2007年11月10日

音楽の「言語性」とは?(134)

ショスタコービチは「交響曲第11番」で、そのフィナーレである第4楽章において何とか収拾を付けようと躍起になったようであるが、既存のモティーフや新たな「革命歌」の引用を総動員し、持てるテクニックを駆使して築き上げたR.シュトラウス的「動機合成」によるクライマックスは、その聴き映えのするオーケストレーション共々、どうにも「空転」の印象を拭えない。
既に述べた通り、「革命歌」もしくは「その類似品」である自作などの数々の「引用」は、「思い入れ」はともかくも(作曲者には、それぞれの素材が「スバラシイもの」と思えるのだろうが)、「素材」としては「あまりにも平凡」であり、このような「合成処理」にふさわしいものではない上、「指導動機」を処理するような手際で扱われるには、それぞれの定義付けは曖昧に過ぎ、単に「好きなフレーズを適当に組み合わせた」ものとしか聴こえない危険もある。
現に、前楽章でもクライマックスとして用いられた「短二度と同音反復」が、またも使われ、イングリッシュ・ホルンの「モノローグ」などの「お決まりの手」の羅列と相まって、さながら「セルフ・パロディー」の観を呈しており、「警鐘」なる意味深長なタイトルも実際にコーダで打ち鳴らし続けられる実際の「鐘」の音色の乱用によって、皮相なものへと転ずる。
楽章の進行は殆どポプリのようにも聴こえ、さながらリムスキー=コルサコフの「シェエラザード」の、あの中では一番出来の良く無い、例の第4楽章の親戚のように響くが、音楽自体は、何となくマーラーの「第2」のフィナーレ第5楽章を思わせる所があるようにも思われる。(これはマーラーにおける「復活」という概念に影響されたためかも知れぬ。)
「情景描写」の前半二楽章や、第3楽章とも違って「時間軸を持たない」この楽章は、この交響曲で最も「思想的」であって、その「アジる」ような性格で、これに共感出来ぬ聴き手を見事に辟易させてくれるが、全てをレスピーギよろしく「音楽絵巻」のように捉える「お気楽なアプローチ」が(それが作曲者の「意図通り」とは到底思えないが)、この「交響曲」を演奏会レパートリーに上らせることになり、ショスタコービチの、ここでの「もう一つの目標」だったとも思える「名人芸的作品」としての「需要」を呼び起こすことにはなったらしい。(実際、そのような捉え方でも無ければ、この「交響曲」の出来具合は「相当お粗末」であり「その名に価するもの」としては「相当堪え難いもの」であるため、結局「料理法」としては正しいのであろう。)
ともあれ、その流暢さに欠ける音楽に不満だったためか、作曲者は筋書き上では連続することになる「続編」を準備し、そのテーマと相容れないような「音楽処理上のテクニカルな要素」を押し進めた「交響曲」を、もう一つ書くことになる。
それが、「全てがスバラシイ訳ではない」凸凹だらけの彼の「交響曲」群の中でも、衆目の一致する所「最大の駄作」である「12番」となるのである。(以降、次回。)

ラベル:音楽
posted by alban at 20:03| Comment(0) | TrackBack(0) | 音楽 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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