2009年05月30日

音楽の「言語性」とは?(163)

今まで幾度となく「その出来具合」に閉口させられつつ、結局は最後までお付き合いするはめになった「ショスタコービチの交響曲」にも、今回の「第15番」の第4楽章で「お別れ」、ということになる訳だが、そんな具合に「最後の最後」だと思って待ち構えればなおのこと、この「最終楽章」の開始部は、聴き手に大きな驚きを与えることになろう。
ショスタコービチが、これが「最後の交響曲」の「最後の楽章」であることを意識していたことは、まず間違い無いことと思われるが、それだけに、この「確信犯」そのものの「ヴァーグナーの引用」(誰が聴いても明らかな「ニーベルングの指輪」の「運命の動機」の「そっくりそのままの引用」)は、聴き手を当惑させ、疑念すら抱かせる。(これを最初聴いた時は、レコード会社が「編集間違い」を犯したか、と思った位である。しばらく聴いていれば、それが誤解であることは解るが。)
これは何度聴いても「そのように感じさせる」という点では、まさに「効果抜群」であるが、その「引用の意図」自体は解り易いものであるにせよ、いかにも「やり過ぎ」の感があり(第1楽章の「ウィリアム・テル」同様に)、この「序奏部」に続いて現れる「第一主題」の冒頭が「トリスタン」の開始部の「引用」であり、それに接続されるのが、「グリンカの歌曲の引用」とあっては、「オリジナリティ」としては「スカスカもいい所」であって、この期に及んでも、この作曲家の「本来そんなに高くない音楽的モラル」が、ご本人も重々承知の上での「全開」か、とすら思わせる。
(もっとも、「運命の動機」については、この後も「付きまとうように」ポイントごとに繰り返し現れ、単なる「引用」というよりは音楽の「主要素」として機能しているのだが。)
第一主題部自体も、何故か、ピッツィカートを伴奏にした長調の性格が強い「セレナーデ調」であり、その流れを遮る「運命の動機」はあるにせよ、思いのほか「軽い足取り」が続き、これも聴き手を惑わせる。もっとも、この後、小唄のような木管のエピソードを交えて引き延ばされる第一主題部の作り方は「いつもの感触」であり、スタッカートの金管の合図で流れ出す第二主題部でも、それは変わらない。もっともこの「第二主題」は第一主題の変奏に過ぎず、対照性を殆ど持たないので、それだけに、八分の六拍子のエピソード部を経てから現れる、中間部の重々しい三拍子による「パッサカリア」が実質的にこの楽章の「中心」として機能するのを効果的にしている、とも言えよう。
この「パッサカリア」については「運命の動機」をはじめとする「他人の作品の引用」は自粛され、彼が「シリアスな時」に見せる身振りが顕著であるが(もっとも、五度上行、四度下降からなるパッサカリア主題は、何故かハイドン最後の交響曲「第104番」の冒頭部に酷似しており、これを「引用」と見なす向きもある。確かにそうかもしれぬ。)ここにおけるサラバンドのリズムは、例の「第7」の第4楽章フィナーレにおける、形式的には似通った部分で用いられたものと共通であり、パッサカリア自体も「第8」の、こちらはフィナーレの前に配置された第4楽章の進行に良く似ている。
クライマックス自体も、「第8」や「第10」のエコーをたっぷりと含んでおり、この中間部については、確かに「御期待に添った」出来具合と呼んで良いものの、そのあと第二主題から戻ってくる方法も「第8」そっくりであり、ここまで来ると、意識の上での類似の可能性もある。
しかし、「運命の動機」が繰り返されて以降の主部の復帰は、まるで「薄気味悪い影」のようだった「第8」とは異なり、ここでは、何故か、当初よりも安定して落ち着いた「セレナーデ調」となっており、主題の開始部の一回を最後に「運命の動機」も消え、音楽は、ついに「トリスタン」冒頭の三音と五度下降を接続したものに収束してゆく。すると第2楽章に現れた「他の世界からの響きを示す和音」が音楽を中断するようになり、位相が変わり、「感情性の除去」が始まることになるのである。(この部分にはパッサカリアの回顧も挟まれるが、今度はこちらが「影のような」ものとなり、「他の世界からの響き」に、まるで否定されるかのように、打ち消される。)
チェレスタの第1楽章冒頭の動機の変奏を合図に(これはピッコロでも繰り返され、その出自を明らかにすることになるが、いずれにせよ、登場時のコミカルな性格付けは除かれ、「単なる一要素」として機能している)イ長調の主和音が弦に現れて延々と伸ばされ(これも「第8」の終結部、それから=こちらは短調だが=「第4」の終結部を思い出させるが、それらとは異なり、感情的な「残滓のようなもの」は、もう持っていない。)、打楽器が、まるで昆虫や植物の出す物音のように響き始める。(これも「第4」の第2楽章の終結部の「引用」と言われるが、むしろ「チェロ協奏曲第2番」の終結部の方に、より近い。しかし、これもやはり「残滓の無い響き」に変化している。)
こうして、音楽は「人間的な感触」というよりは、前述したように、太古の地球の「物音」のような、「現象」のような響きをたて始め、最後の最後での、パッサカリア主題や「第10」の終結部の「引用」も、「本来の意味」から切り離された、「物質的なもの」として機能することになる。
このような「終結」は、おそらくは「第14」の、息詰まるニヒリズムの後で「初めて可能だったもの」なのだろうが、ともかくも、この「透明な結び」は、質的にも文字通り「波瀾万丈」だった彼の「交響曲」の、他の誰にも似ていない「締めくくり」をすることになった。
この「第15番」自体への論議は尽きることは無かろうが、このコーダがこの曲の価値を高めているのは確かであり、他には誰も「このような終結」を持つ「最後の交響曲」を書かなかった。
彼は、ここで「凱歌」にも「悲劇性」にも堕しなかったが、それは彼が晩年の三つの交響曲で強くこだわったであろう点であったろう。それは「諦念」、「ニヒリズム」の次には「現象としての音楽」として表出された。ショスタコービチは、この後三年以上生きたが、もう大規模な作品を書かず、室内楽と歌曲という、個人的な内容の作品のみを、幾つか書いた。(以降、次回。)
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2009年04月25日

音楽の「言語性」とは?(162)

ショスタコービチの「交響曲第15番」の第3楽章は、(演奏にもよるが)5分にも満たない「スケルツォ楽章」となっている。この「短さ」が「他の楽章に比してバランスを欠いている」ことは既に述べたが、まあ「無駄なページに事欠かない」彼の音楽の中では、生涯に渡って得意とした、この「スケルツォ」というフォーマットは、しかし「比較的簡潔に過不足無く」書かれることが多く、交響曲の例では「第1」とか「第5」「第9」「第10」などのスケルツォ楽章が目立って短く、かつ有名でもあるが、やはり前後の「必要でない音符の多い」、いささか長たらしい楽章と比べると「かえって違和感を与える」ことが無いでもなかった。(しかし、だからといって「より長く」書いたところで、「第7」のような「ひどい結果」をもたらす訳だが。)
彼の「スケルツォ」の短さは、「速いテンポ設定」云々よりも、彼があちこちで使い回した、例の「ギャロップ調」だの「ポルカ調」とかいったもので解る「通俗音楽への指向」が、音楽の性格上、「ここで発揮され易い」ためにもたらされた、と見ることもでき、この「第15」でも、十二音をパロディックに扱った書法の向こうに、それが透けて見えているのは言うまでもない。
ドローンの上で繰り返される、前半と後半で鏡像のように見える主題は(ブラームスの「第1」の、どうもあまり感心出来ない第3楽章の主題を思い出させる)、楽章の最初と最後に「縁取り」のように配置され、この楽章の印象を決定しているのだが、それに挟まれた音楽の、いささか散漫な進行そのものは「第8」のフィナーレの「意図的に出来悪く書かれた」音楽に良く似ている。
しかし、ここではコラージュのように、幾つかの要素が「感情を欠いたまま」混ぜ込まれ、その下地に「聞き覚えのあるフレーズが時折聴かれる」、という具合で、途中と最後で現れる、取って付けたような「第4」のスケルツォの「打楽器のリズムの引用」(これは次のフィナーレのコーダ、最後の最後で「主役」を努めることになるのだが)共々、奇妙に断片的な印象を与える。
彼のこれまでの「スケルツォ」と比べて、殊更「違った書き方」が見受けられる訳ではないにも関わらず、何故か今までとは別種の風合いが現れており、それが楽章全体の短さを補っているのである。
そして、その「経過的な性格」からも明らかなように、結局、彼はここで「フィナーレへの序奏」を書いている訳だが、それが次に突然のっけから現れる、ヴァーグナーの「指輪」の「誰にでも解る、そっくりそのままの引用」の正統性を保証している訳ではない。
この「問題の引用」は普通に考えれば「簡潔に書かれた序奏」なのだが、多少改変されているにせよ、その「殆ど全部」は、「ヴァーグナーの書いた音符」なのである。ショスタコービチは、この第3楽章で、それに対しての、「何がしかの埋め合わせ」をしたつもりだったのであろうか。(以降、次回。)
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2009年03月28日

