2007年07月07日

音楽の「言語性」とは?(119)

ショスタコービチ「交響曲第8番」の第3楽章は、彼の書いた数多い「スケルツォ風」の音楽の中でも際立って特異なもので、「同じ音楽」を「何度も繰り返し作曲しがちな」この作曲家が「ただ一度限りの方法」を用いて成功した、最も印象的な音楽の一つとなっている。
この「成功」は、極めてシンプルな書法、ミニマル・ミュージックさながらの、少ない素材と反復の要素によってもたらされる、「自動作曲」とでも呼びたくなるような、恣意性の少ない「機械的な運動性」が、「戦争」を題材にした、この交響曲全体の文脈上にあって「新たな意味」もしくは「象徴性」を与えられる結果となっていることによる。
このような「機械音楽」のようなものは、別に取り立てて「珍しいもの」という訳ではなく、以前プロコフィエフの「第2」の時に触れたように、この高名な同国の先輩の作品には「このような要素」が含まれることが少なく無かったし、良く知られたモソロフの「鉄工場」とか、最も有名な例である「交響的運動」と前置きされたオネゲルの「パシフィック231」などがあるように、むしろ「ひところは流行った表現法」であったと言っても良いくらいだが(ショスタコービチとは「因縁付き」のラヴェルの「ボレロ」なども「この類」に含めて良いかも知れない。実際、この第3楽章は、前作「第7」第1楽章の「先例」無くしては、このような形で「交響曲」に含まれることは無かっただろうとも考えられる。)
当然これは「無窮動」の形をとるが、拍子も変化せず、最初から最後まで、四分音符の角張った分散和音的オスティナートによって、幾分「行進曲風」の二分の二拍子で突き通される。
このオスティナートは、分散和音や短三度音程を中心とする音形がランダムに現れる「持続する旋律」としても機能するが、重要なのは、その「リズムの刻み」と、二つないし四つの音符単位のフレージングであって、この律動のために「機械性」が生じているのである。
これが続けられる上に「e-e↓」、「e-f-e↓」という「基本動機」による「信号」のような音形が点描的に現れ、これにスフォルツァンドの付いた和音のアタックが「合いの手」のように挟まれる。
主部の「材料」は、文字通り「これだけ」であり、これらは相互に干渉せず、不規則にランダムに構成され、楽器法的に増強されることで音楽は進行する。(途中、チャイコフスキーの「第4」のフィナーレのコーダ部に現れる、管と弦の「掛け合い」が歪められ、異常に引き延ばされたような部分が挿入されるが、いずれにせよ四分音符の律動は消えない。)
オスティナートは中間部では「伴奏」としてショスタコービチの好む「ギャロップ風」の後打ちリズムに変化し、案の定トランペットが「サーカス」さながらに、ふざけた旋法的な上昇音階で登場し、分散和音のファンファーレで「まとまった旋律」を吹くが、明らかに「軍隊のカリカチュア」であるこの部分は、ファンファーレと上下する「歪んだ音階」、トリル風の弦の副次旋律によって紛う事無き「パロディー」であることが明示される。
これが遠ざかるように減衰した後、主部の回帰は半分ほどに短縮、変形され、「切迫感」を煽ることになるが、もともとが「バラバラの音楽」であるために「変化」の印象はもっぱらオーケストレーションによってもたらされる。
オスティナートを「とっておきの」ティンパニが連打するクライマックスはそれだけで「終局的な印象」を与えるが、この楽章は強奏ながら「半終止」で終わり、最高潮部分は次の第4楽章の冒頭部としてずれ込み、この交響曲で最も「劇的」で印象的な部分を形成している。
このような前後の楽章による「脈略」と中間部で増強される「戦争の印象」は、この楽章を単なる「機械音楽」として受け取ることを許さず、その無機的な材料に「信号」とか「砲弾の描写」とかいう連想を与えたり、無神経に進行する「暴力性」の存在を感じさせることになり、この楽章に「実際には書かれていない意味」を与えることに成功しているのだが、これはショスタコービチが狙い済まして「的の真ん中」を射当てた「最高の事例」であり、この交響曲で最も「無駄無く」書かれた部分であることと、第3楽章という「位置」も含め、まさに「一回限り」の出来映えを示している。
この「無味乾燥」風の音楽は、彼が他の作品で「意味深く」あろうとして書いた思わせぶりの音楽よりも余程「多くの事象を指し示して」おり、彼の書いた最高の「メタ音楽」と言える。
前述の第4楽章との「ブリッジ部分」をもって、以後、交響曲は「坂を下る」こととなるが、この「坂下り」は、いささか長過ぎ、緊張を保ちきれない部分がある。
それでもしかし「第8」が「傑作」と呼ばれうるのは、この第3楽章の存在があるからであろう。(この交響曲では「スケルツォ楽章が連続する」訳だが、仮に「省略可能」であるとして、この楽章が「無い場合」に、果たして「交響曲全体がどのように感じられるか」想像して見ると良い。)
このような「手」が、二度、三度と「使える訳でない」のは確かだが、ベートーヴェンが、こうした「一度限り」としか思えないような事を、実に「何度となくやって見せた」のが思い出される。
しかし残念ながら、ショスタコービチには「同じ事」は求められないのである。
彼の十五の交響曲の「真ん中」に位置する「第8」の「中心」に置かれた第3楽章は、その場所にふさわしい「特別なもの」であるが、これに匹敵するような「事象」は、おそらく後の「第14」の中のページまで至らないと、見いだす事が出来ないように思われる。(以降、次回。)


ラベル:音楽
posted by alban at 20:55| Comment(0) | TrackBack(0) | 音楽 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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