2007年08月11日

音楽の「言語性」とは?(124)

ショスタコービチ「交響曲第9番」の特異な第4楽章は、ベートーヴェン「第9」の同じ第4楽章のパロディであることは良く知られている。
ここまで「避けに避けて来た」はずの「第9交響曲」としての「偉大性」「精神性」とかいうものについて、ここであっさりとベートーヴェンを「想起せざるを得ない」形で「コメントされる」訳だが、それも「歓喜の主題」でなく(それならブラームスがやったことであるが。彼の「第1」の空転しがちな「握り拳」は、そもそも、このフィナーレから作り始めたことに起因している。)その導入を為す「レチタティーヴォ」、一度目は低弦で、二度目はバリトンによる「台詞付き」で歌われるそれの、ほぼ「引用」に近いものが、しかし意味論的には「ひねりの利いた」やり方で行われている。
ショスタコービチは、これを引き延ばし、一つの楽章にまで拡大させているのであるが、それは「第8」で「フィナーレとしての緊張感」をいきなり「台無しにした」楽器であるファゴット・ソロを、しかし今度は「悲劇ぶった姿で」再び用いて、威圧的なトロンボーンのユニゾンと交替させながら進められている。
この手法は何故かビゼーの「アルルの女」第二組曲の「間奏曲」を思い出させるが、この楽章全体としては、ムソルグスキーの「展覧会の絵」に含まれる「サムエル・ゴールデンベルクとシュムイレ」に、内容的に近いものにも感じられる。(この類似は、もしかすると「意図的」なのかも知れぬ。)
ベートーヴェンを始めとして、「重層的な引用」が行われているようにも見えるが、しかし「実質的」には、これは彼が交響曲の冒頭楽章で良く見せるような管楽器の「モノローグ」に他ならず、前作「第8」の第1楽章に出て来るイングリッシュ・ホルンのソロと性格的にも内容的にも「幾らも違わないもの」が行われているに過ぎない。この楽章自体が次の第5楽章フィナーレへの「序奏」としか考えられぬ造りであることも含め、これは見掛けほどには「新しいもの」では無く、わざわざ「第4楽章」と銘打っているのは「主部」と切り離すことでベートーヴェンのフィナーレとの外見的類似を避けようとしたとも思える。(そうは言っても、何の「予備知識」も無しに聴かされたら、これは「序奏」としか思われないだろうが。同じように、彼は後に書かれる弦楽器のための協奏曲において、通常「カデンツァ」としか思われないものを「楽章」として「番号打ち」することで、彼の仲良しのソリストを「祭り上げ」、新鮮味を与えようとしているが、それを「新鮮」と感じるためには「番号打ち」を知っていることが必要で、例によって「意図」と「実際」が喰い違う事態を生じさせている。彼はこうした「操作」に熱心だが、そこに書かれる音楽は殆ど「いつも一緒」で、要するに「置かれる場所が違う」だけなのである。)
トロンボーンのユニゾンは音階的に上昇する線によって冒頭楽章や次のフィナーレ主題との共通性を確保しているが、続くファゴットのソロと共に著しく「言語的」であって、オペラティックな「場面」を作り出し、交響曲のこれまでの「ずれて来る位相」を、さらに先に押し進める。
この「悲劇性」はファゴット・ソロが低音域に下がってゆき、「静止」した所で終わりを告げ、そのままソロでフィナーレ主題を奏して、今度は「喜劇性」に転じる。
この「シリアスさ」と「道化」が入れ替わる部分が、この「第9」の「最も印象的な瞬間」であり、同時に第1楽章の「位相」に音楽が少し引き戻される、「全曲のクライマックス」を為している。
長いスパンで音階を上がったり下がったりする主題は奇妙にユーモラスだが、ショスタコービチでは出会う事が稀な「選び抜かれた主題」であり、またファゴット以外の選択が考えられぬ程「はまって」いる。(この主題のために彼は第4楽章をわざわざ準備したのであろう。)
しかしこの主題は「第8」第3楽章の中間部に現れるトランペットの旋律、前述した「第9」の第3楽章の同じトランペットに与えられた旋律と「同根」のもので、外見的にも性格的にも極めて近く、
これまで「エピソード」として扱われて来たものが、ここでようやく「主役」として躍り出ることになる訳だが、この道化た性格はすぐにオーボエで始まる次の第二主題で強められる。
第一主題部の再帰がこれに続き、ロンド形式が確立されるが、今度は「何かの小唄をもじった」ような、ひねくれた半音階で歪められた第三主題(ロシア風にも、ユダヤ風にも感じられる。)が現われ、小太鼓の合いの手や、第一主題、第二主題に含まれる音階下降に基づくミュージカル風のリフレインと共に、いよいよ「くだけた雰囲気」を敷衍するように思われるが、不穏な感じの第一主題の冒頭部と交互に奏されて組み合わされ、ロンド・ソナタ的な扱いが為される。
この「展開部」は以外に長く、第一主題の素材から第二主題に移行して長いクレッシェンドを作り、「最後のクライマックス」としては「本来似つかわしくないはず」の第一主題を、金管群がいよいよ「凱歌風」に「鳴り物入り」で吹きまくり、小太鼓が連打され、トランペットが第三主題の、最初の提示で目立たなかった対位音形を派手に吹き鳴らし、堂々と「軍隊調」の「行進」を進める。(このグロテスクな「行進」は、この曲をどうしても「勝利の」「大交響曲」として祭り上げたい態度=旧ソ連の演奏に良くある=によって、身の程以上に「強調」され、かえって「作曲者の意図に沿う」という、皮肉な結果をもたらすことが多かった。)
交響曲は当該部分で明らかに内容的に「終わっている」のだが、ショスタコービチは「念を押す」ことをここでは忘れず、既出の材料を散りばめながら、ミュージカルやサーカスのようにストレッタによる「退場の音楽」をコーダとして鳴らし、ショウ・ピース的な派手な「打ち上げ」を付け加える。
前楽章で導入された「劇的な要素」が、フィナーレを舞台音楽のように仕立て上げている訳だが(但し、この「結び方」が、ベートーヴェンの「第9」のコーダの最終部分のイメージを反映していることも確かであろう。)、このように様式的、内容的に一貫しない、「ばらばら」とも思えるようなものが短時間に詰め込まれている形のショスタコービチの「第9」は、「ディヴェルティメント」として、彼のスタイルの「ダイジェスト」としての「まとまり」は持っている、とも言えよう。
それは「掛け値無しの傑作」とは言えないにせよ、まあいかにも「彼らしい作品」であり、いつもの実体の良く解らない「深刻ぶり」よりは、余程「採るべきもの」なのであろう。(以降、次回。)
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2007年08月04日

音楽の「言語性」とは?(123)

ショスタコービチの交響曲第9番の第2楽章は、ベートーヴェン、ブルックナー、マーラーなどの有名な「先例」があるにも関わらず、「通常の配置」に従って緩徐楽章を置いている。
これは第2楽章にスケルツォを置くことの方が多い彼としては「むしろ例外的」な措置であり、パロディカルであるとは言え、妙に「古典ぶった」第1楽章の「続き」としては「この方が適当」であるにせよ、これも「第9であること」を意識した結果と見る事も出来よう。
前述通り、冒頭楽章の規模が後続楽章の長さを制限しており、この第2楽章も彼の緩徐楽章としては極めて短いものの一つであるが、果たして「その分簡潔に」「無駄無く」書けているかと必ずしもそうでもなく、「短さ」は美点であるにせよ、実態は「いつものショスタコービチ」に戻ってしまう。
第一主題の分散和音+四度音程の構造は既に述べた通り、冒頭楽章から受け継がれたものであるが、半音階進行が節目ごとに現れるために、かなり違った印象を与え、単旋律に近い進行、同じ音色、似たような動きが続き、活発な第1楽章と対照的に「停滞感」が顕著であって、晩年に向かって登場の機会が多くなる独特の「薄い音楽」の端緒の一つとなっている。
第一主題部に感じられる「夜の音楽」の性格は、続く第二主題の半音階的に緩やかに上下する薄気味悪いスロー・ワルツによって強められるが(この「夜の感じ」は、彼が特に好んだ曲と伝えられるマーラーの「第7」の中間三楽章との共通性が感じられる。特に、マーラーの「第1夜曲」第2楽章の開始部、終結部や、ワルツのパロディである第3楽章スケルツォの曲想と類似している。)、第一主題とは対照的に和声的に滑るようなこの主題は、低音部では第一主題と同様の動きを繰り返しており、外見ほどには相違しておらず、むしろ「継続」の感じが強い。
第2楽章の主たる「材料」はこの二つのみであり、第二主題がヒステリックに盛り上がった後、彼の作品で頻出する「お決まりのフレーズ」の経過句が現れる他は(これ自体も後半部で反復される)、二部形式を乱すものは現れない。(第一主題部をもう少し簡潔にすれば「短い中間部」位は置けたであろうが。)
後半部は相応の変化を受けるが、高音域に移る第二主題部が幾分「安息の感じ」を醸し出し、楽章を落ち着かせる。この音楽は極めて印象的ではあるが、若いプロコフィエフが彼の「第1交響曲」で、どんな緩徐楽章を書いたか知っている者にとっては、何か「期待を裏切られた」気分にさせられる。
(第1楽章が、どうしてもプロコフィエフのこの曲を想起させるのは否めない所である。)
この「脱線」は、「モティーフ操作」の効果など亡き者にしてしまい、二楽章目にして早々に確立された「様式上の不一致」は、ここで聴き手に疑問を抱かせるものとなるが、これは後続楽章の責任というよりは、明らかに第1楽章における「意識し過ぎ」「作り過ぎ」「やり過ぎ」に起因していると思われる。
このため第3楽章は「メヌエット」(無論「ガヴォット」であるはずもない。)ともならず、彼本来の「スケルツォ」に「逆戻り」するはめになる。
「軌道修正」のためか、彼はここで「いつもの」皮肉っぽいスタイルよりは余程「軽い」、「メンデルスゾーン風な」ものを試そうとしたと思われる。
彼としては珍しい八分の六拍子を採るが、無窮動風のクラリネットに始まる主題が冒頭楽章の「分散和音の開始」を踏襲し、続く弦の弱奏が前楽章の第二主題と共通の「半音階の動き」を引き継いでいるなどの「配慮」はあるにせよ、実際には、誰でも気付く、中間部のトランペットによる「軍隊風」主題の酷似に見られるように、あくまで「第8」の第3楽章の延長線上にあるものに留まっている。(このスケルツォを何故か「高く評価する」向きもあるようだが、それはおそらく、珍しくも「メンデルスゾーン風」な所が「良く見える」のであろう。)
主部の再現が脱力していくように「解体する」新機軸はあるにせよ、「第8」同様の次の楽章へのアタッカの形成も前作のような、非常に「劇的なクライマックス」を呼び込む訳にも行かず、その「意気消沈」するような移行は、楽章の当初のコンセプトと合致していないだけでなく、よもやと思わせる、ここまで避けていた筈のベートーヴェンの「第9」への「直接的な言及」がトロンボーンの強奏の後で現われ、今度は「オペラティックな局面」が召喚される、という、しばしば退屈で無い事も無い、彼の交響曲でも一際立った「目まぐるしさ」である。(以降、次回。)

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2007年07月28日

音楽の「言語性」とは?(122)

ショスタコービチの「第9交響曲」が、音楽史上の有名なジンクスであり、「交響曲作家」と呼ばれる者にとっての大問題である「第9にまつわる伝説」、即ち、この番号を持つ曲が「絶対的限界」であること、数的にも内容的にも終局的な「聖域」であって、作曲家にとっての「最後のものであるべきこと」とされる「その数字」にこだわるあまり、また、彼自身の「第7」「第8」と続く「戦争三部作」の最後を飾るものであり、時期的にもまさしく「戦勝気分」の最中にあったことから当然周囲から寄せられる「記念碑的作品」への期待を意識するあまり、これらの至難な問題に「正面から立ち向かう」ことを避け、意図的に「シンフォニエッタ風」の作品を書いた事は良く知られている。
この経緯については「彼自身の言葉」とされるもので「全く正反対」のコメントがあり、「公式のもの」としては「偉大な作品を目指す」旨の「結果とは逆」の文句が、例の「ショスタコービチの証言」の中では「スターリン讃歌がどうしても書けなかった」という、「いかにも体の良い弁解」が見られ、いずれにせよ、この作品についての「まともな説明」とは言えないものが伝えられている。
ブルックナーが未完のまま「第9」を残したのを見たマーラーは、丁度「九番目」にあたる「全曲歌入り」ではあるが実質的には「交響曲」作品(直前の「第8」もまた「全て歌入り」であったが)を「大地の歌」と名付け、次の「純器楽」であるものに「第9」の番号をふって「問題」に対処したのと違って(しかし結局「第10」は未完となり、この「ジンクス」を強化することになった。だが、その「第10」は補筆完成版とは言え、良く聴かれるようになり、彼の「先の世界」について知られるようになった。未完にも関わらず、その最後のページは絶句するほどの美しさを伝える。マーラーの「限界」は「第9」ではなく「第10」であったのである。)、これは始めから「第9交響曲」として計画され、書かれているのだが、正面切った「真面目さ」を持ち合わせない見掛けとは裏腹に、彼としては珍しく「簡潔さ」「綿密さ」を目指した跡が見られ、その意味では「まともな作品」とも言えよう。(とは言え、例によって「極めて短期間で書かれている」ことに変わりはなく、これによる「練り方」の不均等と「無駄な音符」を発見する事は相変わらず困難ではない。)
この曲がベートーヴェン以来マーラーまで続く「偉大な第9」の系譜(シューベルトの無理矢理「第9」に「繰り上げ」された「大ハ長調」を含む)に比べると、規模、内容、品格のいずれにおいても「見劣りする」ように「わざと書かれている」ことは述べた通りだが、これは「当局」を激怒させただけでなく(彼らに「肩すかし」を喰わせたことで、かえって「身の危険」を招いた)、批評家や聴衆をも欺いたことになったのだが、彼が「演奏家はこれを好むだろう」とか言った通り、その時間的、管弦楽的な規模の「手頃さ」もあってか、一頃は「第5」の次くらいの回数は演奏されていたようである。
いずれにせよ、このような「事情」は曲の隅々にまで影響を与えており、とりわけ冒頭楽章には「第9であること」の意識は顕著に現れている。
ベートーヴェンの半音上の変ホ長調を使い、「第9交響曲」の「グランド・スケール」を知らしめるものである「序奏」は省略され、いきなり第一主題が出るのだが、これがベートーヴェンの第1楽章の第一主題のパロディーであることは指摘されている通りで、下降する分散和音と、音階的に上下する動きや旋律のアウトラインは良く似通っている。但しベートーヴェンが主題に与えた微妙な「リズム分け」は放棄し、ハイドン的な「古典風」の扱いをしている。このため主題は「壮大さ」を持たないが、半音下げられた第三音をトリルで強調したり変拍子を用いるなどして「古典風」の装いをぶちこわすような操作もしている。
ベートーヴェンでも重要な音程である四度音程は第二主題を呼び出す「号令」として用いられ、四度を順次上行するフレーズも耳につく。このような「イメージの利用」があるにも関わらず、この曲の「アンチ第9」的な性格は、彼のものとしても「最も短く簡潔なソナタ楽章」としてこれを仕上げることで決定的なものとなっており、そのパロディカルな内容と外見は「第9というもの」に期待する人々に冷水を浴びせ、怒らせるには充分以上である。(別に「期待」などしていなくても、これを聴いて「コケにされた」感じを持つ人は少なく無いように思われる。)
この第1楽章を持つ為に後続楽章の規模も限られるのは当然なのだが、奇妙にも彼は五楽章構成を採り、冒頭では顕著な「古典ぶり」をこの後全く見せず、単なる「短かいが、いつものショスタコービチ」に戻ってしまうのである。このため様式的な喰い違いが生じ、これが「シンフォニエッタ風」であるのは確かだとしても、最初に受けるプロコフィエフの「古典交響曲」のような印象は続かず、全体の統一感は得られない。(もっとも、ショスタコービチは、その「古典交響曲」のような作品を書こうとしていた訳でも無いようではあるが。)
ともあれ、冒頭楽章に限って言えば彼の作品としては「良く書かれて」おり、その「ふざけた印象」とは違う整理の跡が見られ、熟慮された節がある。但しこれも後続楽章にはあまり受け継がれず、単に「短く書いただけ」になってしまい、この点でも「不整合」をさらけ出している。
前述のトリルや変拍子、転調や不規則なフレージングなどが「素性」を明かしているとはいえ、楽章全体を吹き飛ばすような「破壊行為」は行われず、冒頭の主題の音調に「修正する」ように戻って行き、ぎりぎりのバランスは保たれる。
さきの四度上行を続けるフレーズが挿入されるのを合図に第二主題へと移行するが、第一主題の再帰を「取り消す」ように現れるそれは、トロンボーンの「号令」をきっかけに小太鼓が「軍隊調の」長ー短ー短リズムを刻み、ピッコロという「古典ぽくない楽器」でサーカス音楽のように響き、さらに度を超してパロディカルな音楽となる。
この吹奏楽のような主題が「軍隊的なもの」を揶揄しているのは明らかで、続く軽々しい小唄のようなクラリネットや御馴染みの同音連打モティーフが現れるルーティーンな書き方共々、念の入った強調が為されている。
展開部は短いが、無駄無く「必要充分」に書かれており、第一主題、第二主題と手際良く、それこそプロコフィエフの「古典交響曲」を思わせるような手際で進められるが、第一主題の「トリル部」に由来する動機が(モーツァルトの「第40番」のフィナーレ主題のようにも聴こえる)極めて「ショスタコービチ的」に繰り返され(このような短三度下降を反復するモティーフは、晩年の作品になるほど「お約束」のようにして現れる頻度が高くなる。)、再現部へと続く。
その再現部は「型通り」を思わせておいて、かなりきついデフォルメが施されており、特に、第二主題部において「号令」が早めに出過ぎて何度も繰り返すはめになる「脱線」と、その第二主題がソロ・ヴァイオリンに移されて今度は媚びでも売るようなものに変化する「擬人化」の効果が付されてることで、いよいよ「ぶち壊し気味」に進む。
展開部最後のモティーフにせき立てられたあげく、トランペットのファンファーレで閉じられるコーダもごく簡潔で、この「シンプルさ」自体が「パロディー」であるような音楽は閉じられるが、続く第2楽章を分散和音と四度音程という関連性で始めながらも、交響曲は「全く違った音楽」に迷い込み、交響曲の道筋は、その際立ったコントラストと共に「行方不明」の態となる。(以降、次回。)
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2007年07月21日

