2008年03月08日

音楽の「言語性」とは?(145)

「実際の音楽の出来」そのものとは必ずしも一致していないにせよ、ショスタコービチが、彼の「交響曲第13番」で、第1楽章「バビ・ヤール」と並ぶ「中心楽章」として「恐怖」という題を持つ第4楽章を書いたらしいことは確かであろう。それは扱われている詩の題材と、その内容の共通性と「重さ」にも一致する訳だが(ここで用いられるチューブラ・ベルの響きもこれを裏打ちしている。)特に「バビ・ヤール」という「固有地名」と「ユダヤ人問題」から、その対象を「ロシア自体」に広げてみせる、という意味では、この楽章には重要な役割があることになろう。
彼の音楽も、ここでは第1楽章には残っていた「芝居がかった身振り」から一歩踏み込んだ「底なしに暗い」晩年の典型的なスタイルを示しているが、前述したように、「歌」の存在が曖昧さと晦渋さを和らげているため、弦楽四重奏に見られるような「唯我独尊」ぶりは見られない。
形式的には極めて自由であって、この「交響曲」の他の楽章で感じられる、何がしかの形式上の「基本形の応用」という面が無く、詩に沿った「通作」に近く、前楽章の静けさを引き継いで始まり、最後も静かにアタッカで第5楽章へと移行してしまうため、全体は極めて経過的、発展的な性格が強く、先行する第3楽章の素材が多く用いられるため、「展開部」風にも見える。
これはマーラーの「第5」の第1、第2楽章の関係にもやや近く、少ししてから現れる、どうしても「マーラーの引用」に聴こえるトランペットの弱奏による三連符のファンファーレ動機=これはマーラーの曲と同じ嬰ハ短調であり、動機の反復の際にフルートが用いられるのも、マーラーの当該楽章の「有名な楽器法」と同様であって、クライマックスの結びにおけるマーラーの第1楽章の響きへの接近や、「革命歌か労働歌の引用」のような合唱のユニゾンによる行進曲風の旋律の存在=これはマーラーの第2楽章に現れる有名なチェロの長いカンティレーナに呼応するようにも感じられる=などもあって、彼が「またしても偉大な先輩を思い起こしている」のは確実であると思われる。
こうした具合で、どうしたことか彼の音楽は奇妙なまでに自作、他作のエコーに満ちており、楽章最初の弦の弱奏のユニゾンによる持続音とティンパニ、テューバによる響きはヴァーグナー「ジークフリート」における大蛇ファフナーをどうしても思い出させるし(これが「引用」だとしても、「あまりにも安易」であろう。同じような「効果」を目指したと思われる、彼の友人ブリテンの先行作品「戦争レクイエム」最終章の冒頭部と比較すると「その差」は歴然としている。)、次いで現れるホルンのソロによる動機は彼自身の「第11」冒頭部に現れるトランペットのものと同様のもので、随所にある付点リズムに象徴される「軍隊調」もお馴染みのものである上、クライマックスに向けて出現する持続する十六分音符による二度音程を繰り返して音階的に動く動機はプロコフィエフの「第7」とチャイコフスキー「第6」の第1楽章を想起させる、という具合で、色々と連想させられる度合いの多さには首を傾げたくなるほどである。
彼はおそらく「極めて真剣」なのであろうが、この「引用だらけ」のような音楽は「その意図」にふさわしいものとも思えず(例によって「そのつもりではない」と考える方が自然なのではあろう)、「皮肉」であるには重すぎる響きも含め、この「交響曲」では「最も問題のある部分」に見える。
しかしながら、最後に和らいだ長調の響きが現れ、フィナーレの変ロ長調へと移る部分はショスタコービチではお目にかかることの少ない「絶妙な瞬間」であって、意外な題を持つ第5楽章フィナーレ「出世」、前述通り、彼の書いた「最高のフィナーレ」にふさわしい「準備」を為している。(以降、次回。)

タグ:音楽
posted by alban at 20:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 音楽 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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