的な「賛美」と抱き合わせることで「正統化」しようとした所から「合唱」の必要が生じたもので、実際の所、スクリャービンの「交響曲」以上に「交響曲らしくない」。(いい所で「交響詩」、もしくは「長大な序奏付きのカンタータ」、ベートーヴェンの「合唱幻想曲」の奇妙な「ロシアにおける末裔」、という感じである。)
ここに、リストの二つの「交響曲」のフィナーレ、或いはマーラー「第2」のフィナーレの「影響」を見ることも不可能では無いだろうが、ここでは、それらの「前提」となるべき「先行楽章」を全く欠いているために、弁証法的な「バランス」は存在せず、また「最終手段」としての「声楽の導入」といった「必然性」も生じない。ここでは「歌」自体が「目的化」しており、我々が「主題の反復」の要素をそっくり抜き取られた音楽に「あっけにとられている」うちに「革命讃歌」とか「メーデー讃歌」とかを、そのまま「芋ずる式」に聴かされる、という作品なのである。(この「反復の回避」は相当意識されているが、この措置が、「普遍的たるべき題材」と噛み合うような筋合いのものでないのは自明であろう。当然、合唱パートも「一般参加」出来るような「誰もが歌えるような」代物では無くなっている。)
「第3」の三分の二ほどの長さである「第2」は、構成においては「より引き締まって」おり、且つ「実験色」も濃い。均質的な「第3」に対して、極めて抽象的な部分(冒頭の無調によるカオス的な部分や、有名な「二十七声部の対位法」など)と具体的な情景描写(最たるものが「サイレンの使用」である)、性格上「明朗」であるべき合唱部、というコントラストの強い、連続性の無い部分が繋ぎ合わされているのだが、その「接続」には打楽器の一打などの具体的な「合図」で唐突に行われる。
大まかな「構図」としては「混沌」から「解決」へ、という流れがあるにせよ、雑多なものが踵を接している「異様さ」は否定出来ず、それを正当化する「超論理的」な力も(「理念自体としては」存在するが)もはや終結合唱には含まれない。(発表当時のソヴィエトでは「そのようなもの」が「幻視されていた」可能性はあるだろうが。しかし、ここに含まれる革命賛美の言葉や、シュプレヒコールされる「レーニン」の名などに、今や我々は困惑し、肩をすくめるか、苦笑するかのどちらかで、かつてそこに聴かれたかも知れぬ「解決」の気配を微塵も感じることは出来ない。)
結果として、これはかつて「そのような国」で頻繁に見られた政治的、文化的、体育的「大会」でやられる「マス・ゲーム」の伴奏音楽のように響く。音楽は何がしかの「身振り」や「号令」、そして「声」を伴って、かなりの度合いで「具体的」に「情景」を指し示しており、この傾向は「第3」での「革命歌」らしきものの引用や、序奏(クラリネット・ソロに始まる冒頭は、何故かバーンスタインの「交響曲第2番」である「不安の時代」の開始に、かなり類似している。彼がショスタコービチのこの曲を「知らなかった」とは考え難く、また悪ふざけ混じりとは言え「コミンテルン」を公言していたことからすると、これには何らかの「意味」があるのかも知れない。)の後から始まる、曲の「基本」といってもいい「行進曲調」の持続、また、それらに起因する、「第2」では合唱部分のみに限られていた「平明な語り口」がそうした印象に拍車をかける。
こうして「第3」では、始めから「安定した社会」が「実現されている」ように振る舞われている訳だが、「革命への経過」を組み入れようとした「第2」よりも、それはより一層「仮構的」であって、実際、さらに「説得性に乏しい」ものになっている。三十分からかかる全曲のうち、「合唱部」は「第2」よりもむしろ短く、また立体性を欠く「伴奏」と相まって、それをも単なる「場面」としてしまうのである。
実際には「繰り返しが無い」にも関わらず(この曲について作曲者は「主題を一つも繰り返さない交響曲を書く事は興味深い」という、後年の執拗な「自己模倣」からは想像もつかないような「驚くべき発言」をしている。)、似たような素材、同じような情調が続き(特に前述の「行進曲調」に由来するリズム)、曲の「性質上」避ける事の出来ない絶対的な「長調時間」の長さも手伝って、合唱が出て来る頃には、大抵の聴き手は「まだ曲が終わらない」のを知ってうんざりしてしまう。
このような特徴のために、結果として「第2」よりも「過激でない」語り口にも関わらず、作品は難解であり、その長々しさも「明るい社会」のメタファーと考える以外に無く、実際にはそぐわない「繰り返しの回避」は「活気」や「多様性」の描写と採れなくも無いにせよ、実際には作曲家の「意欲」の結果であって、作品の「方向性」と「手法」との間の「ギャップ」はここでも埋められていない。
このような作品の特質は、当時のソヴィエトの「文化的状況」を参照することで「納得の行くもの」へと変貌するのかも知れないが、いずれにせよこれらの曲は、当時の宣伝的ポスターが「ポップ・アート」として再解釈されるような「余地」を有しているのと比べて、音楽的、内容的に余りにも「具体的」であって(このような意味では=「芸術的価値」云々はともかく=後年の、例の「森の歌」などの方が「まだまし」である)、これらが本国でもしばらくの間「忘れられた作品」となっていたのも単なる「政治的理由」からではなく、「作品そのものの問題」にも起因していよう。
いかに「意欲的な力作」と持ち上げてみた所で、これらが「困った代物」であることには変わりは無く、「交響曲」として「番号付け」されていることで(彼は「第2」を当初「交響的捧げ物」と呼んでいたのに、不幸にも何故か「心変わり」したのである。このために必然的に「第3」も「交響曲」になるはめになった。)作品は晒されたく無い「衆目」を浴び続ける結果になり、我々を悩ませ続ける。
この重大な「命名の誤り」はショスタコービチの「余りそれにふさわしくない作品」を「交響曲呼ばわりすること」に以後も役立つことになるが、このおかげで後世のレコード会社は「偉大なシンフォニストの作品」を十五曲も宣伝することの出来る幸福にありつく事が出来たのである。
しかし、実際には「そのような作品」に類すると目して良いものは次の「第4交響曲」から断続的に見られるに過ぎないのである。(以降、次回。)
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2007年02月24日

音楽の「言語性」とは?(100)

このタイトルになってこれで百回目にもなるが、当初は「お題目通り」に進めていたものの、途中から「楽曲分析大会」になってしまい(無論、「全く関係無い」訳でもないが)、我ながら納得いかない所ではある。まあ、そもそもが自分の感じ方、考え方を「再確認」するつもりで設けている訳なので、タイトルはさして重要でもなく、たまたま百回「積み重なってしまった」だけの事に過ぎないのだが。
そうした趣旨もあって、ここでは「説明不足」、「悪文」、「独断的」という三拍子が揃い、まかり通っている訳だが、このようなトンデモナイものを覗きに来られる方がおられるらしいのもインターネットゆえか、不思議な感じがする次第である。
この調子で行くと後百回位は「分析大会」を続けなくてはならないようだが(今やっているショスタコービチだけでもしばらくはかかる。ちなみに「百回記念」なのに彼の「2番」「3番」という巡り合わせになったので、どうにも気乗りがしなくて今回は「与太話」になっている訳である。)
まあ、「良く知っているつもり」の音楽でも、こうした場を設けて改めて「潜ってみる」と、思いもしなかった「意味」の発見とか「理解」とかが得られる、ということもあり、そして「必ずしも好きではないもの」についても採り上げるようにしているので、色々な事が見えて来てなかなか面白い。
「無作為」と思えたものがそうでは無い事が解ったり、逆に「立派に見えていたもの」が「擬装」でしか無いことが見えて来たりと、今まで何となく「思い込んでいたもの」、片っ端から音楽を聴いていた際に「刷り込まれたもの」の「修正作業」をしている感じもあるが、ともあれ、作曲家が「どんな意図で」「どのように」それを作ったかが「後追い」するように見えるよう(な気がするよう)になって来たのがまあ、大きいのではあろう。(実際に「それが正しいかどうか」は証明しようもないが。)
それには実に様々な段階の「レヴェル」があり、作曲家の「そもそもの意図」の持つ質と高さ、それを正確に、的確に実現するための技術の集積が「作品」として残る訳だが、それが「極めて高い次元で行われている」場合は、結局我々には「好き嫌い」しか言う余地が残されていない。
しかし、どんなに優れた作曲家でも、それが「常時実現出来る」ような筋合いのものではないのは確かで、極めて稀にしかそれが得られない(人によっては「一生のうちに一度」の割合でしかないこともある)場合も少なく無い。
また、そうした事自体を「理解する」か「気付いていない」か、という差もあり、それは作品の「垂れ流し具合」(たくさん出せば「当たる事もある」訳だが。自己批判の厳しい作曲家は、いきおい作品数が少なくなりがちなのは自明の理である)で大体解る。また、このような「モラル」の存在も、作品それ自体の「質」と「出来具合」に密接にリンクしているのである。(これは「交響曲」のようなジャンルに限らず、「オペラ」などの場合でも重要である。ワーグナーが、どれほど「ひどい人間」だったか我々は色々伝え聞いているが、にも関わらず、作品そのものの持つ音楽的な「モラル」が「とてつもなく高い」ことが彼を存命中から常に重要たらしめているのである、)
結局、毎回のようにこれを「再確認」しているような具合でもあり、こんな事をしているのだから、肝心の自分の作曲がはかどらないのも「むべなるかな」という所である。
このよう構図は他の音楽ジャンルでも「程度の差」はあれ存在しているらしいが、いずれにせよ「売れる」、「売れない」の差は大きいらしく(しかも作品の「善し悪し」と「売れる事」は「イコール」ではない)、そもそもが「作曲では飯を喰えない」ような立場の我々とは事情が異なるらしい。そうなると、こちらは、いわば「永遠」というのを相手にして作曲でもしているのか、という事になるが(室生犀星の「はる」という詩だったかにそんな一節があったが)、これまた難儀な話で「死後の名声」には「恵まれた」多くの作曲家を見るまでもなく、「自分のみを頼り」に創作する他は無い訳である。
このような「分析ごっこ」も、そうした事への「ヒント」にはなるのであろう、と思って続けていることにはなるのだが。(以降、次回。)
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2007年02月17日

音楽の「言語性」とは?(99)

ショスタコービチ「交響曲第1番」第2楽章は、はっきり銘打たれている訳では無いが、明らかに「スケルツォ楽章」であって、この交響曲の中で最も短い部分ではあるが、しかし、初演以来、その鮮やかさによって、最も賞賛を浴びて来た部分でもある。
これはいかにも象徴的な事であって、この作曲家が終生得意にしていた「スケルツォ」的曲種が、既に完成度高い姿でここに示されており、後年のものと比べても何ら遜色が無い。
しかし、四拍子を採る楽想は他の楽章とコントラストには乏しく、そのことがかえって、この楽章の「切れ味」を際立たせている。リズム・パターンは第1楽章の行進曲調に対して、ここでは「長ー短ー短」の畳み掛けという、後のショスタコービチでも頻発する御馴染みのものが選ばれ、対比が図られている。
低弦による導入に続くクラリネットによる提示以降、そのリズムは一貫しているが(但し「主題」と見なしうるのはヴァイオリンで繰り返されるものであろう)、無窮動風であって、重要なのはリズム・パターンそのものと一定の音の動かし方(短三度音程や半音階的下降)で、これらの材料から類似した短い音形が次々に現れる。この楽章で特筆すべきなのはピアノの使用(プロコフィエフのように「音色の一部」としてでは無く「ソロ」として)であるが、楽器の性質上、極めて明確な音像が得られるので、この延々とした反復の中で極めて効果的に響く。但し、このために「ピアノ協奏曲の一節」のように響くことも確かで、コーダ部における「意外な使用法」共々、疑問を感じないでも無い。
(かといって全曲で活躍する訳では無く、「目立つ」のはこの楽章に限られており、第1、第3楽章では出番が無く、フィナーレでは「プロコフィエフ的」に、響きの補強に充てられている。)
トリオ部ではテンポが落ち、何となく東洋風な、民族的な感じのする旋律が現れるが、しかし短三度音程や半音階進行といった主題の連関は保たれている。
前述した通り、この旋律は四拍子にしか聴こえないのだが、何故かこれをわざわざ三拍子として記譜しており、それによる「アクセント変化」を考えるにも不自然な処理で、実際の所「スケルツォ」だから三拍子の部分を置きたかった、位としか考えられない。これは主部の回帰の後トリオ部との結合が図られ、この主題が金管で暴力的に強奏される部分で、まさしく「四拍子」として書かれていることで裏打ちされている。(主部の無窮動の性格は、このような処理にも便利である。ちなみにこの楽章の形式的構成は、チャイコフスキー「交響曲第4番」のスケルツォのそれを下敷きにしているように感じられる。)
通常ならそのままフォルテで閉じられる所だが、作曲者はクライマックスを突然裁ち切ってピアノに三度ばかり主調イ短調の和音を裸で強打させ、聴き手を驚かせる。これによって音楽はあらぬ方向へ逸れてしまい、結局主題の弱奏で閉じられることになるのだが、これは何度聴いても驚かされるような効果で、以前にも記したウォルトン「第1」の、やはりスケルツォのコーダにおける「不意打ち」にも比肩するだろうが、あすこでの「やられた!」と思わせるような「冴えた」ものでは無く、いささか「不快な感じ」を抱かせ、マーラー「第10」の大太鼓の強打のように「象徴的意味」も取り立てて感じられず、どうも「驚かせる事」自体が目的化しているようにも思える。
(これは「劇音楽」ならともかく「交響曲」としてはあまり「ふさわしい態度」でも無かろう。)
このような事態を「説明」するためには前述通り「プログラム」の存在が必要だが、これは後半二楽章でより多く感じられる所で、またそれ故か、時間的にも長くなり、それは相対的にゆっくりしたテンポの占める割合が増えることと比例している。(このような「長さ」の感じは、ブルックナー「第8」同様に、第2楽章へのスケルツォ配置と、緩徐楽章に続くフィナーレでも遅いテンポを使用してしまうことで生じている。ショスタコービチのこのフィナーレでは序奏のみならず第二主題でもそのように振る舞うことで劇的なポーズを強調しているが、その代わり聴き手が期待する「快刀乱麻」のようなアレグロは「不発」のままである。)
第3楽章レントは半音階を多用した長々とした無限旋律に始まるが、オーボエに続くチェロ独奏による主題の第二部分が殆ど直接的に「トリスタン」を引用することでワーグナー的「夜の世界」を連想させる。音量の増大と伴奏の三連符の切迫感によって高潮するが、重要なのは旋律そのものよりも時折挟み込まれて次第に「増量」されていく「運命動機」と呼ばれる事もある「ソソソファミ」という短三度に基づく動機の執拗な導入で(これもまたチャイコフスキー「交響曲第4番」冒頭の同様な意味を与えられた動機に由来すると考えられる。)、このため「悪夢的な感じ」が強調される。
中間部主題もオーボエによるが、付点リズムを持つ葬送行進曲風のもので(これと良く似た楽想が最後の「第15番」の緩徐楽章に現れるのは興味深い。トロンボーンで弱奏されるのだが、通常は自作の「歌曲の引用」として説明されている。)、実際には金管楽器による「ファンファーレ」としてのクライマックスを導入する「呼び水」としての意味が大きい。但し主部の「材料」が絞られている割に長いため、この主題の登場は「遅すぎる第二主題」のようにも感じられ、主部の再現後にもう一度トランペットで亡霊のように奏されるため、余計にそのような印象を与える。
主部はヴァイオリン・ソロで復帰し、短くされてはいるが同様な表情で反復されるため、また中間部主題の再現のため、殆ど「解決感」の無いまま小太鼓のトレモロのクレッシェンドと共に「アタッカ」でフィナーレに入るが、やはり遅いテンポであるために、音楽はそのまま続いているように感じられる。(この序奏主題も第1楽章冒頭に由来するが、後年の作品に頻発する「モノローグ」の性格が既に現れている。)これは当然、続く「アレグロ」への「移行部」であるべきであるが、実際には主部へ単に「接続」されているのみで、第1楽章のような「連続性」には欠けている。
続く第一主題ではその第1楽章を想起させるようにクラリネットが用いられる。またしても半音階が多用され、前半で順次的上昇、後半で下降という動きによるが、やはり無窮動風であり、極めて推進力を感じさせる。
しかし、アレグロのテンポはそう長続きせず、四度下降と半音階上昇に由来する第二主題がアレグロ部で「予告」されてから減速し、またしてもヴァイオリン・ソロでたっぷりと「確保」されることで再び停滞する。
その後の展開部的なアレグロも長く無く、主題の拡大形や組み合わせといった処理が見られるものの、最も「印象的」で、しかし問題もあるティンパニ・ソロによる「運命動機の逆行形」の強打が、音楽を消し飛ばしてしまう。これは音量を減じながら三度ばかり繰り返されるが、明らかに第2楽章の「ピアノ強打」と対応させられており、いかにも「意味ありげ」である。
「運命動機」自体、この曲の基本素材から導きだされたものであるのは確かであるが、「意味」を付与されて「それらしく登場」するのは第3楽章からであり、フィナーレでのこのような扱いは「意味」を強調するためとは言え、この「意味の発生」によって、この後の主題の確保をも圧倒してこの動機が「音楽を乗っ取ってしまう」結果となり、そのまま交響曲を終結させてしまうのである。
明らかに「前半二楽章」に無かったものが「後半」に発生し、「当初の予想とは違った所」に導かれる訳だが、これが作曲者の完全な「意図」であるにせよ、明らかな「ギャップ」は埋められておらず、おそらくは「考え尽くした結果」であるフィナーレも、悩んだ挙げ句の「決意表明」のような形で閉じられ、それなりに「盛り上がる」にせよ、いささか「力づく」の感じは否めない。
このような前半と後半の「内容変化」のギャップが激しい例は、マーラーの「第1」などでも見られる所であるが、マーラーが「どのように終えるか」を当初からはっきり意識していたのに対し、ショスタコービチはどうも「必ずしもそうでは無かった」ようにも思える。
彼は全力で取り組んでいるが、後年にも無いような主題連関や処理上の工夫にも関わらず、内容、書法的に「不均衡」が見られるのである。
マーラーが「第1」の第1楽章でフィナーレの音楽を「予告」し、例の「花の章」を取り除いたのは、この理由によるものと思われるが、ショスタコービチの場合では、当初の「客観性」から「主観性」へと視点が著しく変化しており、そのためか第3楽章で「運命動機」を次第に浸透させよう、とした形跡も見られるが(それともチャイコフスキーが「第4番」で、冒頭から「運命動機」を「全開」したので「それに遠慮した」とでもいう訳だろうか?)、この曲の独自の「価値」は認めうるにせよ、当初からの「大評判」は、作曲者の「年齢」云々をも含めた、やや「過大評価」なのではないか、という気もする。
このような「自己制御の欠如」は、その都度「程度の違い」はあるにせよ、この作曲家に生涯ずっとつきまとう問題であって、この後に書かれた、「第1」での「形式的な束縛」を取払い、持て余すほどの才能を暴走させる「第2」「第3」では特に顕著な形で見られる。それらは実に「感心すべき代物」ではあるのだが、当然ながら最早「交響曲」では無くなってしまうのであって、後にその事に気付いた作曲家は「第4」に呻吟することになる。
ともあれ、これらが凡百の才能の及ぶ所で無いものであることは確かであるが。(以降、次回。)

