2007年07月21日

音楽の「言語性」とは?(121)

彼の交響曲中では「傑作」の一つとされるショスタコービチの「第8番」だが、その「存在価値」の要であり、しかし最も「問題」でもあるのが第5楽章フィナーレである。
「第7」に次いで規模の大きいこの作品を締めくくる役割を担うこの楽章は、実際には「アンチ・フィナーレ」とも呼びたくなるような、ネガティヴな「放棄」の姿勢、問題を「保留」にしたまま放り出すような性質を持っており、彼の「第5」「第7」に見られるような、少なくとも「表向きは明らか」であるような(あるかどうか怪しい「裏の意味」はさておいて)「勝利」を期待する人々に、ものの見事に「肩すかし」を喰わせる。(無論「取って付けたような」「それ」を描くよりは、余程「真摯な姿勢」と言えなくもないが。)
この「ネガティヴなフィナーレ」は、マーラー「第6」のそれのような「決定的なプロセスの進行」やカタルシスの要素も持ち合わせず、事態を開放したまま聴き手に委ねるような形で「重荷」を降ろそうと試みるのだが、その主要主題の「あまりに軽々しい調子」と楽章自体の構成、交響曲全体、特に冒頭楽章との関連性との間で「落差」を感じさせ、ここでも「ボタンの掛け違い」は発揮される。
冒頭楽章の半分ほど、第4楽章よりやや長い程度の演奏時間は、並列的な主題配置もあってか、やや密度に欠け、「クライマックス」としての冒頭楽章の同様部分の「引用」は(前述通りマーラーに見られる、アドルノの言う「突発」に倣ったものだが)、これが全曲冒頭の「序的主題」、つまりは「基本動機」に他ならず、彼がこの曲で「珍しくも」縦横に張り巡らせた「モティーフ操作」のために、かえって「効果を欠く印象」を拭えず、この楽章における意図的な「踏み外し」と、「シリアスさ」との間で軋轢を生み出している。
御馴染みの「詰めの甘さ」による不備が楽章を複雑な印象のものとしているのだが、これは前楽章からアタッカでいきなりファゴットが吹く第一主題に象徴的に現れており(「勝利のハ長調」は「冴えない音色」の、この楽器のソロで早速「出鼻をくじかれる」。)、出だしこそ基本動機の転回長二度形である「c−d−c」で始まるものの、三拍子でありながら殆ど「そのような感じ」を与えないリズム的な不明確さや、必要以上に「c−d」音を呪文のようにやたらと繰り返したり、フレージングも不規則でばらばらだったりと、この位置に置かれる「主題」らしからぬ鼻歌めいた「いい加減さ」であり、わざと「ひどい出来」に書かれているような印象すら与える。(彼の主題が「練られていない」ことが多いのは事実であるが、それにしても「これはないだろう」とすら思わせる。)
ここにおける「三拍子」は、譜面を見る者にしか解らないようなもので、はっきりと「拍子感」が感じられる個所では、かえって二拍子ないし四拍子の律動を示しているような有様であって、ソナタ形式の外形を備えるこの楽章の「展開部」で、それらの拍子が指示されることで馬脚を表している。
全体としては、当該個所において逐一「変拍子」として書かれるのがふさわしいのだが、作曲者は明らかに「三拍子」にこだわっており、この「あまりフィナーレらしくない拍子」を利用する考えにとらわれているようである。第2楽章でも指摘したような「三拍子」で書かれているが「そうなっていない」音楽が再び現れる訳だが、「理念」と「実際」が簡単に喰い違ってしまう「原因」は、やはり彼の「速筆」、性急に書きたがる「代償」とも言える。(これは、注意深く、慎重な作曲家なら「あり得ない」間違いであり、ベートーヴェンはもとより、例えばブラームスのような人に「こんなページ」が僅かでも見つかるかどうか、考えて見れば良い。)
但し、この楽章とて、「リズムに沿った書き方」がされた個所もあるのではあるが、実体は「四拍子主体の変拍子が頻発する楽章」であって、唯一「三拍子らしい」例外は第二主題のみである。
第一主題の「確保」とも呼べないような、なし崩しの「持続」の後、明らかに「ワルツ調」を模した主題がチェロに出るが、この旋律は第一主題が自身のクライマックスとして持ちながら後の展開には殆ど利用されない「ラミソ」という音列を元としており、ここでもモティーフ操作上の配慮が見られるが、第二主題はあくまで「エピソード」に留まっており、「展開部」では殆ど無視されたままである。