音楽の「言語性」とは?(161)

今後、いかなる時代になろうと、誰もが諸手を挙げて「傑作」呼ばわりするようなことにはならないであろうと思われるショスタコービチの「交響曲第15番」だが、既に述べたように、それは両端楽章が、どうも意図的に「そうならないように」作られているらしいからであって、中間の第2、第3楽章に(特に効果的な措置とも思えないが、アタッカで繋げられている。「内容上の必要性」というよりは、彼としては例えば「第8」でやったように、マーラー的な、楽章単位よりもさらに大きい「部」で区切る方法を想定したのであろう。)ついては、彼の「いつもの語り口」が聴かれる「問題の少ないもの」として受け取られるような出来具合にはなっている。(この「いつもの語り口」自体が、彼の場合、実に「問題」なのは、たびたび申し上げたとおりではあるが。)
第2楽章に比べて第3楽章がどう見ても三分の一以下の長さ、というのも「第10」の時の「短すぎた」という反省の弁が(あの時は第2楽章だったが)何の役にも立たなかったかと思わせるが、ともあれ、第2楽章の方は、彼の「晩年の世界」を尊ぶ人々にとっては納得の行くものではあろう。
開始の金管の狭い音程をすべる「コラール」と、続くチェロのソロによる跳躍音程の多い「モノローグ」との交替、という図式は、「第9番」の、独立させるには妥当でない第4楽章にそっくりであり、その情調は、前作「第14番」の第4楽章や、感傷的な第9楽章を思い出させる。
この部分は不定形に変形され、繰り返され、長々と引き延ばされて楽章の前半部となるが、中間部となると、今度は「第11」の葬送行進曲と「第6」の第1楽章の終結部の音調が絡められ、やがてトロンボーンで現れる「晩年の歌曲からの引用とされるもの」(これは「本当にそうであるかどうか」は例によって解らない。)が、「第8」とか「第10」の冒頭楽章の「クライマックスの作り方」で盛り上げられることで、これが結局の所、内容としては「いつもの第1楽章」の代替品であることが明らかになるのだが、「またかよ」という以上に積み重ねられる「自作のエコー」については、彼がここで「回想」をやっているとしか思えないもので、それは殆ど「コラージュ化」してしまっているために、実際にこの音楽が「シリアスな代物」なのかどうか、疑念を生じるほどである。
しかし、わずかだが「新しいもの」は存在する。ここでは何故か、「座標」を示すような、「他の世界からの響き」が時折侵入し、音楽をその都度静止させる。それは木管の高い和音と金管の低い和音が、前後の脈略無く対置される、ごく短いフレーズであるが、クライマックスを出し抜けに「召喚する」のが、まさにこの「和音」であるのは偶然ではなく、何か「意識外のもの」、もしくは「自然界の音」のような、不変、且つ変更不能な「何ものか」を示している。
これはマーラーではお馴染みの「異化効果」であるが、ここではむしろベルリオーズの「レクイエム」に出てくる、木管とトロンボーンの、上層と低層だけで鳴らされる、有名な「驚くべき和音」の効果を思い出させる。
そして、この「空間的な和音」は、フィナーレでも何度か現れ、今度は、全曲のコーダをも「召喚する」役割を担うのである。(以降、次回。)
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2009年03月07日

音楽の「言語性」とは?(160)

グロッケンシュピール・ソロの二打ちと、何やら機械的な動きのフルート・ソロに始まる、ショスタコービチ最後の交響曲「第15番」は、彼がしばしば「拠り所」とした「マーラーの作品」をまたも思い出させる。それはここでは、もう冒頭から「第4」の、例の「お伽の鈴」とフルートによる開始を「なぞっている」ように見えるのだが、マーラーではそれが「導入部」もしくは「前奏」なのであるのに対し、ショスタコービチのこれは「まさに第一主題そのもの」であり、伴奏の弦共々、時折鳴らされるグロッケンシュピールの「合いの手」もそこそこに、薄いオーケストレーションのまま、不定形に引き延ばされ、延々と続く。これは、良く引き合いに出されるように、彼自身の「チェロ協奏曲第1番」の冒頭に酷似しているが、また同時に「交響曲第8番」第2楽章のトリオ部のピッコロ・ソロによる「わざと不出来に書いた」としか思えないような「調子外れ」の音楽と書法も内容も「ほぼ同一」でもあるのだが、その「第8」の当該部分と同じように、ソロがファゴットに変わっても、木管の音色が増えても、一向に威勢のあがる気配の無い音楽は、これが皆が期待するような「大音楽」ではないことを執拗なまでに強調して止まない。
いつもの「深刻ぶり」のかけらも無いこの「軽さ」は、しかし、彼の「第6」のフィナーレや、「第9」の第1楽章や第5楽章でもお馴染みのものでもあるが、ことに「第9」の「人を喰った」それとの類似は明らかであり、トランペットによる、「音色以外には全く対照性の無い」第二主題や、それに続く、「お決まりのリズムと音形」の「出自」を明らかにするべく現れる「ウィリアムテル序曲」の「行進曲」の(それも実に「何度も何度も」現れる!)「そっくりそのままの引用」とあっては、表向きは古典ぶった「第9」のそれよりも「気分を害する」向きも少なく無かろう。
こうなると、後に現れる「第2交響曲」を思い出させるクロス・リズムや、十二音ぶった「複雑な書法」も(実際には「こうした部分」に、「相当に力が割かれて」いる)「実効性のほど」は怪しく、確かにソナタ形式の枠を守っているとは言うものの、全体としては「興に任せて好き放題にやっている」ようにしか聴こえなくなってくるのだが、この「無意味な主要主題」と「露骨な引用」と「頭で書いた複雑な書法」が「メドレーのように並べられた音楽」は無論のこと「確信犯」なのであって、この「感傷無しに回顧的な音楽を書く試み」が成功であったかどうかはともかく、彼は「この後で何をやっても良い免罪符」を手にしたことになり、実際、この後の音楽も「そのように書かれた」のだ。(以降、次回。)
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2008年12月20日

音楽の「言語性」とは?(159)

ショスタコービチの晩年の作品に、いとも稀なる「深遠な世界」が存在する、と信ずる(私としては「余りそういう筋合いの代物とは言えない」と考えるのは度々述べている通りだが)人々にとって「いささか都合の悪い作品」に違いないのが「交響曲第15番」であろう。
何せ=当否はともかくも=「シンフォニストとして名高い」この作曲家の、こともあろうに「最後の交響曲」であり、大規模なオーケストラ作品としても「最後のもの」となるこの作品は、「それらの事実から期待される姿」、即ち、ベートーヴェンやマーラーの「最も偉大な例」はもとより、ブルックナー、チャイコフスキーらが書いた「それにふさわしい」作品(一部「未完の作品」があるにせよ)、ハイドン、モーツァルト、シューベルト、ブラームス、ドヴォルザーク、プロコフィエフ、ヴォーン・ウィリアムズなどに見られる「結果としての見事な締めくくり」と比べると、明らかに「留保したくなる」要素がある。(それが「確信犯的」であるにせよ。)
とりわけ、「交響曲として肝心の」最初と最後の楽章に顕著な、「解り易い」どころか「そっくりそのまま」と言って良い形を含む「他の作曲家の作品の引用」(それも、「構成上極めて目立つ個所」に置かれているのである)は、多くの聴き手を当惑させるが、彼が「その作品において様々な引用を駆使すること」によって「暗号を埋め込んだ」と思いたがる(これについても「ほぼそういう話ではない」と何度も述べているが)人々にとっても、「実に居心地の悪い結果」なのである。
この露骨なまでの「明快さ」は、彼としては珍しいもので、つまりは「これが意図的であること」を示しているのだが(「たまたま同じ音楽を書いてしまった」のではなく、「明示されている」ので)この「自他の様々な引用をコラージュしたような音楽」は、彼の周辺者によって「自伝的」ともされ、彼なりの「最後の交響曲」として書かれたものであることには違いなかろう。
この操作のために、前作「第14番」などとは違い、この曲には「映像的性質」が与えられることになるのだが、実に出来の良くない「第7」「第11」「第12」といった、他の「映像的な性格の交響曲」(もっともこれらは胡散臭い「政治的意図」が作用しての結果なのだろうが)とは根本的に異なり、様々な要素が「それなりにフィルタリングされた」上での「フラッシュバック効果」が現れ、万華鏡のように「彼自身にまつわる過去」を、「極めて客観的に」映し出す。
このように、「異例なこと」が行われたため、まるで萩原朔太郎の「死なない蛸」のような、例の蛸壺じみた「弦楽四重奏曲の類」と比べて、はるかに「開放的」な性質が音楽に与えられることとなり、全曲の最後における、人間の介在しない太古の地球の「物音」のような「音楽」というよりは「現象」のような結びに至るまで、独特の透明感を持った音楽が生み出されることとなった。
「第14番」を書いてしまった彼が、それでもなお書きたがった「交響曲」は、「彼自身」というよりは「自動筆記」のようにして書かれ、思いもしなかった場所へ、我々を誘う。(以降、次回。)

