2007年12月01日

音楽の「言語性」とは?(137)

ショスタコービチ「交響曲第12番」の、どうにも拭えない「生彩を欠く」印象は、この作曲者お馴染みの「練りの少ない」ままでの「書き飛ばし」、という「いつものやり方」ではなく、(相変わらず筆が速いとは言え)、構想を良く練り、比較的時間を多くかける、という一般には「結構なもの」と思われる「慣れないスタイル」を採ろうとしたことにも原因があるようにも思える。
比較的短い全体の長さも、いつもと比べると確かに「無駄無く良く書けている」スコアの印象もそれを裏付けているように思われるが、おそらくこの交響曲では「最も良い出来」を示していると思われる第2楽章も、彼としては「無駄の無い」、流麗な筆致にも関わらず、かつて彼が書いた音楽のエコーに浸され、はっきりとした「良い印象」を与えてはくれないようである。
このような緩徐楽章は、今までの交響曲でも繰り返されてきた「タイプ」の敷衍であることは確かだが、例えば、これと良く似た感触の、より短く書かれた「第9」の第2楽章と比べても、晩年の近くなった作曲家らしい「奥行き」が増しており(熱意ある演奏ではそれが如実に感じられる)、素材を絞り、それらも前後の楽章と関連付けられ、いつものような脈絡の薄い突発的な楽想の「乱入」も無く、落ち着いた展開を見せるこの音楽は、このタイプの彼の楽章としても「良い出来」と言える。
しかし、何故かそれは「かんばしい印象」を与えず、要するに「新鮮味」の無い音楽という感じに終始するのである。それは前作「第11番」の冒頭楽章のような「保留状態」をもう一度なぞっているようなこの楽章の性格設定や、何にも増して前作から盛んに彼が繰り返している「革命」関連の自作引用に基づく「お気に入りの動機」が、変化を受けてはいるものの「またしても」ここで顔を出し(曲の趣旨からすれば当然かも知れないが)、結局の所、楽章の主要素材は「それらに限られている」上、第1楽章で指摘した「解り易さ」への配慮に起因すると思われる「お手軽な素材選び」がここでも影を落とし、どうも「制限が加えられている感じ」を強くさせるのである。
この楽章の趣旨が、交響曲後半の「力の解放」に向けての、「沈思黙考」(この楽章には「ラズリーフ」という、かつてレーニンが「革命」を密かに準備した、と伝えられる地名が付けられている、ということになるらしい。)を示すものであるとは言え、ショスタコービチがここで「抑えている」のはまさしく「自己」でもあり、それがおそらく「冴えない感じ」を誘うのである。
もう一つは前述したような「技術の披瀝」のために彼が「このようなスタンス」を採ったこと、即ちこれが「全てを支配下に置く」ために必要な「コントロール」のための「方策」であり(さんざん指摘した通り彼は「自己コントロール」が極めて苦手なタイプの作曲家である)、確かにそれは「技術的には成功」し、少なくともこの楽章に関しては、おそらく「音楽としても成功」しているのだが、その「完成度」は、どうも彼本来の「何か」を妨げているようなのである。
但し、この楽章からは彼の「第13番」以後の交響曲の音楽が垣間見えてもおり、その意味では注目されるものではある。(以降、次回。)

ラベル:音楽
posted by alban at 20:33| Comment(0) | TrackBack(0) | 音楽 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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