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2007年02月10日

音楽の「言語性」とは?(98)

ショスタコービチ19才時にして初の大作、そして国際的にも「出世作」となった「交響曲第1番」は、名だたる作曲家達の「第1」の中での「最年少記録」という訳では無いものの(何せモーツァルトとかシューベルトのような人が居る)、「レパートリー」として「生き残っている作品」としてはビゼー17才(!)の「ハ長調」に次ぐ「若書き」の「記録」となろうか。
ベートーヴェン以来「交響曲」には「特に慎重な態度」で臨んで来た作曲家が多かった中、実に大した「度胸」であるが、それで実際に記念すべき「成功」を収めて見せたのだから、世間が驚いたのも無理は無い。(合計十五曲も書けたのは、この早い時点での「第1」が、かなり「効いている」のは確かである。やはり若いうちから「作曲家として完成」していたブラームスなども同じ様にしていたら、それこそ全部で「九曲」位は書いたかのかも知れないが。しかし彼は自己批判を繰り返し、周知の通り「第1」に二十年以上を費やした。それは確かに、ショスタコービチのものよりは「重要な作品」になった。)
作曲家も、この曲の初演日だかを「第二の誕生日」として祝っていたという位、まさに「順風満帆」の「出発」だったのだが、この後の「経過」は思わぬ方向へ逸れていってしまう。(この曲を賞賛したトスカニーニとかブルーノ・ワルターが「第2」とか「第3」のような作品を「交響曲」として発表したことに、いったいどのような反応をしていたのか知りたいものである。これらの作品に見られるアヴァンギャルドな態度の後、この作曲家の「作風」は、まだまだ若いうちに決定的に変わってしまう。若いショスタコービチに感じられる、底知れぬような「潜在力」は感じられなくなり、「精神的要素」が前面に出て来る代償として、ルーティーンと自己反復が始まる。)
これは音楽院の「卒業作品」であって、「お行儀の良い」面、幾分「教科書的」な部分が無い訳ではないが(しかし、序奏冒頭の和音処理に関して、師グラズノフの「常識的解決」の勧めにいったんは従ったものの、結局は逆らった、という話が残っている。)、その「用途」のためもあってか、むしろ後年の作品よりも丁寧に書かれており、良く考えられた構成を持ち、結果として、この作曲家としては「無駄」の少ない、見事な作品となっている、と言って良い。
「最初の作品にその作家の全てが既に含まれる」というような事が言われることがあるが、ショスタコービチの場合にも、それは確かに該当するだろう。しかし、後年の作品と比べて何か「異質な感じ」がする面があるのも確かで、それは前述のような「作曲のされ方」や、何よりも「新鮮さ」がここにあり、後年の「習い性」ともなる「曖昧さ」を排する態度が、ここでは顕著だからであろう。
ただ、これは確かに「交響曲」と呼ぶ他無いものであるにも関わらず、何か「正攻法」というよりは「変化球」のような所があり(プロコフィエフの「第1」、である「古典交響曲」が、非常に「ひねた形で」巧妙に実現して見せたのとはまた別のアプローチだが)、「協奏的」な、或いは「室内交響曲」的な楽器法(ソロの多用、薄いテクスチュア)、ピアノの導入(時々「ピアノ協奏曲」のように聴こえる)、「意表を突く」ことへの執着(「予想と違う」結び方や、流れの意識的な途絶など)、一部の動機的連関に何か「意味」を付与しようとする態度など、相当「引っ掛かり」が多く、これらが若いショスタコービチの「意欲の現れ」であるにせよ、「正統的なスタイル」からはやや距離があるようにも感じられ、「実際の大きさ」よりもこの曲を「小さく見せる」原因ともなっている。(演奏にもよるが、この曲は「第9」「第2」「第3」よりは長く、「第6」と同程度か、いくらか長いはずである。もう一つ何か「薄く感じられる」ポイントがあるとすれば、前半2楽章よりも後半2楽章が「長くなる」にも関わらず、音楽の「密度」と「構成」において前半よりも劣り、何か「標題的なもの」の関与がより強く感じられる点であろう。)
彼の本格的な、文句無しの「フル・スケール」の交響曲は、「第4」(しかし三楽章構成)が未発表のままであったことを考えると、実にあの「第5」まで待たねばならないのである。
第1楽章には序奏が付けられているが、主部との関連性が強く、実際ここに含まれる動機が全曲の主題群に浸透しており、この後の第一主題も例外では無く、直接的な派生関係が見られる。(第1楽章においては節目ごとに序奏の材料が現れ、この関係が確認されている。)
主たる要素は、冒頭に見られる順次半音階下降と四度、五度下降などを組み合わせる音形であるが、これは徹底して全曲に用いられ、後年には殆ど見られなくなる動機労作による、他の派生要素との組み合わせ、拡大、短縮などの形でも現れたりするため、音楽を「似通ったトーンで埋め尽くす傾向」が無いとも言えないが、それで得られる「統一感」は後の交響曲には無いものである。
また、この「対策」として「リズムによる差異化」が意図されており、主題ごと、楽章ごとにリズム・パターンが書き分けられている。この周期的なリズムの変化(多くの場合テンポ変化も伴う)による推進力もこの曲の特徴と言える。
但し、全体として四拍子、二拍子に固執する傾向があり、それを意識したためか、スケルツォ楽章(これも四拍子)のトリオで明らかな四拍子の旋律をわざわざ三拍子で記譜する、という訳の分からないことをやっている。(一部変拍子が混じるが、主題自体は四拍子にしか聴こえない。)
「明らかな三拍子」は第1楽章の第二主題のみであるが、このワルツ調は第一主題の行進曲調と良い対比を為しているが、これは序奏と第一主題が「地続き」であることから、また、この後のスケルツォが前述通り第1楽章と同じ四拍子であることからも「妥当な措置」と言える。
序奏の、何か「保留する感じ」から行進曲のリズムで抜け出る第一主題は、三連符と十六分休符を挟む、マーラー「第2」の第1楽章を思わせるリズムを持つが、執拗な半音階進行とリズム反復によって独自性を保っている。序奏冒頭の素材なども挟まれるが、「いかにも行進曲らしい」フォルテ全奏は現れず、第二主題へと移る。これは第一主題よりは全音階的ではあるが、短二度音程と四度、五度音程の組み合わせであって、序奏に由来している。明るくも無く、暗くも無く、確たる性格を持ってはいないが、重要なのはワルツのリズムそのものである。
展開部は長く無いが良く考えられており、序奏の最後部で出て来た動機から始まり、冒頭、第二主題の要素と組み合わせられるが、弦楽器が分奏されており、この後のオーケストラのフォルテシモ(これまで回避されていた。この印象的な部分はコーダ部でも再現される。)を効果的にする。
第一主題の再現はそのクライマックスを引き継いで沈静化させる形になるが、ごく短く、第二主題の再現へと移る。序奏の材料が示された後、第一主題、クライマックスの再現となるが、予想されるフォルテによる終結はやって来ず、第一主題から序奏の再現へと逆戻りし、そのために冒頭の「保留する感じ」のまま弱音で終結を迎える。この「はっきりしない終わり方」は、聴き手を「煙に巻く名人」ショスタコービチの「本領」が早くも発揮されているようにも見えるが、実際には楽想的に関連性の強い第2楽章スケルツォへの「アタッカ」としての「つなぎ」の性格が強い。(この「アタッカ」的な手法は、第3楽章からフィナーレへの移行でも用いられており、彼が「前半」「後半」の区切りを意識していたことを示している。このような考え方は、マーラーに由来すると思われる。)
この「第1」には、同じ調性(ヘ短調)によるチャイコフスキーの「第4交響曲」を「下敷き」にしたと思わせる所が随所にあるのだが、この第1楽章では、序奏の材料の利用の仕方やリズム要素の反復、半音階の使用法、第二主題部の表情の共通性などがチャイコフスキーの第1楽章を思い出させる。
他の楽章でもそのような「対応関係」は見られるが、最も「成功」と初演以来言われ続けて来た次の「スケルツォ」にもそれは該当する。(以降、次回。)
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2007年02月03日

音楽の「言語性」とは?(97)