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2008年11月29日

音楽の「言語性」とは?(158)

二つばかり「余剰」もしくは「蛇足」とも思える楽章を連ねた後、ショスタコービチの「交響曲第14番」は、作曲者が当初から「結末」として考えていたであろう、二つの楽章に辿り着く。
第10楽章「詩人の死」と第11楽章「結び」は、ともに、ここで初めて用いられるリルケの詩に基づいており、動機的にも密接に結びつけられ(とは言っても既出素材の度重なる使用ではあるが)、第10楽章は冒頭楽章の「回顧」であり、最終の第11楽章は丁度、第10楽章と全曲に対して、テキスト上、音楽上での文字通りの「コーダ」を為している上、二つの声が「重唱」の形で用いられる、最初で最後の機会でもあるのだが、これらの操作によって、二つの楽章は連携した上で強固な「締めくくり」を演じることになる。
第10楽章では、全曲を開始したモティーフが、同様に単声でヴァイオリンに現れるが、冒頭楽章ではバス独唱が歌った音楽を、ここではソプラノ独唱が引き継ぐせいもあってか、一オクターヴ上げられ、続く独唱も(テキストのため付加が生じてはいるが)第1楽章のそれとほぼ同一の動きを半音高く(正確にはプラス二オクターヴだが)歌い、冒頭の暗さとは異なる、「影」のような、空虚な「希薄感」を漂わせる。
続いて現れる弦の和声的なモティーフも、主モティーフである「ドシドラ」音形に基づき、帰結感を高めるが、この後、第1楽章の終始続くピアノ乃至ピアニッシモの指示に対して、今度は二度のフォルテが設定され、その一度目には第3楽章「ローレライ」で「異世界からの声」を示した楽器であるヴィヴラフォンが寄り添い(但しここでは同時に用いられていた「天上の響き」であるチェレスタは除かれている。)、この楽章の「実質上のクライマックス」を示している。
しかし、二度目のフォルテへの道行きには、もはや低音弦しか付き添わず、凍り付くような「和声モティーフ」を最後に、主モティーフを奏でながら音楽は解体していくが、第7楽章の「奇跡の間奏曲」の音色である、弦のピッツィカートとコル・レーニョ、前回と全く同じパターンを叩くウッド・ブロック(音色の強化のためカスタネットが重ねられる)が召喚され、「間奏曲」の皮肉な余韻を簡潔に響かせながら、重唱が前楽章の「和声モティーフ」をなぞり、最終楽章が始まる。
スタッカートからレガートへとクレッシェンドしながら、声は「死は全能」という文字通り「総括」のテキストを歌うが、短二度、四度、五度といった「お決まりの動き」を示しながらも、用いられた詩同様の「象徴的な短さ」によって、「特別のもの」足り得ているのだが、終始一貫する第7楽章と同一のリズム・パターンを強奏して終結、と思われた後、最後の最後で突然現れる、リズムを細分化しながらクレッシェンドする不協和音は聴き手を大いに驚かせる。
この、取って付けたような「トーンクラスター」は、その暴力的な響き自体「死」を表現しているとも採れようが、作品の「完全な終結」を拒否しているようでもあり、いずれにせよ、作曲家が「物議を醸すこと承知の上」で書き記したものであろうが、彼の作品でこのような終結をしているのがこの作品のみであることを考えると、効果の賛否はともかく、「意味」は認められてよかろう。
こうして、彼の「最高傑作」は閉じられるが、自らの死を意識していた彼自身、これを「最後」と思っていたことは確実だろう。
しかし、彼はなお生き、「最後の交響曲」は、さらに書かれることになる。
だが、既に「こうしたものが書かれてしまった」以上、もはや方法は「変則技」しか残されておらず、実際、彼は「そうしたもの」を書く事になった。(以降、次回。)

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2008年11月08日

音楽の「言語性」とは?(157)

ショスタコービチの「交響曲第14番」に用いられた十一の詩だが、通常ならばそうする例が多いだろう「一人の詩人のテキストで統一がされている」訳では無く、適宜選んだ上で(これもマーラーの「第8」「大地の歌」などの先例が影響している訳だろうか)、第1、第2楽章にロルカ、第3楽章から第8楽章までを占めるアポリネール、最後の第10、第11の二楽章にはリルケ、という具合にシンメトリカルに配置されている。
こうして「非ロシア」詩人の言わば「ビッグ・ネーム」が並ぶ訳だが、わざわざこのバランスを崩して、第9楽章だけにロシアのキュヘルベケルという、「この曲に用いられたので知っている名前」が出てくる。
「おお、デルウィーク、デルウィーク」という題で察せられる通り、この詩は圧政の犠牲となって獄死した友人の名を連呼して始まるもので、付けられた音楽も「ビッグ・ネーム」相手ではやりにくかろう「嘆き節」ほぼ全開、という所で、ここまで回避してきたはずの「感情に溺れる」音楽を披露してしまうのである。
直前の第8楽章同様の「蛇足」が、ショスタコービチの思う所の「必要性」で強行されている、という訳だが、彼は、打楽器を何故か省略した前楽章の楽器編成から、さらにヴァイオリンを引っこ抜き(これは次の第10楽章における最初の楽章のリフレインをヴァイオリン単独の音色で再現する為の準備でもあるのだが)、ヴィオラ以下を分奏することで、バス独唱の「嘆き」を際立たせる手段を用いている。
これは、今までさんざん使われてきた「例の音の動き」を「感情たっぷりに聴かせる」効果を発揮するが、このような「直接性」は、基本的には「既定路線上」だった第8楽章と比べても、明らかに異質であり、曲全体から「浮いてしまっている」のである。(これが重々承知の上で「意図されたもの」かどうかは、彼の「前例」からしても相当怪しい。)
結局のところ、この楽章は、彼によく見られる冒頭楽章の「再現部前」や「フィナーレ直前」の例の「モノローグ」の「変形拡大版」であり、要するに彼は「どうしても、こういう事をやらなければ気が済まない」らしいのである。
こうして満足した彼は交響曲の最初の段階を呼び出すのだが、このタイミングが、それでも「遅きに失した」結果にならないのは、全曲の結末の簡潔さがそれを救っている。
但し、それはかなりの割合で、リルケのテキストのおかげ、なのであるが。(以降、次回。)
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2008年10月18日

音楽の「言語性」とは?(156)

ショスタコービチ「交響曲第14番」に含まれる十一の楽章の中で、最後の「スケルツォ系楽章」となる第8楽章だが、しかしながら、同系統の第2、第5楽章や、直前の第6、第7楽章に含まれていた、切れ味鋭い皮肉を含んだ「スケルツァンドな部分」と比べると、どうにも見劣りしているようである。
これもアポリネールによるが、「コンスタンチノープルのサルタンへのザポロージェ・コサックの返事」という長たらしい題名が示すように、ユーモラスなその詩には、これまでの深刻な内容のテキストとは打って変わって、全編に渡る、愚弄と嘲笑、罵詈雑言で埋め尽くされた痛快な文句が綴られているのだが、他の楽章のテキストとは違って「死」と直接的、間接的な内容の繋がりは無く、余りにケッサクな詩の出来具合にショスタコービチが触発され、どうにも落とし辛かったために、半ば無理矢理気味に「ここに押し込んだ」ように思える。
そのせいか、音楽の出来具合も「随分と強引なもの」で、どうも「詩に見合った成果」は挙げていない。
弦を分奏させ、クラスター的に密集させて用いてはいるのものの、出だしの十二音を意識した動機や四度音程が目立つ音の動かし方は、第5楽章におけるシロフォンの動きと同根であり、テキストの都合上、「早口でまくしたてる」他は無いバス独唱も短二度、短三度、同音反復という、どうにも代わり映えのしない「例の動き」をなぞるばかりで、その早さがそれ自体を目立たせ、フィナーレのために温存した積りなのか、それとも万策尽きたのか、何故か用いられない打楽器の「不在」も、この音楽を「なかなか苦しいもの」にしている。
この楽章はこの作品にとって「傷」とまではいかないが、次の感傷味を「盛り込んでしまった」第9楽章同様、「蛇足気味」であることは否めず、作品が前の第7楽章の「高み」から「下り坂」となった感を強くさせる。
第8、第9楽章を「カット」、もしくは第8楽章だけでも省略した方が「全体」としては「より機能した」ように思われもするのだが、ショスタコービチとしては作品が描く「諸相」の「広がり」と「物理的な長さ」が必要だった、という所なのであろう、作品はそうして「そのように書かれ」、こうして聴き手に、つくづく彼が「ショスタコービチ」であることを痛感させてくれるのである。
何度も言うのだが、彼は「ベートーヴェン」とか「マーラー」では「決してない」のである。(以降、次回。)
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2008年09月27日

音楽の「言語性」とは?(155)