音楽の「言語性」とは?(121)

彼の交響曲中では「傑作」の一つとされるショスタコービチの「第8番」だが、その「存在価値」の要であり、しかし最も「問題」でもあるのが第5楽章フィナーレである。
「第7」に次いで規模の大きいこの作品を締めくくる役割を担うこの楽章は、実際には「アンチ・フィナーレ」とも呼びたくなるような、ネガティヴな「放棄」の姿勢、問題を「保留」にしたまま放り出すような性質を持っており、彼の「第5」「第7」に見られるような、少なくとも「表向きは明らか」であるような(あるかどうか怪しい「裏の意味」はさておいて)「勝利」を期待する人々に、ものの見事に「肩すかし」を喰わせる。(無論「取って付けたような」「それ」を描くよりは、余程「真摯な姿勢」と言えなくもないが。)
この「ネガティヴなフィナーレ」は、マーラー「第6」のそれのような「決定的なプロセスの進行」やカタルシスの要素も持ち合わせず、事態を開放したまま聴き手に委ねるような形で「重荷」を降ろそうと試みるのだが、その主要主題の「あまりに軽々しい調子」と楽章自体の構成、交響曲全体、特に冒頭楽章との関連性との間で「落差」を感じさせ、ここでも「ボタンの掛け違い」は発揮される。
冒頭楽章の半分ほど、第4楽章よりやや長い程度の演奏時間は、並列的な主題配置もあってか、やや密度に欠け、「クライマックス」としての冒頭楽章の同様部分の「引用」は(前述通りマーラーに見られる、アドルノの言う「突発」に倣ったものだが)、これが全曲冒頭の「序的主題」、つまりは「基本動機」に他ならず、彼がこの曲で「珍しくも」縦横に張り巡らせた「モティーフ操作」のために、かえって「効果を欠く印象」を拭えず、この楽章における意図的な「踏み外し」と、「シリアスさ」との間で軋轢を生み出している。
御馴染みの「詰めの甘さ」による不備が楽章を複雑な印象のものとしているのだが、これは前楽章からアタッカでいきなりファゴットが吹く第一主題に象徴的に現れており(「勝利のハ長調」は「冴えない音色」の、この楽器のソロで早速「出鼻をくじかれる」。)、出だしこそ基本動機の転回長二度形である「c−d−c」で始まるものの、三拍子でありながら殆ど「そのような感じ」を与えないリズム的な不明確さや、必要以上に「c−d」音を呪文のようにやたらと繰り返したり、フレージングも不規則でばらばらだったりと、この位置に置かれる「主題」らしからぬ鼻歌めいた「いい加減さ」であり、わざと「ひどい出来」に書かれているような印象すら与える。(彼の主題が「練られていない」ことが多いのは事実であるが、それにしても「これはないだろう」とすら思わせる。)
ここにおける「三拍子」は、譜面を見る者にしか解らないようなもので、はっきりと「拍子感」が感じられる個所では、かえって二拍子ないし四拍子の律動を示しているような有様であって、ソナタ形式の外形を備えるこの楽章の「展開部」で、それらの拍子が指示されることで馬脚を表している。
全体としては、当該個所において逐一「変拍子」として書かれるのがふさわしいのだが、作曲者は明らかに「三拍子」にこだわっており、この「あまりフィナーレらしくない拍子」を利用する考えにとらわれているようである。第2楽章でも指摘したような「三拍子」で書かれているが「そうなっていない」音楽が再び現れる訳だが、「理念」と「実際」が簡単に喰い違ってしまう「原因」は、やはり彼の「速筆」、性急に書きたがる「代償」とも言える。(これは、注意深く、慎重な作曲家なら「あり得ない」間違いであり、ベートーヴェンはもとより、例えばブラームスのような人に「こんなページ」が僅かでも見つかるかどうか、考えて見れば良い。)
但し、この楽章とて、「リズムに沿った書き方」がされた個所もあるのではあるが、実体は「四拍子主体の変拍子が頻発する楽章」であって、唯一「三拍子らしい」例外は第二主題のみである。
第一主題の「確保」とも呼べないような、なし崩しの「持続」の後、明らかに「ワルツ調」を模した主題がチェロに出るが、この旋律は第一主題が自身のクライマックスとして持ちながら後の展開には殆ど利用されない「ラミソ」という音列を元としており、ここでもモティーフ操作上の配慮が見られるが、第二主題はあくまで「エピソード」に留まっており、「展開部」では殆ど無視されたままである。
この楽章は第一主題に象徴されるように「基本動機(「C-D−C」)」に固執しているが、当該モティーフの「シンプルさ」と作曲家自身の「様式」もあってか「ベートーヴェン的緻密さ」は望めず、このため「前進する性格」も、これも第一主題同様、まるで持っていない。
楽章の形式的な、内容的な「核心」であると言える、展開部におけるフガートも「第4」の時のような切迫感は無く、むしろパロディカルである。
再現部が第二主題から第一主題へ、という彼によく見られるパターンを示しているためもあって、より「中心」という印象を与えるその展開部だが、テンポが早まることもあって、むしろ「アレグロ主部」の感があり、それ自体として「新しい主題」を持っている。シンコペーションと後打ちリズム、薄気味悪い半音階でバス・クラリネットに現れるその主題は第一主題の副次部とも共通性が高く、続く第一主題自体の「展開」の「序」ともなっているが、その皮肉っぽい調子によって、主題の「実体」を暴露しているようにも響く。
この「展開部」は比較的無駄無く書かれており、フガートや印象的な付点リズムを持つ旋律(実際には第一主題の素材)によって緊張を高め、冒頭楽章の展開部の終わりと再現部の始まりを兼ねた「クライマックス」の再現を呼び出すが、これは何故か本来の長二度形から短二度形に変えられており、「c−d−c」を繰り返すこの楽章の前後の脈略と齟齬しており、「紋切り型の再現」を避ける意図はあるにせよ、マーラー「第2」のフィナーレに出てくるような打楽器のクレッシェンドを伴うそれは、何か空疎な「外面的効果」に終わっているように感じられる。(これは「承知の上」かも知れぬ。)
再現部は、展開部の始まりの半音階的旋律から入り(この事は楽章の性質を良く示しており、長々と続く第一主題と続く第二主題は「注釈付き」の「縁取り」的なものであることを仄めかす。)
さきに述べた通り、逆の順路を辿って急ぐようにして終結へと向かうのだが、提示部より幾分明るさを帯びた第二主題が、コーダとしての第一主題を呼び出すものの、当初からの「くだらなさ」は一向に変わらず、何の進展も無いまま、これまでの経過が「徒労に終わる」かと思われる時、高音域の弦のゆらめくような和音が終結の雰囲気をもたらし、音楽は前楽章のような「弱奏の世界」へと移行する。
「第4」のコーダに似た終結は、ハ長調の和音がヴァイオリンの高音で持続される中、フルートの低音で強調されたヴィオラのピッツィカートという「意味ありげな音色」が「c−d−c」動機をまばらに奏し、楽章冒頭の七小節を引き延ばすような形で(第二主題も僅かに振り返られる)繰り返しながら消えてゆく。
このハ長調の和音は妙に不自然にも感じられ(「第15」の終結部のイ長調の和音も同じ機能を持っている。)、「第4」のコーダにおけるハ短調和音の、決定的な「終局的な印象」を与えるそれとは異なっている。
「リアルさ」のない終結は、全てを「先送り」にし、「問題」を、うやむやに「遠ざけた」だけのようにも感じされ、それを聴き手に突き返している。
絶妙にも、ここまで緊張を強いられて来た聴き手の意表を突き「怪訝な顔を引き出させる」このフィナーレこそが「第8交響曲」を意義深いものとして知らしめているのであるが、音楽的にも内容的にも「大して褒められたものでもない」出来具合のこの音楽は、まさに両義的に、その「失敗の度合い」によって前後の「第7」「第9」のタイプこそ違うものの、いずれも派手な「ぶち上げ」式の終わり方に対して、圧倒的にアクチュアリティを有している。(この類の「脱力系フィナーレ」は、違った形で発展されて「第13番」「第15番」において「成功」を収めることになるのだが。)
これはショスタコービチならではの「産物」であり、この作曲家の「詰めの甘さ」と音楽の有り様とが奇妙に一致した、在る意味での「偶然の産物」なのである。(以降、次回。)
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2007年07月14日

音楽の「言語性」とは?(120)

ショスタコービチ「交響曲第8番」の第2、第3楽章で続いた「狂乱状態」の持続は、パッサカリアの形式による第4楽章によって「冷却」される。
前述の、全曲のクライマックスを為すこの楽章の導入部は、実際にはまだ第3楽章の「続き」であって、短二度の上昇モティーフを繰り返して最大音量をもたらすが、その余韻のままパッサカリア主題が強奏されるものの次第に減衰し、後はピアノ乃至ピアニシモの世界が延々と続く。
(以前ヴォーン=ウィリアムズの「第6交響曲」について考えた際に、そのフィナーレとショスタコービチのこの第4楽章の類似性について指摘したが、これらの音楽は、いずれも極めて薄いオーケストレーションによる弱音の世界の持続によって、決定的な「カタストロフ後」の「死屍累々とした」、もしくは「無人となった世界」を示すような、冷え冷えとした、「凍り付いたような感触」を伝える。
前者ではそれが「フィナーレ」であるだけに「その印象」は決定的なものとなるが、ショスタコービチでは第5楽章への長大な「序奏」のような機能を果たしており、自ずと性格は異なっている。)
パッサカリア主題は「基本動機」の繰り返しからなっており、「gis-fisis-gis」「h-c-h」と始まり、短二度音程の下降、上昇形、そこから派生した短三度順次上昇を組み合わせているが、嬰ト短調の調号が付けられているものの、実際にはホ短調、ニ短調、ハ短調という具合の二度ずつ下降する転調の性格が付されており、調性感は極めて曖昧である。(フィナーレの「ハ長調」の遠隔調であり、これを「長く鳴らすこと」で「ハ長調」に違和感を与える事が目的とも思えるが、それなら増四度の嬰ヘ調の方が有効であろう。)
この低音主題に乗って全部で十一の変奏が認められるが、いずれにせよ変化は少なく、ダイナミクス上のコントラストが不可能であるために、前述通りショスタコービチには稀な「繊細な響き」によるオーケストレーションが極めて重要な要素となっている。
この楽章の「眼目」は、その遅い速度とおぼろげな進行が一種の「停滞状態」を作り出すことによる「保留する感じ」であり、そのために作曲者は「ある程度の時間的な長さ」を必要としており、このため主題が固執している「付点二分音符+付点八分音符+十六分音符」の繰り返しのリズム形は「四分の四」という拍子の選択をもたらしているのだが、最初の「付点二分音符」が「二分音符でない」ことで「四分の三拍子」という「パッサカリア」では最も一般的とも考えられる律動が回避されていることになる。これは「情報量」としては「二分音符」で充分なはずであり、二分音符でない「付点」分は単なる「引き延ばし」であって、そのリズム形の繰り返し分の分だけ当然に楽章全体が「より長くなる」結果をもたらしているが、それによる「間延び感」に「意味がある」というよりは、むしろ「フィナーレを三拍子で書く」というアイディアにこだわったためとも思われ、後述するが、それが実際には「あまり三拍子でない」結果となっていることを考えると、前楽章が「二分の二拍子」の律動を終始強調していたことから考えても適当であるとも思えず、いずれにせよ「密度の無い音楽」を指向しているだけに、この「より冗長」となる措置は疑問である。
それならそれで「もう少し短く書く」という考えも無いようで、演奏にもよるが、この楽章はフィナーレと同等の時間を費やす結果にもなり、意外なほど短いフィナーレのコーダ部と相まって、作曲者御馴染みの「計算違い」と「悪いバランス」を露呈している。(このような部分だけでも、この作曲家が「沈思黙考」したり「深謀策慮」したりするタイプでは無い事が解る。このようなことは「意図的な踏み外し」とかいうレヴェルの問題でなく、そのアイディアの「鋭さ」にも関わらず、異様な「鈍感さ」が併存していることをを証明しているからである。「傑作」とされる「8番」でも良く見ると「この有様」であるから、未だに続く「5番」の名声も仕方無し、かも知れぬ。)
いずれにせよ、「ボレロ」の余波はここでも続いており、前楽章に続いて、作曲者がこれにこだわっていることは明白で、この「ある程度の長さ」も、それを裏打ちしている。
音楽自体は彼自身の「6番」の冒頭楽章の後半部とも共通する、客観的な「事象」の印象が強く、楽器法も類似しているが、管楽器の用法も含めて、マーラーの「大地の歌」の最終章「告別」を思い出させる部分が多い。変奏そのものについては「省略可能」な部分が多く、主題の「長さ」に縛られたような点が気になるが、ともかくも、この「繊細な響き」は交響曲全体の中では充分に機能しており、フィナーレへのアタッカまでが想像以上に長いとは言え、ベートーヴェンの「第5」とは正反対のような「ハ長調」の到来を新鮮に感じさせる役割は果たしている。
ここでも引き合いに出す事になるが、そのベートーヴェンは、「第5交響曲」ではない「ピアノ・ソナタ第21番」、一般に「ヴァルトシュタイン・ソナタ」と呼ばれる曲の中間楽章を「アンダンテ・ファヴォリ」として知られる音楽から「より短いもの」に書き改める際、ここに見られるような「ストップ・モーション」的効果を適用している。
それが簡潔で実に見事な効果を持っている事は良く知られているが、調性感の曖昧なその音楽から、ハ長調のフィナーレに移行する際に与えられる「色彩感」や「光の印象」といったものはピアノの「枠」を全く超えており、しかし、どんな演奏でも感じられるような「確かさ」を持っている。(以降、次回。)
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2007年07月07日

音楽の「言語性」とは?(119)