ショスタコービチを「マーラー以後の最大のシンフォニスト」とか言うのならまだしも(要するに「後の時代」では「交響曲」を創作の主体としていた作曲家など「他に殆ど居ない」訳だし。但し、ヴォーン・ウィリアムズを忘れてはいけない。彼にも「資格」はあるだろう。)、「マーラーと並ぶシンフォニスト」とかいう所まで「持ち上げる」ということになると、ディスクを出来るだけ多く売りたいレコード会社の「たちの悪い宣伝文句」か(これが売れるとなれば、とにかく曲数もあることだし)、「あんまり笑えない冗談」ということにでもなろう。
これは到底「比較にならない話」とも言え、「笑止千万」までは行かずとも、「見識を疑う」ようなもので、マーラーは、現在における彼の音楽の「重要度」や、そもそも作品群全体の「質」の高さにおいて、ショスタコービチのレヴェルを「遥かに超えて」おり、また将来、ショスタコービチの音楽が「レパートリー」としてマーラー同様の「地位」を得るようなことは、殆ど想像し難い。
無論、幾つかの曲は(「第5」以外の)現在より遥かに「良く演奏されるようにはなる」だろうが、マーラーやベートーヴェンのように「全ての曲が極めて良く演奏される」状態に至ることは、まず「期待出来ない」と思われる。
彼の作品リストには、作品の「質」と「出来具合」そのもの、そして不幸にも「交響曲」として「番号打ち」されているために、「全曲録音」とか「全曲演奏会」でも無ければ、まず、採り上げられないであろう作品が、幾つか含まれているのである。
既に述べたように、実際には「他のジャンル」に属するようなものがある上、(「番号無し」にするなど、いくらでも「回避手段」もあっただろうに。チャイコフスキーですら、「危険」と思えば単に「マンフレッド交響曲」と呼ぶような「扱い」をしている)、それらも含めて彼の交響曲は「作品群全体」としても「納得の行く」カーヴを為しておらず(必ずしも「上昇カーヴ」である必要は無いが)、ベートーヴェンやマーラーの持つような、「全体像」としての圧倒的な「感銘力」に欠けているのである。(もっともこれはブルックナーなどにも「持ち合わせがある」かどうか、怪しいものだが。但し、慎重な創作態度もあって、彼の場合は「露骨な失敗作」とか「首を傾げるような代物」は一切作らなかった。ハイドンは別格としても、シューベルトやドヴォルザークのような人も結局一つも「スカ」を出さなかったし、全体数を絞ったブラームス、それからシューマン、メンデルスゾーンなども、結果的に「作品リスト」としては「成功」した。「より近い時代」では、シベリウス、ニールセン、ルーセル、オネゲル、さきのヴォーン・ウィリアムズなどがいる。文句の無い「成功」はシベリウスだろうが、他の作曲家にも「駄作」は一つも無く、「傑作」が複数以上含まれる。マルティヌーはここに名を出すべきかどうか、迷う。さらに重要な一人と思われるのは、この間まで採り上げていた、プロコフィエフである。)
さて、ショスタコービチの場合は、順風満帆のスタートであった「1番」の後、いきなり「第2」「第3」という「脱線」があるが(これらをブラインドで聴かされて「交響曲」と答える人はおるまい。どこを探しても「ソナタ形式」も何も見当たらないのである。どちらも実験的、野心的で奇妙な作品だが、「カンタータの変形」と見なすのが妥当だろうか)、後期にも「11番」「12番」という同様な「脱線」があり(これらはいずれも実質的には「交響詩」と見なす方がふさわしかろう。「番号無し」で、R.シュトラウスばりに「革命交響曲」とか「レーニン交響曲」とか呼んだ方が良かったろうと思われる。「11番」は解り易さ故か、最近ともかくも演奏されるようだが、似たような趣向の「12番」は、弁護しようの無い「駄作」の定評が付きつつある)、何故か「作品表」の上で対称を成している。(いずれも同じ題材=「ロシア革命」によっているのが面白いが。)
そして「4番」は発表せず手元で暖められ(そのためか、練り込まれ、最も充実した多彩さを持っている。この曲の「意味深長さ」は他の作品で見られる事があるような「たまたま生じたもの」では無い。)、例の「第5」では無比の成功を収め(とは言え、他の作品の評価が高まるにつれ、相対的に「疑問符」が付けられないでもないが)ようやく「軌道に乗り」、独創的な「6番」の後、「戦争三部作」が続く訳なのだが、近頃評価の高い「8番」を除いては幾分「内容空疎」でもあり、人気のある「7番」は、題材の論議はともかくとしても、書法も内容も「隙だらけ」な挙げ句の「巨大」さ、「9番」は考えた末の「シンフォニエッタ」と言う訳だが(それだけに無駄無く引き締まってはいるが)、実際に「それらしい」のは両端楽章のみであり、さらに冒頭楽章と後続楽章の間で、スタイル上のバランスを欠いている。(この曲は昔より、むしろ聴かれなくなった感もある。)
「謎解き」の格好の題材である「10番」も「過大評価」の気味無しとはしない。前半と後半では「内容の不一致」が感じられ、そもそも作曲家自身「全体のバランス」について不備を認めているが、何故かカラヤンがこの曲だけを採り上げて二度も録音するなど、欠点をも含めて、「最もショスタコービチらしい面」を持っていることは確かなようである。(面白い事に、カラヤンよりずっと多くショスタコービチを指揮したバーンスタインは、これを録音していない。「1、5、6、9、14番」というのが=知る限りでは=録音があるはずだが、重要と思われる「8番」や、この「10番」、題材に「ユダヤ人問題」の絡む「13番」は分からないでも無いが、最も「マーラーに近い」とも思われる「4番」を取り上げていない。)
この後で「11、12番」が続くのには、やはり「どうにも解せない」面もあるが、最後の三曲の傑作はその疑問を補ってあまりあろう。(最後の「15番」に疑問を感じる向きもあろうが。)もっとも、これらのどれも「異形」であることは否めないのだが。(「13番」「14番」にせよ、それぞれ「カンタータ」、「歌曲集」的であるが、こちらの方は「交響曲」の呼称に違和感は少ない。いずれにせよ「マーラー無しには考えられない」作品だが、同時に「大地の歌」が「番号無し」であることも思い出させる。マーラーは次回作が「第9」の番号に該当していなかったとしたら、果たしてこれに「番号」を付けただろうか?)
こうして見ると、やはり「結構な内容」の「作品表」ではあるが、特に「2、3番」に「番号を付けた失策」は致命的であろう。内容的にも音楽的にも決して「価値が低い」というのでは無いにせよ、これらは作曲者の「自己満足」の度合いが高く、演奏者も聴き手も「報われない」曲である。こうしたものと「誰が見ても交響曲」というものを「並列化すること」自体が疑問を感じさせる。
また、「有名曲」でも、例えば「7番」を「傑作」呼ばわりするのには、バルトークで無くとも「願い下げ」という人も多かろうし、曲自体、「長い」といっても、マーラーのようには数多の聴衆を長時間引きつけてはいられない。
要するに、これらの「山」はいびつで、「高低差」があり(「面積」はともかくとしても)、「標高」も「最高峰」の類には、どれも足らないのである。(おそらく質的に「最も近い」のは「14番」、それから「13番」だろうが、しかし前述通りの「外見」を持っている点がやや「引っ掛かる」。)
もう一つの彼の「柱」である弦楽四重奏にしても同様で(もっともこれらは交響曲で言えば「5番」の後から書き始められており、彼の創作の「全期」を満たしている訳では無い。)、同じ「十五曲」といっても「全ての調性を網羅する」意図をもっていたせいか「書き急いだ」節もあり、さらに「薄い」面がある。(そのためには二十四曲書かねばならない。いくら速筆と言っても、難儀な数であろう。)
そのためか、内容も交響曲などの「二番煎じ」のようなものもあり、アイディアの「再利用」が多く見受けられる。(これに「ピアノ・ソナタ」群でも加われば、まるで「ベートーヴェン並み」であるが、「ピアノの名手」としても馴らした割にはピアノ曲自体は少なく、ソナタも協奏曲も二曲で、「フル・サイズ」と言えるのはソナタの二番目のものだけであって、「大作」としてはバッハに倣って書いた、例のグロテスクな「24の前奏曲とフーガ」位しか無い。)
しかしながら、ベートーヴェンに次ぐ「数」のためか、このジャンルの「古典派」以外の絶対的レパートリー不足のためもあってか、最近は重宝がられているようである。(しかし、とうの昔に「地位を獲得」しているバルトークの「六曲」の方が、将来に渡って「コア」であることは不変であろう。)
これらの作品は実に「繰り返しの羅列」ではあるが、晩年の非常に個人的な、精神的な内容となっており、そこに後のシュニトケあたりへとも引き継がれる「世界」が見え隠れしているのも確かで、独自の価値は認められよう。
(しかし、これとて他にもある室内楽作品との「内容的な重なり」が気になる所で、「同じ音楽を何度も聴かされる感じ」は、否めない。「類似性」を指摘する人も居るが、ベートーヴェン晩年の深みと広がりには程遠い。ここに強く感じられるのは絶望的な、「病的な状態」であるが、そのようなものが音楽として「記録されている」こと自体は、むしろ「奇跡」であるかも知れぬ。)
これらのショスタコービチの興味深い作品の中では、やはり馴染み深い「交響曲」について考えて見ようと思う。それこそ、「いつもの」、「お定まり」のコースではあるが。(以降、次回。)

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2007年01月27日

音楽の「言語性」とは?(96)

「大作曲家」という言葉は、さしたる根拠も無く「何となく使われがち」であるが、その概念は実に曖昧であって、結局は「主観的なもの」でしかなく余り意味は無い。(誰であれ、自他問わず、そのように「称する」ことは勝手である。)
これを「大作曲家の名にふさわしいか」という具合にでも相対化すると意見は自ずと収斂もされようが、明確に答えが出るものでもあるまい。(結局は「お遊び」であろうが、しかし確かに作曲家の「ランク」は厳然として存在する。)
いわゆる「3大B」とかいうのもブラームス支持者の弁であって、バッハ、ベートーヴェンには誰しも異論は無かろうが、いかなブラームスでも果たしてこの二人と「同等」か、というとそうではあるまい。(勿論「そうではない」ことは本人が一番「良く知っていた」はずである。)これを彼の代わりに「ビートルズ」とするジョークもあるが、ブラームスならばブルックナーの方が、とか、もっと近い所でベルク、ドイツ系以外も入れるとなると、英国人ならブリテンを出すだろうし(フランス人はベルリオーズについて「フランスの栄光に価するかどうか」判断しかねているらしい。ビゼーでも持ち出すつもりか。それともブーレーズ ?そうでもあるまい。)、イタリア人ならベッリーニと言うだろうか。
しかし、「本命」は、やはりバルトークかも知れない。
では「M」なら?まずモーツァルト、そして間違いなくマーラー。メンデルスゾーンは「やや違う」かも知れぬ。ムソルグスキー?マイヤベーア、マスネーは冗談だろう。そう、メシアンがいるが。
「S」は?たくさんいる。シューベルト、シューマンは筆頭だろう。次は?シュトラウス?(一体どのシュトラウス?)シェーンベルク?確かに偉大だが。サン=サーンス?ショーソン、サティ?それは違う。スカルラッティ?(どっちの?)スメタナ?シベリウスなら「近い」かも知れない。スクリャービン?そうだ、ストラヴィンスキーだ! 
何?ショスタコービチだ!?勘弁してくれ、そいつだけは困る。
昨年は「アニヴァーサリー」とかで、やたらとショスタコービチの音楽を耳にすることが多かった。
この作曲家は確かに昔からずっと私の興味を惹いては来たし、どちらかと言えば彼の音楽を好んでもいるが、作品群を概観した印象は結局二重の意味で「いつも同じ」であって、今回も(何度も!)それを「再確認」する破目になった。
確かに「傑作」と呼んでもいい作品もあるにせよ、感銘を受けるものも無いではないにせよ、実に、実にしばしば「雑な仕上げと書き方」「余剰な部分」が目だち(但し、初期の作品には、丁寧に、念入りに書かれているものもある。じっくり「推敲する」とか長年に渡って「暖める」とかいうのは「特殊事例」と言える)、「同じ内容の音楽」が、ジャンル問わず現われて「自己模倣」を際限なく繰り返し、晩年に向かっての「深化」はあるにせよ、それらの「反復」の要素も一層、増えていく。
彼の「傑作」は、何かの風向き加減で「そうなっている」に過ぎず(それを「成るべくして成る」とも言うが。)、「連発」することは余り無く、従って「駄作」も少なからずある。(但し、露骨に「外している」時は、「狙ってそうしている」のかどうか判別し難いことがある。)
いずれにせよ、これらの「結果」を当時の「体制の影響」と関連付け過ぎるのは間違いで、「そのような用途の作品」で無くとも駄作は同様に見受けられる。(また、「そのような用途の作品」でも傑作が「不可能」なものかどうかは、プロコフィエフを見れば解る。)
彼の作曲へのアプローチは、その「作品の印象」とは違って実に明快で、演奏フォーマットがオーケストラとか、それにヴァイオリンとかチェロが加わるものとか、まずそれを決め(これらを「交響曲」とか「協奏曲」とか言う訳だが)、楽章数、その構成と順序などを決めるのだが(だからいつも楽章数が変動する)、それぞれの音楽のキャラクターは幾つかのパターンの中から「ほぼ固定」なのである。以前の作品で「第2楽章」だった音楽が今度は「第4楽章」だったりするが、そこでは「ほぼ同じ事」が行われている。そしてもっと細部だと、それは実にたくさん見つかるのである。
彼は、作品の「外形」を決定すれば、その新作はまずそれで「差異化」されたことになり、極端な話、彼は「同じ音楽」を、またそこに「作曲する」のだが、「容れ物」と「時間の経過」という「違い」のために、微妙な差が生まれ、「違った結果」となる、いう風にも見えるのである。
それは何か、「内側」の要請というより、「決められた器」に「嵌め込んでいく」ような作業であって、彼特有の、余り類例の無いもののように思える。
彼はこの「器」に、ものすごいスピードで作曲していくのだが、本人も「欠点」と認めていたその「速筆」は、作品の「内なる」コンセプトとか、作曲家の「こうしたい」とかいう意思をも飛び越えて「暴走」し、程度の差はあるにせよ、どうも「あるべき姿」とはいつも異なった「結果」をもたらしているように思えるのである。
確かに、彼には「表現すべきこと」はあるのだが、それを「そのように」、「思ったようには」実現していないのではないか。
この「本当はそうじゃないだろう」というのがショスタコービチの「印象」であって、これがまた彼の「個性」とか「持ち味」とも言えなくも無いが、それにしても、どう弁護しても「練り込まれている」とは言えない素材、構成、「無駄な」、或いは「意味の解らない」音符、「いつもの」、「前にも聴いた」フレーズ、明らかに「ピアノで作曲している」ことが透けて見える書き方(例えばピアノの左手の無造作な和音と、右手での「適当」そのもののような「引き延ばし」のパッセージなど。これは誰にでも分かるはずである。)、「速筆」の欠点が前面に出てしまっている。
おそらく彼自身、そんなことは「百も承知」なのだろうが、彼はプロコフィエフのように「改作」したりしなかったし(「事情によって」オペラを書き換えたりはしているが。)、そもそも作曲するにあたって「推敲」していたとは思えない。まるで「なぐり書き」のような印象を受ける事すらある。締め切りに間に合わせなければならない、安っぽいオペラの作曲家のように。(前回までのプロコフィエフと違って、作品の細部に潜り込んでも「面白い」ということは少ない。「何故こうしたのか」が解る、とかいうのではなく、以前どこかで見たものが「そこにも嵌められている」のを発見して、まるで「出来の悪い替え歌」を何パターンも見せられた気分になり、うんざりすることがある。)
結果として、数こそ多いが、無駄を抱え込んだ作品は当然、長くなる傾向にあり、「短い場合」は楽章が少なかったり、何かがごっそり「省略されている」のである。また、「短い」からといっても、「密度」が上げられている訳でも無い事が多い。
彼には「完成度」というものが決定的に欠けているのである。(無論「完全に」では無いが。)
「速筆」は欠点では無いし(「速筆」「多作」の「代表例」であるモーツァルトやシューベルトを見れば良い。逆に、ブルックナーのように、熟慮しながら「同じような事をする」タイプもいるが。しかし彼も晩年には「何かが変わって」来ていた。)、「完成度が足りない」ことも必ずしも「欠点」では無い。
しかし、ここでは明らかにそれらが作品の中の「何かを損ねて」おり、それを「補うもの」も不足しているのである。
或いは「補うべきもの」が「奪い去られている」のである。
彼が、そのような事に「無自覚」であったはずも無く(さきの「欠点」への言及や、自作についての「このようになってしまった」という表現は、この事を裏付ける。)、むしろ「そのようにしか」作曲出来なかった、と考えるべきだが、それは、晩年にいたるまで永く続いた病の影響や、「体制」との関係などが「精神的に与えた」ものが根深く彼の中に巣喰っていて、どうしても「自動筆記」のように、「そのような結果」になってしまうからだ、という感じがする。
彼の相当量の「不備な」作品群は、むしろ、その「未整理」や「矛盾」、強迫的な「自己模倣」が、「好意的聴取者」にとっての「謎解き」の材料を提供しているが、果たして本当に「それがある」のかは、かなり疑わしい。
「体制側」を出し抜いて「別の意味」や「隠された意味」を、作品にパズルのように巧い具合に「収める」ほどには彼の書法は緻密では無いし、またそこに「記号性」を求めるにも、それはいささか貧相である。ショスタコービチは「バッハでは無い」のである。(彼の「親しい周辺者」には解るようなレヴェルでは色々なものが「存在する」のかも知れないが。「内輪では通じる冗談」のように。しかし、それを「交響曲」のようなものに紛れ込ませる事自体「異常」であって、それは「逸脱行為」である。)
良く言われる「引用」の問題にしても、いつもの調子で書き飛ばして「同じ音符」が紛れ込む確率、「どこかで聴いた通俗歌」の旋律を書いてしまう確率、他の作曲家の音楽を「もじってしまう」確率(交響曲第15番のような例は「完全に意識的なもの」だろうが)などが「混じってしまった結果」かも知れず、本人が意図しない所に「意味」を見ようとしている可能性も高い。(繰り返すが、彼の作曲法は「そのような危険性が高い」のである。また、このような「方法」を使えば「能率的に」作品を仕上げることが出来る、と見る事も可能ではあるが。)
こうして出来た彼の作品は、芸術的な「永続性」と結びつけられるよりは、その都度ごとの「時代性」と親しいものであり、それは彼の作曲の仕方がある意味では「必然的に導きだした」ものである。
確かに彼の音楽には外的な「説明」が必要なものが多く、そうでもなければ「訳が分からない」ものが少なく無い。(これが余計「深読み」を誘うのであろう。)
これは「欠点」自体が「特色」であり、それが「価値」でもある音楽であって、むしろその点において「普遍性」を得ている、希有な例と言うべきである。(そのため、この作者は「モニュメンタル」であろうとすると殆ど例外無く「失敗」するのである。逆に、個人的色彩が強くなる晩年の作の方は「聴かれているかどうか自体を気にしない」音楽になっている。)
彼の作品は、どれも見掛け上では「伝統的な」外枠を持っているが、実質的にはもうそれらは「解体」されており、「そうである」必然性に欠けている。
それが最も現れているのが彼の「顔」でもある「交響曲」だが、そこには、実際には「その名にふさわしい」訳でも無いものが含まれ、「そのように見える」ものも実際には「そうでは無い」ものが少なく無い。彼は本当に「シンフォニスト」なのか?
だとしても、もうそれは「伝統的な」「正統的な」ものでは既にない。(以降、次回。)
ラベル:音楽
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2007年01月20日