ショスタコービチ「交響曲第14番」の最高潮は、前の第6楽章とこの第7楽章であろうが、そこでは、弦と打楽器のみに絞り込まれたオーケストラの音色をさらに絞り込み、音色間の対比をかえって浮き立たせる、という、彼の晩年に顕著になってくる、普段は貧相なことの多い「痩せた書法」が最大の効果を発揮したページであり、彼の書いた中でも「最も独創的な音楽」と言って良いものであろう。
部分部分をつぶさに見てゆくと、やはり「完璧」とは言い難くもあるのだが、それは、「テキストの流れ」と「音楽の要求する構造」に幾分食い違いがあるためで、「オペラティック」と言っても良い、極めて調的な性格の独唱部(歌の出だしから、しばらくは明らかに変ロ短調であり、音の運びも「例によって」短三度、短二度の連続、という具合である)それと対照される無調に傾く弦のトーン、さらに極めて優れた間奏部におけるピッツィカートとコル・レーニョ(ここでは四度音程を中心に書かれ、音色共々「虚ろな感じ」を強く表出させている)、一つのパターンしか叩かないウッド・ブロックによる、弱音域のみの「まばらな音」による象徴的な音楽の対比を、さらに統合(?)しようとした構成が、フィナーレの書法のように聴こえるのも、ショスタコービチが次の第8楽章とのセットで、前述の「四つの部分」の区切りを考えていたのと一致していないように思える。
とは言え、これは明らかに事実上この曲のクライマックスであり、作曲家自身それを意図していた事は確実であろう。
ことに、余りにも印象的な「間奏部」は、意外性とアクチュアリティが融合した「奇跡のページ」であり、彼の書いた最高のものであろうが、この圧倒的な箇所のために、続く低弦による感傷的な旋律(彼が晩年愛用した、いわゆる「月光ソナタの付点リズム」の反復を含む)以下の部分がいささか陳腐に感じられるのは致し方無い所であろうが、これは作曲家も「百も承知」で、間奏部の音楽も復帰し、歌と混ぜ合わせられる。
フォルテッシモはテヌートの四分音符の繰り返しでもたらされるが、結局この楽章をまとめるのは「間奏部」の力によってなのであり、まさにそのように閉じられている。
ショスタコービチの崩れがちな「バランス」は、ここでは馬脚をあらわすことは出来ない。
この楽章の存在が「第14番」の「傑作」たる所以であることは確実であろう。(以降、次回。)
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2008年09月06日

音楽の「言語性」とは?(154)

ショスタコービチの「交響曲第14番」では、全部で十一という、いささか多すぎる楽章数のため、「引き締め」の手段として「時間的に短い楽章」を相当数、分散配置せざるを得なくなる訳だが、第2、第5、第8楽章のような急速なテンポによる「スケルツォ系」の音楽が「それ」に充てられているのは当然として、例外なのが第6楽章と最後の全曲の「コーダ」として付された第11楽章ということになるのだが、この二つの楽章にもそれぞれ「スケルツォ的性格」が与えられているのは偶然では無かろう。
「完全にシリアスな音楽」を短く書くのは別に不可能ではないが、この交響曲における、深刻この上無い題材による「シリアスさ」の代替物として、道化た、皮肉の強められた性格の音楽を「象徴的に用いる」のが極めて効果的なのは、「まさしくそのもの」である「スケルツォ系楽章」より、さらに屈折させられた第6、第11楽章が良く証明している。(この二つは「スケルツォ系楽章」よりもさらに短く書かれてもいるのである。)
この第6楽章は、次の第7楽章と並んでこの「交響曲」の最高のページに属すると思われるが、これはソプラノが連続して歌う最後の部分であると同時に(ここでは冒頭でバスが六小節ばかり歌うが)前の第5楽章とも連続させられており、その性格はテキストをあっさりと急ぎ足で通過した後、この短い楽章の文字通り「核心」を為す、「笑い」の表出力によって納得させられるであろう。
不安定な離れた音程で引きつって始まる「笑い」は、同音反復による麻痺したようなものから、短二度の「溜息音形」を経て当初の形に戻っていくが、それぞれ音高も表情も変化しており、ショスタコービチではあまりお目にかかれない「絶妙さ」で書かれ、前の楽章の「主役」でもあったシロフォンがこれに付き添うことで明らかに威力を増している。
このシロフォンの効果は前楽章での「効果」を完全に上回っており、トレモロでしか「ニュアンス」を表し難いこの楽器の「表情」を通常と何ら変わらない「使用法」で取り出してみせた見事な「例」で、バス独唱に与えられた次の最も長い第7楽章の間奏部のフガートにおける弦のコル・レーニョの効果と共に、音色と表現が完全に一体化した、ショスタコービチではおそらく「これ以上が無い」見事な出来映えである。(以降、次回。)

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2008年08月16日

音楽の「言語性」とは?(153)

ショスタコービチ「交響曲第14番」の中でも、彼の作品を知る者に最も「馴染みのある感じ」を与える第5楽章「用心して」は、第3楽章から第8楽章まで連続して用いられるアポリネールの詩による音楽の中で、第8楽章と共に、六つの楽章を二つに分ける最後の位置にそれぞれ置かれ、一つの「区切り」を与える役目を果たしている。
それは通常の「交響曲」における「スケルツォ楽章」のようにキャラクタライズされた、急速なテンポによる音楽であるが、さきの第2楽章と共に、彼が若い頃から常に得意としてきた、いわば「顔」とも言える部分を為している。通常なら「主たる部分」ではないこの種の音楽に重要な役目を負わせるのは、彼が「マーラーから受け継いだもの」の一つであるが、彼の方法はマーラーのように「重み」と「複雑さ」を与える方法は採らず、「俗な音楽」への嗜好を丸出しに、「皮肉で乾いた音楽」を書いてきたのは周知の通りであって、この楽章もその「お馴染みのショスタコービチ」である。
但し、彼はここで意識的に「十二音」を多用することで「ひねり」を入れており、冒頭の耳慣れた感じの行進曲調のシロフォンの旋律が「調的でありながら」五度、四度音程を中心にしながら短二度の「ずらし」を用いて「実は十二音である」という「工夫をする」ことで(このような「作り」は、明らかに「意識的なもの」で、ショスタコービチが珍しく「注意深く振る舞っている」ことを示す。)、少し後で出る、弦の三連符によるざわざわした音形共々、「十二音の使用」自体が、おそらくは悪意的に「パロディーの対象」とされていることを明らかにしている。
続くトムトムの、これまた彼好みのリズムや他の打楽器の用法は、どうしてもストラヴィンスキーの「兵士の物語」を思い出させずにはおかないが、ソプラノ独唱の使用が「その感じ」を和らげる。
しかしその独唱パートは、リフレインされるシロフォンを始めとする器楽部と比べると、どうも印象が薄く、短二度音程に固執する第1楽章以来の「例の動き」を繰り返し、「聴かせどころ」であるはずの、一度だけ現れる「アダージョ」の指示もさほど効果的ではない。
楽章開始当初の「鮮やかな印象」の薄まりは音量の増加によって補填されるが、最後に再び「兵士の物語」調が喚起され(「意図的でない」とすると「迂闊」と言う他無いのだが)、ショスタコービチが当初のテンションを持続出来ていない印象を与える。
この楽章が「短い」ことは当然で、同様のことは第8楽章でも繰り返される。(以降、次回。)
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2008年07月26日

音楽の「言語性」とは?(152)

ショスタコービチ「交響曲第14番」の第4楽章は、この交響曲の、全部で十一ある楽章に「通常の交響曲」のような四つの区切りを想定していた、という彼の構想では、その第一部分、即ち「冒頭楽章のコーダ」を為す事になるのだが、確かに「そのような操作」は図られているようである。
冒頭と同様な極めて薄いテクスチュアや「基本動機」たる短三度モティーフの繰り返し、前楽章の終わりから続き、そのまま独唱に付き添い続けるチェロ独奏は(最後にはコントラバスの独奏と挿げ代わり薄気味悪いものとして残るのだが)、音色的な変化こそ与えられているものの、その「実質」は冒頭楽章の弦の用法と同様のものであり、まばらに鳴らされるチェレスタや、クライマックスでの変ロ音のチューブラ・ベルの使い方は前楽章のものと全く変わらず、という具合に「回帰性と連続性」への配慮は充分にされている。
「自殺」という題を持つアポリネールの詩については解説しないが(前楽章と同じ詩人である、といいうことも音楽上の類似性の担保になっているのであろう)、この楽章の子守唄のような緩やかな八分の六拍子と、冒頭の「シドシラシドシラ」という音形は、明らかに詩の「三本のゆり」というフレーズから発想されている。(詩はこの後「十字架の無い私の墓の上で」と続くのだが、しかし冒頭の旋律の音列、リズムは明らかに「十字架の形」を示しているが、意図的なものであろう。)
このような「楽章配置」と「材料」からは「新鮮味のある音楽」は期待できそうに無い訳だが、しかし、ありきたりの素材がかえって「象徴性」を生み出す、という事も可能である、という格好の例が結果的には実現しており、前楽章と同様に実際の書法や即興がかった構成は「最上」とは言えないものの、彼のヴェテラン作曲家の「腕の冴え」は、ここでは「シェーナ」として、「オペラ的なもの」として作用して、この楽章を印象を強いものとしている。
このような、ある意味では「ルーティーンな書法」が、アクチュアリティを保ち得るのは驚きでもあるが、それも「作品単体として」の話であって、これが彼の晩年における「基本型」と知れば、その濫用ぶりに辟易もさせられるのではあるが。(以降、次回。)