ショスタコービチ「交響曲第8番」の第3楽章は、彼の書いた数多い「スケルツォ風」の音楽の中でも際立って特異なもので、「同じ音楽」を「何度も繰り返し作曲しがちな」この作曲家が「ただ一度限りの方法」を用いて成功した、最も印象的な音楽の一つとなっている。
この「成功」は、極めてシンプルな書法、ミニマル・ミュージックさながらの、少ない素材と反復の要素によってもたらされる、「自動作曲」とでも呼びたくなるような、恣意性の少ない「機械的な運動性」が、「戦争」を題材にした、この交響曲全体の文脈上にあって「新たな意味」もしくは「象徴性」を与えられる結果となっていることによる。
このような「機械音楽」のようなものは、別に取り立てて「珍しいもの」という訳ではなく、以前プロコフィエフの「第2」の時に触れたように、この高名な同国の先輩の作品には「このような要素」が含まれることが少なく無かったし、良く知られたモソロフの「鉄工場」とか、最も有名な例である「交響的運動」と前置きされたオネゲルの「パシフィック231」などがあるように、むしろ「ひところは流行った表現法」であったと言っても良いくらいだが(ショスタコービチとは「因縁付き」のラヴェルの「ボレロ」なども「この類」に含めて良いかも知れない。実際、この第3楽章は、前作「第7」第1楽章の「先例」無くしては、このような形で「交響曲」に含まれることは無かっただろうとも考えられる。)
当然これは「無窮動」の形をとるが、拍子も変化せず、最初から最後まで、四分音符の角張った分散和音的オスティナートによって、幾分「行進曲風」の二分の二拍子で突き通される。
このオスティナートは、分散和音や短三度音程を中心とする音形がランダムに現れる「持続する旋律」としても機能するが、重要なのは、その「リズムの刻み」と、二つないし四つの音符単位のフレージングであって、この律動のために「機械性」が生じているのである。
これが続けられる上に「e-e↓」、「e-f-e↓」という「基本動機」による「信号」のような音形が点描的に現れ、これにスフォルツァンドの付いた和音のアタックが「合いの手」のように挟まれる。
主部の「材料」は、文字通り「これだけ」であり、これらは相互に干渉せず、不規則にランダムに構成され、楽器法的に増強されることで音楽は進行する。(途中、チャイコフスキーの「第4」のフィナーレのコーダ部に現れる、管と弦の「掛け合い」が歪められ、異常に引き延ばされたような部分が挿入されるが、いずれにせよ四分音符の律動は消えない。)
オスティナートは中間部では「伴奏」としてショスタコービチの好む「ギャロップ風」の後打ちリズムに変化し、案の定トランペットが「サーカス」さながらに、ふざけた旋法的な上昇音階で登場し、分散和音のファンファーレで「まとまった旋律」を吹くが、明らかに「軍隊のカリカチュア」であるこの部分は、ファンファーレと上下する「歪んだ音階」、トリル風の弦の副次旋律によって紛う事無き「パロディー」であることが明示される。
これが遠ざかるように減衰した後、主部の回帰は半分ほどに短縮、変形され、「切迫感」を煽ることになるが、もともとが「バラバラの音楽」であるために「変化」の印象はもっぱらオーケストレーションによってもたらされる。
オスティナートを「とっておきの」ティンパニが連打するクライマックスはそれだけで「終局的な印象」を与えるが、この楽章は強奏ながら「半終止」で終わり、最高潮部分は次の第4楽章の冒頭部としてずれ込み、この交響曲で最も「劇的」で印象的な部分を形成している。
このような前後の楽章による「脈略」と中間部で増強される「戦争の印象」は、この楽章を単なる「機械音楽」として受け取ることを許さず、その無機的な材料に「信号」とか「砲弾の描写」とかいう連想を与えたり、無神経に進行する「暴力性」の存在を感じさせることになり、この楽章に「実際には書かれていない意味」を与えることに成功しているのだが、これはショスタコービチが狙い済まして「的の真ん中」を射当てた「最高の事例」であり、この交響曲で最も「無駄無く」書かれた部分であることと、第3楽章という「位置」も含め、まさに「一回限り」の出来映えを示している。
この「無味乾燥」風の音楽は、彼が他の作品で「意味深く」あろうとして書いた思わせぶりの音楽よりも余程「多くの事象を指し示して」おり、彼の書いた最高の「メタ音楽」と言える。
前述の第4楽章との「ブリッジ部分」をもって、以後、交響曲は「坂を下る」こととなるが、この「坂下り」は、いささか長過ぎ、緊張を保ちきれない部分がある。
それでもしかし「第8」が「傑作」と呼ばれうるのは、この第3楽章の存在があるからであろう。(この交響曲では「スケルツォ楽章が連続する」訳だが、仮に「省略可能」であるとして、この楽章が「無い場合」に、果たして「交響曲全体がどのように感じられるか」想像して見ると良い。)
このような「手」が、二度、三度と「使える訳でない」のは確かだが、ベートーヴェンが、こうした「一度限り」としか思えないような事を、実に「何度となくやって見せた」のが思い出される。
しかし残念ながら、ショスタコービチには「同じ事」は求められないのである。
彼の十五の交響曲の「真ん中」に位置する「第8」の「中心」に置かれた第3楽章は、その場所にふさわしい「特別なもの」であるが、これに匹敵するような「事象」は、おそらく後の「第14」の中のページまで至らないと、見いだす事が出来ないように思われる。(以降、次回。)


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2007年06月30日

音楽の「言語性」とは?(118)

5楽章構成を採るショスタコービチの「交響曲第8番」では、長く重い冒頭楽章の後で二つの「スケルツォ風」の楽章を連続させる、という異例の扱いが見られる。
このどちらも「まさしくスケルツォ」というよりは「ひねりの利いた」もので、この措置を「理由付け」しているのだが、チャイコフスキーの「第6」やマーラーの「第9」の中間楽章の扱いを想起させる。
これはこの後の「ネガティヴなフィナーレ」へと導くための「先例」としても重要で、彼がこれらを念頭に置いていたのは、おそらく間違い無かろうと思われる。(このような例は後の「第10」にも見られ、そこではフィナーレに長いゆっくりした序奏が置かれ、やはり同一のコンセプトの「読み替え」と採れる。)
二つの楽章はいずれも短く同程度の長さで(しかし例によって「無駄無く簡潔」という具合にはいかない。)、それぞれの性格もはっきりと書き分けされているが、しかしどちらも四拍子/二拍子系であり、冒頭楽章、この後の第4楽章とテンポの差こそあるものの、二拍子系が四つも連続してしまうことになる。(このため、ショスタコービチはフィナーレを四分の三拍子で書き始めるのだが、曲想と一致しておらず、三拍子の律動は殆ど感じられない。)
これらはいずれも「行進曲風」の楽想を持っており、それも明らかに「軍隊風」のカリカチュアを意識している、という点でも同じである。また、第2楽章が「アレグレット」、第3楽章「アレグロ・ノン・トロッポ」で、それぞれメトロノーム指示されてはいるものの、似通ったテンポであって、実際これらを「明らかに違ったテンポ」で演奏するよりは、二つの楽章を「連続したもの」のように「ほぼ同じテンポ」で演奏する場合が多いらしいのも、これらに「一体性」を感じるからであろう。
第2楽章は変ニ長調であり、この交響曲の主調であるハ短調ーハ長調の半音上、という強いコントラストを持つが、一般には「荘厳なイメージ」として知られるこの調性と、この楽章の曲想は見事なまでに「不一致」な結果となっており、これは完全に意図的な「外し」であろう。
いきなりフォルテシモで入る主題は「Des-C-Des」という形で「基本動機」を繰り返しているが、これが半音形であることや鈍重な、引きずるようなフレージングや、後打ちで入る和音の扱いもあってパロディックに感じられ、冒頭楽章の開始と似たような書き方にも関わらず、大きくイメージは異なる。
後続のフレーズには半音階上昇が織り込まれ、鈍重さを強調する。基本動機を盛んに繰り返しながら進行するが、主題的なまとまりは放棄されており、さらに、変拍子を交えることで本来の「行進曲」の面影を薄気味悪く「崩す」意図が見て取れる。
トリオ部は何故か四分の三拍子となるが、後のフィナーレ以上に「三拍子」ではなく、彼の「第1交響曲」の第2楽章のトリオ同様に、彼が変拍子ないし違う拍子の音楽を「当てはめている例」で、彼がバランス的に「ここで三拍子が欲しい」という場合で「実際には書けていない」状態を示しており、この作曲家にしばしば見られる「理念と実際」が喰い違う典型的な「事例」である。
(こうした個所を「意図的」と「好意解釈する」ことは間違いで、彼は本当に「出来ていない」のであるし、要するに「練れていない」のである。)
このトリオ部の「実質」は、角張った感じの、二つの八分音符と四つの十六分音符の組み合わせと「ドシラソ♯ラ」という音形の反復で、これ以外の要素は全く「副次的」であるが、このリズム自体が「二拍子系」であるために無理が生じているのである。(彼は後で行進曲とこのモティーフの「重ね合わせ」を四拍子で行い、まさに「第1交響曲」の時と「全く同じ事」を繰り返している。)
いびつなフレージングや外されたアクセントは「変拍子」のそれで、「三拍子」の律動が現れるのは主部へ復帰する際に現れるワルツ風のクレッシェンドで、このモティーフによるのではない。
外形はA-B-A'-B'-A''で、主部のヒステリックな変形反復の後にトリオ部も再度現れるが、そこでは小太鼓の連打が攻撃的に繰り返され、はっきりと「軍隊的なイメージ」と結び合わされ、この貧相な素材による「出来の悪い音楽そのもの」に込められた「悪意の矛先」が何であるのかを明示する。
これを合図にAとBの「結び合わせ」があり、やがて音楽は疲労したように半音階下降を使って「解体」していくのだが、結局、無理強いするようなクレッシェンドが現れ「お約束」のフォルテの終結を運び、この交響曲で唯一の「目出度い終わり方」を迎える。
このパロディカルな音楽はショー・ピース風な振る舞いと内容との間で齟齬があるが、次の第3楽章の持つ「特殊性」には確かに「前置き」が必要なのであり、そうした、相互補完的な意味での「的確さ」は備えている。
惜しむらくは、この二つをアタッカで、即ち中間の三楽章を「全部繋げてしまう」措置の検討がされたかどうかや、相変わらずの「詰めの甘さ」が、この交響曲の「より多くの可能性」をスポイルしている点が、ここでも「見えてしまう」ことである。(以降、次回。)


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2007年06月23日

音楽の「言語性」とは?(117)

ショスタコービチの交響曲中でも最も充実した、「内容ある」冒頭楽章を持つ「第8交響曲」ではあるが、前述の如く、これを純粋に「そのもの」として聴くには、代表作「第5交響曲」を「知らないで」これに接するか、「第5」を「忘れ去っている」必要がある。
演奏によっては半時間あまりも要する、この「中心楽章」は、同じ位長かった「第7」とは違って、明らかに「ソナタ形式」の外形を備えているが、その構造については最初から最後まで、ほぼ「第5」の第1楽章のそれと一致しているだけでなく、序奏主題、第一主題、第二主題それぞれの性格や書法も何から何まで「酷似して」おり、素材自体は別とは言え、これは実質的に「同じ音楽の書き直し」に等しい。
モーツァルト時代ならともかく、このような時点で「大」交響曲の最も重要な楽章、それもすこぶる「シリアスな内容」のものについて「このようなこと」が行われる例は稀で、(これは「たまたま似てしまった」とかいうレヴェルの話ではなく、間違い無く「意図的」と考えられる。)「第5」における、幾分かは「個人的な内容」を感じさせるそれと比べて、明らかに「戦争」に影響された「より深い」ヴィジョンが与えられているとは言え、「第5」を知る者にとっては「フラッシュバック」は避けられず、これを「二番煎じ」と思わせる危険性はどうにも否定出来ない。
しかし「技術面」では大きな「差」があり、「第5」では明らかに「充分では無かった」、「モティーフ操作」による主題間、楽章間、ひいては全曲に渡っての「整合性」が見られ、「この面」においては、いつも大抵「ゆるい」この作曲家における「最も配慮が見られる例」となっている。
その手法は実にシンプルなもので、冒頭の序奏主題の「c−b−c」という二度音程に基づく動機が第一主題で「c−d−c」(フィナーレ主題とも一致する)、第二主題で「h−c−h」と変化し、第2楽章「Des-c-Des」、第3楽章では三番目の音がオクターヴ下がった形で「e-f-e↓」、第4楽章では「gis-fisis-gis」という具合に主題に埋め込まれ(これに加えて序奏部に現れる「es-f-g,d-es-f」といった三度の順次進行が多用される。)、この面では完全に「コントロールされた」姿を見せる。
これは「第5」よりも二十分は長いこの交響曲を引き締めており、いささか「強引さ」のある「第5」や、「拡散するのみ」の「第7」の進行とは全く違った緊張感を生み出している。
「第5」の冒頭楽章と「ほぼ同じ形式」と「似たような性格の主題」によりながらも、この第1楽章を本質的に「違ったもの」にしているのは、「内容」もさることながら、まさにこのためであり、この「基本動機」が、ごく狭い音程と動きを示していることも作用している。この動機は「第5」の冒頭のものとは違って「表情的」「感情的」では無いが、その代わりに聴き手を何か「集中させる力」を持っているのである。
その他の「第5」との相違点としては、各構成ブロックの拡大傾向と共に、第一主題に伴う弦のオスティナート音形が規則的にリズムを刻む「流れる」ものから、付点を持つ「引きずるような」一歩一歩進むようなものになっていること、同様に第二主題部が例の「長ー短ー短」リズムから五拍子の「いびつな」後打ちリズムのものに変わっていること、展開部が拡大されて「二段式」になっていること、そこで現れる「行進曲」が「軍隊調」というよりマーラー「第6」を思い出させるような「戦闘的」なものになっていること、序奏部の再現と展開部の終わりをクライマックスとして一致させる手法の踏襲に続いて、イングリッシュ・ホルンによる長い「モノローグ」が挿入され、それがそのまま第二主題の再現へとつながることなどが挙げられる。(彼に良く見られるこの種の「モノローグ」だが、「いたずらに時間を浪費する」印象のものも少なく無い中で、これは間違い無く「それらの中で最も優れたもの」であろう。)
これらの措置はいずれも的確に「内容の深化」とリンクしており、後年の「第10」の冒頭楽章などよりも、この楽章を「豊かなもの」としている。(それにしても「第7」とは「まるで別人」のような変わりようであり、この「落差」は殆ど「理解不能」に思われる。)
序奏の回想の後に第一主題の要素で閉じられる印象的なコーダは、似たようでいながら「第5」のものとは全く異なっており、前者の「問題」を「保留」し「中断」するような結びとは違って、マーラーのような「morendo」の指示のもとに、ハ長調の、しかし文字通りに「だんだん衰弱し」、そして「死に絶えるような」終止となる。これは彼の音楽の中でも最も厳粛で、美しい時間であり、彼の他の曲にはちょっと見当たらない、「稀な瞬間」である。こうして「不可避」のプロセスは終結するが、しかし交響曲はまだ続く。
この後、彼はおそらく「最善を尽くした」のではあるが、このような「時間」は、もうやってこないのである。それは「必要とされなかった」ためであるのか、「実現出来なかった」ためであるのかは、どうも解らないのだが。(以降、次回。)

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2007年06月16日

音楽の「言語性」とは?(116)