音楽の「言語性」とは?(95)

プロコフィエフの交響曲について考えて来たが、最後の「第7」もフィナーレの第4楽章となった。
快活なロンドとして始まるこの楽章が、冒頭楽章の音楽の回帰によって名残惜しげに閉じられることに「最後」であることの感慨を得る向きもあろうが、「終わり方」は、しかし二種類残されており、減衰してピッツィカートで終わるヴァージョンと、初演の指揮者のリクエストによる、ロンド主題の復帰によるフォルテで閉じられるヴァージョンが存在する。(これは指揮者への友情から来た「サーヴィス」だったのであろう。)
後者はR.シュトラウスの「ばらの騎士」の幕切れのようなものを思い起こさせるが、作曲者はこれを気に入らず、当初の「静かに終わる」ものに戻すことを望んだ。しかし、不思議な事に現在においても、どちらのヴァージョンでも演奏され(作曲者の希望通りの方が多いようではあるが)、この曲の「評価」が未だ定まらないのとリンクしている現象となっているようでもある。
これはフィナーレのみならず「曲全体の印象」を決定的に変えてしまう可能性があるのだが、文字通りの「取って付けた」ヴァージョンを好む指揮者も存在するのは(メンデルスゾーンの「第3」で作曲者が気に病んでいた、本人による「取って付けた」ようなフィナーレのコーダを、クレンペラーが意味、内容共に「完全に整合性のあるもの」を「作曲」し、すげ替えて演奏した、というような「希有な例」もあるが。)、「音楽自体を検討した結果」、というよりは、「演奏効果」とか「演劇的意味」を求める心理によるものと思われる。
これはバルトークの「管弦楽のための協奏曲」に同じ動機で加えられた新しいコーダ(周知の通り、通常は「文句無し」に、こちらが演奏される)よりも明らかに「効果的」では無い上、「同一線上に在る」ものでも無く、そもそも作曲者がこの提案に「気乗りしなかった」であろうことは付けられた音楽そのものが「明瞭に示している」ようにも思われるのだが。(明らかに他のページよりも密度と緊張を欠いており、「早く終わらせたい」のが、ありありと解る。)
これが「曲全体の印象」に影響するのは、無論、「・・でしたとさ。」と最後の最後で「やってしまう」事で「目出たし」とする結果になる(これでは「意味」すら消し飛びかねない)ためであるが、そのような解釈は、「交響曲」としては無論「有り得ない事」であって、前述通り、これを採用する演奏者は、これをオペラか劇音楽と混同しているのであろう。
いきなり変ニ長調の増四度のg音をユニゾンで強奏する序奏は言語的な効果を持つが(変イ長調の第3楽章からは「自然な繋がり方」であるが、コンテクストが決定的に異なるために、雰囲気は繋がらない。)、下降音階的進行等において冒頭楽章の第一主題と繋がりを持つ。意表を突いた、短調への転調による短三度順次進行の機械的な「つなぎ」を経て、陽気なギャロップ風の第一主題が現れるが、分散和音の上昇に始まる、ほぼディアトニックなこの旋律は「第5」「第6」のロンド主題よりも一層「引っ掛かり」の少ない、「軽い」もので、「当然の結果」として選ばれた「変ニ長調」という調性にも、どうも「適合していない」のであるが、無論「仕掛け」はあるのであって、「真打ち」は、後にこの調性で再現する第1楽章第二主題なのである。
「いつもの」半音階的転調を経た副次部の付点リズムによる部分は、第1楽章第一主題から派生したものであるが、半音階が導入され、主題の最初の角張ったリズムとも対比され、はっきりと性格付けされているが、作曲者は後続の主題群で両方の要素を交互に取り入れながら利用している。
第二主題は八分音符による同音連打と短二度音程、不規則な小節構成の組み合わせで、いかにもプロコフィエフ的なものであるが、リズムは第一主題部の前半部分に由来し、逆の順番で回帰する第一主題部(前半部分は反行形が用いられる)を経て現れる第三主題も第1楽章第一主題に由来するが、六度下降の表情性と回音的動きと半音階、十六分音符の多用によって、陰影を与えられている。(これが後で第1楽章第二主題と「接続」するのは当然の扱いであろう。)
ここで突然テンポが落ち、間奏的な部分が置かれるが、モティーフ的には第一、第三主題の冒頭部、第一主題副次部の付点リズムから作られ、エピソードとは言え、主部との繋がりが明白である所が、これが「展開部の代わり」でもある事を示している。
同時に、第2楽章では必ずしも充分では無かった「スケルツォ的要素」を補う役割も果たしているが、このために続くロンドの再現が、より「派手にされた」楽器法共々、一層「陽気に響く」ことになる。(この部分のコミカルな「スローモーション的効果」はバレエ音楽的でもあるが、むしろ「映画的発想」に拠るものとも考えられ、彼がエイゼンシュテインと共に、有名な「アレクサンドル・ネフスキー」などで一緒に仕事をしたことを思い出させる。)
ともあれ、後は「大団円」に近づくだけで良く、取り立てて変わった事はする必要も無く、実際そのように処理され、ロンド部は楽章の残り三分の一以上の時間を残して「打ち上げ」となる。
そしていよいよ、第1楽章では比較的「抑えられていた」第1楽章第二主題部が変ニ長調で再帰し、充分に拡大される。これは「フィナーレ」に限って言えばいささか「無理な扱い」のように思えるが、無論「交響曲全体」として「何を目指していたか」を明示するためのものである。
この循環は交響曲を印象深く閉じる事になるが(「後付け」のコーダは論外である)、第1楽章第二主題が「全てを言い切らない」まま副次部へと移り(副次部の「時計のようなリズム」の予告が挟まれる)、第1楽章では重要に思われなかった例の「ドドソミド」という音形が、今度は主音上で(何故か今度は=聴覚上は解らないが=変ニ長調から嬰ハ長調に移されている)ロンド主題冒頭との関連を匂わせながらオスティナートとして繰り返され、ロンド主題に由来する分散和音モティーフ、第1楽章第二主題から派生した金管のコラール、短調に傾斜しつつ、第1楽章第一主題から派生したトランペットの旋律が回顧的に現れ、合唱曲かオペラの幕切れを思わせながら、最後には嬰ハ長調の溜息のような和音とピッツィカートによって全曲を閉じる。(この終わりの部分はマーラーの「第6」を想起させる。)
この「終結」部が当初から計画されていたものなのか、「最後」であることを意識して「補足」されたものなのか、或いは「その両方」なのか解らないが、どうしても此処に、押し殺したような「告別の響きを聴く」事の誘惑は抑え難い。
確実に解っているのは、これが「青年向けの」「軽めの作品」では無いらしい、という事であって、
実際には両義性に満ちた音楽が「謎」のように残されているのだが、それらは曲の「外見」に惑わされたまま、「未解読」なのである。(以降、次回。)

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2007年01月13日

音楽の「言語性」とは?(94)

プロコフィエフの「交響曲第7番」を、何の予備知識も無しに突然聴かされて「作曲年代を言い当てる」ことの出来る人はおそらく稀だろうが、中でも第3楽章は最もその判断が難しい部分であろう。
作曲者は、ここでは平均台の上を歩くように、慎重に彼本来の「味」を表立たないように抑えながら、優しげに、簡潔に音楽を進めていくのだが、結果として、それはチャイコフスキーなどよりは、まるでシューマン(或いはブラームス)に近いような、間奏曲風の楽章となっている。
いきなり第一主題から入るが(これを「誰の作品か知っていて」聴く時には、この出だしに唖然とする者も居るかも知れない。)、完全にディアトニックなそれは、四小節目に音価を二倍にされることで主題全体が五小節に引き延ばされてはいるものの、それは感情的な効果のためであり、素朴な「歌」であることには変わりがない。続く主題第二部分の「シドシラ」という音形の繰り返しが直接的に示しているように、これが冒頭楽章の第一主題に由来するのは明らかだが、リズムや表情については例の第二主題に近い。
冒頭楽章にはあった「いつもの流儀の」半音の「ずらし」による転調も避けられ、安定した変イ長調が、実に第二主題どころかトリオ部までも続き、まるで「何も特別なことが起こらない」ことが目的であるかのように進む。第二主題は同音反復と音階下降の組み合わせで作られ、トリオにおける、バレエ音楽を思わせるようなオーボエの主題は、第二主題から連続的に生み出されたものである。
これは繰り返しの際、リズムと楽器法(弦のコル・レーニョ、シロフォンを伴うが、それはマーラーなどのような「死の響きに繋がるもの」として用いられているのではなく、むしろ「玩具のようなもの」としてピアノ、ハープと共にリズムを刻むので、グロテスクさは感じられない。)によって活気を与えられるが、彼の「子供向け」の作品を思い出させられる。
このような部分が、この音楽の「新しさ」を幾らか感じさせるとは言え、まるで「模作」かパロディーとも受け取られかねないような度を超した「素朴さ」を装っている音楽は、しかし実際には見掛けからは想像出来ないような「慎重さ」で作られており、薄くデリケートな、細心の注意を払った楽器法がそれを裏付けている。(この楽章での響きはラヴェルの「マ・メール・ロワ」の管弦楽版を思わせるものがあるが、音楽の性質自体も符合している。)
主部の回帰では、これまでの「埋め合わせ」をするように転調が行われる。
ホ長調で第一主題、ハ長調で第二主題、変ニ長調でもう一度第一主題が現れるが、提示部での弦と木管主体の「地味な」楽器法と異なり、ホルン、トランペット、ハープとピアノのアルペジオと弦の高音トレモロの組み合わせなどが精妙な扱いで現れ、これがプロコフィエフの作品であることを思い出させる。
それらは、まるで「段々空気の薄い所へ昇っていく」プロセスであるように響くのだが、音楽は全く無駄や蛇足のない進行を経て、冒頭楽章第一主題同様の五度下降を最後に、僅か六分足らずで閉じられてしまう。
「極僅かの事」を「言葉を選んで大事に書き留めるように」書かれたために、緩徐楽章とはいえ短時間しか要していないのであるが、またその「短さ」自体もその「目的」として象徴的に選ばれているのである。(第2楽章が「成立事情」もあってか、スケルツォの役割ながら「長い」ものであったということから来る「バランス」の問題もあるが。短いが、しかし「貴重な時間」を作り出す宝石のような緩徐楽章は、確かにシューマンの作品にその例を多く見いだすことが出来るが、プロコフィエフも、それを想起したかも知れない。この楽章は、この交響曲で彼が最も「苦労した部分」かも知れないのだが。=前述通り、彼は「簡単に書く」ことに困難を感じていた。)
即ち、「長くは続かない」ということが、ロマン派的な「夢の時間」の再現と組み合わせられることで、作曲者は、実際には音としては聴かれない「何か」を仄めかしているのである。
この「夢の時間」には「痛み」が伴っており、それはプロコフィエフが自分の「毒」を「慎重に避けながら」作曲した姿勢から直接生じたものでもある。
病気のために「一日に一時間しか作曲出来ない」彼は何を目指し、何をしなければならぬか良く知っており、この「結果」には一音符たりとも「気まぐれ」や「鼻歌」のようなものは無く、また「甘たるい」ような部分も実際には無いのであるが、残念ながらこれは未だに「誤解」を生んでおり、「正しく演奏されること」は、結局、余り無いようである。(以降、次回。)
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2007年01月06日

音楽の「言語性」とは?(93)

