2008年02月16日

音楽の「言語性」とは?(142)

ショスタコービチの「交響曲第13番」が「バビ・ヤール」と呼ばれるのは、その第1楽章がその題を持つ単一章のカンタータとして作られたことの名残りでもあるが(これは最初「交響的ポエム」という、「ちょっと困った名前」で呼ばれていたようである。)このために通常の「交響曲の冒頭楽章」が果たすような役割、即ち、「全曲を規定するような音楽的モティーフの提示」であるとか「中心楽章」としての「アレグロ・ソナタ」を満足させるようなもの(そもそもショスタコービチではこれが「難しいこと」ではあるのだが)は期待出来ない。
前回述べたように、この「交響曲」では、詩の内容に応じた全体の「方向性」「関連付け」は行われるにせよ、それは冒頭楽章で規定される、というよりは後続楽章によって「継承される」ために「持続」が生じているのであって、しかもその「連続性」は決して強い訳でも無い。
さて、この第1楽章が「交響曲への昇格」にあたって何か変更されたり、拡大されたり、というようなことがあったかどうかは良く解らないが、むしろ「出来具合」を見て「続き」を書こう、と思い立ったというのが筋、という所で、このおかげで、そのまま単一章のままであったらせいぜい「問題作」程度で埋もれただろうと思われるものが、「大きな成果」までに昇華したのである。
構成は詩の内容に沿って生じているが、暗く重い第一主題部とややスケルツァンドな第二主題部、推移部と第一主題部に基づくクライマックスを経て曲頭の雰囲気に戻っていく、という具合で、各部が詩に応じて変化し、それぞれ長さも変わるため、ロンド・ソナタ形式の名残があるようにも見える。
序は無く、いきなり第一主題部から始まるが、これは自然短音階による低音部の旋律に金管の半音階的上昇に始まるモティーフが対比される二層構造であって、これは「単一的でない」性格、この曲の「批判精神」を反映しているとも思えるが、彼好みの「長ー長ー長ー短ー短」の四拍子の引きずるようなリズムの反復を伴って、強い短調の性格と共にこの楽章の基調を形作る。
開始と同時にチューブラ・ベルで主音の変ロ音(変ロ短調の調号が与えられており、フィナーレも明確に変ロ長調で書かれている。)が鳴らされるが、これはフィナーレの最後でも余韻を残し、この「交響曲」の統一感を与える、単純だが極めて効果的な手段となっている。これが「弔鐘」であることは明らかで、友人でもあるブリテンの最高傑作「戦争レクイエム」で同じように曲頭と結尾で鳴らされる「鐘」を思い出させるが、奇妙な事にこの二作品はほぼ同時期に書かれており、「何らかの影響」は前後関係というよりは、二人の作曲家の「交流」がもたらした「偶然の一致」か「アイディアの共有」というものかも知れぬ。(但し、ブリテンの作品の初演後にショスタコービチは「残りの四楽章」を仕上げており、この「鐘」が「後から付け加えるもの」としては極めて簡単な手段であることを考えると、冒頭の鐘の音自体、ショスタコービチが「拝借して」後から書き加えたものである可能性は高いような気がする。この曲が「交響曲」となったのも、ブリテンの最上の作品の「影響」かも知れぬ。不勉強にして「この関係」について触れているものを読んだ事が無いが、「全く関係無い」とは私には到底思えない。)
第一主題部の旋律の運びはいかにも「ロシア風」であって、彼自身の「第11番」を埋め尽くした例の陰鬱な雰囲気とも近いが、とにかく声楽部は調性的、自然短音階的な色合いが強く、彼の偏愛する短三度、短二度音程の「徹底的な作曲」の感がある。これは第二主題部においても同じであり、いずれにせよこの「伝統的ロシアスタイル」は、どうしても「ボリス・ゴドゥノフ」を思い出させる音調と共に、「抑圧された民」のヴィジョンを蒸し返している。(彼がここでムソルグスキーを思い出しているのは次作「第14番」へのその影響=彼はムソルグスキーの歌曲集「死者の歌と踊り」のオーケストレーションまでしている=を考えても、確実なように思われる。)
彼の作品として特に目新しい構成などは見られないが、ここでも、主部の再現とクライマックスを一致させる、という彼の交響曲でお馴染みの手法があり、これは彼の「主系列」の作品である「第5」「第8」「第10」などと同じであり、この音楽を「交響曲」と思わせる効果を持っている。
もっとも、それらの作品とは違ってそもそもが単一章であるために「語り終えること」が求められていることには変わりなく、結びにかけて増していくレチタティーヴォ的要素による強調もそれを示しているのであるが、そのため続く楽章が同じように「スケルツォ」であると言っても、他の交響曲ではそれが全体の流れの「中断」を示しているのに対して、「第13」では「再開」である、という本質的な違いがあり、このため、この曲の第二楽章は「過度なまでに道化ていること」が要求される。
そこに用いられた詩、「そのものずばり」のタイトル「ユーモア」はそれを正統付けるにはもってこいの「素材」なのである。(以降、次回。)
タグ:音楽
posted by alban at 22:45| Comment(0) | TrackBack(0) | 音楽 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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