最近ではショスタコービチの「重要作」の一つと見なされている「交響曲第8番」だが、勝利に浮かれた「躁状態」の前作「第7」の巻き起こした一種の「ブーム」の後、一転して内向的な「鬱状態」に浸されたこの曲は、初演以来冷遇され続け、疎んじられ、発表されてもいない「第4」のように、番号打ちされながらも「無いもの」と見なされんばかりの扱いを受けて来たのである。
しかし、彼の「周辺者」の間では、この曲の「重要性」は明白だったとも思われ、曲を献呈されたムラヴィンスキーは、それに応えるべく「客受けなどそっちのけ」で、しばしばこれを演奏し、見事な録音も記録したし、ロストロポーヴィチはこの交響曲を聴いて「模作」を作曲した、と語っており、ザンデルリンクのような人も、かなり早い段階で重要な録音を残している。(それも東ベルリンで!)
とは言え、この曲の「不遇」には、やはり「それなりの理由」もあるのであって、それも「第7」の時のように「外的要因」が「曲そのものを上回る形」で「評価が生まれた」、というのではなく、あくまで「曲自体に原因があった」と考えられるのである。
この曲には、彼の音楽に馴染んだ者にとっては「既知」の音調や手法が多く見られ、それが過去の作品を「かなり具体的に」フラッシュバックさせるのだが(もっとも「これを言い出したら」彼の作品など聴いていられなくなる所がある)、曲の進行自体がそれらの「過去の事例」とは全く違っているため、これによる「違和感」がどうしても拭えないのである。
特に「同工異曲」と言えるほど類似している「第5」と「第8」の冒頭楽章が最大の要因であるが、「第8」で最も長いこの楽章が、明らかに「第5」の時よりも重要性を増しており、「作り直し」らしく「一層の充実」を見せているにも関わらず、現在に至るまでも「最大の成功作」である「第5」の「強い印象」がそれをスポイルし、大筋で似通った「途中経過」を見せながら「第5」とは「全く違う結論」へと至る筋書き、特に「何の解決も与えない」「ネガティヴなフィナーレ」が、さかのぼって「あまりに似ている」冒頭楽章への疑念まで生じさせかねないのである。
「第8」は「第5」を思い出させない訳にはいかず、まるで「影絵」のように響く。(私自身は「第8」の方をずっと好んで来たが、それは「第5」を聴かない、ということを意味している。)
また同じく「戦争」を題材とする前作「第7」との極端な「内容的なギャップ」は、いずれも「ハ短調ーハ長調」を主調とする点も含め、「意図的な書き分け」とかいうレヴェルを完全に逸脱しており、殆ど「謎」に近いほどに大きく感じられる。
「第7」より遥かに「まっとうな音楽」であるこの曲は、このような「他の曲との関係」のために「歪んで見え」、その「ネガティヴなフィナーレ」は、ほとんど「いい加減」とも思えるような主部の書き方や、どういう形であれ「解決の印象を与える」ことを放棄している終結と共に、場合によっては「誤魔化された」印象すら与えかねず、聴き手を「消化不良」にしてしまうのである。
しかし、この曲は兎角「裏の意味」だの「態度の使い分け」だのと言われるこの作曲家が最も「自分に正直に振る舞った」一例であり(「第5」とて「正直」と言えるかどうか、については既に述べた通りである)、「第7」の「超」の付く大成功で「好きな事が出来る」余裕があったか、或いはバルトークに盛られた「薬」が「てきめんに効いた」か、という所であろう。
この作曲家が「内面」に眼を向けた「精神性」が、ここで感じられるのは確かで、彼の交響曲の丁度「真ん中」に位置するこの作品は、その位置にふさわしく「伝統的な形」に沿った上での、彼の「最もまともな交響曲」の一つとなった。(楽章数の差はあるにせよ、彼の「交響曲」で「全体としてイレギュラーな形」でなく、「それらしい」冒頭楽章で始まるものは、十五曲のうち、何と「第4」「第5」「第8」「第10」の四曲しか無いのである。残りは「声楽入り」とか「何かが省略されている」か、「変化球」であるかのいずれかである。)
これは五楽章構成とはいうものの、第2、第3楽章で「スケルツォ的音楽」が連続し、それに緩徐楽章とフィナーレが連続する、という「第5」と同一と言っていいアウトラインを持っている。
但し、第2楽章は「行進曲風」、第3楽章は「無窮動」、第4楽章は序を除いて弱音が続く「パッサカリア」、という具合で、それぞれ明確なキャラクターが打ち出されており、それに「問題の」フィナーレが「第7」同様にアタッカで続く、という具合になっている。(これとそっくりの構成を彼は「弦楽四重奏曲第3番」において、同じような曲想を使って繰り返しているが、こちらの方を「より評価する」向きもあるようである。このような「使い回し」は、多作家である彼の「常套手段」である。)
このような構成は、彼のこれまでの交響曲としては「最もオリジナルなもの」と言えるが、全曲を三つのブロックとも採れる点からは、マーラーが「第3」や「第5」で「第一部」「第二部」というような楽章の「上部構造」を示唆していたのを思い出させるし、「問題の」フィナーレにせよ、冒頭楽章の音楽、特にクライマックスを再現する、というマーラーがよくやる手法が見られる上、楽章自体の性格や構成においてマーラーの「第7」のそれを参考にしている節がある。(ショスタコービチが「マーラーの影響」を見せる事は珍しくは無いが、中でも「第4」と並んで「第8」は、かねてから「マーラー的」とされてきたものである。)
このような「伝統的な手法」を意識した時のショスタコービチは、「妙にツボにはまる」場合があり、これは代表的な一例である。こうした曲が、彼を「交響曲の伝統の継承者」呼ばわりする時の格好の「言い訳」になっているのである。(以降、次回。)

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2007年06月09日

音楽の「言語性」とは?(115)

「交響曲」において何がしかの「勝利」に類するような「概念」を表現することは、ベートーヴェン以来「典型的事例」の一つとなったと言えようが、ショスタコービチの「第7」のフィナーレ第4楽章は、その「伝統」の最後期のものに属する。
これは「交響曲」ジャンルの「衰退」そのものともリンクしていると思われるのだが、このような「概念」そのものが時代の推移と共に「信頼に価しない」ものとなり、それを表現すること自体が「疑念」を持たれる対象と成り果てたので、後年においては、「胡散臭い」か、「偽善的な」ものとして響きかねない「危険なもの」に変化してしまったのである。
ブルックナーのように「このような問題」に対して、無邪気にも「全く無頓着」で、「本気」でこれを「やってしまう」人もいるが(彼の「第5」とか「第8」のフィナーレに典型的に見られるように。「第8」の最終段階で現れるトランペットの分散和音のファンファーレを聴くと、その「本気具合」に未だに唖然とさせられるのだが。その音楽はしかし「パロディ−寸前」なのである。)、マーラーでは「問題」は特に顕在化しており、彼は様々な「対処法」を開発し、それを曲ごとに驚くべき多様さで「書き分けて」いることは言うまでも無い。
(ブラームスのような人も「この問題」には気が付いており、例の「第1」は「ご愛嬌」としても、「第2」で「祝典的」な終結を書いた後、「第3」で「ワルキューレ」の結びのような静かなコーダを、「第4」では「伝統的な」和音連打によりながらも、厳しい短調の響きで閉じている。)
ここでのショスタコービチは「戦争における勝利の描写」の名の下にこれを「正統化」し、この曲の人気に結びつけた。(さすがに彼も「この手」は何度も使う訳にいかず、次の「第8」では「精神的にはまっとうな」フィナーレを書こうとした。彼の「第9」の結びが「そうしたもの」でないのは「そうである」と信じたがる当局や一部の演奏者以外には明らかだったが、忘れた頃の「第12」で、今度は「革命における勝利」のお題目と共にこの「趣向」は復活を遂げる。しかし、これは全体的には比較的簡潔にまとめられているものの、「第7」ほどには成功せず、共感もされなかった。)
無論、「第7」の時は未だリアルタイムに実際の「戦争」が進行しており、最終的な「勝利」は「来るべきもの」として描かれ、むしろそのことがこの曲の未だに続く「過大評価」につながる「思い入れ」を呼び込んだのだが、その「役割」を一手に引き受けるこのフィナーレは、第2、第3楽章における延々たる「保留」状態から「戦いのさま」の描写と「勝利」の表現まで果たさねばならず、作曲者はさらにクッションとして「葬送」、即ち「尊い戦死者に対する哀悼の念」をこの二つの間に挟み込んだため、内容的には「多くのもの」が期待されるのだが、実際には、それらは充分には行われず、もっぱら「勝利の印象」を強調することで「不備」を消し去ろうと努めているのである。
長さ自体も二つの中間楽章とほぼ同等であって、「ボレロ」で肥大した冒頭楽章に匹敵する訳でなく、さりとてこの作曲家の常で、それを埋め合わせするような「密度」も持ち合わせておらず、前記の「戦い」「葬送」「勝利」の三段論法を羅列した「標題音楽のようなもの」として成立している。
この構想のために、ついにこの「大交響曲」は「正規の」アレグロ・ソナタ楽章を失ったまま閉じられるはめになるのである。(これがマーラーなら、フィナーレを冒頭楽章と同等か、それ以上の分量、内容の音楽を書いたことだろう。もっとも、彼はこの曲のような「構想」を抱くはずもないが。)
前楽章からアタッカで続き、序奏部があり、冒頭楽章の不穏な空気を呼び覚まそうとしているが、前述通り、前楽章からの「場面転換」が充分でないため、楽章の継ぎ目は曖昧であり、序奏部自体もベートーヴェン的な「主題生成部」のような見掛けを指向しているものの、第1楽章第二主題と同根の序奏主題に、主部の第一主題の一部と、その主題のハ短調という調性と共にベートーヴェンを思い起こさせる四連音の同音反復音形(これをモールス信号の「V」、「勝利のV」であるとする説もあるが、コーダでやたらと繰り返される所を見ると図星なのであろう。)が順次現れているだけの「荒い造り」である。
その第一主題が「ベートーヴェン的闘争」を模倣しようとしているのは明らかであるが、いささか個性に乏しいようにも思えるその主題は、序奏にも現れる主題開始部の付点リズムを、殆ど以後の展開に「利用しない」奇妙さと共に、過去の彼の交響曲で「聴き覚え」のある、例えば「第5」「第6」のフィナーレのような音調が主体であり、その即興性が「描写的なもの」を指向しているらしいにせよ、単一主題を即刻「展開」することで、これまで浪費した時間の「穴埋め」をしようとしたにせよ、いささか散漫な印象は否めない。この「実体感の無さ」の為か、これを長くは続けず、「信号的にも」意味ありげな四分の七拍子の反復リズムに収斂した後、「中間部」として件の「葬送」のサラバンドが現れ、またもベートーヴェンの影(無論「エグモント序曲」である)が感じられる。(これまたリズム的、調的に第3楽章中間部と類似しており、効果を削いでいる。)
しかし、この後も「闘争的」アレグロのテンポは戻らず、ショスタコービチは第一主題の材料を用いはするものの、この後をそのままのテンポで「終結までの巨大なクレッシェンド」として設定している。これは「第5」フィナーレのコーダへの移行部を猛烈に引き延ばしたようなもので、実に息の長いクライマックスとなるが、最後には、フィナーレ主題と組み合わされてブルックナーばりに交響曲冒頭の主題が回帰して強奏されるに至ると、金管の「別働隊」まで動員した作曲者の躁状態も最高潮となり、圧倒的な音量が、欠点だらけのこの「交響曲」を目出度く締めくくる。
彼はこの巨大な作品を「四ヶ月足らず」という「驚くべき短期間」で仕上げた、とされるが、確かに「そのように作られた」としか考えられない「出来映え」を示している。(「何度聴いても感心出来ない」この曲に今回は敢えて「お付き合い」してみたのだが、やっぱり感心出来ず、「何が気に喰わないのか」について逐一確認させられるはめになった。)
前述通り、因縁深いバルトークの「管弦楽のための協奏曲」が、長さこそ「第7」の半分程度とは言え、期間も半分の「たったの二ヶ月で書かれた」と伝えられ、しかし圧倒的な「充実」と「内容」を示していることを思えば、例の第4楽章における「嘲笑」も、さらに象徴的に際立って来る。
「世間的な成功」という点でも、結局バルトークは「完全に勝利」しており、この曲には作曲を委嘱したクーゼヴィツキーの何年間だかの馬鹿げた「独占演奏権」があったが(但し、彼は困窮し病気に苦しんでいたバルトークに「それが吹き飛ぶような大金」を支払ったそうである。)、それが「期限切れ」を起こした後、指揮者達は争って演奏したがり、それ以来絶える事無く演奏会レパートリーの「王道」で有り続けているのである。
そしてこの作品は、実質的にはバルトーク唯一の、かけがえの無い、見事この上ない「交響曲」なのである。(以降、次回。)
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2007年06月02日

音楽の「言語性」とは?(114)

何かと物議を醸しがちなショスタコービチ「交響曲第7番」だが、第3楽章については、比較的その「対象」とならずに済んで来たように思われる。 
当初、四つの楽章それぞれに付けられていた標題(削除されたとは言え、こういうものの常で、結局「言及されないことはない」のだが)の中で「祖国の広野」というものが割り当てられたこの楽章は、描写の対象が「自然」という「最もケチのつけにくい題材」であることと、とりあえずは「そのイメージに合った」音楽となってはいるため、これを彼の「この種の音楽」の「傑作」とみなす意見もあるほどだが、それはともかくとしても、最初と最後の楽章の持つ、どうにも拭い難い「胡散臭さ」や、第2楽章の「薄もや」で隠蔽した(つもりの)独善的な「回想」とやらに比べれば、はるかに「問題の少ない」ものであることは確かであろう。
これが「成功し易いネタ」であるとしても、彼がこの楽章の冒頭から作り出す、管とハープによる凍りついたような「硬い」コラールと、それに続くヴァイオリンによるレチタティーヴォ風の単旋律の野太い「歌」という組み合わせは、どう見ても「交響的」というよりは「オペラ的」であり、幾分安易さを感じさせるとしても充分に効果的であり、印象的である。
とは言え、それでなくとも「即興性」の強い作風の彼が、この交響曲で「実践」した「安易に長くする傾向」は、この楽章でも歴然で、前回述べたように、直前の第2楽章との形式的、性質的類似とも相まって、双方合わせて半時間以上かかる「冗長さ」には、しばしば辟易させられる。
ことに形式上の類似は「ほぼ同一」と言って良いほどのもので(どちらも大体においてa-b-a-c-a’-b’-a’’の形に収まっている)、作曲者の「配慮」とも採れなくもないが、むしろ「無作為」振りを示すものと言って良い。(マーラーとかブラームスのような人なら、このような場合、必ずどちらかを「それと分るほど」短くし、長い方、例えば第3楽章なら「二重変奏曲」などに仕立てることだろう。無論、形式を「同一」にすることなど「論外」であって、絶対にあり得ない。)
ショスタコービチの場合、さらにフィナーレでも標題音楽的な「サラバンド」を挿入することで「似たような図式」を「三たび繰り返す」という事態を招いており、この作曲家が具体的な「手本」を「参考」にしなかった場合、「どういうことになるか」を示している。
冒頭から強奏されるコラールは「荒々しさ」や「古風さ」を装うべく不協和音が多用され、機能和音が拒否されているが、実際には上声が示している「旋律線」が重要であり、これに続くヴァイオリンの「歌」と共通の動きを示しているが、これが第1楽章第二主題に由来するものであることは、その「性格」からしても当然であろう。
ヴァイオリンの第一主題は「何か既知のものの引用」のようにも聴こえるが、実際の音の動きはかなり即興的であり、幾分民族音楽風のものを感じさせ、「イメージ喚起」的である。
これとコラールが交替しながら互いに変化しつつ進むが、「変奏」とかいうよりは「同一のものが持続している」感じが強く、「時間遅滞による停滞感」と「空間の広さ」が重ね合わされている。
フルートによって第二主題が現れるが、長調か短調が明確でない第一主題から「明確に長調」となる以外には目立った差異が無く、これも同じ楽想の敷衍に属しているが、実際に第一主題後半部を「引き延ばした」ような性格を持ち、これまた延々と続く。
コラール含めた第一主題部が復帰し、中間部となるが、これまたテンポが速くなり、リズムの固執が見られる、という前楽章同様の「構図」であって、繰り返す通り、この後の処理共々、「同じ趣向」の楽章を連続させようとした、としか考えられないような類似だが、だとしても「その意図」が何であるかは良く解らない。
はっきりしていることは、それがどう見ても「効果的ではない」ことであるが。
中間部は一貫して付点リズムによる「騎馬行」を思わせるような動きが一貫して用いられ(途中でリズムが細分化され、マーラーの「第7」冒頭楽章の序奏部を思わせる部分がある)、これも「イメージ喚起」に徹している。
音楽の進行自体は彼が交響曲の冒頭楽章の「展開部」で見せるような手法が見られ、一種の「行進曲」風の性格による攻撃的なリズム反復と、クライマックスと一致した第一主題部の回帰(ここでもコラールが金管で復帰)、という典型的なパターンを示しているが、第3楽章の中間部という「この位置」であることが、どうにも疑問を抱かせる。
この「第7」では、例の「ボレロ」が第1楽章の「展開部」の「代用」であった以上、「この種の音楽」が現れる余地が無かった訳ではあるが、では「代わりに出現すべき場所」として「ふさわしい」ものがあるとすれば当然「フィナーレ」が相当なのであって、しかし意味論的には「ふさわしくない」のだとすると、敢えて「前倒し」して「ここでやる意味」があるのかどうか、これも良く解らず、そもそも「違った処理」を「何故しないのか」も謎である。
主部の回帰については、当然「短縮されている」こと、第二主題が前楽章同様に低音域に移され(あれほど際立って低くはないが)、ヴィオラ、チェロが用いられること、コーダで「暗い領域」が準備されてアタッカの指示のもとにフィナーレに直結していること以外には述べるべき点がない。
この「暗い領域」は、それまでの音楽の感触に第1楽章の「世界」が「侵入」することでフィナーレを「準備」しようとするものだが、第一主題とコラールの「暗い変奏」であることで「移行」する性格を失っており、そのためフィナーレでさらに「序奏」が必要である、という「境界」の曖昧さを生じている。無論、ベートーヴェンの「第5」のイメージを利用しようとしたものであるこの「措置」は、これからやって来るのが「勝利」であるとはいうものの、取り敢えず、これまで「先延ばし」してきた「闘争」を描かねばならない、という以上「違った意味」にならざるを得ず、ここにも作曲家の「計算違い」があるように思えてならない。
しかも、彼は肝心のフィナーレを「長く持ちこたえる事が出来ない」のである。(以降、次回。)
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2007年05月26日