プロコフィエフ「交響曲第7番」の第2楽章には大規模なワルツ風の音楽が据えられているが、これは、この交響曲の中で最も「パロディカルなもの」として受け取られる可能性のある楽章である。
明らかに「ワルツ」の曲調ではあるが、スケルツォ的な要素も混ぜ込んであるのだが、案外と見通しの悪い構成、断続的な展開などから判断して、これがマーラー「第5」や「第7」、「第9」の相当する楽章とか、ラヴェルの「ラ・ヴァルス」とかいった音楽に見られる「本来の姿」からの「距離を意識した」、「失われたものを奏でる」といった類の「仮構的」な、複雑な、屈折した性格のものと同一視するべきではない。
ここでの「スケルツァンドな」要素とか、「パロディー」に見えるような要素とかいうものは、もっぱら「自分自身」に向けられており、云わば「道化て踊る」ようなものになっていて、「外からの眼」は持たない、一元的な、「同根から発している」ものなのである。
この楽章が他の楽章に先んじて、二年あまり前に書かれたものの「転用」であり、しかもその作曲時点では当然「交響曲」となるかどうかはおそらく想定されていなかっただろう、という事情は無視出来ないし、事実、詳細に見ていくと、この第2楽章だけが幾らか「違う」面があるのも確かだが、そのような「例」は他に幾らでもある、というだけでなく(例えばベートーヴェン「クロイツェル・ソナタ」のフィナーレの第6ヴァイオリン・ソナタからの「転用」の「ハマリ具合」とか、マーラー「第2」の紆余曲折と言っていい「成立史」と、見事と言うほか無い「最終結果」との想像し難いギャップを考えてみると良い。)、最終的にここに「組み入れる」に至った作曲家の判断とその際の交響曲全体とのバランスの取り方を考えると、この「措置」が「浮いている」ようなものではなく、「第2楽章」という位置共々、見事に「ピースがはまった」ものであるのも認めねばなるまい。
「交響曲」にする時点で、プロコフィエフがどれだけこれに手を加えたかは不明だが、基本的な流れに短いエピソードやごく短い音形が挿入されて進んでいく形であるのは(多くは「旋律的」というよりは「リズム的」な反復モティーフである)、明らかに「バレエ音楽的発想」から来ていると思われるが、それがどうも「そっくり残っている」印象で、おそらくは殆ど「そのまま使った」のではないかと思われる。しかし、第1楽章もソナタ形式とはいえ並列的な展開だったため、この「すっきりと流れない」ワルツの進行はむしろ妥当であり、次の第3楽章で「シューマン的」とも言いたくなるようなシンプルな「歌」が続くこと(しかも長くない)を思えば、むしろ作曲者は、これを使うことを当初から「構想に入れていた」と考える方が自然であろう。
となると、外見と内容から察せられるよりもこの楽章は重要性が高く、むしろ交響曲全体の「呼び水」となったとも思われ、事実、主題的な連関を見ていくと、最初のテンポを落とした「序奏」とも取れる第1ワルツの主題(再現では、より速いテンポで奏される)、「主部」と言える第2ワルツ、続く第3ワルツの主題(このような構造からも解る通り、「下敷き」となっているのはウィンナ・ワルツ、シュトラウス一族のそれのような「フル・サイズ」のものである)いずれも、三度音程の順次上昇、もしくは下降などの組み合わせに四度音程を中心に組み合わせたもので、これを各楽章の主要主題と比較すれば、まさしく「同根」であることは確実である。この安定した音程の使用が、この交響曲全体の情調を形成するのに大きい役割を果たしていることが解る。
プロコフィエフは、この交響曲の構想を固める時点で、既に出来上がっていたワルツのことを思い出し、そこから「全体を組み立てた」と考える方が(このワルツは「独立した作品」とするにはいささか弱い部分があるが、「何かの一部」としてなら有効に機能するであろうことは確実である。「バレエ音楽」としては、どうも「ロシア的でない」この曲は「然るべき場面」を必要とするが、しかし「交響曲」なら「無理無く使える!」のである)、後から「ぴったり当て嵌まる」旧作を思いついた、というよりも自然であるが、実際の所どうだったであろうか。楽章の前後関係や調配置なども、明らかに前者の可能性を示しているが。(交響曲の主調は「嬰ハ短調」とは言え、前述通り、これが「ヘ長調」であることの配慮は交響曲の随所に見られる。)
ともあれ、このワルツは殊更「特別であろうとする素振り」を持たず、さりげなく始まり、陽気に終わる。
ゆったりと懐かしげに始まる最初の主題はいかにもチャイコフスキーを思い出させるが、幾分シンメトリー気味の応答の後は「脱線」し、優美な表情は増四度による順次下降のシークエンス等によって保古にされ、道化じみてくるのだが、これとて長続きせず、勿体ぶった後で、また「別のワルツ」が始まる、といった具合に(但し、リズムによる区別が為されてはいるものの、主題的には対照を為しておらず、楽想的には「連続」している。続く動機群も同様で、前述通り三度音程の順次進行と四度音程を基本に進む)、しかしそれも様々なモーション(バレエ的な動きに由来する)が挟まれるために、「ワルツとして踊れる」代物としては進行しない。
第3ワルツはヴェルディの「乾杯の歌」の裏返しのように響くが、一向に威勢は上がらず、第1ワルツがまた戻ってくる。再現部は音色的にも変えられ、より「明るいもの」となるように配慮されてはいるが、いずれにせよ一つの表情が長続きすることは無く、絶えず別の要素が立ち現れては消え、三つの主題も「順番」と「対照」があるだけで、結局どれが「主体」であるのかは曖昧なままである。
このようなニュアンスに富んだ進行を陽気なコーダが「呑み込んでゆく」のだが、それは悪意のあるようなものでは勿論無く、「まあ、いいではないか」というような力づくではあるが楽天的な結尾でもって、この出鱈目なワルツを締めくくっているのである。
この交響曲の「青春」とかいう「副題」は、このワルツの作曲当初からあったのでは無かろうが、確かにこのような「性質」にも合致していることは確かで、作品の「意味」を作曲した後で「発見した」とでもいうことになるのでもあろう。
このような現象は作曲家にとって格別「珍しい事」では無く(例に挙げたベートーヴェンやマーラーのように、その音楽の「ふさわしい場所」について当初「見えていなかった」ケースもある)、つまりは最終的に「その場所」に行き着くか、即ち、その存在を「察知」し、「実現出来るか否か」が、作曲家にとって重要な「資質」なのである。
シューベルトなどは「察知」した結果、逆に未完の作を多く残すことになったが、ベートーヴェンは困難を排して「実現すること」に常に尽力した。それが「クロイツェル・ソナタ」の場合には「別のフィナーレ」となり、新たな名作を物する結果へと至ったのである。
このような作曲態度は無論、ベートーヴェンの音楽の本質へと深く関連しており、彼の作品の「空前絶後」と言っても良い「生存率」にも繋がっているのである。
それを良く知っていたマーラーも同様であり、ワーグナーは台本までをもコントロールした。
(ブラームスは自分を「卑小視する」ことで対処したが、その「知恵」と「完全な技術」が多くの作品を「満足すべきもの」とした一方で、往々にして幾つかの「真実性」を、そこから逃れ出させてしまう面があった。)
ここでのプロコフィエフは格別「多くのことを成し遂げている」訳では無いが(彼の「探し当てる能力」は、ロシアの作曲家には珍しく発達しており、彼の「改訂癖」もこれに起因していると見ても良い。もう一人、ロシアで挙げるとすると、ストラヴィンスキーしかいるまい。)
、確かに彼も「そのような人に属する」ことの立証には充分ではあろう。(以降、次回。)
ラベル:音楽
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2006年12月30日

音楽の「言語性」とは?(92)

プロコフィエフ最後の交響曲であり、彼の手で完成された最後の作品ともなる「交響曲第7番」は、発表当時から受け入れられ、演奏され続けており、彼の作品の中でも最も良く知られたものに属してはいるが、それにも関わらず、絶えず「疑問」に晒されて来た。
即ち、その音楽の「価値」についての「認否」が最初から論議され、現在に至っても「真に解決」してはいないのである。
誰もが認める点は、この作品が「回顧的な内容のもの」である、ということであろうが、1952年という時点での「現代性」にアクチュアリティを求める向きにはどうにも「喰い足らない」面がある一方、その性質がこの作品を「口あたりの良い」、極めて「受け入れやすい」ものとしている。
「回顧的」とは言っても、これはR.シュトラウスばりに「自身の音楽を振り返る」のではなく(周知の通り、彼はかつて極めて「現代的な」、刺激的なスタイルを持っていた)、何か「過去の音楽へのオマージュ」として、「そのようなもの」として「本気で書かれて」おり、「第1」である「古典交響曲」のような「演じる態度」、もしくは「皮肉めいた意図」を全く欠いている点が問題の種なのである。
しかも、これは「古典交響曲」が対象としていたハイドンなどよりも後の「ロマン派」を思わせるようなものであり、「プロコフィエフらしさ」に欠けている訳ではないとは言え、「いつもの」シニカルさや鋭さが、この「接近」のために著しくスポイルされ、また明らかに「パロディー」であることや、それを表明する意思は始めから「放棄」されているのである。
この作品は「青春」という副題を付けて呼ばれることがあるが、作曲のきっかけとしてラジオの児童用番組のために何か「軽い交響曲」を、というオファーがあり(実現しなかったようだが)、それが変化して「青年のための交響曲」となり(彼の妻は「若者と彼自身の青春についての」もの、というコメントを残している)、最終的に「交響曲第7番」となったということであって、これが音楽の「内容」にかなり影響していることも明らかである。
実際、同じようなきっかけで作られた有名な「ピーターと狼」と比べると、これが近似したスタンスで作られていることは明らかで、特に「解り易さ」に配慮して書かれていることは確実である。(彼自身は「複雑に書く方が自分にとっては簡単であるが、単純に書く事が望まれているのだ」という趣旨の発言をしたことがあったはずである。)
但し、これは「交響曲」であって、何らの「筋書き」も「注釈」も加えられないという点で異なる一方、当然、意図的に「複雑さ」を回避し、並列的な構成や映像的イメージが優先されているために「それらしい」緊密さを欠いていることも確かで、しばしば作曲者の「衰え」を指摘される要因ともなっている。(実際、プロコフィエフは晩年を常に最悪の体調で過ごしており、一日に僅かの時間しか作曲の時間に充てる事が出来なかった)
この曲が「内容空疎」「懐古趣味」である、という意見は発表当時、西側でとかく言われたようであるが、それは当時の西側では、まさに「前衛」全盛の時代であり、このような音楽は何かの「通俗作品」か趣味の悪い「悪ふざけ」のようにしか考えられなかっただろうことは差し引いて考えるべきであり、擁護する当時のソヴィエトの作曲家達との「論争」共々、白紙化して再評価すべきであろう。
いずれにせよ=曲の人気にも関わらず=この曲の「定評」は未だ宙に浮いたままであるが、似たようなことを言われたこともあるベートーヴェンの「弦楽四重奏曲第16番」と違い、ここには何ら「謎めいた点」も無ければ「深淵を垣間見せる」ような瞬間も無いにせよ、「晩年」にふさわしい独特の「透明な軽さ」に満たされており、的確で無駄の無い書法と相まって、ある一つの「到達点」を示している、と認めても良いようには思われる。
四楽章から成る曲は嬰ハ短調で始まり、ヘ長調(!)、変イ長調、変二長調(嬰ハ長調)で閉じられるが、「暗から明へ」といった図式では元より無く、第4楽章コーダで第1楽章第二主題部が振り返られることもあり、むしろ全体的には「均質性」が目立つ。(嬰ハ短調といっても、ベートーヴェンの「弦楽四重奏曲第14番」やシューベルトの「ピアノ・ソナタ第21番」の第2楽章、ブルックナー「交響曲第7番」第2楽章、マーラー「交響曲第5番」第1楽章のような悲劇性は無く、同じベートーヴェンでも「月光ソナタ」第1楽章のような模糊とした雰囲気に近い。また、曲自体、全体を通して「長調の響き」が圧倒的に多い。)
冒頭楽章の開始は非常にシンプルで印象的だが、その構成も同様である。(十分弱かかる演奏時間は複雑さのためではなくミディアム・テンポゆえである)短三度進行と分散和音を核にした第一主題は「第6」第1楽章の第二主題などと同根であるが、リズムの構造共々、はるかにすっきりとしており、短調とは言え「重い」印象を与えない。
この主題は変奏や発展というよりも少しずつ変化しながら繰り返される事でその領域を確保しているが、その主題の「材料」や続いて現れる十六分音符による音階的パッセージの繰り返し共々、チャイコフスキーの最後の第6交響曲「悲愴」の第1楽章を思わせる。これはおそらく意識的な「類似」ではないかと思われるが、第二主題に遥かに浸透力の強い旋律を据えるあたりも共通している。(プロコフィエフでは、これは「第5」からの特徴であるが、この位置に一種「完結した旋律」を置くのはシューベルトあたりから始まっていると言えよう。このために楽章の規模はより大きくなり、構造的にもいきおい複雑、長大なものとなるが、このスタイルの完成された「最終形態」は、やはりマーラーの作品の中に見る事が出来よう。)
この印象的な第二主題は、前述通り「第6」の時同様、全曲の終わり近くで「再利用」されるのだが、あの場合と違って「流れを変えてしまう」のではなく「第7」全体の印象を決定付けるものとして、「総括」として回想される。(この有名な旋律に与えられている情調は、映画音楽などで盛んに「コピー」されたために、非常に「馴染みのある」、「通俗的な」ものにも聴こえるが、さすがに「本家」のそれは旋律の「練り」や「ひねり」など、独特の転調共々「数段上」である。)
これは、大河か波を思わせるような伴奏音形に伴われ、幅広くゆったりした進行で充分に確保されるが(これがヘ長調であるのは無論、第2楽章がこの調であるのに対応している)、突然テンポが変わり、時計のようなリズムと音色と共に、バレエ音楽のような軽いモティーフが現れるが、同音反復と四度下降、三度の音階的進行、オクターヴ下降、という材料は第一主題から採られたもので、関連性は保たれている。(何となく「童話的な感じ」もするが、これを「青春の主題」と呼ぶこともあるらしい)これは変拍子でオクターヴ下降を不規則に繰り返し、提示部の終わりを示すが、ここで一瞬現れる「ドドソ↑ミ↓ド」というモティーフは後に全曲の終わりを刻む。
これら主題群には本来「音を延ばす」ような個所で同音反復をする、という、目立たないが共通の特徴が与えられているのだが、これは後の楽章の主題でも踏襲される。
展開部は並列的で、緊張感を煽らない配慮がされている。第一主題の第二フレーズ、第二主題も第二フレーズが変奏され、霧のような経過部から「青春の主題」を経て再現部へ至るが、主題の「頭が取られている」のは、シンプルながら「型通り」の再現部を効果的に響かせる手段として実に有効である。
再現部は簡略化されているが、第二主題は全曲のコーダ同様、同主調の(異名同音調)変二長調となる。「青春の主題」も同様であるが、オクターヴ反復が増四度音程(cis-g)に変えられていることが興味を引く。コーダ近くで安定しない音程を敢えて使うことは、それに象徴的な意味を込めた、とも取れるが、実際、プロコフィエフで良くあるごく短いコーダでは、嬰ハ長調で終結するかと思われた瞬間に突然嬰ハ短調の和音が木管の高音で宙に投げ出されるように響き、この楽章の印象を複雑なものにする。この何かを「留保する感じ」は「名残惜しげな感じ」に、全曲の終わりでは変わっているのであるが。(以降、次回。)
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2006年12月23日

音楽の「言語性」とは?(91)