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2008年06月28日

音楽の「言語性」とは?(151)

ショスタコービチ「交響曲第14番」では、マーラー「大地の歌」の前例に倣ってか、二人の独唱者が交互に歌う形が採られているが、マーラーのように「楽章ごとに交替する」のでは無く、明らかに意図した上で「バランスが崩されて」いる。
即ち、バス独唱で曲を開始した後、ソプラノ独唱(一部バスが歌う箇所があるが、重唱とはならない。)による楽章が5つも続き、バス独唱による楽章3つを経て、冒頭の音楽が今度はソプラノ独唱と共にリフレインし、最後の、象徴的に短い「結び」で二つの独唱が重ね合わされる、という配置なのだが、これは一見、バランスを欠いているように見えるものの、実際には曲の前半、後半の区切りとも一致し、それぞれの独唱者の「受け持ち時間」の配分も取れている。
第3楽章「ローレライ」にバス独唱の部分が設けられているのも、勿論、アポリネール作による「テキスト上の理由」からではあるが、この「バランス上の問題」から意図された配置でもあることは間違いない。
また、この楽章は比較的長い「オーケストラ間奏部」を持ち、そのため、この交響曲の中でも最も長い楽章の一つとなっているが、これも「後半部」の開始である、バスが歌う第7楽章と対応する特徴で、この二つの楽章の「間奏部」では、十二音列による弦とウッド・ブロックの使用という書法、楽器法上の共通性も設定され、この傑作での実にショスタコービチらしからぬ「絶妙な配置」を見せる部分となっている。
この「間奏部」は、「交響曲」らしく「動機操作」に基づいているのも共通した特徴であるが、この第3楽章ではテキストの流れに即して二度ほど現れ、形式上の拡大にも貢献している。
但し、前楽章から鞭の連打で続く音楽は、その構成上の見事さにはどうも見合っておらず、件の「間奏部」は前作「交響曲第13番」の第4楽章に出てくる、マーラー風の「トランペットのファンファーレ動機にそっくり」で、彼にありがちな「意図的な引用というにはやや不適切」な部類に属するようにも思われ、ここまでで最も「無調感」の強い音楽も、対話式の進行(これもマーラーの「角笛歌曲」の「塔の中の囚人の歌」を思い出させる点がある)に幾分不釣り合いで、「象徴性」の演出には役立つはずの「調性感」をわざわざ回避した理由が、次の楽章への配慮も含めた「曲全体の構成上の問題」から発生しているとは推測されるものの、これが聴き手が「この題材に期待するもの」とはやや異なり、「どうも違和感を拭えない」のも確かであろう。
しかし、この特徴が、さきの「鞭」に対応して二回鳴らされる「第13番」の時と同じ変ロ音チューブラ・ベルで始まる、楽章の後半部のアダージョの「調的な部分」を良く際立たせているのも確かで(但しこれは彼の友人ブリテンの「戦争レクイエム」の第3楽章の「天使の登場」部分の書法に極めて近い。)、旋律そのものは先行部分からの再利用でありながら、全く「別の音楽」を響かせ、この楽章全体を極めて印象深いものに「高める」ことに成功している。
彼は、ここではこうして難しい「綱渡り」に成功した訳であるが、こうした危うさは、ここで訪れた「静けさの印象」と共に、次の楽章にも引き継がれる。(以降、次回。)

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2008年06月07日

音楽の「言語性」とは?(150)

ショスタコービチ「交響曲第14番」第2楽章には、彼の交響曲ではここが「定位置」となる「スケルツォ」相当の音楽が書かれている。次のアタッカで連する第3楽章にもスケルツォ的な性格が認められ、さらに第4楽章へもアタッカの指示があることを考えると、彼が「第8」でも同じような配置をしていたことが思い出させるが、音楽の密度は全く違っている。
先行楽章と同じ詩人ロルカによる「マラゲーニャ」と題された音楽は、詩人の出身地の民俗舞曲の名で、当然のごとくその音調を模倣することもあり、彼得意のパロディックな「引用」めいたスタイルが、この交響曲で顕著な「無調の調的な使用」と相まって、これまでの作品で散見された「俗性丸出し」の、コピー品のような安っぽい響きとは違った「上の段階」に至っているように思われる。
第1楽章の弱音と短三度、短二度音程の世界を突き破り、いきなりフォルテで現れる調子外れの四度音程の連続による音形は(おそらくギターの音を想定しているのであろう)、この楽章の基調であり、声楽パートも几帳面に音高を変えつつ繰り返される。舞曲調とはいいながら、本来そうであるべき三拍子はトリオ部に相当する「マラゲーニャ」の音調までとっておかれ、短三度、短二度音程の利用もその箇所に集中している。ブツ切れのような流れの悪い「舞曲調」は低弦の半音階と四度音程を繰り返す動きによって連続性が保たれているが、声楽部も不規則な入り方をしており、舞曲の持つ「規則性」と、そこから発生する快感は意図的に除去されている。それを増強するように何度も用いられる、八分音符の刻みから三連符、十六分音符、六連符、三十二分音符という風に細分化されクレッシェンドする刻みの音形は、気付かれにくいが全曲の「結び」の予告でもある。
そして、カスタネットの音色でようやく調子良くなったように見せかけたあげく、主部の再現が省略され、放り出されるように次の第3楽章の鞭の音が響く。(以前の彼ならば、こうした「リズムの快感」を追求したところであろうが、この厳しい「第14番」では、そのような事は完全に「御法度」なのである。)
第1、第2楽章は、彼のこれまでのやり方を踏襲しているに過ぎないようにも見えるが、素材を絞り、コントロールする、という「基本」を改めて踏まえた上での「短く書くこと」への意識が、新たな緊張を生んでいるのである。
これら二つの楽章は「交響曲であるため」の条件付けをこうしてクリアしているのだが、もう一方の側面である「歌であること」の要素は、次の第3、第4楽章で開陳される。(以降、次回。)

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2008年05月17日

音楽の「言語性」とは?(149)

ショスタコービチの最良の作品となった、全曲歌入りの「交響曲第14番」の作曲にあたって、これを単なる「オーケストラ伴奏付き歌曲集」とせず「その名にふさわしいもの」とするためか、最初から、十一からなる楽章を「四つの部分」として構成すること、即ち、通常の「交響曲」における「楽章数」と合致する「区分け」をしたらしいのだが、実際の「結果」として、聴き手がそのような「区切り」を彼の「意図通りに感じ取る」ことが出来るようなものとして仕上がったかどうかは、やや疑わしい。
これは、彼の作品で毎度お馴染みの「計算違い」とも思えるのだが、しかし、ここでは「交響曲」における通常の楽章配置、「ソナタ楽章」「緩徐楽章」「スケルツォ」「フィナーレ」といったものをベースにした構成法はマーラーの前例(「第8」「大地の歌」)もあってか、採用されておらず、むしろ扱われている詩の内容や状況ごとに区分けされ、前述の「交響曲」の楽章におけるキャラクタライズはそれぞれの楽章ごとに「基本的な類型」として認められるに過ぎない。
いずれにせよ、この「交響曲」には最初から、当然それに期待されるべき大規模な「冒頭楽章」が欠落しており、その第1楽章は、むしろ変奏曲における最初の「主題提示」の持つ意味に近いものとして設定されたのだが、「深き所より」という象徴的な題を持つロルカの詩のごとく(例によって詩の内容には立ち入らないが)、間接的、思索的な、不気味に打ち沈んだその音楽は「感傷性」の入り込む余地の無いものとして「死を巡る諸相」への導入を、結果的には見事に果たすこととなった。
「歌入り」のためか、「無調」とは言っても調性感の顕著なこの作品だが、その開始も即座に転調していくとは言え、はっきりとしたト短調であり、執拗に現れる「ドシドラ」と聴こえる音形のため、いくら変化しても調性の影がつきまとう。(この音形は、周知のグレゴリオ聖歌「怒りの日」の引用とされることがあり、本人も「そのつもり」だったかも知れないが、それも含めて、とどのつまりは彼が偏愛する「短三度音程」の「徹底的利用」の一例であって、前作「第13」の冒頭部とも素材的には共通しており、例の「第11」で聴かれたフレーズも入り込んでいる。)
声楽の入りも同様に短三度音程で始まり、素材的には導入の器楽部と全く共通で独立性は無く、歌の導入以後も、背景の弦楽の音調が楽章全体を支配している。(この導入部は彼の「第10」第1楽章のそれを思い出させるが、そこにあったクラリネット主題のような「情緒性」「旋律性」は完全に退けられている。)
五分あまりのこの楽章は、その静止したような時間と詩の象徴性によって全曲の「基調」を提示しており、以後の楽章は、同じ音楽が別の詩で復帰してくる第10楽章も含めて、この「基調」からの「加減具合」によって作り上げられている。
この第1楽章の音楽は、実際に鳴らされていない時も全曲に渡って「存在している」のであり、それがまさに「死」と結びつけられているのである。(それは「基本動機」の利用云々という側面も無論あるのだが、それよりももっと深いレヴェルで「浸透している」のである。)
これはショスタコービチがここに至って発見した「構成法」であり、以後の作品にも用いられることになる。(最も有名な例は「弦楽四重奏曲第15番」であろう。この最後の四重奏は「傑作」とされるようだが、どうも心許無い。あまりに長く、緩い構成であり、それを補うべき緊張が、やはり不足しているように思われる。しかし、彼の「弦楽四重奏曲」の中では、最も良いものには違いない。)
この楽章は彼の書いた「冒頭楽章」としては最もシンプルなものであるが、その位置付け、性格付けによって最も見事な「冒頭楽章」足り得ている。(以降、次回。)