音楽の「言語性」とは?(113)

ショスタコービチ「交響曲第7番」の第2、第3楽章は、当初付されていた標題によれば、それぞれ「回想」、「祖国の広野」という具合で、冒頭楽章「戦争」、フィナーレ「勝利」との間に挟まれた、いわば「本題から少し離れた」、「補足」的な意味の「間奏曲」ということにでもなろう。
とは言え、はっきりと「祖国」と記した第3楽章と比べ、題から想像されるような「民族の歴史」云々ではなく「何か個人的なもの」と感じられる第2楽章では明らかにスタンスが違い、そこでは、どうも焦点の合わない音楽とも相まって、「間奏」としての性格をより強く感じさせる。
そのあたりの事情に配慮したのかどうか知らないが、両者には音楽的には類似点が多く与えられ、「本題」の両端楽章における「ハ短調/ハ長調」から大きくはなれた「ロ短調/ニ長調」の調性や殆ど「同一」と言っても過言でない構成、余り明確でない旋律を延々と続ける傾向などによって「連続性」が与えられている。もっとも、「大スケール」が前提のこの交響曲にあっては中間楽章にも「それなりの長さ」が必要でもあり、このような措置を講ずることは「変化の乏しさ」を生ずることにもなりかねず、実際、第1楽章の半分ほどの長さの第2楽章と、それよりも幾分長くかかる第3楽章、という組み合わせは、全体のバランスからして性格上あまり「劇的」にも出来ない事情や、「内容以上に長い」この交響曲にあって、ご多分に漏れず「その長さを実現する」為の「繰り返し」や「蛇足」が各所で行われており、これらに「退屈」を感じずに済ますことは、なかなか難しい。
「薄もやで覆われた憂愁と夢想」という、作曲者のロマンティックな「注釈」(勿論彼はシベリウスとかではない)に期待した上で第2楽章を聴くと、多くの聴き手は肩すかしを喰わされるだろうが、普通であればショスタコービチ得意の「スケルツォ楽章」が書かれるはずの場所で(彼がこの曲種で見せる、いつもの「辛辣さ」を「発揮」するのが、この交響曲の趣旨上「好ましく無い」とでも思ったのであろうか)、当該「スケルツォ」を「中間部」に貶める形で、前後をミディアム・テンポの、性格の曖昧な「薄い音楽」(これが「薄もや」である、とでも言う積りであろうか)が囲んでいる、という造りで楽章を「拡大」している。(フランクが彼唯一の、しかし極めて相対価値の高いその「交響曲」で緩徐楽章の中間部に「スケルツォ」的特徴を与え、主部の回帰で結び合わせる、という「離れ業」を披露しているが、それを思い出させる。フランクのように全体を「三楽章構成」とすれば「納得の行くやり方」だが、無論、ここではそのような「凝った造り」は見られない。それどころか、ここではさらに本来の「緩徐楽章」たるべく、似たような造りの第3楽章が続く、という具合で、はなはだ「マズイ結果」となっている。)
冒頭からヴァイオリンに出る、ほぼ単旋律で続く第一主題は、幾分スケルツァンドな性格を持ち、「フーガの入り」のような感じも与えるが、無論そのようなものではなく、まるで「いい加減な鼻歌」のように、取り留めの無い「適当な」旋律が延々と続く。大音響の冒頭楽章と比べれば確かにコントラストは強いが、どう見ても「選び抜かれた音」とは言いかねる「弛緩した音楽」は、第二主題に至って彼好みの「短ー短ー長ー長」という軽いダンス音楽風のリズムに乗って、オーボエが短調ではあるものの暗さは無い「小唄」のような旋律を出すに至って「くだけた雰囲気」となる。
これに最初の部分がピッツィカートで復帰して続き、早くも「三部形式」を作るが、「トリオ」はさらにこの後で、嬰ハ短調の分散和音に乗って、いつものような「鋭さ」を幾分欠いた「スケルツォ風」の音楽が始まるが、これは「第6交響曲」の当該部分に類似しており、それに「第5交響曲」を結ぶ例のファンファーレに酷似したものが取り混ぜられる。(この部分自体はマーラーの「第2」の第3楽章の影響が顕著である。)
これは長くは続けられず、主部が幾分短縮されて復帰するが、第二主題が今度は珍しいバス・クラリネットの長いソロとして現れ、より「疲れた感じ」を誘う。(まさに「ふさわしい」楽器法ではあるが)これを契機に元々薄いテクスチュアは「さらに薄く」なり、「停滞感」が増加したあげく、前述の軽いリズムが第一主題と結び合わされて、予定調和的な長調の響きで閉じられる。
主部の音楽には、バレエ音楽の短いナンバーを「スローモーション化」したような特徴が見られ、意図的であるにせよ、その「弛緩した」状態は、実際の「音」同様、「室内楽」にこそ「ふさわしい」ようなもので、「これがどのような交響曲であったか」を考え合わせると、この楽章の「中身」は、第1楽章の「ボレロ」同様、作曲者の「見識」を疑わせるようなものがある。
彼は「大真面目」であったとしか考えられないのではあるが、この「憂愁と夢想」は「居眠り半分の鼻歌」にしか聴こえず、何か「とてつもない勘違いをしている」か、まるで「締め切りにでも追われ」、「仕上げの時間が足りない」としか思えないような「出来具合」を示しており、演奏によっては「悪夢」に思えるほど長く、退屈である。(以降、次回。)
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2007年05月19日

音楽の「言語性」とは?(112)

ショスタコービチの「交響曲第7番」は、彼の十五の交響曲の中でも「第5」に次いで有名な作品であろうが、初演の「大成功」以来、当時のソ連の「体制」側でも、「西側」でも歓迎され、人気を博して来た、という、彼の作品としては、むしろ「異例な部類」である、という点でも共通している。
(「第1」のような「鳴り物入り」の成功もあるが、大抵は「体制」から何がしかの批判が加えられるか、前衛が全盛の「西側」では、その「古いスタイル」の為に「専門筋」からは常に揶揄されたが、それでも一部の作品は一般聴衆にはアピールするものがあった。)
とは言え、「第5」の場合の「成功」の具合はいささか異なっていて、前者ではともかくも「音楽的に成功」と見なしうるのに対し、「第7」ではもっと「外部の事情」が作用しており、「レニングラード」という、今となってはいささかコメントに詰まるような「タイトル」が示している通り、大戦中の有名な「レニングラード攻防戦」の最中に「まさにそこにいた」作曲家による(彼は「最前線」では勿論無かったにせよ、実際に国防軍の一員として参加した。これによる「高揚感」は、この作品に直接的に作用している。例の「ショスタコービチの証言」では、これが「ずっと前から構想」され、描かれるべき「仮想敵」も一般化されて、ソ連の「体制側」に摺り替わったような、「もっと広いヴィジョンによる内容」であるかのような記載があるが、第1楽章の非常に解り易い内容の通り、文字通り「眉唾もの」であろう。)「戦いと勝利のドキュメント」とでもいったものとして作られ、体制側にも「戦意高揚」「国威発揚」の「都合良い品」として扱われ、戦勝による「ハイな気分」の国民にも気に入られ、「西側」にも「反ファシズム」の象徴として「飛び火」した、という「特殊な状況」を差し引いて考える必要があろう。(これはマイクロフィルム化されて「国家機密」として「輸出」され、アメリカではこの曲の「初演権」を巡って争いが生じる、という前代未聞の「茶番」まで発生した。その地位と名声からトスカニーニが最終的にその「権利」を獲得したが、この彼の情熱は「音楽的理由」からではなく、強烈な「ファシズムへの憎悪」から来たものであって、後年、熱から覚めたトスカニーニが、これを「大いに恥じた」、というのも有名な話である。無論、それは「音楽的良心」によるものであろうが。)
この、彼の交響曲中で最大規模の作品は、外見的、内容的にも「モニュメンタル」たるべく作られ、また「そのように」受け取られて来たというものの、これは彼には散見される「困った作品」の一つであって、それまでに書かれた六つの交響曲と比べても最も完成度が低い。
でか過ぎる外見に比例して「薄味」で荒く、未整理の挙げ句の「引き延ばし」を随所に散りばめることによって規模を拡大し、最終的にはベルリオーズ、マーラーばりに「金管の別働隊」まで動員して「盛り上げる」ものの、いずれにせよ、効果は極めて外面的なものに傾いている。
この曲のように「人気」と「実際」に「大きなギャップがある」例はクラシック音楽には稀であるが、初演時の「リアルな状況性」の余韻が消えると、さすがに「批判的な意見」も飛び出すようになり、「交響曲」としてはあまりに「緩過ぎる」構造や冗漫さ、露骨に標題的な内容(実際、四つの楽章には「戦争」「回想」「祖国の大地」「勝利」というストレート過ぎる「標題」が付けられていたが、あまりにも露骨過ぎるためか、「撤回」されたようである。)などに矛先が向けられている。
彼は、この曲における「内容」に見合う形で、「解り易さ」のために平明な旋律を多用し、「壮大さ」を実現させるため「本来のスタイル」を離れて「自己拡大」を限界まで行い、「長くなる」のが「定例」であり「必然」であるブルックナー、マーラー並み(「第三主題」まで必要としたブルックナーが長くなるのは当然だが、マーラーの「長さ」は、むしろ「それでも圧縮した結果」の印象を与えることすらある。)の規模の作品としたが、どうにも「無理」が感じられ、しばしば「堪え難い長さ」の印象を与え、「時間の浪費」に感じられることすらある。
その特徴が典型的に現れている第1楽章は、半時間ほどを要し、マーラーの第1楽章やフィナーレの大規模なものに匹敵するほどであるが、密度や構成においては全く比較にならず、それどころか「裏技」でこれを実現している始末である。
無論、この曲でも最も「有名な部分」である、ソナタ形式の展開部と「そっくり差し替えられた」、楽章の中ほどにおける(十分もかかる)「敵の侵入」の描写がそれであるが、その音楽は、小太鼓の一定のリズム・オスティナートが際限無く繰り返される上に、旋律が不変のまま(ショスタコービチでは幾分かは変化が加えられはするが)楽器法を変えながらクレッシェンドする、という手法は、調性や拍子、リズムが異なるとは言え、誰が聴いてもラヴェルの「ボレロ」を思い出さずにいられないもので、「類似」と範疇を超えて、ほとんど「パクリ」であり、名の知れた作曲家が「このような場合」で使用するのは「常軌を逸している」ようにも思える。
このような手法が見られることもあって、素材は楽章の規模の割には少なく、主題的にも類似性が強く、当然に考えられるような「対立的な構図」は、主題上では避けられ、代わりに進行自体が著しく描写的である。
冒頭、いきなり第一主題が強奏されるが、「ハ長調」という「このような作品にふさわしい」調性が選ばれ、いかにも「それらしい」旋律が現れる。「ドソ↓レソ↑ミ」と入る開始は、伝統的な「ソドレミ」という上昇パターン(「第5」のコーダのコラールと同様である)の変化形であり、「長調」を象徴する「ドレミ」の音形に、これに前置される「ソ=ド」の四度、ないし五度の安定した音程は無論「軍楽調」を示す、ラッパや太鼓の象徴であり、まさにこれらの楽器で盛んにカデンツを挿入し、「行進曲調」と相まって紛う事無き「対象」を指し示している。(これは「人間の主題」と呼ばれる事もあらしいが、どうも作曲家には「あずかり知らぬこと」のようである。)
これには三小節目で増四度であるfis音が続き緊張を与えるが、これはト長調への傾斜を示すものでなく、続きのハ短調の出現共々、「安定した状況に無い」ことを表しているようである。
他に分散和音や音階上昇が挿入され、「前進的」な傾向を示すが、第一主題部は変奏部や挿入部を交えて何度も現れる形で拡大され、かなりの部分が「省略可能」であって(かねてから「無駄な音符」が多いとは言え)、こうして構造はブロック化して大規模となり、早くも「壮大化」の意図が明らかとなる。
第二主題は「第5」以来の「定型」となった弦のオスティナート音形に乗って出る「歌謡的な旋律」であるが、第一主題の副次部に含まれる音階上昇で始まり、分散和音形や下降音階も用いられる。
これは変拍子を交えて長い音価でどんどん「ゆっくり延びて行く」傾向となり、第一主題部、この後の中間部の規則的なリズムと対照を無し、「空間化」が感じられ、「自然の描写」といった印象を与える。二度ばかり違った形で弦に現れる和声的なゆっくりしたカデンツは、この交響曲でも最も美しい時間を実現しているが、ここでも「引き延ばし」が見られ、即興的なフレーズの挿入や旋律自体の反復が顕著で、これまた「省略可能」であり、第二主題部最後のピッコロ、ソロ・ヴァイオリンの「受け渡し」などは完全に「蛇足」であろう。
そして問題の「ボレロ」が始まるが、この「敵の侵入」を表現していると思われる部分は、しかしパロディカルな主題によっており、この「出典」について論議を呼び覚ましている。
この「戦争の主題」と呼ばれる主題(これが「ソ連軍を表した」ものか「ドイツ軍を示す」ものかについても何故か意見が分かれているらしい)の後半にある音階的下降部分については、レハールの「メリー・ウィドウ」の「ダニロ登場の歌」の引用、という説があり、そこでの「神聖な祖国を忘れさせてくれる」という歌詞共々「意味深なもの」と受け取られているが、主題の開始部そのものは「ドレドソ↑」と始まる動き自体、第一主題に基づくものであり、旋律に与えられた付点リズムと同音反復が「サラバンド」の動きを暗示していることは、ショスタコービチ自身がこの曲の第4楽章で明らかにしており、そこでは明らかに「葬送」のイメージを与えられている。(これは「第15番」のフィナーレにおける同様な構造の部分でも用いられている。)
「戦争主題」の反復経過についてはわざわざ触れるまでも無かろうが、やがてグロテスクさが増し、第一主題が「悲劇的に」歪められて再現し(これも相当に引き延ばされる)、「戦争の主題」と絡められ、第二主題が「モノローグ」として同様に「悲劇的な姿」で続く、という経過の「解り易さ」はR.シュトラウスの交響詩以上の「標題音楽らしさ」であり、深刻ながらも、表層的な感じを拭えない。
この後、提示部に「より近い形」で第二主題部がさらに続き(第一主題もトリオのように挿入される)、「戦争の主題」が「事態が続いている」ことを示すように、「遠くで響いている」ように途切れ途切れに弱奏され、閉じられる、と言えば「筋書き」を全部辿った事になる。
こうして、皆が「歓迎すべきもの」でなければならない「大勝利」へに向けての準備の一つを終えた訳だが、ファシストを嫌ってアメリカに逃れたものの、不遇を囲い、しかも死期の迫っていたバルトークが、このようなものを聴かされ、それが「大歓迎」されるのを見せられて「どのように感じたか」は、広く知られており、彼は口を極めて罵っただけでは済まず(バルトークの歯に衣着せぬ毒舌は有名である)、これとは到底比較にならぬ「大傑作」である「管弦楽のための協奏曲」において、その第4楽章の中で「罵倒を永遠に記録化する」ことによって「完全に復讐した」が、この仕打ちにショスタコービチは傷つき、以後、自分の作品の「さらなる新たな再作曲」ほどでは無いにせよ、その「新作」の中に、「バルトークの作品の一部」を強迫的に「作曲することになった」ことも有名である。(以降、次回。)
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2007年05月12日

