2007年10月20日

音楽の「言語性」とは?(131)

ショスタコービチ「交響曲第11番」の第1楽章は、その時間的な長さだけで言えば「それなりの冒頭楽章」のようにも思えるが、実際の所は、全曲の、少なくとも「外的なクライマックス」である第2楽章の「長い序奏」の役割しか果たしていない。
これは、第1、第2楽章が素材的にも共通性、連続性を持ち、内容的にも関連させられているマーラーの「第5」の場合とは違い、要するに「無防備な民衆への大量虐殺」の前の「現場の不穏な静けさ」を延々と「描写」し、「前景」を準備しているに過ぎず、当然ながら、あまり「交響曲」と呼ぶにふさわしい内容を備えているとも思われない。
「宮殿前広場」の題のもとに始められる音楽は、その寒々とした空間を描写する為に、空虚五度の和音が延ばされる中を、動きの乏しい、弦のユニゾンの弱奏による薄気味悪い旋律を何度も繰り返すのだが、その殺伐とした映像的な響きは、早くもこれが「交響曲らしい」「抽象性」とか「精神性」とかいったものとは隔たっているらしいことを思い知らせる。
「全体としてはR.シュトラウス風」でありながら、ここでも「マーラーの影」は明らかで、冒頭の響きは「第1」の序奏とか「第2」のフィナーレを思い出させるし、続いて現れる三連符のティンパニの動機やトランペットの信号風な動機も「第2」を想起させ、特に後者はフィナーレの激しい序奏の直後に現れる「ホルンの動機」に、外形的にも意味的にもかなり接近している。
ショスタコービチの方は勿論「より具体的に」事象を指し示している訳だが、この「トランペット動機」中に現れる、「短二度音程の反復」は(「ファーミ、ファーミ」と聴こえる)異様であって、本来、このような陰鬱な音程は「信号ラッパ」には「含まれない筈」のものなのだが、いかにも「ショスタコービチ的」に聴こえる。
しかし、これもマーラーの「第2」のフィナーレに現れる、後に独唱で「O glaube」と歌われる動機と、その反復どころか「ges-f」という音高自体も全く一致しており、これで複数以上の類似が見られることのなるのだが、この「第11」の「趣旨」からしても、ショスタコービチが、マーラーがその「第2」に与えた「復活」という題に何らかの「影響を受けた」ということは「いかにもありそうな話」であるが、これらが「引用」なのかどうかは、はっきりしていない。
但し、音楽の進行そのものは、「第2」のフィナーレよりも「第1」の冒頭楽章、マーラーが「自然の音」と呼んだ、「四度のカッコウ」や「狩りのホルン」が現れる名高い序奏部に「より近く」、その「感じ」はショスタコービチが「革命歌」の旋律をフルートで「引用」するに至って強くなる。(これがまたマーラーの序奏における「アルペンホルンの旋律」を思い出させる。)
この楽章は、このマーラーの事例を一つの楽章にまで拡大させたような感じすらあるが、その「拡大」は、これらの材料の反復とオーケストレーションの変化、別の「革命歌」の引用などによる「不穏な雰囲気」の増大によって為されているが、「革命歌」に関わる部分では幾分「展開風の扱い」があり、作曲者の「思い入れ」と共に、「交響曲」としての「展開部」の役割を負わせ、これを挿んで「ソナタ形式風」の外観を得ようとしているとも思われる。
この「措置」は第1楽章を「交響曲」として、いかにも「正統化」しているように見えるが、これがまたも「計算違い」であることは明白で、半ば「ソナタ的発想」を導入したがために、実際の音楽の密度に乏しい書法や描写的な性格、何より、この「形式」の導入のために、楽章の「終結部」、即ち、第2楽章への「移行部」が、「再現部」から出発することになり、冒頭の雰囲気が回帰することになる為、「事件」への「不可避的な」一方向性が失われる事になるのだが、これは、当該「場面」を音楽で「描写」しようとする、という意図とも矛盾している。
もっとも、少々の「傷」は、次の第2楽章における二重の意味での「暴虐」によって吹き飛ばされてしまうのではあるが。(以降、次回。)





タグ:音楽
posted by alban at 21:35| Comment(0) | TrackBack(0) | 音楽 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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