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2008年04月19日

音楽の「言語性」とは?(148)

冷水を浴びさせられる羽目になったこともあるにせよ、ごく若くして成功を収め、善かれ悪しかれ、注目を浴び続けてきた「恵まれた存在」であったショスタコービチではあったが、真に「それにふさわしい存在」であったかは疑わしく、「傷の多い作品」の羅列の挙げ句、掛け値なしの「傑作」、それも「最高傑作」と呼び得る作品が生まれたのは、彼のスタイルがとうの昔に「時代遅れ」と見なされ、創作力の枯れ果てた「恐竜のような存在」と思われた頃になってからだった。
とは言っても、それまでと同様、ベートーヴェンばりに「傑作の森」が続く訳では勿論無く、一般には彼の「晩年の境地を示す」とか言われる室内楽系の作品に典型的な、気難しく痩せたテクスチュアが目立つ「貧相な響きの音楽」が基調である作品の中、突発的に「傑作」が散見されるに過ぎない訳だが、何故か「歌入り」の作品ではその書法が良いバランスを作り出し、言葉と音楽が融和した彼独自の「傑作」を見いだし得ることになる。(実際、彼の晩年の作品から「めぼしいもの」を選び出す、ということになると、「歌入り」の作品が大半を占めるだろう。不思議なことに、老いたショスタコービチは「歌」が付くと「スカ」を出さなくなっているのである。特に「第13」「第14」「ミケランジェロの詩による組曲」は、どれも彼の「最重要作」ということになるだろう。)
その中でも疑いなく「最高の出来」であるのは「交響曲第14番」と名付けられた十一曲の「歌」を綴り合わせた作品だが(これに「死者の歌」とかいうオカルティックな副題を付けて呼ぶことがあるようだが、どうにも間違いとしか言いようの無いもので、「その名にふさわしいような詩」は扱われておらず、作曲者の意図に沿っているとも思えない。)、外形から言えば「十一」という「いささか多すぎる楽章数」や、「全体に渡って歌が支配する」構成、「管楽器抜き」の弦と打楽器によるオーケストラ編成からは「交響曲」という名はふさわしくないようにも見える。
しかしこれは毎度お馴染みの「ご乱心」から「そう呼ばれている」訳では無く、これよりは「交響曲らしく見える」「第13」と時とは違って、彼は初めから「交響曲」として構想したことがはっきりと述べられており、実際、彼としては緊密な書法や構成がそれを裏付けている。
但し、この曲からマーラーの「大地の歌」を連想しない聴き手は少なかろう。「死」を主たるテーマとした作品と思われること、男声と女声が楽章ごとに交替しながら進むことや、マーラーの「テノールとアルト」に対して(マーラーではアルトでなくバリトンで歌われることもあり、作曲家もそれを想定していた)ショスタコービチが「ソプラノとバス」を用いていることも彼が十分に「意識した結果」であることを示しており、これを「交響曲」として仕上げる気にさせた理由にマーラーの作品がかなり影響しているのは誰の目にも明らかである。
これに加えて「重要な関係」について彼の口から述べられており(この作品に関してはショスタコービチは多くの「正しい情報」を提供している。)、彼がマーラーと並んで「生涯に渡り影響を受け続けた存在」であるムソルグスキーの傑作の一つである歌曲集「死者の歌と踊り」に、彼がオーケストレーションを施す機会があったのだが、その際に、この作品の「不足分」を感じ、彼なりに「続編」を書こう、という気になった(これは「歌曲集」とは言っても四曲しか無く、音楽の「分量」としても確かに充分では無いきらいは確かにある)、というのが大きな契機であった、というのである。
先輩作曲家には常に「謙虚な態度」を示すショスタコービチとしてはこれは珍しいことであろうが、「死」というものが当時の彼にとって「近しい存在」であったこと、長年の病気の末、「死」に直面するような事態に陥る状態にあり(実際この作品は病院で完成したと伝えられる)、その非常に切迫した心境が作用してか、「続編」が「本編以上の出来」を示す、という滅多に無い事態を呼び起こした。(ホルストの「惑星」に「冥王星」を付け足す、というような愚行=これには本物の「冥王星」が「惑星」から「除名される」というケッサクこの上ない「オチ」が付くことになったが=とは違い、このような「真の続編」であるような例は、他に思い浮かばぬほどである。)
この曲に感じられる異常なまでのリアリズムは、まさにその「状況」がもたらしたものであろうが、
ここでの彼は「情に溺れる」チャイコフスキーのような轍を踏まず、むしろ冷静に、厳しく高いテンションで描ききって我々を驚かせる。
「感傷味」の一切無い静謐さと背中合わせの不気味に落ち着いた響きも、彼独特の皮肉に乾いた諧謔も、無類の完成度で立ち現れ、いつもの彼には長過ぎる一時間弱を短く感じさせるが、その緊密さは確かに「交響曲」と呼ばれるにふさわしく、その名を正当化する。(以降、次回。)




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2008年03月22日

音楽の「言語性」とは?(147)

ある作曲家の音楽を「聴き始める」時、大抵は「代表的作品」とされているものから入っていくのが筋であって、それはディスクを通じての場合でも、FM放送を頼りに聴きつなぐ場合でも(要するに「演奏会で取り上げられる頻度」と一致していることが多いので)同じなのだろうが、私が音楽に染まり始めた時分は、最近のように「全集ものセット」などというものが驚くような安価で手に入ることなど想像も出来なかった時代であって、限られた小遣いは当然にベートーヴェンやマーラーに(それも数ヶ月に一度)流れ、おまけに「お望みの音楽を揃えているような図書館」も無い、という具合だと、もっぱらFM放送で「本の上では知っている未知の作品」を心待ちにする他は無かった。
ところが、このような「偶然」に頼っていると、思わぬ「誤解」が生まれるもので、ブラームスを「第2交響曲」で知って「なるほど本に書いてある通りのすごい作曲家」と思い込んで興味を持ったものの、結局現在に至るまで「それ以上に感じられる作品」にお目にかかれなかった(一番がっかりしたのが「第1交響曲」で、書物上では存在する「偉大さ」は全く感じられなかった)時以上の「買いかぶり」をする羽目になったのがショスタコービチで、ご多分に漏れず「第5交響曲」で入った時は、「何となく荒っぽいがとにかく人好きのする音楽」と思って何となく納得した程度だったが、次に聴いた「第14番」には「これはすごい」とすっかり驚いてしまい、何とか機会を捉えては彼の音楽を聴いてきた。交響曲で言えば「第6」とか「第8」「第10」とかの気に入った作品はあったものの、「第5」で感じた「荒っぽさ」「仕上げのマズさ」はやっぱり感じたし、「第1」「第9」は何度聴いても「不真面目」に感じられ、「第15」も当初はそのような作品と思えた。ずっと経ってから聴くことが出来た「第13」と「第4」には「非常に合点がいった」が、「そのほかは論外」だった。勘違いかと思ってどれも何回も聴いたが(当時は誰でもそうするようにカセット・テープに録音する習慣が付いていたので)結論は同じで、その他の作品、協奏曲や室内楽にも、ちらほら「良い作品」もあるにせよ、彼の「交響曲」より「勝っているような点」は、格別、感じられなかった。
ブラームスの時は「うんざりさせられること」(とりわけ「いつまで経っても地べたを這いつくばっている」ような「徘徊趣味」)はあったものの「作品の出来自体にがっかりさせられること」は少なかったが、ショスタコービチでは、その「がっかり」が余りにも多く(「こんな作曲家を褒めそやす理由」に「政治的な問題が関わっていること」を理解する機会は与えてくれたが)、ベートーヴェンやマーラー、ヴァーグナー、ハイドン、それからシューベルトやシューマン、ドヴォルザーク、ベルリオーズなどの「比較的良く耳にする作曲家」の中で、どんどん「ランキング」は低下していき、後から聴いたシェーンベルク、ベルク、ウェーベルンは勿論のこと、ドビュッシーやラヴェル、ルーセル、オネゲルなどのフランス系やバルトーク、コダーイ、ヤナーチェク、シベリウス、英国ならウォルトン、ヴォーン・ウィリアムズ、ブリテン、米国のバーバーやバーンスタイン、同じロシアならプロコフィエフやストラヴィンスキーなどを知るにつれ、彼の「相対的順位」は、文字通り「底なしに」下がっていくのだった。(そして、それは今でも「下がりっぱなし」である。)
このところの「メモリアル・イヤー」とかで彼の音楽が注目された折、丁度このページでも「順番」が巡ってきたので敢えて集中的に取り上げてみたものの、特に「新たな発見」も無く、かえって「ボロ見え」の連続でいい加減にイヤになっていたが、ようやく「第13」に続いて「第14」に辿り着き、かつての「スゴイ作曲家」が、ここでは健在なのを再確認して、安堵した。
ここでの彼は、まるで別人のような集中力を見せ、彼の「交響曲」としても長い部類の一時間弱を、「大地の歌」を思い出させるような二人の独唱者の起用、弦楽オーケストラと打楽器という変則的な編成からは想像しがたいような深みと幅のある響きを引き出し、見事に持ちこたえてみせる。
これは疑いない彼の「最高傑作」であって、彼にはいつも見えていた訳では無い、個人的ヴィジョンを超えた「高み」の感触を、「死」というシリアスこの上ないテーマを通して見せてくれる。
傑作とは言え、彼のこれまでの作品の「エコーたっぷり」の「第13」と比べても、まるで突然変異のような「絶対性」をもって響くこの「第14」は、その「救いの無さ」共々、晩年の彼で無ければ書けなかった、しかし一度限りの「最高傑作」なのであった。(以降、次回。)
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2008年03月15日