音楽の「言語性」とは?(111)

ショスタコービチ「交響曲第6番」の終曲である第3楽章は、彼の書いた音楽の中でも際立って「陽気な性格」のものであるが、その「浮かれ度合い」は、しかし、彼の他の同趣旨の音楽では良く見られるような「皮肉」や「風刺」といった要素を含んでいない、という点で異例である。
彼好みの「ギャロップ調」に始まるこの楽章は、いわば「本気で羽目を外した」一例であって、彼の「シリアスな作品」としては稀な部類に属する、と言えよう。(似た趣向の「ピアノ協奏曲第1番」のフィナーレと比べても、熱に浮かれたような「単一性」という点で質を異にしている。要するに、ここには「覚めた目」の入る余地が無いのである。)
これは確かに「交響曲のフィナーレ」として仕立てられてはいるものの、実際には「もっと軽い」音楽、彼のバレエ音楽とか映画音楽、「ジャズ組曲」とかに含まれるような、短い「気晴らし」のようなナンバーと「同じ根」を持つものであって、彼は要するに「これを楽しんでいる」のである。
(彼は「娯楽的な音楽を提供したい」と発言したことがあるらしいが、それが「体制向き」の席での、「交響的作品について」の文脈の中で語られたものであるというのは注目に価する。)
このような性質のために、音楽は「実際の内容」よりは大規模なものとなり、その「経過」の長さによって「到達感」が増幅される「最終局面」としての馬鹿げたような「乱痴気騒ぎ」が、「交響曲」としては凡そ「ふさわしからぬもの」として全曲を閉じることになる。
この交響曲全体に顕著な「即興性」は、ここに至ってさらに強くなるが、その「興に任せた」自由さは、ここでは音楽の性質に「はまって」おり、ことさら「荒さが目立つ」ようなものではない。
外形を拡大する必要性から様々な所で「反復」や「引き延ばし」が行われているが、開始部からその要素は顕著である。
いきなり出る第一主題は「長ー短ー短」リズムの同音反復で始まるが、これはロッシーニの「ウィリアム・テル」序曲の最終部の、知らぬ人のない「行進曲」を思い出させる。(彼の愛用するこのリズムは、まさに「それに由来する」ものであることは、ショスタコービチ自ら「交響曲第15番」の第1楽章で直接「引用」することで明らかにしている。)
fis音の反復の後は主音hのオクターヴ跳躍が現れ、これがロ短調であることを示すが、e音の反復や木管楽器でト短調の音階下降が「合いの手」のように挟まれることで調性感は曖昧にされている。
中間部的な主題第二部分を挿んで再三再四に渡って奏されるこの主題のうち、最初の二小節は「不変」であるが、二回目の同音反復は様々な位置で現れ(e,h,g,a,cなど)カプリッチョ風な性格を強調する。(そして木管の「合いの手」であるが、「フレーズの引き延ばし」であると共に、マーラーの「第5」の最終部分で「脱線」を引き起こす、やはり木管によって奏される雪崩のような「下降音階」の影響下にあると思われる)
第一主題部の旋律的要素や構成は、ベートーヴェン「第3」の第3楽章スケルツォとの類似性が感じられ、同音反復モティーフや、その「意外な落とし方」、木管の使い方(ベートーヴェンのトリオ部における)など、ショスタコービチには散見される「元ネタが透けて見える」一例となっている。
第二主題は比較的安定したニ短調となり、分散和音形とオクターヴ跳躍に基づくが、より「通俗性」に接近しており、サーカスの音楽か何かのように聴こえる。これは前打音を持つ同音反復部が旋律に挟み込まれ、さらにそれが取り出されて反復されることで「道化」の性格が強調され、こうして、いよいよ音楽が「本題」に入った事が示される。
またしても繰り返される第一主題部の後、第一主題、第二主題からの派生部を経過して中間部となるが、彼自身の「第4交響曲」の第3楽章の主部のように「三拍子のスケルツォ風の音楽」が始まるが、ここでは「この場にふさわしく」、ワルツ風の要素も多く含まれる。最初のファゴットの旋律は第二主題から派生したものであるが、後の展開にとってあまり重要なものでもなく、殆ど「自由即興をそのまま書き取った」ような「暴れっぷり」であり、「第4」の場合と同様に「通俗性」をたっぷり込めながら「オーケストラ的演奏効果」に配慮しつつ進む。
中間部の終わりでファゴットに民謡風の旋律が現れ「第二の中間部」が始まったかと思わせるが、これも気まぐれであって、ほどなくソロ・ヴァイオリンが「移行部」を演じ、主部を回帰させる。(これもどうやらベートーヴェンの「レオノーレ序曲第3番」の「ネタ」のようであるが。)
再現部は短縮され、一通りの経過を繰り返してコーダへと「一直線に進む」性質のものとなっている。移行部として第一主題部に含まれる動機を拡大した音階的フレーズを経て、中間部冒頭の旋律が今度は四拍子として「ギャロップ調」で復帰し、いよいよサーカスかミュージカルのフィナーレのような「ノリ」となる。コーダ自体も三部形式であり、第二主題部の前打音モティーフを用いた、登場人物が各自「口上」を述べるような、言語的効果を持つ部分を挿んで「乱痴気騒ぎ」は最高潮となり、最後は「伝統的な」主和音連打をもって目出度く「打ち上げ」となる。
派手で「大向こう受けする」、「演奏効果のあがる」「拍手のもらえる」結びである一方、「交響曲全曲の終わり」としては明らかに「それらしくない」「整合性に欠ける」このフィナーレは、各楽章の「動機操作上」の共通性をも結局は「吹き飛ばして」しまい、いわば「力ずくで持って行って」しまう。
作曲家の言う、何がしかの「気晴らしの音楽」が、ここで実現されているにせよ、これが冒頭楽章からの納得の行く「帰結」であるとは到底言えず、「まるで連続性の無いものが三つ束ねられた」ような印象は拭えない。
この、マーラーの「第7」の第2、第3、第5楽章を抜き出したような構図は、「新機軸」というよりは、いささか「省略し過ぎ」でもあって、強すぎるコントラストと、始めと終わりで全く異なる音楽の「密度」は、結局は、そのまま聴き手に投げかけられる「疑問」となる。
この結果が「偶然の産物」というのは言い過ぎにせよ、作曲者の「周到な計算の結果」でも無いでもあろうことはおそらく確かで、彼が「第5」で地位を固めた後、余裕を与えられて「肩の力を抜いた」、いわば「流れに任せる」ようなやり方が生んだ「一回限り」の成果として、しかし、彼の交響曲としては明らかに「オリジナルな」成功作に属することは間違いない。
ある意味では、この後の巨大な「第7」の方が(世間的には成功したにせよ)これよりもずっと「バランスを欠いて」おり、私としては「第6」よりも唖然とさせられる。
そこにおける途方も無いような「自己拡大感」は恐ろしく空疎であり、始末の悪い事に、それでいて「共感を強いている」のである。(以降、次回。)
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2007年05月05日

音楽の「言語性」とは?(110)

何はともあれ「スケルツォ」という曲種に関しては「優れた使い手」であったショスタコービチであるが、後年になる程「ああ、またか」と思わせる「ルーティンな書き方」が良く見られるとは言え、まだ若いうちは、作品ごとの「書き分け」に気を配っている様子である。
この「ジャンル」の始祖にして「最高峰」であるベートーヴェンを別格として、以後のいわゆる「ロマン派」が、これをどうも「不得手」にしていたらしいこと、その連鎖を打開して新たな「価値」を加え、「スケルツォ」を「主役」に据えることさえも出来たマーラーについても以前述べた通りだが、その「マーラー以後」では、その作風からしてもこの曲種にぴったりの「適役」であるショスタコービチは、最も「スケルツォ」を愛用した一人であろう。(プロコフィエフだって同様だが、彼は「スケルツォ」に対してはむしろ慎重で、「屋上屋を重ねる」ような効果を嫌ってか、ソナタ楽曲に「判で押したように」これを使うことはせず、作品ごとの「バランス」に配慮しながら採用を決めていたと思われる。これも既に述べたことだが。)
ショスタコービチには、実際には「スケルツォ」と題された楽章を有しない構成を持つ曲も少なくないにせよ、速いテンポの音楽には「そのような要素」が多く含まれることが良くあり、彼独特の皮肉な、神経質な身振りへと繋がっていることも周知の通りである。(彼が「このような要素」を目立って「回避」する時は、「体制向き」の作品や「歴史賛美」めいた標題音楽のようなものを書く場合であって、交響曲の場合でも幾つかが該当する。いずれにせよ、それらは彼としても「第一級の作品」とはとても言い難いものが殆どのようであるが、面白い現象である。)
とは言え、彼はマーラーほどには大胆ではなく、「スケルツォ」をベートーヴェン以来の伝統に沿った「従属的な」楽章として(とは言えベートーヴェンでも「第9」では最早「そのようなもの」では無くなっているが)、形式的、内容的にも「比較的シンプルな」ものとして書いている。
このため、彼の「スケルツォ楽章」は、幾分「間奏曲」的なものとして、彼の「比較的ルーズな構成感覚」や「冗長さ」という欠点も少なく、「小粒ながらスパイスの効いた」もの、或いは前述のように、彼の「作風」の「縮図」のようなものとして聴こえることが多く、マーラー的に複雑で多層的なものは(その影響下にある「第4」のそれを含めても)無いにせよ、長さの割には強い印象を残す。
このようなキャラクターは、交響曲においても「第1」「第4」「第5」と保たれて来たが、大まかな外形や、リズムの固執とか、ある種の音形とかの「共通要素」も見られるにせよ、それぞれに「書き分け」がされており、キャラクターの違いは明白である。(特に、速度感の違いや「基本」となる音色感を前面に出す楽器法の差による区別が特徴的である。)
そして「第6交響曲」の第2楽章においては、さらなる「工夫」が見られ、無窮動風に連ねられる素材が、あまり明確でない形式と共に「流動的な」感じを与え、彼の他の「スケルツォ」にも類似物が無いような、独特な「通俗性」と「微妙さ」の入り混じった音楽としている。(但し、この「流動感」のヒントは、マーラーの「第2」の同様の楽章から得ているように思われ、これは一部の素材やファンファーレの導入などの類似からも推測される。)
遅めのテンポでも七分あまりの音楽であるが、短い単位で材料が次々と投入され、極めて変化に富んでいる。動機的な共通性や派生関係は前楽章との関連共々(オクターヴ跳躍とか同音反復とか)、大まかには認められるが、いずれにせよ即興性も顕著であり、「適当な遊び」の要素にも事欠かない。
小クラリネットによる冒頭の旋律は、1オクターヴの音階的順次下降に始まるが、この主題提示部に代表される無定形な「流動性」は、主に伴奏部に現れる十六分音符の「リズムの刻み」が一貫して現れることで最後まで確保される。(これもマーラーの事例と同様である。)次に現れるヴァイオリンの旋律は音階的上昇とオクターヴ跳躍に基づいており、面白い対照を為しているが「第二主題」というには隣接しすぎており、実際、冒頭部の変奏が後に続き、また次の同音連打と分散和音による冒頭部からの「派生」旋律が現れることで、「無定形な」ロンド性が早くも確立される。これにファンファーレ風の部分が続くが、これは「第二主題」から派生したもので、元の主題の回帰へと直結し、さらに冒頭部の変化形へと戻る。
中間部ではオクターヴ跳躍を基本とする切れ切れの旋律が、リズム的には一定のまま膨らませられるが、これは、この曲で最も「ロシア的な感じ」がする部分であると共に、クロス・リズムや三拍子を二分割するリズムによって、主部とはっきり区別される。
これがこの楽章のクライマックスを作り、ティンパニのソロが残って減衰すると「再現部」該当の部分となるが(目立つのは、この最初の部分で主題とその「鏡像形」が同時に奏される個所だが、無論何の「必然性」もなく、「お遊び」であろう)、これはかなり縮小されると同時に、「第二主題」の後にはピッコロによって「新主題」の導入が為され(とは言っても、この「新主題」は、第二主題と分散和音主題から派生したものと解される。また、幾分かは、次の楽章の主題の「予告」的な役割もあると見て良い。)、中間部主題の再現を挿んで、実質的にはコーダを形成している。
ここでは弱音域に傾いた音勢と共に、終止形と半音階的下降がしきりに繰り返され、「終わりが近い」ことを示すのだが、何、メンデルスゾーンを思い出させるような繊細さと陰影があり、ショスタコービチには珍しい、他の作品には見当たらないような印象的なページとなっている。
最後は「新主題」と「ソロ」部分のティンパニの弱奏、ホルンの木霊のような響きによって閉じられるが、コーダ部の音の動きには、何となく「ジャズ的なもの」の影響も感じられる所で、この作曲家が、「ジャズ組曲」などというものも作っていたことを思い出させる。
こうして、音楽はフィナーレの「乱痴気騒ぎ」に引き継がれる訳だが、結局、第1楽章と第2楽章の間の「断層」は埋められず、第2楽章とフィナーレの間にせよ、テンポの速さという極めて漠然としたもの以外には実際には類似性が無い。
この第2楽章の「取り留めなさ」は「象徴的なもの」であると同時に「謎掛け」のようにも思えるが、これがあくまで「結果的に発生した」ものであることもおそらく確実で、しかし「第5」に見られる「計画性」よりは「ショスタコービチらしい」ように感じられるのは皮肉である。(以降、次回。)
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2007年04月28日

音楽の「言語性」とは?(109)

ショスタコービチ「交響曲第6番」は、勿論「第5」ほどの演奏機会は無いにせよ、特にフィナーレにおける、派手で陽気な演奏効果のためもあってか、ショスタコービチに注目する指揮者が割と好んで採り上げる曲であって、彼の交響曲の中では比較的耳にする機会に恵まれていた部類と言えよう。
しかし、三楽章構成によるこの曲は、「第4」のそれとは違って、明らかに「柱」たるべきソナタ楽章を欠いており、曲を開始する重苦しいラルゴ楽章(彼によく見られる「ラルゴ」という速度表示は=シュニトケなどにも受け継がれるが=「額面通りの指示」というより、例えば「アダージョ」という「より一般的な」表示よりも「重く暗い」ような、ある程度まで音楽の「内容」を示しているもののようである。)は、残りの二楽章を足したよりもさらに長い上、その後続二楽章の正反対な「明るさ」と極めて強いコントラストを示しており、しかもその「ギャップ」を「緩和する」ような措置が施されていないため、聴き手に不可解な感じを与える。
書法の点でも、冒頭楽章と残りとでは大きく異なっており、効果的で「聴き映えする」オーケストレーションを施され、「第5」での勿体振りを臆面無くかなぐり捨てた、「俗っぽさ丸出し」の後続楽章に対して、ラルゴは、その「遅さゆえの長さ」(小節数で言えば後続楽章それぞれの半分以下である)にも関わらず、音楽的な密度まで相対的に「薄く」なっており、まばらな音と繰り返し、引き延ばし、漠然とした構成によって、まるで「時間の流れ方」が異なっている。
一応は楽章ごとに速度を増すような配列になっているものの、動機的にも短三度音程やオクターヴ跳躍といった共通要素によって統一感への「配慮」が見られるものの、いずれにせよ「溝」は埋められておらず、「交響曲」としては、「はなはだ異形」であることは否定出来ない。
このような「構図」がマーラーに由来していることは確かであるが(特に「第5」「第7」)、基本的な楽章配列は、ベートーヴェンのいわゆる「幻想風ソナタ」、「月光」の別名で良く知られる「第14番」に倣っているようにも思われる。これは、このソナタの冒頭楽章の第一主題に現れる、付点リズムの動機がこの曲にそのまま用いられていることからも「影響関係」は確実と言えよう。(このリズムは、ショスタコービチが「弦楽四重奏代15番」や「ヴィオラ・ソナタ」といったその最後の作品群で繰り返し用いており、彼にとって何か「象徴的な意味」を持つものであるらしい。)
冒頭から「e-g-e-e↑」という印象的な短三度とオクターヴ進行による動機で開始されるが、これは前作「第5」の開始のエコーでもあることは確実で(「第8」ではもっと露骨に似通っている)、わざとカノン的な処理を回避している。この後続いて現れる、やはり短三度進行を軸とする、もう一つの重要な動機「g−a-b-cis↓-h-cis-d」共々、フーガ主題と対旋律のような性格を持っているにも関わらず(二番目の動機に付けられるトリルが「その感じ」を強めている)、とりたてて「対位法的処理」は行われず、これらから派生した、漠然とした即興的な進行が続くばかりで、挙げ句の果てに、二つの動機を逆順、或いは正順で「接合」しただけの無造作な旋律が現れ、楽器を変えて取り留めなく続くが、これには、オルガンのペダルの即興のような三連符による無窮動風の動きが付随し、これも楽器を変えながら流れる。
クライマックスもあるにはあるが、対位法的な「累積」の結果や感情的な高潮というよりも、何か「楽器法的なもの」に過ぎず、便宜的なものにしか感じられない。
この傾向は次の副次的な部分になると漸増し、弦のトリルの弱奏を背景に、冒頭の短三度動機に基づくマーラー=シューベルト的な「長調ー短調」の交替モティーフによる旋律がモノローグ風に漠然と奏されて始まり、「月光ソナタ」の付点リズムも信号音的に現れ、より「薄い」音楽となる。
これもた一度はクライマックスを築くものの、またしても「実体感」に乏しく、フルートにマーラーの「第2」の終楽章(合唱導入の前の個所)や「大地の歌」の終楽章を思い出させるカデンツァ風な動きが現れるに至って、いよいよ「虚無感」が強くなる。(特に後者の開始部からの影響が強く感じらる。)
こうして、マーラー的な「死の音楽」や、それからバルトーク的な「夜の音楽」の両方を想起させながら音楽は進行するが、やがて最初の二つの動機が、当初は有していたはずの「緊張感」を取り去られたまま「抜け殻のように」回帰し、最後は副次的部分の主題の冒頭をもって「閉じるでもなく」閉じられる。
この楽章の構造は漠然としていて掴み所が無いが、中間部とも見える「副次的部分」に主部との関連があり、続いて再現部風な短いコーダが付けられたものと解され、「全く自由な形式」ではない。
いずれにせよ、この楽章は全く「密度」を欠いており、同時に「第5」の緩徐楽章にあったような「感情性」にも乏しく、そして顕著な即興性のために統合性を欠き、まるで客観的な「事象」のように響く。
これは、以後のショスタコービチで良くお目にかかる「薄い音楽」の最初の現れであるが、このような「密度」の無い「解体したような」音楽は彼独特のものであると同時に、何か「退化」か「麻痺」したかのような「硬直感」を感じさせ、やがてこれらは晩年には「作品全体」を覆い尽くすに至るが、ここでの彼はまだまだ生気に満ちており、後続二楽章では彼の「通俗的な」好みを全開してみせ、楽しませてくれる。
そこでは、この冒頭楽章の「余韻」は全く感じられず、文字通り痕跡ごと「消し飛ばされて」いるのだが、このような特質は「過渡的な様式」を感じさせるとは言え、かえって「意味深く」感じられるものでもある。(以降、次回。)
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2007年04月21日

