2007年07月28日

音楽の「言語性」とは?(122)

ショスタコービチの「第9交響曲」が、音楽史上の有名なジンクスであり、「交響曲作家」と呼ばれる者にとっての大問題である「第9にまつわる伝説」、即ち、この番号を持つ曲が「絶対的限界」であること、数的にも内容的にも終局的な「聖域」であって、作曲家にとっての「最後のものであるべきこと」とされる「その数字」にこだわるあまり、また、彼自身の「第7」「第8」と続く「戦争三部作」の最後を飾るものであり、時期的にもまさしく「戦勝気分」の最中にあったことから当然周囲から寄せられる「記念碑的作品」への期待を意識するあまり、これらの至難な問題に「正面から立ち向かう」ことを避け、意図的に「シンフォニエッタ風」の作品を書いた事は良く知られている。
この経緯については「彼自身の言葉」とされるもので「全く正反対」のコメントがあり、「公式のもの」としては「偉大な作品を目指す」旨の「結果とは逆」の文句が、例の「ショスタコービチの証言」の中では「スターリン讃歌がどうしても書けなかった」という、「いかにも体の良い弁解」が見られ、いずれにせよ、この作品についての「まともな説明」とは言えないものが伝えられている。
ブルックナーが未完のまま「第9」を残したのを見たマーラーは、丁度「九番目」にあたる「全曲歌入り」ではあるが実質的には「交響曲」作品(直前の「第8」もまた「全て歌入り」であったが)を「大地の歌」と名付け、次の「純器楽」であるものに「第9」の番号をふって「問題」に対処したのと違って(しかし結局「第10」は未完となり、この「ジンクス」を強化することになった。だが、その「第10」は補筆完成版とは言え、良く聴かれるようになり、彼の「先の世界」について知られるようになった。未完にも関わらず、その最後のページは絶句するほどの美しさを伝える。マーラーの「限界」は「第9」ではなく「第10」であったのである。)、これは始めから「第9交響曲」として計画され、書かれているのだが、正面切った「真面目さ」を持ち合わせない見掛けとは裏腹に、彼としては珍しく「簡潔さ」「綿密さ」を目指した跡が見られ、その意味では「まともな作品」とも言えよう。(とは言え、例によって「極めて短期間で書かれている」ことに変わりはなく、これによる「練り方」の不均等と「無駄な音符」を発見する事は相変わらず困難ではない。)
この曲がベートーヴェン以来マーラーまで続く「偉大な第9」の系譜(シューベルトの無理矢理「第9」に「繰り上げ」された「大ハ長調」を含む)に比べると、規模、内容、品格のいずれにおいても「見劣りする」ように「わざと書かれている」ことは述べた通りだが、これは「当局」を激怒させただけでなく(彼らに「肩すかし」を喰わせたことで、かえって「身の危険」を招いた)、批評家や聴衆をも欺いたことになったのだが、彼が「演奏家はこれを好むだろう」とか言った通り、その時間的、管弦楽的な規模の「手頃さ」もあってか、一頃は「第5」の次くらいの回数は演奏されていたようである。
いずれにせよ、このような「事情」は曲の隅々にまで影響を与えており、とりわけ冒頭楽章には「第9であること」の意識は顕著に現れている。
ベートーヴェンの半音上の変ホ長調を使い、「第9交響曲」の「グランド・スケール」を知らしめるものである「序奏」は省略され、いきなり第一主題が出るのだが、これがベートーヴェンの第1楽章の第一主題のパロディーであることは指摘されている通りで、下降する分散和音と、音階的に上下する動きや旋律のアウトラインは良く似通っている。但しベートーヴェンが主題に与えた微妙な「リズム分け」は放棄し、ハイドン的な「古典風」の扱いをしている。このため主題は「壮大さ」を持たないが、半音下げられた第三音をトリルで強調したり変拍子を用いるなどして「古典風」の装いをぶちこわすような操作もしている。