プロコフィエフ「第6交響曲」の終曲となる第3楽章は、聴く者をいささか戸惑わせる。
作曲者は、この楽章について「第5」のそれとの類縁関係を示唆してはいるが、「大まかな音楽のタイプ」としては確かに「近い」ものがあるにせよ、曲全体として「第5」が「肯定的」な性格を多く有していた上、楽章冒頭にも序奏を付して「完全に準備される」終曲であるのに対し、似たような「陽気さ」をもって始まるとは言え、この「第6」ではそれまでの音楽が何か内省的な、重苦しい精神状態を反映したような曲想で占められていた上、明らかに「戦争」を想起させられる部分が嵌め込まれ、特に「解決」に向かうでも無く進行してきた挙げ句、何の前触れも無く軽々しい「ギャロップ調」が出し抜けに現れる様は、「驚き」というよりは何か 「疑問」すら感じさせる。
その第一主題自体が「第5」のものよりも「さらに軽い」もので、それこそ「ハイドンが書いても可笑しくなさそうな」、ソとドの音を中心に音階を上下する、半音階もa音(ファのシャープ)一つのみ、という屈折の少ない旋律であり、「ギャロップ調」といってもショスタコービチに良く出てくる、露骨にパロディックな、幾分自虐的なものとも異なり、いつものプロコフィエフの「屈折」にも欠けている。
この変ホ長調の「毒抜き」されたような開始は、冒頭楽章の主題に見られる一種「素朴な」性質に対置されているようにも思えるが、b音とes音を軸にする動きや、主題を中断するティンパニやピアノによる十六分休符を持つ信号のような五度上昇の音形は(この行進曲のような「太鼓の動機」は折につけ、かなりの頻度で「音楽の流れを分断する」役割を演じる)、明らかに第1楽章の展開部を支配するb音とそれに照応するコーダのes音に発していることは明らかで、これが無邪気な見かけほどには「単純」ではないことを示している。
また、主題自体もc音に落ち着く形が(変イ長調による繰り返しではf音)繰り返され、中間の小唄風のフレーズや後半では「いつものように」半音階が用いられ、最後もやはりc音となってハ短調の響きが印象付けられ、出だしほどにはこれが「明るい」ようなものでなく、全体としてはやはり相当に「屈折した性格」であることが示されている。(主題の最後の部分も最初と同じように二度繰り返されるが、この短三度順次下降で閉じられるフレーズは、後に予想もされない形で「重要な役割」を演じることになる。)
この、第一主題部の性格が「変化していく」ことは当然、後の進行にも影響を与えるが、最初の「無造作」とも思えるような所から、結局は複雑な印象をもたらす結尾を呼び込むことになるのである。
全体はロンド・ソナタと見なせようが、それは第二主題の前や、展開部の最初、コーダ部に第一主題が導入されることでロンドの特徴が現れているためであって、通常この形式に期待される「軽めの」、一途な性格は持っていない。これらの措置はむしろ、音楽を質量共に「拡大」するために行われている、と見るべきであって、動機的に処理される展開部は楽章の「重量感」を増しているし、これに対して「別の時間軸上に」発生するコーダに至るまでの、最初の印象で期待される「比較的小型でウィットの利いた進行」から逸れていく様を「再確認」させるために、むしろこの「繰り返し」が有効になる、とも思われるのである。
従って、第二主題への移行もスムーズでは無く、「太鼓の動機」に続いて、ファゴットのくぐもった音が弦の軽い後打ちリズムとは「逆の」、半音階的なフレーズで何か引っ掛かったように「前口上」を述べる。(これはショスタコービチに良くある深刻ぶった管楽器の「モノローグ」や、その「第9」における、第4楽章から第5楽章への移行をパロディーにしているようにも聴こえる。)
第二主題は、その弦のリズムを背景に、長い音価で同音反復を基本にした動きで伸びやかに現れる。
これはこの交響曲で初めて現れる「明るい歌」であるが、短二度音程の「合いの手」を伴っており、「陰り」からは逃れてはいない。実際、第一主題の最後部がここでも現れ、「出所がどこであるのか」がはっきりと示される。
(とは言え、この明らかに「外向きに」「合わせた」ような「健康ぶった」音楽は、曲全体の中では無論異質なのであって、印象的ではあるが「エピソード」の域を出ない。)
展開部は第一主題の再帰に続くが、利用されるのは殆ど第一主題の材料、それも冒頭部の動機(最初の五音)のみが様々に折り合わされ(それも元の「面影」を全く留めない形で)、他には「太鼓の動機」が組み合わされるに過ぎない。それはスケルツォやブルレスケのようでもあるが、音楽の流れはやはり一定せず、急速に表情が変化し、結局クライマックスが「回避」されている。
展開部で第一主題が徹底的に用いられた以上、再現部が第二主題から始まるのは当然であるが(再現部について、第一主題が主調で強奏される練習番号「43」からである、とする向きもあるようだが、それでは再現部は「遅すぎ」、あまりにバランスを欠いた短いものになる。これはブルックナーのように、「再現」と「展開」が混合されたもの、と見る方が形式的にも内容的にも辻褄が合う。第1楽章もまた、第二主題の再現から始まっていた。もっとも、ここではあのように主調で出る訳では無いが。但し、繰り返しで転調して、変ホ短調の平行調である、変ト長調となることは「バランスの取り方」として注目に価する。)、今度は弦の冷やかすようなグリッサンドが挟まれ、第二主題と第一主題が同時に結び合わされる「離れ業」によるクライマックスが突然もたらされる。
通常であれば、この「高揚感」からそのままコーダへと運ぶ所であろうが、さきの「主調での第一主題」へと飛び込んだ後、音楽は展開部に見られたような屈折を見せて奇妙にも「減衰」していってしまい、提示部での第二主題への移行部が「より暗い形」で現れるが、「明るい」第二主題はついに現れず、我々は不意に「元居た場所」に連れ戻される。
即ち、第1楽章の第二主題がそっくりそのまま「戻って来る」のであるが(第1楽章の再現部と同様に)、それは「回想」というにはあまりにも長過ぎ、これまでの「経過」を、「ギャロップ調」共々、そっくり「台無し」にするようにも思われる。これは「同じ」でありながら当初とは「違ったもの」として響くべく働きかけているのであろうが、作曲者の言う「癒えない傷」のごとく、変わらぬまま奥深い所に棲みついている「何か」なのであって、この「出現」のために音楽は全く「別のもの」へと変貌してしまう。(フィナーレのコーダ部における決定的な音楽の=「昇華」ではない=「変質」が見られる例は、メンデルスゾーンの「3番」のような、本人も気に病んでいた「取って付けた」ような例は除いても、シベリウス「5番」のフィナーレなどで見られるが、ここでのそれは「想像を絶している」レヴェルのものである。)
第一主題末尾の短三度順次下降動機がオーケストラ全体で悲劇的に繰り返された後、「太鼓の動機」が歪んだ形でクレッシェンドを呼び込み、直前の下降動機と第1楽章展開部の末尾の同音反復を主音es上で繰り返し、交響曲はあっけない終わりを迎える。
これは「楽章単位」として見れば全く「不適当」であって、「交響曲全体」としても何らかの「プログラム」、もしくは「メッセージ」として見ねば解釈出来ないが、それは周到に「準備された」というよりは音楽の経過から図らずも「発生した」ようなものであり、そのためにこれは「理想的」「楽観的」なものは何も含まず、単に「決意」のような「心的状態」を示して閉じられているのである。
このような交響曲は他に見当たらず、ただこの時点でのプロコフィエフのみが書き得たものである。(以降、次回。)
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2006年12月16日

音楽の「言語性」とは?(90)

プロコフィエフ「第6交響曲」は、それぞれ非常に異なった三つの楽章で構成されているが、相互のコントラストが明確であるのは当然としても、それぞれ書法が明確に異なっている、という特徴を持っている点において際立っている。
無論、それは音楽の内容に応じて生じているのではあるが、第1楽章が主要主題の特徴に見られるように、全音階的でモノフォニックな響きを主体としていたのに対し、第2楽章では半音階や不協和音が多用され、それに伴って急激な表情の変化や振幅の大きさが顕著となる。
これは当然、緩徐楽章ではあるが、前楽章の中庸なテンポや主題の穏やかな時間感覚のために、「本来的な姿から外れた」、緊張を孕んだものとして書かれている。無論、それには作曲者が示唆した「戦争の影響」も影を落としており、第1楽章同様、かなり明確に「イメージ化」されている。(「より明るく、旋律的な楽章」とも述べているが。)
三部形式と見て良いだろうが、主部の再現は簡略化されている。主部はソナタ形式風に二つの主題を持つが、中間部共々、性質の違った小部分を繋いでいく構造が見られ、ここでも音楽は「並列的」なものとなっている。
前奏が付されているが、いきなりフォルテで始まるそれは、むしろクライマックスの性格であって、
前楽章の展開部における「破滅」の続きでもあるように響く。
軋むような不協和音と共に、半音階的に同一のリズムによる短い音形が徐々に下降してくるが(何となくブラームス「第1」冒頭の重苦しい序奏を思い出させる)、長二度音程と短二度音程を連鎖した形は続く第一主題、第二主題にも反映しており、そこでは半音階的な部分と全音階的な部分が交互に現れる形で旋律を形成している。音量的には沈静化して現れる、しかし変化の激しい第一主題は、変イ長調とはいうものの一度もトニカの和音が見られず、半音階進行と頻繁な転調によって調性感を欠く。
また、同一のリズムを持つ小節が無く、絶えず次へと続く無限旋律として書かれ、五連符による痙攣的フレーズなどと共に、前奏の緊張をそのまま引きずっている。(この主題には、ワーグナー「パルジファル」前奏曲が影を落としているような気がしてならない。)主題の確保は再びフォルテの領域となり、第1楽章との関連が深いモティーフなども現れるが(「ラシドレミシ↑ラソファミシ↓」)、真の「安定」は第二主題の登場まで持ち越される。
「長い台詞」のような、いわば「言語的な」第一主題に対して、第二主題は確かに「旋律的」であって、ブルックナー風なものを感じさせる。半音階の使用もあるとは言え、三度音程を軸にした、安定した長調の性格が見られる。しかしここでも短二度音程は幅を利かせており、主題冒頭を始めとして、変ホ長調上でのces,a音などが「要所に」用いられる。(この音程に準じたトリオが挟まれる。)但し、付点リズムを多用した形は第1楽章第三主題とほぼ共通のもので、あすこでの「行進曲風」がここで「歌謡主題」に転じている点、複雑さを感じさせる。
そのせいもあってか、中間部は露骨な「戦争の響き」から始まる。無機質な、壊れた機械のような、規則的な刻みとアクセントだけのギクシャクした音楽が唐突に現れるのだが、この「そぐわない」ようにも思える「現実的な響き」は、文字通り否応無しに「侵入してくるもの」として書かれている。
無論、真の「中間部」は、この後の夢幻的なホルン四重奏に始まる、この曲でも最も「美しい部分」であり(この個所以外では、作曲者は、むしろ「美しさ」を「回避」している。)、「夜想曲風」とも言うべき、見事な「夜の雰囲気」が醸し出される。(メンデルスゾーンの「真夏の夜の夢」や、マーラーの「第7」における「夜の音楽」のような、ロマン的な「夜」への接近が感じられる。無論、これは「夜」が持つ「死のイメージ」も含めて、のことであろうが。また、ワーグナーの「ジークフリート牧歌」のような「眠りのイメージ」にも接近している。)これは第二主題から派生したものではあるが、全く別のものへと変質しており、中間のピアノの長三度音程の響きの余韻が印象的な部分を経て(第1主題部の結びの「第1楽章との関連部分と共通の素材を用いている)、チェレスタ、ハープといった「夢幻的な響き」と共に反復される。
こうして生じた「異世界」は、主部の再現を呑み込み、今度は高音域で始まる第二主題の再現と、続けざまに第一主題を呼び出す。
しかし、それでも後者の「神経質さ」は解消されず、圧力的な前奏までもが復帰し、結局は「夢」の要素を消し飛ばす。
コーダでは、第一主題冒頭の音形と共にその「残骸」が朧げに漂い、終わるでもないような「終わり」が訪れる。
音楽は「枠」構造に嵌め込まれているような外見を装っているが、その始めと終わりは全く一致しておらず、むしろ決定的に「変化していく」事象を想起させる。そして、残るのは「夢」の余韻くらいのものなのである。(以降、次回。)
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2006年12月09日

音楽の「言語性」とは?(89)

プロコフィエフの「第6交響曲」は、前作「第5」と同時に構想が練られたものらしいが、「第5」初演直後から健康を害したこともあり、完成は二年ほど後にずれ込んでいる。
「姉妹作」と呼ぶかどうかはともかく、「第5」とは比較にならぬほど「知られていない」この作品は、当初は「成功を収めた」にも関わらず、何故か「当局」の「批判の対象」とされた(いわゆる「ジダーノフ批判」)こともあり、母国でしばらく演奏されなくなった、という事情もあるにせよ、根本的な「不遇」の要因は、やはり曲自体の「性質」に原因がある、と見ても良かろう。
外向きに力を放射する「輝かしい」「第5」と違って、この作曲者としては異例なほどの(「交響曲」としても)「内省的な面」を多く持ち、それが専ら「構築的」というよりは「それ自体の原理」で成り立っており、外形的には「ソナタ」とか「ロンド」とかいった「一般的な形態」から外れてはいないにせよ(当局の「形式主義的」という訳の分からない「批判」はさておいて)、むしろ並列的な「横の流れ」に依存している、という点において、前作とは全く対照的な面を持っている。
かなり大規模な三つの楽章による構成や、内容とは反比例するような打楽器群を多用した(無論、使用は制限されてはいるが)管弦楽法に「このような性質」が埋め込まれているために、どう見ても「即座に理解」し易いタイプの音楽とは言えないことが、この曲の「不遇」を深めたのではあろう。
しかし、これは最盛期の作曲家によって「申し分無く書かれた作品」でもあって、他のどの作品とも異なる特質を備えた傑作と言って良く、事実、昨今は演奏、録音の機会も増えつつあるようではある。
作曲家は、この曲について「戦争との関連」を匂わせており(「第5」は結局、殆ど「戦争の影響」を留めていないのに対して)、「勝利したが、我々は癒えない傷を負っている」という趣旨の発言を残している。(但し「第5」の時同様、「表向き」の「体制に配慮した公式コメント」もあるが。)
また、これを「ベートーヴェンの追憶のために」書いた、とも言っており、作品の本質についての参考ともなろう。(この曲の作品番号「111」は、無論、ベートーヴェン最後のピアノ・ソナタ「第32番」のそれと一致しており、彼がベートーヴェン晩年の様式について「思いを馳せた」だろうことは間違いなかろう。この交響曲の「内面性」は、その「影響」でもあろう。)
前述通り、プロコフィエフの交響曲で唯一、三楽章によって構成されているが(この音楽の性質からして「ふさわしくない」スケルツォ楽章は、当然「省略」されている)、冒頭楽章はソナタ形式とはいうものの、テンポと拍子の設定において「異例」であり、中庸な速度と八分の六拍子、また調性も「変ホ短調」という「めったにない」調設定が為されている。(これほど調号の多い主調による交響曲は、有名作ではマーラーの「第10」=この曲の平行調と異名同音になる嬰ヘ長調=位しかない)
これらの「選定」によって音楽は独特の情調を帯びることになり、楽章全体に渡って何か「含みのある」、直接性を避けた響きが目立つ。オーケストレーションも大部分においてモノ・トーンな感じの、「薄い」もので、いつものプロコフィエフの「刺激性」があまり見られない。
この楽章の「謎めいた感じ」は冒頭から明らかで、一見、脈絡の良く分からない「前奏」が付けられているのだが、ワーグナー「ニーベルングの指輪」の、ヴォータンの「槍の動機」を解体したような下降音階が半音階を交えて、不規則なリズムで低音の金管とピッツィカートで奏され、長調と短調の分散和音が続く、というそれは、明らかに拍子感が無い上に、主部とは関連が薄いようにも見え、単なる「前奏」に見える。しかし、これに含まれる半音階や分散和音といった要素は後の主題群にも見られる特徴ではあり、ただあまりにも「簡略化」されているために、何か「取って付けた」ような印象を与えかねず、実際、演奏によっては「そのようにしか聴こえない」可能性もある。
続いて現れる第一主題も曖昧な性格であって、三小節目に主調の変ホ短調の分散和音が現れるまでは、伴奏の無い単旋律であることもあって、調性感が乏しい。(主題の開始に添えられる和音は、変イ短調のものである。)
音階の順次上昇と分散和音、要所に半音階、という主題の「材料」は確かに序奏に見られたものであり、応答の音階上昇と木管の和音も同根である。響きは確かに短調ではあるが、半音階を使用しているにも関わらず、自然短音階を基調にしているせいか、その早くも遅くもないテンポ設定もあって「悲劇性」というよりは、「不安感」や「虚ろさ」が感じられる。
「疲労した」ような、「不機嫌な感じ」は、主題の確保に伴って増幅されるが、主題自体は殆ど変形や展開を受けず、転調や付随フレーズの違いによって変化を付与される。
ここで現れる同音反復の要素は重要で、後に多用される。これはベートーヴェン的三連符としても用いられるが(展開部のアレグロでは、その拍子感からも「アパッショナータ・ソナタ」に近い切迫感に接近する部分がある。)、何がしかの「圧力」や言い難い「閉塞感」のようなものとして用いられている。(最も効果的なのは、展開部をついに「停止」させるホルンの変ロ音の延々たる連打である。)
第二主題は第一主題に対して旋律、リズム共に対照を為していない。
半音階が抜かれ、回音のような動きに象徴される、一種「停滞」する感じと共に、一層「ロシア民謡的な感じ」を与えるにせよ、同一要素の「敷衍」に過ぎぬことは明らかである。
このため、主題はもう一つ用意され、これまでの変化の少なさを「補う」ように拍子も四分の四に変えられ、プロコフィエフでは馴染みの機械的な(「第5」のスケルツォの開始を遅くしたような)「刻み」に乗って、付点リズムを持った行進曲風の旋律が現れる。(しかし音要素については音階的動き共々、第二主題と違いは無く、ただ「リズム的処理」によって差異化が図られている。)但しテンポは「それにふさわしい」アレグロが与えられておらず、ここでも相変わらず「含みのある」感じは確保されている。
この第三の主題によって導入される「行進曲調」は、しかし展開部にヒントを与え、八分の六拍子に戻って繰り広げられるそれは、最初から行進曲を思わせる第一主題の変奏で始められる。当然、ここまで抑えられていた打楽器群を加え、金管の多用、歪んだような半音階の使用もあって、「戦争のイメージ」がはっきりとしてくる。
これらの「破壊的」な、「悪夢的」な感じは、前述の「ホルンの変ロ音」の出現で(これは五十五小節にも渡る)強調され、やがてそれがオーケストラ全体を覆い尽くすことで「決定的」となる。
再現部は、展開部で第一主題を徹底的に「破壊」した以上、第二主題から始まるのは当然と言える。
これは提示部よりも「虚ろに」響くが、単純な、点描的なピッツィカートの伴奏が、提示部に比べ僅かに音を増すことで、かえって、この「効果」がもたらされている。(作曲者の非凡さが伺われる。)
続いて、第三主題では、フレーズの終わりごとに金管のクレッシェンド、デクレッシェンドする和音が加えられることで、不気味な「変質」が加えられ、不可避的な事態の「後」であることを象徴している。
そして、第一主題はもはや「元の姿」では戻って来ず、コーダの導入の単なる短いストレッタとなって、展開部の終わりと対を為す、「持続する変ホ音」へと至る。これは一瞬、変ハ長調の「明るい響き」をもたらすが、無論「幻」に過ぎず、変ホ音を鳴らしたまま、ハ短調を経過して変ホ長調の、しかし「虚ろな響き」に脱力していく。
この楽章はある意味「演劇的」でもあるが、「隠喩的」「暗示的」でもあり、むしろ「直接的」であることが多いプロコフィエフの作品の中でも異例である。それは完全に意図的に、計画的に実現されており、ショスタコービチの作品に見られるような(この曲がショスタコービチの「第10」「第11」に与えた影響について考えるのも面白かろう。即ち、前者では「内容」において、後者では「書法」において。)、コンセプトの不徹底と書法や構成の不備がもたらす「曖昧さ」とは決定的に異なるものである。
これは狙い澄まされ、思い通りに実現された「曖昧さ」であって、「緩い」構造や内実がもたらす「幻視」ではないのである。それこそが、プロコフィエフがベートーヴェンから「受け取ったもの」であり、彼がオマージュを捧げたところの、後期ベートーヴェンの「多義性」なのである。(以降。次回。)