音楽の「言語性」とは?(108)

ショスタコービチの「交響曲第5番」の一般的人気に最も良く貢献しているのがフィナーレである第4楽章であることは間違い無かろうが、際立って良く知られたこの音楽は、同じ作曲家の、明らかな「体制向き」のド明るい「機会音楽」の一つである、派手派手しい「祝典序曲」などと同じように、吹奏楽などにも編曲されて独立して演奏されることもある。
このような「用途」にも適した(と言っても「吹奏楽編曲」というのは、いささか節操のないものでもあるらしく、「ポピュラー名曲」の類は片っ端から採り上げられているようにも見える。とは言え、「交響曲」の楽章が取り出されて演奏されるのは珍しかろう。どうも選択のポイントは「金管の活躍度合」にあるらしく、おそらくは同様の理由で、矢代秋雄の「交響曲」の、やはり第4楽章であるフィナーレなども聴かれることがある。)
いずれにせよ、この楽章が突出したポピュラリティを得ているのは確かで、「終わりよければ全て良し」でも無いが、開始部からしばらく続くショウ・ピースじみた進行や(演奏によってはグリンカの「ルスランとリュドミーラ」序曲の親戚のようにも響く)コーダの盛大なコラールは、それまでの陰々滅々とした音楽から聴き手を一気に「開放」させ、躁状態に導く。
これは前述したようにベートーヴェン以来「第5交響曲」に「一般に求められてきたもの」にも合致しているようにも見え、実際以上にこのフィナーレを「そのようなもの」に見せて来たように思われる。初演時から人々はこれを「闘争と勝利」の表現であると信じて疑わず(「何に対するもの」であるかは別としても)、交響曲全体を「伝統に沿ったもの」として歓迎してきたのである。
内容の真偽について議論は尽きないとしても、それなりの価値のあるヴォルコフの「ショスタコーヴィチの証言」の発表以来(これについては、ショスタコービチが自身の死後の「イメージ」を「保身」するために利用したのではないか、という意見があるらしいが、私はこれを完全に支持する。彼はこの行為によって、自己の作品に後から「付加価値」を与える事に成功した。実際には「書かれなかったもの」を存在するように見せ掛け、これによって己の作品の荒さ、詰めの甘さを「意味深さ」と錯覚させる「魔法」を使うことになったのである。)ショスタコービチの作品に取り沙汰されるようになった「裏の意味」だの「真の意図」だのは当然このフィナーレにも影響し、作曲者が「真の意味が解らない奴は馬鹿だ」と言ったとか言わないとかいうのも含め、これが「何を表現しているか」について疑問を抱かせ、特に「勝利」云々について考えさせることになった。
もっとも、この楽章については従前からムラヴィンスキー、コンドラシンのような旧ソヴィエト系の指揮者とバーンスタインに代表されるような「西側」における「解釈の違い」、特にテンポ設定の差による顕著な「印象の違い」が問題とされて来た所で、「意味」の差が生じるかはともかくも、意見を二分してきたのではあるが。(作曲者は、どうも後者の「快速テンポ」を想定していた、とも思える。前者らの「遅いテンポ」には、これを「大フィナーレ」に「拡大解釈」しようとする意図が見られ、このため実際にはさほど長く無いコーダを「肥大化」させるため、とりわけ楽章後半部からの極端な減速による「大クレッシエンド」を設定している。このために、前半部分では速いテンポを採るムラヴィンスキーなどの演奏ではアンバランスを生じるが、そこでは、この楽章が持っている不均衡な構成がより強調されることになる。また、後者のテンポも最初から指示よりも早く採られている。スコア上のメトロノーム表示は頻繁なテンポ変化を要求しているが、誤植もあるとされるものの、いささか無理な面があり、また、「流れ」の重視のためか、殆どの指揮者は「その通り」には演奏しないようである。)
主和音の強奏とティンパニの「d−a」の連打に続いて有名な第一主題が出るが、テンポ指示通りに演奏すればこれは「序」のようにも響き、弦による即興的な後続部分からが「本題」のようにも見える。(このあたりはいかにもピアノの無茶弾きを書き写したようにも見え、この交響曲でも最も書き方が「荒い」部分である。)前述通り、これらは冒頭楽章の速い部分、特に「行進曲」部分を「よりアクティヴにした」ような性格を持っているが、極めて解り易い主題自体には「元ネタ」の存在も感じられる所で、この「絶対に失敗出来ない」フィナーレでの「安全策」として「人好きのする旋律」をひねり出そうとした際に「参考」としたものは、どうもドヴォルザークの「新世界」(!)のフィナーレでは無かったか、という感じがする。旋律自体の構成要素(ミラシド、といった基本的な材料)だけでなく、後続部分や第二主題の表情性、そこにおけるトランペットの補充音形を聴くと、無論確証など無いものの、基本的な「ヒントを頂戴した」のではないか、という気がするのである。
さらに「ネタ」は「もう一つ」あり、こちらの方は間違い無く「確実」だと思われるのだが=マーラーの「第1」のフィナーレである。これは主題自体もかなり類似しているが(マーラーの第一主題の第三小節目以降にショスタコービチの主題と音形もリズムも一致したものが出て来る。以後の荒れ狂うような進行のキャラクターも類似している。)、それだけで無く、楽章の構造の共通性という点で「参考」という以上のものが見られる。
但し、マーラーのものは倍ほどの長さがあり、ショスタコービチが「省略したもの」の中には、主題提示までの長い序や、それだけで一部分を為すカンタービレな第二主題部、コーダの「予告」と、それに付随する=マーラーが「最も優れた部分」と呼んだ=長調からニ長調への「直接的移行」、第二主題の回想による「真のクライマックス」ともいうべき極めて印象的な部分など、この曲ならではの「天才的な個所」が複数含まれる。(もっとも、これらを真似したら「簡単にバレてしまう」が。)
ショスタコービチは第二主題を行進曲風のものに変えたが、(この主題冒頭は四度音程に基づいており、チャイコフスキー「第6」第3楽章の主題なども思い出させる。)その後の「自由な形式」は、マーラーの先例を明らかに踏襲しており、冒頭楽章の回想(しかし、それはこの部分の最初に出される「長ー短ー短」のリズムが「そう思わせる」ためで、実際には冒頭楽章の材料が直接的に用いられる個所は第一主題部に僅かに現れるだけである)、ここでは、すぐにマーラーの場合と同様の第二主題の材料による進行に移る。
しかしこれを長くは続けず、エピソード風となり、第3楽章の「民謡風主題」や、この楽章の第一主題に基づく旋律が「叙情的部分」を形成する。(この部分の最後で現れるいかにも「意味ありげな」「歌曲の引用」=「苦しみから解き放たれる」云の歌詞を持つ=は、確かに「額面通り受け取っても良い」ように思われるが、にも関わらず「たまたま同じフレーズが出て来てしまった」ので「引用してみた」可能性を、この作曲家の場合は除去出来ない。)
この後の「奇妙に勢いを削がれた」第一主題の再現は、コーダで同じ材料を使う以上「当然の措置」でもあるが、それ以上にマーラーにおける「先例に倣った」ものである。この後のコーダへの移行の仕方、コーダ自体の書法(金管主体、弦などの刻みの多用、打楽器、ユニゾンの使い方)もマーラー無しには考えられないようなものとなっており、ショスタコービチがいかに慎重に「踏み外さない」ようにしたか、が良く解る。
物議をかもすコーダは言うまでもなく第一主題の「長調形」と冒頭楽章の序の二番目に現れる順次音階下降を用いたモティーフを用いたものである。(これが短調に傾斜しているのを「問題視」する向きもあるが、同様の書き方である「第7」や「第12」の同様の部分の例を見ても解る通り、むしろ「癖」のようなもので、特に「意味を探る」には価しない。)このコーダにはマーラーと、マーラーが「第1」のコーダで「引用した」シューマンの「第3」のフィナーレのエコーが聴かれるが(それにマーラー「第3」のようなティンパニの「d−a」の連打で終わる。これは、ここではマーラーの「第1」「第3」ほどの重要な「中心音程」では無かったはずであるが。)、この意図的な「類似」は、聴衆を「安心させる」には充分であり、交響曲の「結び」として「疑問を抱かせる」恐れがない。
最近言われる「二重の意味」だの「強制された歓喜」だのは「後からかけられた魔法」の仕業であって、おそらくは「幻視」に過ぎないのである。
この「約束された成功作」は、作曲家が悪どいまでに張り巡らした「俗なる要素」と「踏襲」によって「成る可くして成った」のであって、その「一発必中」は、それらの「助け」を借りて行われたものである。皮肉なことに、人気のフィナーレが最も「他者への依存度」が高いのは述べた通りで、まだまだ「第5を書く」にしては若かった作曲家の「独自性」が「どのようなもの」であったか示している。作曲家がこれに不満なのは当然であって、さきの彼の発言が実際にあったとしたら、それは「自嘲的なもの」と考えるのが自然であろう。
そして彼は「第8」における、同様の構想の「焼き直し」で「真の意図による」フィナーレを書くことになる。それはまさに、これとは「正反対」のようなものである。(以降、次回。)
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2007年04月14日

音楽の「言語性」とは?(107)

ショスタコービチ「第5交響曲」の第2楽章は短く明快なスケルツォであるが、前後楽章の重苦しさの間に置かれて良い「息抜き」となっている。
また、ここではサーカス音楽でも思い起こさせるような「通俗性」が臆面も無く導入されており、辛辣ではあるが底暗さは無く、彼の音楽としては「愛想の良い」ものに属する。
調性感もはっきりとしており(イ短調であるが、マーラーにおいてこの調が持つ意味、「運命の調」たる、殺気立ったような切迫感はまるで無く、中間部含め、長調に傾く部分も多い。)、シンプルな三部形式による構成も実に見通しが良く、この作曲家の同様な楽章で良く見られる「無駄な音符」も少なく、最も「良くまとまった」、「解り易さ」に配慮したスケルツォと言える。
このように陽気な「軽さ」を装っているとは言え、いきなり低弦で導入される主題が第1楽章第一主題の旋律線を殆どそのまま模倣しているように、続く木管のモティーフ、弦による十六分休符を持つ弾むようなフレーズ、これ見よがしな金管のファンファーレなど、後続の材料のいずれもが同様に先行楽章にも見られた音階的順次下降に基づいており、違ったキャラクターが次々と登場するような展開でも「交響曲」としての動機的配慮には事欠かない。
これはトリオ部のヴァイオリン・ソロによる良く知られた旋律でも同様であるが、そこでは跳躍する音程が反復の度に幅を広げる媚びるような動機によって、「引用」されたような通俗性は、より強度なものとなっている。これらの動機群は、彼の「癖」と言って良い、まるで「時間稼ぎ」のような同音反復やジグザグした音階進行で繋ぎ合わされるが、いつもの「即興を書き留めた」ようなものではなく、良く整理され、そのためか五分にも満たない長さながら「必要充分」であり、その「分量」自体も効果的である。
形式は実にシンプルであるが、先の主題に固執するトリオ部、主部の再現におけるオーケストレーションの変化には配慮されており、この面における「繰り返し」を避けることで情報量を上げているが、主部の再現にピッツィカート・セクションが現れるのは、明らかにベートーヴェンの偉大な「第5」を意識している、と思われる。但し、ここではパロディ的な意味合いが強く、あの劇的な効果は微塵も無い。また、コーダでトリオ部の音楽が短く再現されるのもベートーヴェン流儀であるが、例の陽気な旋律が今度は狭い音程で、短調的、半音階的に変化して現れる。但し、これを「暗い」意味においてとらえるのは適切でなく、酒場の合唱のような効果的な結び方も含めて、やはりパロディーと解釈すべきであろう。
三日ほどで書かれた、と伝えられている第3楽章ラルゴは、「純なる緩徐楽章」として評価の高いものということであるらしいが、ショスタコービチの音楽としては、その「主情性」や、なまな「悲劇的表現」によって、むしろ際立って「異例」であり、どうも違和感を感じる。
この楽章は、実質的には冒頭楽章の第一主題部を「感情的に拡大」したものであって、当初の「抽象性」から手元に引き寄せられ、握りつぶさんばかりのオペラティックと言って良いような「悲劇的身振り」へと変化させられ、実際の所「チャイコフスキー的」ですらある。
弦の分奏や金管パートの削除によって「繊細に」オーケストレーションされているが、それはこのような特質を幾分「客観化」し、隠蔽する効果は持つものの、むしろ「ポーズ」でもある。
冒頭の主題は当然のように音階的進行に基づき、三度音程と二度音程を基本としているが、前者には音が一つ付加されて四度進行、後者では短二度でなく長二度の音程が中心となり、このため当初は曖昧な「抑えた感じ」を与える。(多く現れる二度音程は冒頭楽章序奏の二番目の動機に基づくが、そこではシークエンスとして用いられていたことを思い出させる。)
次第に「短調的」な響きが支配的となり、半音階下降の「嘆き」や、これも冒頭楽章の「エコー」であるフルートの旋律、チャイコフスキー風な盛り上がりを経てロシア民謡風な旋律がオーボエで順次現れ「材料」が出揃うが、この「民謡風」な部分が中間部と見なせよう。
主部はこの後、いよいよ「本来の姿」である、激した「悲劇性」を露にして展開されるが、クライマックスに聴かれるグロテスクなシロフォンの響きを除けば、まるでロマン派音楽のようでもあり、
ここでの「表現」が実際どこまで「本気」であるのかについて、かえって疑問を抱かせる。
一般には「額面通り」受け取られている、ここでの「悲劇性」は、「感情性」も含めて「演じられたもの」である可能性、「どうウケるか」考えた上での「感情に直接訴えかける」態度が存在する可能性がある。前述の「純度の高い」オーケストレーションに象徴される(最後も御丁寧にハープによる「民謡風」主題と出し抜けの長調和音によって「具合良く」閉じられる。)「見せ掛け」は、ブルックナーの同様の楽章やマーラーの「第3」や「第4」の緩徐楽章を踏襲したとも思える構成共々「わざとらしい」と感じられてこなかったのは、このような音楽に「疑念」を挟む余地が無い、と信じられていたからであり、「情緒的であること」が音楽としては「問題とするに当たらない」為である。
この楽章は先行する第2楽章同様、実際「俗なるもの」に依存しているのだが、たちの悪いことに、発表以来、交響曲の「内的な核心」であるとされ、次のフィナーレが「勝利の表現」であると信じて疑わない態度を援護した。
そのフィナーレへの「移行」は実際にはスムーズでは無く、そのギャップはこの後「力ずくで」埋められていくのだが、際立って有名なその第4楽章が、これまた「問題」であることは既に述べた通りである。(以降、次回。)
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2007年04月07日

