2007年06月30日

音楽の「言語性」とは?(118)

5楽章構成を採るショスタコービチの「交響曲第8番」では、長く重い冒頭楽章の後で二つの「スケルツォ風」の楽章を連続させる、という異例の扱いが見られる。
このどちらも「まさしくスケルツォ」というよりは「ひねりの利いた」もので、この措置を「理由付け」しているのだが、チャイコフスキーの「第6」やマーラーの「第9」の中間楽章の扱いを想起させる。
これはこの後の「ネガティヴなフィナーレ」へと導くための「先例」としても重要で、彼がこれらを念頭に置いていたのは、おそらく間違い無かろうと思われる。(このような例は後の「第10」にも見られ、そこではフィナーレに長いゆっくりした序奏が置かれ、やはり同一のコンセプトの「読み替え」と採れる。)
二つの楽章はいずれも短く同程度の長さで(しかし例によって「無駄無く簡潔」という具合にはいかない。)、それぞれの性格もはっきりと書き分けされているが、しかしどちらも四拍子/二拍子系であり、冒頭楽章、この後の第4楽章とテンポの差こそあるものの、二拍子系が四つも連続してしまうことになる。(このため、ショスタコービチはフィナーレを四分の三拍子で書き始めるのだが、曲想と一致しておらず、三拍子の律動は殆ど感じられない。)
これらはいずれも「行進曲風」の楽想を持っており、それも明らかに「軍隊風」のカリカチュアを意識している、という点でも同じである。また、第2楽章が「アレグレット」、第3楽章「アレグロ・ノン・トロッポ」で、それぞれメトロノーム指示されてはいるものの、似通ったテンポであって、実際これらを「明らかに違ったテンポ」で演奏するよりは、二つの楽章を「連続したもの」のように「ほぼ同じテンポ」で演奏する場合が多いらしいのも、これらに「一体性」を感じるからであろう。
第2楽章は変ニ長調であり、この交響曲の主調であるハ短調ーハ長調の半音上、という強いコントラストを持つが、一般には「荘厳なイメージ」として知られるこの調性と、この楽章の曲想は見事なまでに「不一致」な結果となっており、これは完全に意図的な「外し」であろう。
いきなりフォルテシモで入る主題は「Des-C-Des」という形で「基本動機」を繰り返しているが、これが半音形であることや鈍重な、引きずるようなフレージングや、後打ちで入る和音の扱いもあってパロディックに感じられ、冒頭楽章の開始と似たような書き方にも関わらず、大きくイメージは異なる。
後続のフレーズには半音階上昇が織り込まれ、鈍重さを強調する。基本動機を盛んに繰り返しながら進行するが、主題的なまとまりは放棄されており、さらに、変拍子を交えることで本来の「行進曲」の面影を薄気味悪く「崩す」意図が見て取れる。
トリオ部は何故か四分の三拍子となるが、後のフィナーレ以上に「三拍子」ではなく、彼の「第1交響曲」の第2楽章のトリオ同様に、彼が変拍子ないし違う拍子の音楽を「当てはめている例」で、彼がバランス的に「ここで三拍子が欲しい」という場合で「実際には書けていない」状態を示しており、この作曲家にしばしば見られる「理念と実際」が喰い違う典型的な「事例」である。
(こうした個所を「意図的」と「好意解釈する」ことは間違いで、彼は本当に「出来ていない」のであるし、要するに「練れていない」のである。)
このトリオ部の「実質」は、角張った感じの、二つの八分音符と四つの十六分音符の組み合わせと「ドシラソ♯ラ」という音形の反復で、これ以外の要素は全く「副次的」であるが、このリズム自体が「二拍子系」であるために無理が生じているのである。(彼は後で行進曲とこのモティーフの「重ね合わせ」を四拍子で行い、まさに「第1交響曲」の時と「全く同じ事」を繰り返している。)
いびつなフレージングや外されたアクセントは「変拍子」のそれで、「三拍子」の律動が現れるのは主部へ復帰する際に現れるワルツ風のクレッシェンドで、このモティーフによるのではない。
外形はA-B-A'-B'-A''で、主部のヒステリックな変形反復の後にトリオ部も再度現れるが、そこでは小太鼓の連打が攻撃的に繰り返され、はっきりと「軍隊的なイメージ」と結び合わされ、この貧相な素材による「出来の悪い音楽そのもの」に込められた「悪意の矛先」が何であるのかを明示する。
これを合図にAとBの「結び合わせ」があり、やがて音楽は疲労したように半音階下降を使って「解体」していくのだが、結局、無理強いするようなクレッシェンドが現れ「お約束」のフォルテの終結を運び、この交響曲で唯一の「目出度い終わり方」を迎える。
このパロディカルな音楽はショー・ピース風な振る舞いと内容との間で齟齬があるが、次の第3楽章の持つ「特殊性」には確かに「前置き」が必要なのであり、そうした、相互補完的な意味での「的確さ」は備えている。
惜しむらくは、この二つをアタッカで、即ち中間の三楽章を「全部繋げてしまう」措置の検討がされたかどうかや、相変わらずの「詰めの甘さ」が、この交響曲の「より多くの可能性」をスポイルしている点が、ここでも「見えてしまう」ことである。(以降、次回。)


タグ:音楽
posted by alban at 21:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 音楽 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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