2007年07月14日

音楽の「言語性」とは?(120)

ショスタコービチ「交響曲第8番」の第2、第3楽章で続いた「狂乱状態」の持続は、パッサカリアの形式による第4楽章によって「冷却」される。
前述の、全曲のクライマックスを為すこの楽章の導入部は、実際にはまだ第3楽章の「続き」であって、短二度の上昇モティーフを繰り返して最大音量をもたらすが、その余韻のままパッサカリア主題が強奏されるものの次第に減衰し、後はピアノ乃至ピアニシモの世界が延々と続く。
(以前ヴォーン=ウィリアムズの「第6交響曲」について考えた際に、そのフィナーレとショスタコービチのこの第4楽章の類似性について指摘したが、これらの音楽は、いずれも極めて薄いオーケストレーションによる弱音の世界の持続によって、決定的な「カタストロフ後」の「死屍累々とした」、もしくは「無人となった世界」を示すような、冷え冷えとした、「凍り付いたような感触」を伝える。
前者ではそれが「フィナーレ」であるだけに「その印象」は決定的なものとなるが、ショスタコービチでは第5楽章への長大な「序奏」のような機能を果たしており、自ずと性格は異なっている。)
パッサカリア主題は「基本動機」の繰り返しからなっており、「gis-fisis-gis」「h-c-h」と始まり、短二度音程の下降、上昇形、そこから派生した短三度順次上昇を組み合わせているが、嬰ト短調の調号が付けられているものの、実際にはホ短調、ニ短調、ハ短調という具合の二度ずつ下降する転調の性格が付されており、調性感は極めて曖昧である。(フィナーレの「ハ長調」の遠隔調であり、これを「長く鳴らすこと」で「ハ長調」に違和感を与える事が目的とも思えるが、それなら増四度の嬰ヘ調の方が有効であろう。)
この低音主題に乗って全部で十一の変奏が認められるが、いずれにせよ変化は少なく、ダイナミクス上のコントラストが不可能であるために、前述通りショスタコービチには稀な「繊細な響き」によるオーケストレーションが極めて重要な要素となっている。
この楽章の「眼目」は、その遅い速度とおぼろげな進行が一種の「停滞状態」を作り出すことによる「保留する感じ」であり、そのために作曲者は「ある程度の時間的な長さ」を必要としており、このため主題が固執している「付点二分音符+付点八分音符+十六分音符」の繰り返しのリズム形は「四分の四」という拍子の選択をもたらしているのだが、最初の「付点二分音符」が「二分音符でない」ことで「四分の三拍子」という「パッサカリア」では最も一般的とも考えられる律動が回避されていることになる。これは「情報量」としては「二分音符」で充分なはずであり、二分音符でない「付点」分は単なる「引き延ばし」であって、そのリズム形の繰り返し分の分だけ当然に楽章全体が「より長くなる」結果をもたらしているが、それによる「間延び感」に「意味がある」というよりは、むしろ「フィナーレを三拍子で書く」というアイディアにこだわったためとも思われ、後述するが、それが実際には「あまり三拍子でない」結果となっていることを考えると、前楽章が「二分の二拍子」の律動を終始強調していたことから考えても適当であるとも思えず、いずれにせよ「密度の無い音楽」を指向しているだけに、この「より冗長」となる措置は疑問である。
それならそれで「もう少し短く書く」という考えも無いようで、演奏にもよるが、この楽章はフィナーレと同等の時間を費やす結果にもなり、意外なほど短いフィナーレのコーダ部と相まって、作曲者御馴染みの「計算違い」と「悪いバランス」を露呈している。(このような部分だけでも、この作曲家が「沈思黙考」したり「深謀策慮」したりするタイプでは無い事が解る。このようなことは「意図的な踏み外し」とかいうレヴェルの問題でなく、そのアイディアの「鋭さ」にも関わらず、異様な「鈍感さ」が併存していることをを証明しているからである。「傑作」とされる「8番」でも良く見ると「この有様」であるから、未だに続く「5番」の名声も仕方無し、かも知れぬ。)
いずれにせよ、「ボレロ」の余波はここでも続いており、前楽章に続いて、作曲者がこれにこだわっていることは明白で、この「ある程度の長さ」も、それを裏打ちしている。
音楽自体は彼自身の「6番」の冒頭楽章の後半部とも共通する、客観的な「事象」の印象が強く、楽器法も類似しているが、管楽器の用法も含めて、マーラーの「大地の歌」の最終章「告別」を思い出させる部分が多い。変奏そのものについては「省略可能」な部分が多く、主題の「長さ」に縛られたような点が気になるが、ともかくも、この「繊細な響き」は交響曲全体の中では充分に機能しており、フィナーレへのアタッカまでが想像以上に長いとは言え、ベートーヴェンの「第5」とは正反対のような「ハ長調」の到来を新鮮に感じさせる役割は果たしている。
ここでも引き合いに出す事になるが、そのベートーヴェンは、「第5交響曲」ではない「ピアノ・ソナタ第21番」、一般に「ヴァルトシュタイン・ソナタ」と呼ばれる曲の中間楽章を「アンダンテ・ファヴォリ」として知られる音楽から「より短いもの」に書き改める際、ここに見られるような「ストップ・モーション」的効果を適用している。
それが簡潔で実に見事な効果を持っている事は良く知られているが、調性感の曖昧なその音楽から、ハ長調のフィナーレに移行する際に与えられる「色彩感」や「光の印象」といったものはピアノの「枠」を全く超えており、しかし、どんな演奏でも感じられるような「確かさ」を持っている。(以降、次回。)
タグ:音楽
posted by alban at 21:03| Comment(0) | TrackBack(0) | 音楽 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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