音楽の「言語性」とは?(106)

かねてから天下周知の「大名曲」とされるところのショスタコービチ「第5交響曲」であるが、彼の名が専らこの曲によって「あまねく知られていた」頃ならいざ知らず、他の作品についても比較的良く知られるようになった昨今、交響曲で言えば「第7」とか「第9」「第10」といった「聴かれていない訳でも無かった」もの以外にも、晩年の最後の三曲や「第8」、それから「第4」などに対する認識は、「第5」の地位を、少なくとも「絶対的ではない」ものにした、と言って良かろう。(無論、「ショスタコービチから何か一曲」という時に、まずこれが「筆頭に挙がる」状況は変わらないだろうが。特に、彼の音楽に熱心でもない演奏者が「まあ、やってみようか」という時には、この曲は外見、内容共に最も「無難なもの」として映るであろうことは確かである。)
これが「最高傑作」かどうかについての論議はともかくとしても、十五曲の内の五番目(実質的には二番目か三番目であるが)であるこの曲の突出したポピュラリティが、彼としては珍しいオーソドックスな楽章構成や入念な動機操作、全体の流れを「ベートーヴェン・タイプ」に見せかけた内容と共に、「解り易さ」に配慮した、耳触りの良い旋律や響きの(良く似た素材による「第4」の不協和音の多さと全体の巨大さに比較すると、これが扱いなれた材料による「再構成品」であることは明らかである。)もたらす「俗受けする要素」に富んでいることに起因しているのは確かで、これは彼の「ひねた」作品群の中では、むしろ「異例」ですらある。(この傾向をさらに誇大妄想的に拡大したのが「第7」だろうが、こちらは質的、内容的価値はさておき、「ともかく人気だけは」ある。)
ことに、ブラームスの「第1」同様、曲の「人気の源」である例のフィナーレ(吹奏楽編曲などで派手派手しく「ショウ・ピース」的に演奏されることもある。)は、この交響曲に付けられていた「革命」とかいう、いわれの無い馬鹿げた「副題」(この類なら御本人が「命名」したものが他に複数ある)がようやく取れた最近になって、やれ「二重の意味」だの「裏の意味」だのと取り沙汰されるものの、これが聴衆に対して持つ「効果」について充分配慮しつつ「狙い済まして」組み上げられたものであることは否定出来ず、ここで「失敗」することが絶対出来ない作曲当時の「状況」を考え合わせると、到底「裏の意味」など盛り込むような余裕など無かったとも思われる。(そんな「芸」が出来る位なら、そもそも「第4」を引っ込めたりはしないだろう。)
これは「第5」の「書き直し」のように見える「第8」と、その「アンチ・フィナーレ」の存在が裏打ちしており、そこでは作曲家が「ここで本当に書きたかったもの」に再度取り組んでいる印象を与えるが、少なくともそれは「内容」においては「第5」を完全に超克している。
ともあれ、自己のスタイルを確立した彼が「一発必中」として書き、そしてものの見事に「当てて見せた」最大のヒット作品は、確かにそれに価する出来映えを示しており、良く練られた構成はこれを「交響曲」として申し分無い外見上のバランスに仕立てている。
これは無駄の無い(この作曲家としては極めて異例な)冒頭楽章が如実に示しているところで、限られた材料によって、比較的遅いテンポを基本としながらも簡潔にまとめられており、この作品でも最も見事な楽章となっている。
冒頭には導入部が置かれ、カノンによる上昇ー下降の音形、順次音階下降(「ミレドレドシド」という具合に次第に下降する)の音形が順次提示されるが、後にも折につけ現れる。前者は「縁取り」のような意味を持ち、その序的性格を保持されたまま挿入句として用いられ、後者は主題に挟み込まれるように一体化されて頻繁に利用されるが、必ず順番は不変のまま、隣接して用いられる。
さらにこれには重要な「材料」が含まれ、後の音楽の進行を決定する。
一つはバッハのオルガン・トッカータの開始のようなフランス風序曲の付点リズム、もう一つはその導入句に含まれる「d-a」の四度音程で、特に後者の四度音程は、この曲の主題群の「基本音程」となる。この二つの材料を組み合わせたものが伴奏音形として定着すると、順次音階下降による主題が導入されるが、「第4」の回で述べたとおり、これは前作の第2楽章スケルツォのトリオ部で現れた旋律に酷似しており、三拍子から四拍子に移されているものの、音高も一致しており、殆ど「引用」と言って良いほどである。
これこそ、「その意図」について考えさせられるが、この楽章の深刻そうな素振りの「底にあるもの」の在処について示しているようにも思われる。
主題は序の材料を交えながら切れ切れに、曖昧に進行するが、所々に印象的な「調的な響き」が現れ、聴き手の興味を引き続ける。このような「流れの重視」は、やはり「第4」のトリオ主題に用いられた「長ー短ー短」の同音反復によるリズム・オスティナートに伴われた「第二主題」たる、ビゼーの「ハバネラ」をどうしても思い出させる部分(これも「引用」だろうか。フレーズを不規則に引き延ばし、何とか「バレる」のを避けようとしているようにも見える。)でも顕著で、調的な響きが重視される。「長ー短ー短」のリズムは「ラドシ」「ドミレ」といった三度音程の動機に変化し、断片的な進行が第一主題部の感じを導入するが、これが展開部への準備となる。
展開部では、これまでのゆったりした進行を埋め合わせるようにアレグロのテンポが導入されるが、「動機的展開」というよりも同一の音楽が「加速」されている感じが強く、そのため「歪んだ」印象を与える。これは第一主題がグロテスクな「行進曲」として現れる部分で決定的なものとなり、何か標題楽じみたもの、或いは交響詩的な「意味」を思い起こさせる。
再現部への移行は巧妙であり、導入部の付点リズム部分が速いテンポのままクライマックスとして拡大されて現れ、「第4」の冒頭楽章の同様な部分のような「つなぎ」のユニゾンによる「レチタティーボ」、「長ー短ー短」リズムの再帰から第二主題で元のテンポとなり、さんざん利用された第一主題の再現は省略され、コーダにおいてその「雰囲気」が回想されるのである。
再現部の音楽はかなり短縮され、変化を受けるが、響きと流れはかえってスムーズなものとなり、主題の伴奏音形に乗ったコーダもむしろ不安感は薄らいでいる。主題の逆行形がフルートで奏される導入も何か象徴的であるが、提示部では目立たなかったオーボエによる「ミファミラ」といったショスタコービチでは必ず出て来る音形が今度はソロ・ヴァイオリンで「シェエラザード」のように現れ、当初の深刻さはどこかに消えてしまっている。
こうして、簡潔で「陽気」といっても良いようなスケルツォが呼び出されるが、消え去った音楽は派手なフィナーレにおいて「より攻撃的な姿」で復帰する。
第1楽章は明らかに「問題」を「保留」しているのだが、そもそも、それ自体が「存在したかどうか」は、主題の「引用」も含め、開始部の「思わせぶりな態度」共々、実際は明らかではない。
この楽章は「第4」の終結部と同様、本当はリアリティを欠いているのだが、やはり「悲劇的な外見」が実際以上に「効果」を生じている一例なのである。(以降、次回。)
タグ:音楽
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2007年03月31日

音楽の「言語性」とは?(105)

ショスタコービチ「交響曲第4番」のフィナーレとなる第3楽章は、冒頭楽章同様、巨大、且つ複雑なものであるが、一応はソナタ形式のアウトラインを備えていた先行楽章よりも、さらに自由で独特な構成を持ち、他には類例の無いようなものとなっている。
特に、楽章半ばに「展開部」の代用として差し替えられたとも言える、通俗的な、バレエか映画音楽を思わせるような「メドレー」部分は聴き手を面喰らわせ、出し抜けに接続される全曲のクライマックス共々、ことによると「意味不明」とも思われかねない危険性も抱えている。
とはいえ、これはあくまで「交響曲」なのであって、主要主題のクライマックス、コーダにおける再帰などの動機操作にも事欠かず、彼が初期に追求していた「定型によらない交響曲」の「集大成」と言って良い仕上がりを見せている。重要なのは、これが「悲劇的なもの」に収斂されていくようにまとめられている事で、これによって得られる「効果」と「説得力」を、その質的内容共々、マーラーの交響曲に学んだ、とも考えられよう。
冒頭は明らかに「葬送行進曲」として始まるが、既に述べた通り、この全曲で最も遅いテンポは「緩徐楽章」の欠如に対する「穴埋め」であると共に、変化の急激なこの交響曲にあって、その「はっきりした性格」が最も長く持続する部分である、という点においても重要である。
この特質は、この部分だけで一つのクライマックスを持ち、明らかに「まとまり」を与えられているため、この冒頭部は「間奏曲」のようにも聴こえるのだが、実際には「行くべき場所」を指し示しており、そのことは後に明らかにはなるものの、少なくとも「序奏」に見えるような外見によって、当初はその重要性が隠蔽されているのである。
ファゴットによる主題は殆ど直接的にマーラーを連想させ、まるで「引用」のように響く。(マーラーの「第2」の冒頭楽章や「第7」の第2楽章、歌曲「Nicht widersehen!」と調性や感じも似ているが、旋律線そのものが想起させるのは、皮肉にもマーラーで馴染みの「葬送音楽」の数々ではなく、「第3」の第2楽章のメヌエット調の主題である。試しにどちらかを三拍子化、もしくは四拍子化、長調化、短調化してみると良い。)重要なのは主題冒頭の短三度順次上行であり、これは同音連打とともにオスティナート化される。続くオーボエに現れる半音階的な旋律も重要で、こちらは後に繰り返し扱われている。間奏部、金管の強奏によるクライマックス、御馴染みの弦による模糊としたエピソード部に続いて主題が回帰し、主部へと移行するが、期待される「アレグロ」はまたしても「スケルツォ調」であり、しかも最も「それらしい」ものである。これは大規模に展開されるが、しかし「ソナタ風」ではなく、最初の楽想に新しい要素が次々と重ねられるようにして進行する。
主題は短三度下降の反復、音階上昇に始まるが、これが「基本動機」に基づくものであることは言うまでもない。第1楽章における「第2楽章の予告」や同じく第1楽章の第二主題の「もじり」(但し「ソドレミ」の「ミ」にどうしても「到達しない」ように繰り返される)、主題冒頭の三度下降だけが執拗に繰り返されるなどのパロディックな扱いが頻出し、いよいよ「メドレー部」が始まる。
面倒だが経過を辿ると、バレエの一場面のようなピッコロのポルカ、これもバレエのような第1楽章第二主題に基づく主題で始まるワルツ(具体的な「動きの描写」のようなものも伴う。アレグロ主題も現れる。)、ファゴットのソロによるコミカルな行進曲、第二のワルツ(ファゴットが用いられるため「継続」のように聴こえる)、アレグロ主題による移行部、弦による同音連打動機による無窮動的な部分(この後でオーボエに現れる基本動機を含む主題「ソド↑ソラシソ」は重要で、「終わりを告げる」性格を持っており、クライマックスへの移行部、コーダでも現れる。)弦による旋律的エピソード(基本動機による)、アレグロ主題のワルツとしての再帰、再び無窮動的な移行部(マーラーの「第1」のスケルツォにおける同様な部分からの「引用」を含む)、というのがここでの「手順」だが、こうして見ると、アレグロ主題の再帰や、楽想や楽器法の類似による連関やロンド的構造、特定の旋律の「意味付け」によって、それなりの「計算」は働いており、見掛けほどには「興の向くまま」書かれている訳では無いことが解る。
この部分の「意味」については論議があろうが、マーラーばりの「世の成り行きの描写」である、とするのが「もっともな見解」として支持される所であろう。
全曲の頂点は「メドレー」のデクレッシェンドの後、突然やってくるが(これもマーラーと関連づけて語られる事の多い。即ち「第7」のフィナーレにおける「突然の勝利」である。)、二台のティンパニの組み合わせによる主音、属音の独特なオスティナートがミニマル・ミュージックのように果てしなく強打される中、金管群が「ソソソ♯ラ、ソファミ」を主材料とするコラールを開始する。(これは「基本動機」のうちの三度順次下降と半音のぶつかりを組み合わせたものに他ならない。)
やがて短調に傾斜して「葬送行進曲」の二つの主題が順番を逆にしてコラールと重ね合わされ、最大点に達する。輝かしいはずのクライマックスが、こともあろうに「葬送行進曲」と一体化させられる訳だが、この強引な措置によって、変化の激しい交響曲の「行く先」はついに確定し、「悲劇性」の名目と共に諸相を呑み込んで、全てに決着を付けることとなる。
これ以後からは諸主題から抽出した動機による「解体部」となる。
ティンパニの連打は主音cのみ弱奏となり、「ラシドシ」という「葬送行進曲」のオスティナートの変形とオーボエ主題、マーラー的な「長調ー短調和音」の変形、例の「終わりを告げる主題」がヴァイオリンに現れ、チャイコフスキーの「第6」のフィナーレのコーダを思い出させるシンコペーションによる主音連打に乗って(葬送を示す大太鼓のトレモロも現れる。)、弦群はハ短調の主和音を弱奏し続ける。(これまでの不協和音に満ちた経過から、これは極めて新鮮に感じられるが、このような響きの構造は「第8」「第15」の結びでも踏襲される。)
チェレスタがクロスリズムで「新しい素材」であるハ短調の分散和音動機をまばらに奏し(この楽器は後の「第13番」でも曲を閉じることになる)、遠くからの響きを模した弱音器付きのトランペットが「オーボエ主題」の冒頭を響かせることで、「情景」が遠のきつつあることが示され、音楽は「モレンド」の指示のもとに消え去る。チェレスタは最後にはハ短調和音から外れ、a音とd音を奏して「開放して」終わるが、これが冒頭楽章冒頭のニ短調への傾斜を反映していることは言うまでもなく、結果として「円環」を為してはいるが、音楽自体は必ずしも符合しておらず、各楽章の「繋がり方」も複雑である。
前述通り、あまりにも情報量の多い音楽を「閉じる」為に用意された「悲劇性」は、「勝利」の身振りと隣り合わせられることでリアリティを確保しているように見えるが、マーラーの「第6」と違って、いずれも「降って湧いた」ようなものとして与えられているために、「幻視」のようなものとして立ち現れ、「葬送行進曲」による「予告」も、むしろ後の時点での「引用」と見るべきであって、
決して「必然的」なのではない。
「悲劇性」は、突然立ち現れて「全てを呑み込む」ようなことも「認められる訳」だが、ショスタコービチは「曖昧な描写」によってこれを実現する事で、かえって先立つ音楽にも「意味深長さ」を付与することに成功したのである。
チャイコフスキーとは違って、ここでは「感情の吐露」のようなことは一切行われておらず、そのような表現も必要としていない。ここでの「悲劇性」は象徴的なものであって、相対化が可能であり、
そのために「後から前を透視する」ようなことが可能なのである。
我々はそれが最初から「潜んでいたもの」のように考えるのだが、どこからやってきたか解らないようなものが「それ」なのであって、いつの間にか知らぬ間に「張り付かれている」ことに気付くのである。
彼はこれ以上の「豊かな内容」の「交響曲」を書かなかったが、それが「成立事情」によるものでもあることは述べた通りである。(以降、次回。)
タグ:音楽
posted by alban at 21:43| Comment(0) | TrackBack(0) | 音楽 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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