2005年08月13日

音楽の「言語性」とは?(20)

マーラーの「第6交響曲」は彼自身の「第9」と並んで、ある種の高い「絶対性」=即ち、それだけで一つの前例のない「典型」を作り上げ、しかもその「一回限りの可能性」を完全に「尽くした」完成度を持って為された傑作(もっともマーラーの交響曲は全てが「このような性格」を帯びているのではあるが。しかし、例えば「第2」や「第5」が下敷きとしているであろう「ベートーヴェン的」世界観など、何がしかの「前例」を=マーラー自身の創作を度外視するにしても=全く感じさせない圧倒的な「完成度」において、「第6」、「第9」はひときわ群を抜いて見えるのである。)であること=を持っている。
この曲の与える感銘は非常に純度の高いものであるが、これはマーラーの曲に通常「備わっている」「両義性」や暗喩的な「引用」とか「パロディカルな」、意識された「身振り」がここでは意図的に=全部ではないが=「やや退けられて」おり、代わりに、ある「方向」へ向かって非常な「圧力」と内的な「速度」(かなりの「抵抗」を伴う)を持って進行する「プロセス」が存在している。
その「苛烈さ」はベートーヴェン「第5」にほぼ匹敵するもので、(これは「悲劇的」と呼ばれてはいるが、マーラーの「運命交響曲」=二重の意味で=でもある。その創作後期でやはり「運命交響曲」とも呼ぶべきものを三曲書いたチャイコフスキーとは違い、ここには「感傷性」も「自己憐憫」もなく、また当然ながら「オペラティック」な背景もなく、我々はここで=よく言われるように=「ギリシャ悲劇」のような非可逆的な「絶対的プロセス」を経験するのである。我々はここでは「悲しみ」、「嘆く」ようなことはなく、ひたすら「傍観者」としてこれを「体験させられる」のである。)また「その性質」ゆえに、最終的には同様に強い「カタルシス」の効果をもたらす。
このような作品であるから、そのスケルツォもまた「フモールに満ちた」というよりは何か「強圧的な」推進力にさらされ、「前のめりに」進む音楽となっている。
しかしながら、その「足どり」は「もつれっぱなし」であり、第1楽章第一主題の材料を「分解」し、「再構成」したかのような主部は、その(第1楽章と同様な)低音の規則的な「連打」にもかかわらず、アクセントがわざと「外されて」おり、音楽は常に「ごつごつした」、「不器用な感触」のままである。このアクセントの「ずれ」とそれに起因する(第1楽章では「行進曲」として機能していたはずの)さきの「低音の連打」の「パロディー化」が楽章全体を満たしており、「連打=同音反復」(「第4」のスケルツォにも見られた要素ではあるが、ここではまさに音楽の「実質」を為すものとして扱われている。)また、トリオ部が「先取り」されて主部に現れる形態を取っているが、この終止「変拍子」につきまとわれた(「子供のよちよち歩き」を表現したとも言われるが=これは基本的には「連打=同音反復」と分散和音の組み合わせで出来ている。それだけにコーダにおいてトリオが「暗く」回想されるのが印象的である。)トリオも続く第2トリオも、結局は主部の材料(ということは第1楽章の素材にも他ならないわけだが)で出来ており、
トリオもまた(主部が第1楽章のパロディーであるように)主部を(「無邪気な素振り」で、または「気怠く」)「パロディー化」したものに他ならないことになる。このような素材利用の「単一性」と「徹底性」は「第6」の特徴でもあり、全体をまとめあげる「仕組み」としてだけでなく、前述したようなこの曲の「性格」自体に直接結びついている。
ところで、この「第6」ではマーラーで唯一、中間楽章の「順番」について「混乱」が生じているが(最近の『流行』では=出版楽譜の影響だろうが=スケルツォを第3楽章とする例も多いようである)、以上のようなスケルツォの「性格」、またアンダンテが終楽章に持っている同様の「関連性」からすると、これは従前通り、第2楽章とするのが適当であろうと思われる。
アンダンテを先にした場合、この美しい音楽の性格がいくぶんか損なわれるだけでなく、アンダンテのコーダと終楽章の序奏の濃厚なつながり、また終楽章主部との素材の共通性、そして何よりくだんの全体の「プロセス=理念」の達成が阻害される。
マーラー自身、これについて逡巡を繰り返したのは有名であるが、そもそもその「懸念」はスケルツォを第2楽章とした場合、「第1楽章と第2楽章の冒頭が似てしまう」というものであって(しかしスケルツォを作り直すことはしなかった)それ自体が「順番」についての重要な「確証」である。(現に、最初の構想、マーラー自身の最後の演奏=プログラムの記載にもかかわらず「スケルツォを先に」している=を考え合わせても、この「混乱」は私には理解できない。「クリティカル・エディションを無批判に演奏する」風潮があるようだが、結構な態度でもなかろう。「話題性」だろうが、「ものは試し」だろうが、「間違い」としか思えないものが「権威付きで」まかり通るのは我慢ならないことである。)
おそらくは、この曲の「古典的な」外形、スケルツォを「通常通り」第3楽章にした場合の「座りの良さ」=無論「勘違い」であるが(「内容」は結局「それ」を許してはいない。)=特にこの場合、第1楽章とスケルツォの関係は、前述通り、その「素材」の関連において、ベートーヴェン「第5」のそれのケースと全く重なるのである。このへんが「第3楽章スケルツォ」に意外なほど支持がある原因かも知れない。
それにしても、このような「状態」でありながら、感銘を与え続けるこの音楽の「力」の強さについては、しかし誰も疑う余地はなかろう。(以降、次回。)
ラベル:音楽
posted by alban at 21:50| Comment(0) | TrackBack(0) | 音楽 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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