2007年09月08日

音楽の「言語性」とは?(125)

「交響曲作家」にとっての大問題であった「第9」を=「作品の出来そのもの」はともかくとしても=「シンフォニエッタ風」に受け流したために、あちこちでひんしゅくを買ったショスタコービチであったが、この「行為」が、自分の「交響曲の書き納め」と思っていたかどうかは怪しいにせよ、やはり即座に「未知の領域」である「第10」に着手する訳ではなく、多作家の彼にして最大の八年という「空白」が、この間に横たわることになった。
さりとて、たびたび「第10」について考えを巡らすことはあったにせよ、ブラームスのようにその間ずっと「第10」のスケッチを「いじくり回していた」訳でも無いらしく、前作で「スターリン拒否」の態度を貫くあまり「おふざけ」とも見なされる態度をとった彼が、その独裁者スターリンの「死」をきっかけに、直前まで「オペラを書く」と公言していたにも関わらず、急遽「第10」の構想に及んだのが明らかであるらしいことが知られている。(これに関連して、例の「ショスタコービチの証言」には、この曲の第2楽章を「スターリンの肖像である」とした「怪しい記述」がある。)
それが何がしかの「記念碑的作品」という訳にもいかなかったのは当然としても、ともあれ、それは彼に「第9」での「不誠実」とも感じられるような態度とは打って変わって、本来その「第9」に期待されていたような「そうあるべき姿」、即ち「真にシリアスで」「モラリティの高い」交響曲を書こう、とする姿勢を呼び出す事になった。
しかし、それはベートーヴェンのように「広いヴィジョン」という方向にはならず、彼の交響曲で最も「内向的な性質」を持ち、さらに後半二楽章では極めて「個人色」が強い、という、「内容的な深まり」というよりは「謎のような」、そして後年お馴染みとなる「不機嫌な暗さ」と共に、彼の「晩年のスタイル」を最も公に示す端緒となり、発表当初から論争をまきおこした。
その「あまりの暗さ」は、「社会主義リアリズム」にとっては「第9」の件とは別の意味で「困ったもの」であり、この「高名な作曲家」を何とか弁護するため、「悲劇は肯定的」とか「実は楽観的」とかの、かなり「こじつけがましい意見」が出されもしたらしい。(これに関連して、重く暗い先行楽章の世界から「カードを裏返す役割」を担う筈のフィナーレが「あまり肯定的な印象を与えない」点もネタになったようである。)
彼の交響曲の冒頭楽章としては最も出来の良いものの一つである第1楽章は「第5」「第8」のそれと同じ線上のものであるが、これに短く急速なキャラクター・ピースのような第2楽章が続いて強いコントラストを作った後、比較的ゆっくりしたテンポによるワルツ風でもあるスケルツォとなり(この中間楽章の配置はマーラーの「第9」のそれを逆にしたようなものである)、全曲で最も遅いテンポによる長い序奏(この序奏にチャイコフスキーの「第6」やマーラーの「第9」の影響が感じられることは既に述べた)に始まるフィナーレに至る、という図式は、四楽章構成とは言え変則的だが、これに前述の「個人的な内容」が後半二楽章に入り込むため、またも「内容の変化」「不一致」が発生することになり、この著名な作品が当初の「論争」から未だに抜け出せない一因となっている。
この「バランス」の悪さは、第2楽章のあっけない短さや、「肯定的な印象」とも深く繋がる、フィナーレの「暗く長い序奏」に対する「主部」アレグロの長さが「充分でない」点に顕著で、これについては作曲者自身、例によって「こう書けてしまったのだ」という言い方で認めている。
しかし(「第7」の時の乱痴気騒ぎほどでは無いにせよ、この曲も発表当初から異常な注目を浴びており、作品の「一人歩き」が先走ってしまったという事情もあるが)、彼の交響曲で最も「理知的な傾向」を持つ、とも見えるこの曲にあっても、それらの「欠点」を是正するような試みはまたしても行われず、これらの「問題点」は、そのまま残された。(作曲家にとっては常に「新しく作る方が楽」だとしても、これは一種の怠慢のようにも思われる。「本当に必要だったかどうか」に関わらず、強迫的に改訂を繰り返したブルックナーとは本当に好対照である。)
ともあれ、そのような「不備」と長さ、重苦しい内容にも関わらず、この「第10」は「軽くて時間が短い」という逆の理由で良く演奏された「第9」と並んで、ショスタコービチの交響曲でも早くから「良く聴かれるもの」となり、最も有名な「第5」ほどでは無いにせよ、同じような造りにも見えるその「第5」以上に「彼の作風を良く伝えるもの」として残ることにはなった。(以前にも述べたが「第5」に見向きもしなかったカラヤンが「第10」だけを何故か二度も録音している。)
この曲は「第5」のように「大向こう受けするフィナーレ」を持つ訳でも無ければ「戦争三部作」のようなシリアスさと陳腐さが綯い交ぜになったような、奇妙に解り易い「俗っぽさ」も無いが、「抽象的な思考」と「間接話法」が、ただ内面世界を語るような独特の内容は、この後まで(異例にも!)改訂が続けられた「第4」と共に、おそらく彼の作品中でも最も「意義深く」、「オリジナルなもの」であり、その欠点も含めて、確かに彼の「代表作」の一つと言えよう。
「解決の印象が薄い」とは言え、それは「第5」「第7」の「勝利」とか「第6」「第9」の「打ち上げ式」とかよりは余程「リアルな」ものであり(最終的に自己のイニシャルをやたらと打ち鳴らす「胡散臭さ」はあるにせよ)、実際、これは彼の「正統的なスタイルに属する」「純音楽的な交響曲」としては、これが「最後のもの」となった。
(彼はこの後、さらに五曲を作曲するにも関わらず、交響詩的な内容のもの二曲、全曲に声楽入りのもの二曲、最後は自伝的なパロディックな内容のもので締めくくり、もはや「イレギュラーな形のもの」しか書かなくなる。)
これは「第5」で確立した彼の「最も中心的なスタイル」の「結論」であり、その「終局的」という意味では「真の第9交響曲」だったのである。(以降、次回。)


ラベル:音楽
posted by alban at 21:40| Comment(0) | TrackBack(0) | 音楽 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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