2008年01月26日

無題ーハイドンのミサ曲について

いい加減に再開しようと思っていた矢先、風邪をこじらせてしまい、またも遅れてしまったのだが、いざ始めようと思ったら、このところハイドン晩年のミサ曲(六曲もある!)など聴いていたせいで、予定の「ショスタコービチの歌入り交響曲」が色褪せて見える事はなはだしく、それが確かに彼の「傑作」の一つとはいうものの、どうにも採り上げる気持ちが起きてこない。
そこでクッション代わりにこの駄文をしたためている訳だが、ハイドンのこれらの「ミサ曲」は、「交響曲」をとうに書き終え、「天地創造」「四季」の二つの名高いオラトリオを挟んで、彼の「実り多く長い」その創作活動の中で、弦楽四重奏と共に「最後まで作られていた」ものであって、それこそショスタコービチの「交響曲」など比較にもならぬ、その「揃いもそろった充実度」にも関わらず、不当にも、あまりにも知られておらず、聴かれてもいないのである。(それに=物理的な年齢の比較など意味が無いとしても=六曲のミサの最初のものが書かれたのは、何と、ショスタコービチの交響曲でいえば既に「最高作」たる「第14番」を書き終え、もはや最後のパロディックな「第15番」を残すのみ、という「物理的年齢」なのである!)
これらの「ミサ」が「宗教音楽」という「意味」において、どのぐらい「それにふさわしい」のか私には断じかねるのだが(いかにも「交響曲作家の手」によるものと思われる、引き締まった、一切ごまかしの無い書法は、例えばモーツァルトとかヴェルディとかの艶っぽい「オペラ作家」のそれよりは余程「ふさわしい」とも感じるのではあるが。)、いずれにせよ「最上の音楽」に属するものであって、他に比較するもののない、それだけで「一つのジャンル」を形成しているような作品群であるのは確かである。(それにこれらはベートーヴェンの二つの「ミサ」、とりわけ=これも無視されがちな=「ハ長調ミサ」への「呼び水」としても、極めて重要である。)
ここでハイドンは、いかにも彼らしく「定型」を創り踏まえながら、様々な試みを「余裕を持って」行っている。一見これらは「大同小異」に見えるのかも知れないが、ハイドンの交響曲や弦楽四重奏を良く知る者にとって、尽きる事の無い悦びと興味を与えてくれる。
これらについては全ての曲について採り上げたい所だが、それはいずれかの機会に譲らねばならず、次からはこれまで通り、もっと寒々とした「痩せた音楽」に立ち戻るとしよう。
ハイドンについて詳しく語るには、私にも、もっと「経験」が必要かも知れぬことだし。(以降、次回。)

ラベル:音楽
posted by alban at 20:50| Comment(0) | TrackBack(0) | 音楽 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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