音楽の「言語性」とは?(146)

もしも、ショスタコービチの「交響曲第13番」が、彼自身の「森の歌」とかプロコフィエフの「アレクサンドル・ネフスキー」のような、俗受けする「肯定的フィナーレ」で結ばれたとしたら、果たしてこの作品が=万人が認めるようなものでも無いにせよ=「傑作と呼ばれるようなもの」として残ったものかどうか、極めて怪しかろう。
これらのカンタータの「讃歌的終結」や、彼の「交響曲」で言えば「第5」とか「第7」とか前作「第12」のような「お馴染みの終止法」は、詩も音楽も「ネガティヴそのもの」の内容の、「第13」に付されたら、これらの作品以上に「取って付けたようなもの」として響くことは確実で、この「交響曲」全体を、まさに「台無し」にしたに違いない。
彼がフィナーレのテキストとして、「出世」という、要するに「出世をしないことを自分の出世とする」という詩の最後の句に象徴される、この曲では守られてきた「反体制」的な内容のものを選んだのは大成功であったが(とは言え、これは「第11」「第12」の作曲家の作品としては幾分空々しく思えるのだが)、それだけでは十分な担保とは言いがたく、この詩にのせて前述のような音楽を「書いてしまう危険」も大いにあったには違いないが、賢明にも彼はここではそれを回避し、しかも「第8」の時のような「不発」にも堕せず、あの「第4」の第3楽章フィナーレと並ぶような「含蓄ある結び」(この曲こそ、「第13」の前にようやく「初演」にこぎつけた、作曲家が発表もせず「番号付き」のまま温め続けたという「おそらく最も重視していた」と思われる作品であった)を書くことに成功した。
しかも、巨大な「謎掛け」のような「第4」のそれと比べて、簡潔さ、理解しやすさ、微妙さという点でアドバンテージを持っており、この後の「変則的」と呼ぶ他無い「第14」「第15」のフィナーレよりも、さらに優れているように思われる。
ベートーヴェン以来、「フィナーレ」は、大曲になればなるほど「難関」となったが、ショスタコービチでは「殆ど常に問題を抱えている部分」であって、特に「交響曲」では「シンフォニスト呼ばわりされる作曲家」仲間のシベリウスなどよりも明らかに見劣りがするが(シベリウスは彼の半分以下の七曲ではあるが、どれ一つとして「同じような終結」を書かなかった。さすがに晩年「沈黙を守る」だけのことはある、という訳である。)、ここでは、初期の「チェロ・ソナタ」や、中期の「ピアノ五重奏曲」のような「成功例」に見られたような、必要以上に肩肘張らない「柔らかい」フィナーレを、しかし他に彼の作品に「類似品」が見いだせないような、絶妙な音楽を残した。
形式的にはこの「交響曲」の中でも最も見通しが良く、素材も限られており、それらの反復と過度でない変化の交替であって、ほぼ「A-B-A'-B'-A"」と見て良いが、比較的短いが極めて印象的な弦のピッツィカートによる「A'」が「再現」というよりは「間奏」の役割を果たした後、展開的な、フガートを含む「B'」、そしてコーダを兼ねた「A"」という具合で良く整理されており、いつもの、やや雑然とした書き方とは大いに異なる。
「A」「B」とも主題そのものは基本的には殆ど変化せず、オーケストレーションの変化と幅次部の変化によって差異が生じるのだが、他の楽章よりも「音楽自体の論理」で動く傾向が強く、これも「フィナーレ」にふさわしい扱いとも言えよう。
第4楽章からアタッカで続くが、二本のフルートによる、明るい主題Aの導入は、ここで初めて現れる「明らかな三拍子」もあって実に鮮やかであり、似たような趣向の「第8」の同様な部分のファゴットよりもはるかに効果的であるが、同音反復と音階順次下降を組み合わせた動きと、続く半音階的な動きは、第1楽章の冒頭主題に倣っており、これ自体が見事な対照を為している。
これは弦に移って反復され、やがて日が陰るように半音階が増え(冒頭楽章の金管の半音階に対応する)四拍子に拍子が変化するが、このA部分は反復ごとに器楽による「前奏」「間奏」「後奏」としても機能している、続くB部分は声楽部であるが、極めて「スケルツァンド」であって、それは弦を引き継いで現れる、彼が「狂言廻し」として常用する「ファゴット・ソロ」で早々に明らかになる。その「長ー短ー短」のリズムでも解る通り、続く声楽部もこれまでの「書き方」を忠実になぞっており、特に第1、第2楽章に近いものとされているのは、明らかに意識的なものと思われる。
それまでの音楽が「パロディックに蒸し返されている」訳だが、これは歌詞の内容を考えても「もっともなやり方」であって、またA部分の「特別な三拍子」を引き立てる効果も持っている。
そのA部分の回帰は、ホルンの吹き流しと弦の弱奏の応答(これはシューベルト「大ハ長調交響曲」第2楽章の、シューマンが「天使が降りてくる」と呼んだ有名な部分を思い出させる。)から弦のピッツィカートによって静かに行われる。(三拍子ということもあって、マーラー「第5」の同様な部分が想起されるが、いずれにせよ、実に忘れがたい印象をもたらす。)
半音階的ブリッジに続く発展的なB'はベートーヴェン「第9」に倣ったのか、「器楽によるフガート」を持つが、フガート主題は、声楽の歌い出しの音形に続くシンコペーションのためか(これは先行する弦の半音階的ブリッジ部に存在している)「マタイ受難曲」を思い出させることがあるようで=無論「Laß ihn kreuzigen!-十字架につけるべし」の箇所だが、周知の通り、これはバッハの「独創」なのではなく、記譜上これが「十字架の形」になるためである=これは内容からいっても「意識的な引用」であるのは、珍しくも「間違いない」ように感じられる。
フガートは「お馴染みのクライマックス」を築くが、「ブリッジ」が今度は木管で現れると、ファゴット独奏が段々と口ごもるような動きを見せ、「ついに沈黙」し、音楽はテキストを強調するフォルテシモからアダージョへと移行してコーダに入る。
ハープを伴った弦の和音がしきりに鳴らされ、バス独唱が、全曲で最も「カンタービレな調子」で、しかし穏やかに「結論」を述べていくが、ト長調からト短調に傾斜し、「諦念の気配」を感じさせる。
そして、B冒頭の動機によるバス・クラリネットを「つなぎ」として、温存されていたチューブラ・ベルで主音の変ロ音が鳴らされると、「覚醒する楽器」である管楽器は沈黙し、ソロ・パートの弦でA部分が復帰して、この編成ならではの「甘美さ」を漂わせ、音楽は色合いを変えてゆらめきながら、静かに充足した響きへと達する。
最後の局面で「第4」を閉じた楽器でもあるチェレスタがBの余韻を奏でるが(チェレスタと、その補強のハープは、不協和な長二度下の変イ音を終止まで延ばすようにスコアに書かれているのだが、楽器の性質上、これは不可能なのであって、これは作曲家の「想念」と共に、あくまで「譜面上にのみ存在している」、「不完全終止」なのである)、もはや何も乱されず、音楽は最後に鳴らされるチューブラ・ベルの主音と共に、明るい変ロ長調の主和音の響きと共に消えてゆく。この最後の二分あまりは彼に起こった「奇跡」のようであり、当初の「バビ・ヤール」からは想像も出来なかった「高み」へと我々を誘う。
これを聴くと、ショスタコービチはこれを「最後の交響曲」と考えたかもしれない可能性を感じさせるが、結局あと二作は「交響曲」を書くことになる。
しかし「第14」があるとは言え、彼がこのような「充足した響き」を書くことは、もう無かった。(以降、次回。)