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2006年12月02日

音楽の「言語性」とは?(88)

プロコフィエフ「交響曲第5番」の考証も最後の第4楽章まで来た。
これは巧妙な「ロンド・フィナーレ」であるが、このタイプの終曲は、以後の「6番」、「7番」でも基本的なパターンが踏襲されており、彼としての「定型」の一つをここで作り出した、ということになる。
それらは、律動的なリズムを背景とする軽快なロンド主部に幾分メランコリックな副次部を対比し、先行楽章の材料を取り混ぜながら「まとまりを付ける」といった風なものであるが、無論それぞれに方向性は異なっており、いわば「5番」では「能動的に」、「6番」では「懐疑的に」、「7番」では「回顧的に」構成されている。
「5番」のそれは、彼の「フィナーレ」の中でも最も見事なものに属するが、前述通り、コーダにおいて音楽の内容が「変異」する、という点において他に無い特徴を持っている。
冒頭には序奏が付されており、フルートとファゴットが分散和音下降と短二度上昇を組み合わせた暗示的な主題を提示し、弦による「合いの手」と共に主部への「ヒント」を与えている。
移行の前には第1楽章の冒頭主題がチェロの分奏で「のどかに」現れるが(但し原調でなくヘ長調へと移されている)、この「お約束」めいた措置は無論ベートーヴェン以来の「伝統」であるにせよ、ここではコーダでブルックナーばりの「総まとめ」が事実上不可能であるために為された「代替え案」でもある。
これはハ長調の和音で終わるのだが、主調の変ロ長調は二度下であり、プロコフィエフはヴィオラのみで刻み音形による半音階進行で巧妙に「移行」を行っている。これが増四度のe音を中心にしていることは重要であり、コーダにおいてこの音は思わぬ形で「狂言回し」の役を演じることになる。
また、これは主部のリズムの「刻み」を発生させる役割も負っており、単なる「移行部」以上のものとなっている。ロンド主題は序奏主題同様、分散和音形、短二度音程を骨格に持っているが、主題前半においては全音階的であり、主題後半部において転調を挿んで主音へと戻る構造となる。作曲者は明らかに主題前半部を重視しており、後の中間部の「有名な主題」にも共通の材料を用いている。
これには第1楽章の小結尾主題に由来する十六分音符による同音反復を(これもe音を中心とする)含む機械的な動機が挟み込まれる(フレーズの末尾に現れるアクセントのトランペットの低音も重要で、コーダで利用される。)。
これは当初、挿句的に現れるように見えるのだが、主題が下属調に移って繰り返されてもこちらは音高は変わらず、固定的な性格を示している。
続いて、序奏主題と第一主題に由来する木管のコミカルな動機と(但し分散和音は下降形となり、同音反復が含まれる)これも第一主題冒頭に由来する弦の付点リズム動機(先行楽章と違って音価は二倍となり、伸びやかな、「平和な感じ」が付加される)、第3楽章に由来する半音下降を持つクラリネットの動機、さらにまた第一主題に由来する反復動機が現れ、盛んに半終止を繰り返す断片的な部分となる。これは何か「対話的な印象」を与えるが、全体としては結びのヴァイオリンの音形同様、第2楽章の進行を思い出させる。いずれにせよ第二主題との間にこのような断片的な「移行部」を設ける事は「形式の拡大」以上に「音楽的ニュアンスの拡大」に繋がるもので、「情報量の増加」を担っている。
第二主題はやや「東洋風な」感じのするもので(プロコフィエフは「訪日」以後、しばしばこうした感じの旋律を用いるようになった)、「ヨナ抜き」風の音の運びも見られるが、基本的には第一主題の音の動きを別の形で応用したものに過ぎず、リズム的にも対照を為していない。(このためにさきの「移行部」が必要にもなるのでもある。)
第一主題部が再び戻ってくるのだが、今度はフレーズごとに、さきのヴァイオリンの「付点リズム動機」が挟み込まれ(但し長二度音程と同音反復を含むものに変化している)、序奏主題等の幾つかの材料と共にほどなく「停止」する。
ここにはコラール風の動きが見られるが、これは次の中間部主題の(仮の)性格の「予告」と見ても良い。そしてブラームス「第1」のフィナーレ主題に「類似」と言われる(という事は取りも直さずベートーヴェン「第9」起源ということにもなるが)全音階的な、「円満な性格」の旋律が示される。
これは「元ネタ」同様の「世界観」を「暗示」しているようにも思えるが、実際には文字通りの「エピソード」であり(そもそもこれは「第一主題」ではない)、充分に「展開される」どころか、「移行部分」の四番目の動機の(ファソシラミ)増四度音程を含む「調子外れ」の音形が音価を倍にして揶揄的に繰り返し現れ、あえなく「脱線」して主部へ復帰する、という具合で、このために主部の方がこの「有名な主題」よりも「より安定的に」「確たるもの」として響くことになる。
再現は短縮して見通しを良くしながら「型通り」に行われるが、第二主題の後の部分では例の「付点リズム動機」が今度は第一主題に先行して現れ、突然のコーダの「爆発」を準備する。
そして「前代未聞」のコーダが始まり、トランペットが、これまで意味ありげに使われていた問題の「e音」(無論、変ロ長調では増四度であり、明らかに「調子外れ」である)を痙攣的に吹き鳴らし、f-ges,a-bといった短二度音程を交えて、背景の同様の音の扱いによる機械的な律動と共に、はなはだ「予想を超えた」響きを作り出す。
これに第一主題と中間部主題が挟み込まれるのだが、あくまでも基調が「トランペット動機」にあるため、第一主題は少し姿を現すものの「消し飛び」、今度こそ「凱歌をあげるべく」現れる中間部主題は、皮肉な短二度和音まで動員された皮肉な「合いの手」に(それも中間部主題自体から導きだされたものだが)邪魔され、挙げ句の果てに、刺激的な打楽器やピアノ、木管の甲高い刻みに乗って突然現れる、長二度音程から「落下する」グロテスクなコラールが弦とトランペットのユニゾンで現れ(これは第一主題から導きだされたものではあるが)、最後は無調に近い機械的な回転するような動機と走句が交響曲を「あらぬ方向」へと運び去ってしまう。
これは周到に「予定された場所」は音楽を持っていく、というよりは明らかに「予想と違った」「押しとどめられないもの」が「それまでの経過」を「圧倒している」状態であり、これだけの規模の交響曲としては他に例を見ない「終わり方」である。
それは確かに「力の沸騰」であるかも知れないが、そこを目指しているようでありながら、「勝利を歌う」ような筋合いのものでなく、明らかに「別のものに乗っ取られてしまう」のである。
そこにはむしろパロディカルな、皮肉なユーモアが感じられるのだが、これは第3楽章の「裂け目」にも対応しているのでもあって、あそことは別の形で不可避的な「現実」が押し寄せてくるようにも感じられる。この作品はあくまで「リアル」であって、何かを「演じ」、「論じる」ようなものではないのである。
にも関わらず、この作品が広く受け入れられたのは(そもそも当時のロシアで=初演の状況も含め=これが「問題」にならなかったのは不思議でもある。何かの好意的な「勘違い」としか考えられぬ。即ち、「そんなものを書くはずが無い」という「思い込み」である。)、作曲者の図抜けて的確な「腕」と「選び抜かれた素材」によるものと考える他無い。
ここで彼は「思った所のもの」を全て為しているが、しかも「外的な要素」は、結局は作品に影響を与えてはいないのである。このような作品は、この時期においてはバルトークの「管弦楽のための協奏曲」以外には、その例を見い出す事が出来ない。(以降、次回。)
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2006年11月25日

音楽の「言語性」とは?(87)

プロコフィエフ「交響曲第5番」の第3楽章アダージョは、この曲の他の楽章同様に、彼の書いた同種の音楽の中でも、最良のものに属する。
この音楽を何故かベートーヴェンの「第9」の緩徐楽章である、あの第3楽章に「比肩する」とする意見もあるようだが、その当否はともかく、彼の創作全体の中で、その「高み」という点においてベートーヴェンのそれのような「位置」にある、というような「喩え」として言える話ではあろう。
「アダージョ」とは言え、これは時間的にはそれほど長いものでもなく、細分化されたリズムの精妙な扱いや、対位法的書法の多用、テンポ変化や表情変化の多彩さによって「密度」を与えられており(確かにこれらはベートーヴェンの第3楽章にも見られる特徴ではある)、この「縦の変化」の充実によって、例えばブルックナーのような果てしも無く「横へ広がった」長大なスタイルを採らずに、同等のことを為し得ているのである。ともあれ、この「第5」の中でも、これは最も感銘的なページであろう。
しかし、その開始は「擬装されたもの」であって、そこから徐々に「浸透力」を増していくものとなっている。三小節の前奏では、前楽章の律動性をパロディカルに遅くしたような、奇妙な分散和音が四分の三拍子で弦の弱奏によって示される。これは八分の九拍子との混合が最初から指示されており、さらにヴァイオリンには三連符の刻みが与えられ、妙に隙間の開いたバスの動きを補っているのだが、いずれにせよ、これらはその譜面上の姿から「予想されるテンポ」よりも遥かに遅く、ヘ長調とは言え、短三度のas音や増四度のh音が混入された不協和な響きと共に、これが「平和な」性格のものではないことを示している。
しかし、続いて現れるクラリネットとバス・クラリネットを重ねた音色で現れる「主題」は、最初の二小節においてはメヌエット風の三拍子の性格であって(二小節目では第1楽章冒頭同様にヘミオラの効果を生じ、次の一小節の四拍子への変化を呼び出すが)、リズム的緊張を伴奏との間に生じるものの、そのあまりに平凡な音の動きや(ドシドシラソラファ♯ソ)、むしろ「フレーズの終わり」のような性格によって「冠詞」のような役割を果たしている。
このため「本題」は、主題が繋ぎの一小節を経た「四小節目から」ということになり、実際、そこからは非常に表情的な、半音階使用の目立つ「哀歌的な」音楽となる。これは音程跳躍を幾つか持つものの、基本的には徐々に半音階的に下降する動きであり、第1楽章第二主題などと共通の材料によっている。
また、この楽章に頻出する短三度順次下降は、第2楽章主題の最初の動きとも符合しており、これと同様の形がクライマックスにおいて強調されている。
旋律的モーションは多様に現れるが、第二主題と呼ぶべき断片的素材や(ドファミレシ↑ミ↓)、その敷衍である部分に現れる印象的なシンコペーションによる動機(ファミレミファドラシドファ♯ソシ♭、この部分ではこれを際立たせるために前奏の律動動機が小太鼓を交えて示される)、いずれにせよ短三度を基本とする音程が豊富に含まれる。
中間部では旋律的、リズム的な対比が図られ、最初の低弦によるロシア的な旋律は(ドラ♯ドシミド↑シソ↑ミミ↑レドラミ↑ラ)、跳躍音程と結びの五度下降が、角張った音形と四拍子を示しているブルックナー・リズムによる和音を背景として奏され、さらにこれに対比させられる付点リズムの繰り返しによるよる動機(ミ↑ラソ♯ミファレミ。第1楽章と違って、これはあくまで「緊張感を高める」ための使用であり、暗示的なものではない。また、作曲者はこれを打楽器を多用する契機としている。無論、これはクライマックスへの準備である。)不気味なピッツィカートの部分を挟みながらフーガの主題のような木管の音形(ミラ↓シドシレド)などと組み合わされながら圧力を増していくが、これらの「悲劇的な感じ」は冒頭の伴奏音形が「本来の」ランダムな姿で強奏されるオスティナートとして低音金管で現れ、この上に雪崩落ちるような走句が現れる「粉砕的な」クライマックスに消し飛ばされてしまう。
この恐るべき「裂け目」を露呈する部分は、しかし何ら「修復」されることも無く、ただ「中断」されるのみであって、事も無げに主部が帰ってくるものの、その存在はこれらが「危うい基盤」の上にあること、即ち、「いつでも脅かされ得るもの」であることを仄めかしているのである。
このため、主部の再現は表面上(短縮化されるとはいえ)あまり変化が無いにも関わらず「安定的」には響かず、雰囲気はむしろ「希薄なもの」へと変化していくのである。
コーダでは、チェロのグリッサンド風の上昇する走句が「昇る」ことを象徴するものの、ピッコロとそれを引き継ぐフルートが半音階を交えて「降りて」来て(この楽器法は、マーラー「第8」第二部の終曲部で、例の「神秘の合唱」を呼び出す「降臨する」部分を思い出させる。)、「解決」からは程遠いことを示し、弦によるその反復は、むしろ「嘆き」を宿している。
そして、伴奏音形が呼び戻されるが、もはや主題は現れず、文字通り「仮構」のうちに、「終結する」というより、ただ単に「区切り」としての「終わり」として不安定な表情のまま閉じられる。
これは先のクライマックスが「中断」されたのに呼応するものであり、何かで「取り繕う」ようなことは行われてはいないのである。
この音楽は、もしかすると何がしかの「戦争の影響」が内実に「反映した」ものなのかも知れず、ここに隠されている、ある種の「冷酷さ」は、否応無く「写し取られたもの」として響いているようにも思われる。
こうした「不可避性」は、次の「陽気なフィナーレ」でも現われるが、そこでは事態が当初の「予定」から逸れてゆき、音楽が「乗っ取られる」過程が示されるのである。(以降、次回。)
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2006年11月18日