ベートーヴェンでも重要な音程である四度音程は第二主題を呼び出す「号令」として用いられ、四度を順次上行するフレーズも耳につく。このような「イメージの利用」があるにも関わらず、この曲の「アンチ第9」的な性格は、彼のものとしても「最も短く簡潔なソナタ楽章」としてこれを仕上げることで決定的なものとなっており、そのパロディカルな内容と外見は「第9というもの」に期待する人々に冷水を浴びせ、怒らせるには充分以上である。(別に「期待」などしていなくても、これを聴いて「コケにされた」感じを持つ人は少なく無いように思われる。)
この第1楽章を持つ為に後続楽章の規模も限られるのは当然なのだが、奇妙にも彼は五楽章構成を採り、冒頭では顕著な「古典ぶり」をこの後全く見せず、単なる「短かいが、いつものショスタコービチ」に戻ってしまうのである。このため様式的な喰い違いが生じ、これが「シンフォニエッタ風」であるのは確かだとしても、最初に受けるプロコフィエフの「古典交響曲」のような印象は続かず、全体の統一感は得られない。(もっとも、ショスタコービチは、その「古典交響曲」のような作品を書こうとしていた訳でも無いようではあるが。)
ともあれ、冒頭楽章に限って言えば彼の作品としては「良く書かれて」おり、その「ふざけた印象」とは違う整理の跡が見られ、熟慮された節がある。但しこれも後続楽章にはあまり受け継がれず、単に「短く書いただけ」になってしまい、この点でも「不整合」をさらけ出している。
前述のトリルや変拍子、転調や不規則なフレージングなどが「素性」を明かしているとはいえ、楽章全体を吹き飛ばすような「破壊行為」は行われず、冒頭の主題の音調に「修正する」ように戻って行き、ぎりぎりのバランスは保たれる。
さきの四度上行を続けるフレーズが挿入されるのを合図に第二主題へと移行するが、第一主題の再帰を「取り消す」ように現れるそれは、トロンボーンの「号令」をきっかけに小太鼓が「軍隊調の」長ー短ー短リズムを刻み、ピッコロという「古典ぽくない楽器」でサーカス音楽のように響き、さらに度を超してパロディカルな音楽となる。
この吹奏楽のような主題が「軍隊的なもの」を揶揄しているのは明らかで、続く軽々しい小唄のようなクラリネットや御馴染みの同音連打モティーフが現れるルーティーンな書き方共々、念の入った強調が為されている。
展開部は短いが、無駄無く「必要充分」に書かれており、第一主題、第二主題と手際良く、それこそプロコフィエフの「古典交響曲」を思わせるような手際で進められるが、第一主題の「トリル部」に由来する動機が(モーツァルトの「第40番」のフィナーレ主題のようにも聴こえる)極めて「ショスタコービチ的」に繰り返され(このような短三度下降を反復するモティーフは、晩年の作品になるほど「お約束」のようにして現れる頻度が高くなる。)、再現部へと続く。
その再現部は「型通り」を思わせておいて、かなりきついデフォルメが施されており、特に、第二主題部において「号令」が早めに出過ぎて何度も繰り返すはめになる「脱線」と、その第二主題がソロ・ヴァイオリンに移されて今度は媚びでも売るようなものに変化する「擬人化」の効果が付されてることで、いよいよ「ぶち壊し気味」に進む。
展開部最後のモティーフにせき立てられたあげく、トランペットのファンファーレで閉じられるコーダもごく簡潔で、この「シンプルさ」自体が「パロディー」であるような音楽は閉じられるが、続く第2楽章を分散和音と四度音程という関連性で始めながらも、交響曲は「全く違った音楽」に迷い込み、交響曲の道筋は、その際立ったコントラストと共に「行方不明」の態となる。(以降、次回。)
タグ:音楽
posted by alban at 20:58| Comment(0) | TrackBack(0) | 音楽 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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