この楽章は第一主題に象徴されるように「基本動機(「C-D−C」)」に固執しているが、当該モティーフの「シンプルさ」と作曲家自身の「様式」もあってか「ベートーヴェン的緻密さ」は望めず、このため「前進する性格」も、これも第一主題同様、まるで持っていない。
楽章の形式的な、内容的な「核心」であると言える、展開部におけるフガートも「第4」の時のような切迫感は無く、むしろパロディカルである。
再現部が第二主題から第一主題へ、という彼によく見られるパターンを示しているためもあって、より「中心」という印象を与えるその展開部だが、テンポが早まることもあって、むしろ「アレグロ主部」の感があり、それ自体として「新しい主題」を持っている。シンコペーションと後打ちリズム、薄気味悪い半音階でバス・クラリネットに現れるその主題は第一主題の副次部とも共通性が高く、続く第一主題自体の「展開」の「序」ともなっているが、その皮肉っぽい調子によって、主題の「実体」を暴露しているようにも響く。
この「展開部」は比較的無駄無く書かれており、フガートや印象的な付点リズムを持つ旋律(実際には第一主題の素材)によって緊張を高め、冒頭楽章の展開部の終わりと再現部の始まりを兼ねた「クライマックス」の再現を呼び出すが、これは何故か本来の長二度形から短二度形に変えられており、「c−d−c」を繰り返すこの楽章の前後の脈略と齟齬しており、「紋切り型の再現」を避ける意図はあるにせよ、マーラー「第2」のフィナーレに出てくるような打楽器のクレッシェンドを伴うそれは、何か空疎な「外面的効果」に終わっているように感じられる。(これは「承知の上」かも知れぬ。)
再現部は、展開部の始まりの半音階的旋律から入り(この事は楽章の性質を良く示しており、長々と続く第一主題と続く第二主題は「注釈付き」の「縁取り」的なものであることを仄めかす。)
さきに述べた通り、逆の順路を辿って急ぐようにして終結へと向かうのだが、提示部より幾分明るさを帯びた第二主題が、コーダとしての第一主題を呼び出すものの、当初からの「くだらなさ」は一向に変わらず、何の進展も無いまま、これまでの経過が「徒労に終わる」かと思われる時、高音域の弦のゆらめくような和音が終結の雰囲気をもたらし、音楽は前楽章のような「弱奏の世界」へと移行する。
「第4」のコーダに似た終結は、ハ長調の和音がヴァイオリンの高音で持続される中、フルートの低音で強調されたヴィオラのピッツィカートという「意味ありげな音色」が「c−d−c」動機をまばらに奏し、楽章冒頭の七小節を引き延ばすような形で(第二主題も僅かに振り返られる)繰り返しながら消えてゆく。
このハ長調の和音は妙に不自然にも感じられ(「第15」の終結部のイ長調の和音も同じ機能を持っている。)、「第4」のコーダにおけるハ短調和音の、決定的な「終局的な印象」を与えるそれとは異なっている。
「リアルさ」のない終結は、全てを「先送り」にし、「問題」を、うやむやに「遠ざけた」だけのようにも感じされ、それを聴き手に突き返している。
絶妙にも、ここまで緊張を強いられて来た聴き手の意表を突き「怪訝な顔を引き出させる」このフィナーレこそが「第8交響曲」を意義深いものとして知らしめているのであるが、音楽的にも内容的にも「大して褒められたものでもない」出来具合のこの音楽は、まさに両義的に、その「失敗の度合い」によって前後の「第7」「第9」のタイプこそ違うものの、いずれも派手な「ぶち上げ」式の終わり方に対して、圧倒的にアクチュアリティを有している。(この類の「脱力系フィナーレ」は、違った形で発展されて「第13番」「第15番」において「成功」を収めることになるのだが。)
これはショスタコービチならではの「産物」であり、この作曲家の「詰めの甘さ」と音楽の有り様とが奇妙に一致した、在る意味での「偶然の産物」なのである。(以降、次回。)
ラベル:音楽
posted by alban at 22:06| Comment(0) | TrackBack(0) | 音楽 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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