音楽の「言語性」とは?(86)

プロコフィエフ「交響曲第5番」の第2楽章にはスケルツォが置かれているが、これはこの交響曲の中でも、とりわけ優れたページであると同時に、その作風からしても得意の曲種であった彼の「スケルツォ」の中、最も良いものの一つでもあろう。
通常の三拍子系でなく四拍子を採り、しかも速度もそれほど速いものではないが(「極めて速い速度」を採れば、実際にはさほどの「それらしい曲想」でなくとも「スケルツォらしく聴かせること」が可能であり、そのような「例」は、かなり多く見られる。たとえば、シベリウスの大抵の「スケルツォ」の類は「そのようなもの」である。無論、これはその作曲家の「資質」に関わる類の話であって、「善し悪し」の問題ではないが)、このため、「スケルツォ」としての成否は「体裁」によっては保証されず、いかにこれを「キャラクタライズ」するかに懸かっている。
そもそも二拍子、四拍子系によるスケルツォ、意外に例が多いにも関わらず「成功例」は、それほど多くはなく、交響曲で言えばベートーヴェンが「6番」「9番」のトリオ部と「8番」の2楽章で変則的な形で用いた他、シューマンの「2番」、ブルックナー「4番」、マーラー「3番」「9番」「大地の歌」などが挙げられる位であろう。(ショスタコービチには「1番」「7番」「8番」「13番」「14番」など少なからぬ例があるが、この曲種で「外す」ことの無い彼とは言え、生来の筆の速さが、速い曲想や緻密さの要求されない部分であることと相乗して、しばしば仕上げの「粗さ」と構成上の「無駄」、ルーティーンな書き方が目立つ。しかし、このうち「7番」以外は、曲全体として彼の「傑作」の部類に属している。)
このプロコフィエフの「5番」では、その最大の「成功例」の一つを見て取ることが出来よう。(芥川也寸志は、彼の「第1交響曲」のフィナーレで、これを「パクった」ほどである。)
第1楽章が比較的ゆったりしたテンポで「三拍子主体」であった以上、この楽章配置と拍子の選択は極めて「妥当」であり(他の「可能性」としては、せいぜい、かなり急速で、しかし明確ではない「タランテラ風」、もしくは「無窮動風」の音楽を書くこと位であろう)、また、この措置によって、次のたっぷりとしたアダージョや、フィナーレの陽気なロンドが「可能」になるのである。
曲想は誰が聴いても「スケルツォ」と呼ぶほか無いようなものであり、楽章を通して刻まれる、機械的なリズム、奇妙な屈折した旋律やパロディックな要素が現れ、文字通り、極めて「性格的」である。
最初にヴァイオリンでf−dの反復音形が提示され、以後、この八分音符の正確な「刻み」は、主部を特徴付けるものとして終始続けられるが、トリオ部でもテンポと拍子こそ変わるものの、伴奏音形として用いられる。
クラリネットによる主題の出だしが「b」音であることもあって、最初の主題提示においては、主調のニ短調より、前楽章の変ロ長調の余韻を感じさせ、真の開始はむしろ、ヘ長調を経由して転調して刻み音形がf−asとなった、ヘ短調による二度目の主題提示からと言えよう。
半音階を多用した主題だが、「ミ」を反復音としているために、調性感はむしろ顕著であって、奇妙な、「呪文的な」作用を感じさせる。
重要なのは出だしの二小節であって、最初の半音階順次下降、そして「ミ」を基底にした上昇音形が出る。次の三小節目、四小節目は模倣的な動きとも取れるが、四小節目に現れる同音反復は、後に個別に、挿句的に用いられる。
単一主題的な主部は、主題の各要素や伴奏音形から発生した要素が変形されたり、フレーズが引き延ばされたりして、絶えず違った形で繰り返されることで構成され、これらが意外なほど「動機的に処理」されているのだが、前後の脈絡の不整合や挿入句、気まぐれで頻繁な転調によって「フモール」が付与されているので、我々は余りそれを意識することが無い。
弱音器をつけたヴァイオリンが、回音の多い、はっきりしない旋律を奏でる部分が「第二主題」風にも聴こえるが、実際にはこれは「変奏」に過ぎず、むしろトリオ部を「サンドイッチ構造」で挟む、印象的な部分との関連において興味深い。
この後、音価を倍にされた主題冒頭と、主題の最初の三音から派生した動機が交互に現れ、意外、音楽は脱力して「分解」していくのだが(これが「仕掛け」であることは後に明らかになる)、ここで雰囲気が変わり、八小節の木管の旋律が現れる。これはさきの指摘した部分と類似しており、また、半音階の使用等においても「主題」そのものとも関連があるが、「新鮮な感じ」を与え、トリオの後にも全く同じ形で現れ「門」の役割を果たしている。
トリオはニ長調、四分の三拍子となり、次第に長くなっていく三つの部分から成るが、この不規則な構造や、変化音、一時的な転調が多く含まれるとは言え安定した性格であって、ヴァイオリンの合いの手がこれは「ワルツのパロディー」(但し「踊れない」)であることを示している。
反復音を交えた奇妙な分散和音と、半音階進行による挿入句、トリオに入る前の木管の旋律の「嵌め込み」が為され、これらが、ハ長調に「ずらされた」ワルツ主題と「混ぜ合わされる」が、なんとかニ長調に「修復」され、目出度くトリオの終息となる。
再び木管が先の旋律を歌った後、主部の「復帰」となるのだが、ここで見事な「経過措置」が取られ、金管と弦のピッツィカートを中心とした楽器群が、刻みと半音階動機を取り混ぜた部分を開始し、不規則ぶったアクセントから徐々に音楽を「軌道に乗せ」、次第に主題をはっきりした「再現」に、テンポの増加と共に「持っていく」という、巧妙この上ない処理が見られる。
これは無論、最初の主部が「分解、脱力」して終結したのと「逆の処理」を行ったという訳ではあるが、そのアイディアを楽想、楽器法共に完璧に実現しており、この交響曲で最高のページにも数えられよう。
ここまで「為した」以上、以後の「再現」は短縮を除いては、むしろ「型通り」行う必要があるのだが、作曲者は、音高を最初とは違った位置にずらし、巧妙に経過を「短縮」している。
コーダでは、また「分解、脱力」を「逆」に、また違った形で行っている。
即ち、密度と緊張を高め、強奏する訳であるが、これまた簡潔に、予想以上に短調に傾斜した終結までが見事に行われている。
ここでは、最高度の熟練と洗練が「フモール」のために用いられており、まさに「そのこと」自体が「フモール」そのものと結びついている、という点において、ベートーヴェンやマーラーにも匹敵するものが見られる上、ロシア音楽では、さしてお目にかかれない「完璧な印象」すら与える。
ここでの「機械的なリズム」は、しかし「良い目くらまし」であって、この音楽が、何か「不器用なもの」であるかのような印象を与え、しかも実際の「巧妙さ」をも隠蔽してしまうのだが、かつてのプロコフィエフが、このような「機械音楽」で見せた「力押し」の強引さは、もはや微塵も無く、音楽はむしろ微妙なニュアンスを持つものへと変化しているのである。(以降、次回。)
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2006年11月11日

音楽の「言語性」とは?(85)

プロコフィエフの「交響曲第5番」は衆目の一致する所、この作曲家の数多い傑作の中でも際立っており、文字通りの「代表作」とされるべきものであろう。
これはまさに「交響曲」の名にふさわしい「公的性格」と幅広いヴィジョン、それに見合った大きさと重さを持ち、作曲者もこれに「こだわった」とされる「作品100」と「第5」という数字にも叶っている。
これが「戦争中の作品」であり、作曲者もまた「自分も何か偉大なものと取り組まねばならぬ」と思った、という言葉にもある通り、これは「成る可くして成った」作品であるが(しかし作曲は短期間で集中的に行われている)、「自由で幸福な人間への讃歌」云々という当時の「公式コメント」はともかくも、同時期のショスタコービチが、狙い済ました「9番」のような「ひねた作品」を作った(彼のいわゆる「戦争三部作」は、いずれも「演じる傾向」が強く、スターリンの怒りを買った問題の「9番」はもとより、「大向こう受けを狙った」と思われても仕方ない=熱にかられて「演奏の輪に加わった」トスカニーニが後に大いに恥じ入り、バルトークには冷笑された=「7番」や、この中では近頃最も評価の高い=「5番」の影絵のようではあるが=深刻な「8番」も、「純音楽的」というよりは明らかに「プロクラム的」である)のと比べると、プロコフィエフは余程「自分に正直」であって、まさに「可能な範囲」、「完全にコントロール出来る状態」で作曲しており、ことさら大袈裟な身振りや深刻ぶった様子もなく、相当に「自然体」である。
そのため、彼自身のテンションの高まりは、ここで全面的にプラスに作用しており、当時の彼の「進みすぎず」、「柔らかすぎない」、バランスの取れた「様式」を、最も完成度高く伝えるものとして「作品化」され、何の説明も要しない「純音楽作品」として成立している。
この作品は、その成立の事情にも関わらず、「戦争」とは関係無く、ことさら時代背景とか精神的背景とかの「予備知識」を必要としない「高さ」を持っており、にも関わらず、この時代の音楽として異例な理解し易さを併せ持っている。
さて、戦勝の祝砲の後に初演が始められた、というのはエピソードに過ぎないとしても、「祝典的」という言葉は適当でないとしても、「何か為すべき」という作曲者の意思は「モニュメンタルな感じ」を付与しようと努めている第1楽章において特に認められる。
それは主に楽器法上の操作によって行われており、金管や打楽器の多用、総奏やフォルテの領域の大きさは「楽想に一致している」というよりは、むしろ「煽動する」ように音圧によって音楽を「膨らませている」のであり、これによって幅広い「会場性」が発生するのである。(このような性格はベルリオーズの作品に顕著に見られ、彼によって「方法」が確立された。)
この冒頭楽章における「拡大行為」によって安定した「素地」がもたらされ、後続楽章は「それぞれの世界」に集中する事が可能になるのである。
こうした性格のため、第1楽章は遅めのテンポと叙情的な素材を多く用いたにも関わらず、緊張力が強く、無駄無く引き締まった構成を持つ結果になっている。
当然ソナタ形式によっているが、プロコフィエフは、ここで初めて伝統的な「アレグロのテンポ」を放棄しており、アンダンテの指示のもとに、良く知られた平明な旋律をもって曲を始めている。
この有名な旋律は「三拍子」ということになってはいるが、ヘミオラや不規則なフレーズ構造によって「拍子感」には乏しく、主題自体も付点リズムの多用や(これは第1楽章全体に浸透している)、「ソ、ド」を中心とする安定した音程や分散和音性、全音階性は、これが実際には「行進曲」を基底に置いたものであることを示している。
これにはe-f音による短い「合いの手」が低弦によって入るが、この短二度モティーフは重要で、このあと現れる小結尾主題を始めとする半音階的要素や、全曲を閉じるコーダでのトランペットの動機にも用いられる。これは第一主題の最初のf-gから成る長二度と対比させられている。
また、挿句的に三連符を含む「ラファ↑ミレ」という動機が主題に続いて独立して現れるが、これは何か「回顧的」な、もしくは「反省的」なものとして位置づけられており、後にも、そのままの形と意味合いで用いられる。
プロコフィエフ得意の半音の「ずらし」や、第一主題と短二度動機から合成されたつなぎの旋律を挿んで確保が行われるが、主題冒頭の三小節は「確たるもの」として変形されない。これは展開部、再現部においても無論変わらず、コーダにおいて盛大に第一主題全体の「最終確認」が行われる。
流麗に転調を重ねる、幾分ワーグナー風の第二主題ではテンポも拍子も変わるが、音楽の流れは「より安定」し、一小節ごと重ねられる上昇する分散和音によって柔らかさが与えられるが、続く付点リズムとオクターヴ上昇による第二部分では「行進曲風」の性格がいよいよ明らかとなり、トランペットによる繰り返しで盛り上がった挙げ句、特徴ある反復音形によるどこかコミカルな小結尾主題によって突然「取って代わられ」、提示部を「含みのある」ものにしている。
低弦による第一主題によって静かに始まる展開部は、しかし長くない。
各動機が簡潔に現れた後、対位法的に組み合わせられるのだが、さきの小結尾主題が重要な役割を果たしており、音楽に複層的な意味をも与えている。
しかし第二主題は、この「揶揄」の対照にはならず、展開部の後半を自身を「クライマックス」として占めているが、それは第一主題が金管の「コラール」として強奏される再現部冒頭へとそのまま引き継がれる。
その再現部は特に奇をてらわず順を追っているが、声部、楽器法共に厚みを増し、むしろコーダへの「準備」として簡潔に済まされる感が強い。
コーダでは前述通り、第一主題の「独壇場」となる。まず主音が低音で強奏され、それから音階的に上昇して、いよいよ主題の「真の姿」が明らかとなるのだが、「粉砕的」にも響く打楽器群を伴って二回ほど繰り広げられるそれは、しかし冒頭の「牧歌的な姿」の影は微塵も無く、ただ例の「三連符動機」が変わりなく現れ、影を落とす。これによって終結はやや方向の逸れたものとなり、増四度であるe音-f音の動機がここで呼び出され、「予想と違う」結果をもたらす。
この構造はフィナーレのコーダでも「踏襲」されるのだが、そこではもっと徹底した形で強烈に、徹底的に行われているのである。(以降、次回。)
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