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2008年03月08日

音楽の「言語性」とは?(145)

「実際の音楽の出来」そのものとは必ずしも一致していないにせよ、ショスタコービチが、彼の「交響曲第13番」で、第1楽章「バビ・ヤール」と並ぶ「中心楽章」として「恐怖」という題を持つ第4楽章を書いたらしいことは確かであろう。それは扱われている詩の題材と、その内容の共通性と「重さ」にも一致する訳だが(ここで用いられるチューブラ・ベルの響きもこれを裏打ちしている。)特に「バビ・ヤール」という「固有地名」と「ユダヤ人問題」から、その対象を「ロシア自体」に広げてみせる、という意味では、この楽章には重要な役割があることになろう。
彼の音楽も、ここでは第1楽章には残っていた「芝居がかった身振り」から一歩踏み込んだ「底なしに暗い」晩年の典型的なスタイルを示しているが、前述したように、「歌」の存在が曖昧さと晦渋さを和らげているため、弦楽四重奏に見られるような「唯我独尊」ぶりは見られない。
形式的には極めて自由であって、この「交響曲」の他の楽章で感じられる、何がしかの形式上の「基本形の応用」という面が無く、詩に沿った「通作」に近く、前楽章の静けさを引き継いで始まり、最後も静かにアタッカで第5楽章へと移行してしまうため、全体は極めて経過的、発展的な性格が強く、先行する第3楽章の素材が多く用いられるため、「展開部」風にも見える。
これはマーラーの「第5」の第1、第2楽章の関係にもやや近く、少ししてから現れる、どうしても「マーラーの引用」に聴こえるトランペットの弱奏による三連符のファンファーレ動機=これはマーラーの曲と同じ嬰ハ短調であり、動機の反復の際にフルートが用いられるのも、マーラーの当該楽章の「有名な楽器法」と同様であって、クライマックスの結びにおけるマーラーの第1楽章の響きへの接近や、「革命歌か労働歌の引用」のような合唱のユニゾンによる行進曲風の旋律の存在=これはマーラーの第2楽章に現れる有名なチェロの長いカンティレーナに呼応するようにも感じられる=などもあって、彼が「またしても偉大な先輩を思い起こしている」のは確実であると思われる。
こうした具合で、どうしたことか彼の音楽は奇妙なまでに自作、他作のエコーに満ちており、楽章最初の弦の弱奏のユニゾンによる持続音とティンパニ、テューバによる響きはヴァーグナー「ジークフリート」における大蛇ファフナーをどうしても思い出させるし(これが「引用」だとしても、「あまりにも安易」であろう。同じような「効果」を目指したと思われる、彼の友人ブリテンの先行作品「戦争レクイエム」最終章の冒頭部と比較すると「その差」は歴然としている。)、次いで現れるホルンのソロによる動機は彼自身の「第11」冒頭部に現れるトランペットのものと同様のもので、随所にある付点リズムに象徴される「軍隊調」もお馴染みのものである上、クライマックスに向けて出現する持続する十六分音符による二度音程を繰り返して音階的に動く動機はプロコフィエフの「第7」とチャイコフスキー「第6」の第1楽章を想起させる、という具合で、色々と連想させられる度合いの多さには首を傾げたくなるほどである。
彼はおそらく「極めて真剣」なのであろうが、この「引用だらけ」のような音楽は「その意図」にふさわしいものとも思えず(例によって「そのつもりではない」と考える方が自然なのではあろう)、「皮肉」であるには重すぎる響きも含め、この「交響曲」では「最も問題のある部分」に見える。
しかしながら、最後に和らいだ長調の響きが現れ、フィナーレの変ロ長調へと移る部分はショスタコービチではお目にかかることの少ない「絶妙な瞬間」であって、意外な題を持つ第5楽章フィナーレ「出世」、前述通り、彼の書いた「最高のフィナーレ」にふさわしい「準備」を為している。(以降、次回。)

タグ:音楽
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2008年03月01日

音楽の「言語性」とは?(144)

ショスタコービチ「交響曲第13番」全五楽章のうち、後半の三楽章は、アタッカで続けて演奏される。これは同じように五楽章構成であった彼の「第8」と同様であるが、楽章の配置と比重は異なっており、ここでは冒頭楽章が「第8」ほどには重くなく(歌われる詩の内容はともかくも)、さほど長い訳でもない上、「第8」では第2、第3楽章にスケルツォ、フィナーレの前に緩徐楽章であるパッサカリアが置かれていたのに対して、ここでは逆に、スケルツォの次に二つの緩徐楽章が続く格好となっており、実際に書かれる音楽はともかく、こうした「構成」には気を配るショスタコービチの好みを良く表す一例となっている。(以前述べた通り、これは実際以上に彼の作品群に「幅があるように見せる」効果があるのだが、実は「ブロック遊び」のようなもので、同じものを組み合わせて色々な形を作ってみせるのだが、彼の場合「ブロック」そのものの種類は多くなく、「同じ音楽が違った順番で現れているに過ぎない」場合が多い。しかし、この「第13番」の場合では「プラス・アルファ」が確かにあり、こうした時に彼の「傑作」は出来上がるのである。)
さて、「二つの緩徐楽章」といっても、そこで扱われる詩には関連性は無く、音楽的にも(いささか似ているものの)書き分けられている。
第3楽章は「商店にて」という題が付けられ、これだけでは何の題材であるかまるで解らないのだが、「ソヴィエト女性のたくましさへの賛美」ということになるらしく(といっても「ファウスト的なもの」や「ヴェーヌス賛美」とは多いに異なる。)、この音楽に感じられる、リズムのシークエンスの多さからくる「子守唄調」の感じも、これと結びつけられたものと言えよう。
冒頭に低弦で出るモティーフは、短三度に固執する動きや同一リズムの繰り返しなどの点からいっても、冒頭楽章の開始主題と関連性があるのは明らかで、独唱の入りに先んじて現れるヴィオラの半音階的な対位線も、同じ部分の金管によるモティーフとの類似が意識されているのは間違いない。
声楽の動きも同様に第1楽章の動きに準じており、弱音での進行がずっと続くのは、単にこの楽章の特徴というよりは、冒頭楽章、第2楽章と同じ「四拍子主体」というハンディキャップを埋める効果もある。(しかもこれは次の第4楽章でも同様で、フィナーレに至って「三拍子主体」の楽想が初めて現れる。このリズム的な単調さはこの曲独特の情調を醸し出す一因となっていることは確かではあるが、これに学んだのか、彼は次の「第14番」では、この問題を見事に回避している。)
過度にエスプレッシヴォでない「子守唄調」は、「第8」の、やはり弱音部ばかり続く第4楽章を思い出させるが(少ししてから現れるホルンの長いオブリガートなども同様に「第8」を彷彿とさせる。)、形式的にも「変奏曲」とも採れるような構成においても類似している。
これまで通り、詩の進行が重視されているのは同様で、かなり自由な構成であり、かつ「第二主題」の扱いはさほど重視されておらず(しかも「差異化」は主部の持続するオスティナート的なシークエンスの中断、合唱の入りと、それに断続的リズムの「伴奏」が現れることで為されるが、素材そのものは「むしろ同一」なのである。この部分に現れるウッドブロック等の効果は印象的だが、これも「第14番」で「より大きな効果」を発揮する。)、クライマックスにおいてその材料が効果的に(しかし部分的に)利用されるものの、むしろ挿入部を持つた「単一主題的な音楽」と言えよう。
序奏のように見える「低弦の旋律」は、実は「主題」であって、声楽部は「派生的」であるのだが、これらが「展開」というのでなく反復、変奏される過程は「第8」の先例同様に「オーケストレーション」に、大きく依存するものの(特に弦とチェレスタ、ハープによる「変奏」は、彼の作曲した中でも文句なしに「美しい」楽段を為している。)、詩に応じて設定される強音部とクライマックスの効果もあって、この交響曲でも最も見事な部分を形成している。
この意図的に「毒抜きされた」ページは、額面通りの「讃歌」なのであって、前作「第12番」の唖然とするような「空虚な讃歌」の嘘くささを知る者には、まさに信じがたいような「成就」である。
しかしながら、この交響曲の「最高の瞬間」は、まだ残されている。
それは「おそらくショスタコービチ最高のフィナーレ」である、第5楽章なのである。(以降、次回。)



タグ:音楽
posted by alban at 23:12| Comment(0) | TrackBack(0) | 音楽 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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