2008年02月09日

音楽の「言語性」とは?(141)

ショスタコービチの「交響曲第13番」は、彼の晩年を飾る「三大交響曲」の最初のものではあるが、「交響曲」としての外観は楽章配置の仕方にその名残がうかがわれるものの、実際には多楽章の「カンタータ」であって、例の「森の歌」などとその意味では大差無い。
そもそもこの曲は、エフトゥシェンコとかいう若い詩人の「バビ・ヤール」という「ユダヤ人、ウクライナ人がナチス・ドイツによって虐殺された土地の名が付けられた詩」に触発された作曲家が単一楽章のカンタータを書き、特に「以後の展開」については念頭に無かったというのであって、しばらくたってから「交響曲」の形に膨らまそう、と思い立ったらしく、この際に同じ詩人の別の詩を持ち出してきて、さらに新しい詩を一つ提供してもらい最終形態とした、という成り立ちを持ち、このため「寄せ集め」という訳ではない「脈略」が、それなりに設けられており、少なくとも友人ブリテンの「春の交響曲」よりは「それらしい仕上がり」となっている。(これはマーラーが「大地の歌」を「歌曲集」のつもりで書き始めたものの、結局「交響曲」に他ならぬ、ということで仕上げた、という経緯を幾分思い起こさせるが、この前例を彼は知っていただろうか。)
詩の内容は、それぞれ特に関連性がある訳では無く、とりわけ深刻な内容である冒頭楽章以後、ソヴィエトの社会批判や体制批判的な内容という点で共通性はあるものの、あくまで作曲家の「配慮」によって全体の纏まりが確保されており、ここに「交響曲」たる由縁も見る事が出来よう。(「第13」全体が「バビ・ヤール」という名で呼ばれるのは、このため適当なことではなく、もっと何か「象徴的な名」が必要であったろうが、むしろこの際、削除して呼ぶべきであろう。)
さて、端緒である「バビ・ヤール」がファシストへの糾弾だけであれば問題は無かったろうが、実際には「ロシアにおけるユダヤ人問題」についても触れている、となると事は穏やかでは無く、他の楽章が「もっと露骨な」体制批判とも取れる内容とあっては、この「国民的大作曲家」の作品の歌詞が「一部訂正を強いられた」、というのも無理からぬ話で、他にも「演奏拒否」という事態まで引き起こしたらしいのだが、それにしても、前二作の題材の選び方からは想像も出来ぬような「危険な問題」に取り組む、という「ぶれ方」は理解し難く、同じ人物とは考えられぬようなものである。
ともあれ、「全曲に渡って歌われる交響曲」は彼としても初めての試みであり、「前例」として有名なのはメンデルスゾーンの「2番」や、マーラーの「8番」や「大地の歌」、ヴォーン・ウィリアムズの「1番」などがあるが、彼がここでもマーラーを拠り所としているのはおそらく確かであろう。(それまで彼は非常にイレギュラーな「第2」と「第3」でしか声楽を用いなかったが、それらはむしろ「添え物」のように響いていて、そこでは重要なのはむしろ管弦楽部における「実験」であるように見える。)いずれにせよ「詩」は相当に重視されており、時折現れる比較的長い管弦楽部や、マーラーの「第8」ほどには厳密では無いものの、楽想の共有と変化による書法が「交響曲」としての面目を保つ。
第3、第4楽章がやや似通っているものの、ここではショスタコービチの典型的な「パレット」が総動員され、最良の形で纏まった観があり、声の使用のためか晩年に向かって色濃くなる、痩せたテクスチュアや気難しい無調性の影も薄く、重苦しい内容の割には聴き易く、解り易い。
その「声」がバス独唱とバス合唱、という異例の形によっているのは、無論ブリテンのような「同性愛趣味」が影響したものでは無く、そもそも冒頭楽章がこの編成で書かれ、それが継承されたものであろうが、「混声を使用した場合」における「コミュニティの雰囲気」を出さぬ、テーマにふさわしい「プロテストの感じ」を良く現わしており、大成功と言えよう。
そして当初感じられたかも知れぬ「生々しさ」も薄れた現在となっては、おそらく彼の「最良の作品の一つ」であるらしいことも明らかとなったが、残念なことに当初の「ケチ付き」もあってか、なかなかディスク以外では耳にすることが出来ない。(以降、次回)

posted by alban at 20:19| Comment(0) | TrackBack(0) | 音楽 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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