2007年06月23日

音楽の「言語性」とは?(117)

ショスタコービチの交響曲中でも最も充実した、「内容ある」冒頭楽章を持つ「第8交響曲」ではあるが、前述の如く、これを純粋に「そのもの」として聴くには、代表作「第5交響曲」を「知らないで」これに接するか、「第5」を「忘れ去っている」必要がある。
演奏によっては半時間あまりも要する、この「中心楽章」は、同じ位長かった「第7」とは違って、明らかに「ソナタ形式」の外形を備えているが、その構造については最初から最後まで、ほぼ「第5」の第1楽章のそれと一致しているだけでなく、序奏主題、第一主題、第二主題それぞれの性格や書法も何から何まで「酷似して」おり、素材自体は別とは言え、これは実質的に「同じ音楽の書き直し」に等しい。
モーツァルト時代ならともかく、このような時点で「大」交響曲の最も重要な楽章、それもすこぶる「シリアスな内容」のものについて「このようなこと」が行われる例は稀で、(これは「たまたま似てしまった」とかいうレヴェルの話ではなく、間違い無く「意図的」と考えられる。)「第5」における、幾分かは「個人的な内容」を感じさせるそれと比べて、明らかに「戦争」に影響された「より深い」ヴィジョンが与えられているとは言え、「第5」を知る者にとっては「フラッシュバック」は避けられず、これを「二番煎じ」と思わせる危険性はどうにも否定出来ない。
しかし「技術面」では大きな「差」があり、「第5」では明らかに「充分では無かった」、「モティーフ操作」による主題間、楽章間、ひいては全曲に渡っての「整合性」が見られ、「この面」においては、いつも大抵「ゆるい」この作曲家における「最も配慮が見られる例」となっている。
その手法は実にシンプルなもので、冒頭の序奏主題の「c−b−c」という二度音程に基づく動機が第一主題で「c−d−c」(フィナーレ主題とも一致する)、第二主題で「h−c−h」と変化し、第2楽章「Des-c-Des」、第3楽章では三番目の音がオクターヴ下がった形で「e-f-e↓」、第4楽章では「gis-fisis-gis」という具合に主題に埋め込まれ(これに加えて序奏部に現れる「es-f-g,d-es-f」といった三度の順次進行が多用される。)、この面では完全に「コントロールされた」姿を見せる。
これは「第5」よりも二十分は長いこの交響曲を引き締めており、いささか「強引さ」のある「第5」や、「拡散するのみ」の「第7」の進行とは全く違った緊張感を生み出している。
「第5」の冒頭楽章と「ほぼ同じ形式」と「似たような性格の主題」によりながらも、この第1楽章を本質的に「違ったもの」にしているのは、「内容」もさることながら、まさにこのためであり、この「基本動機」が、ごく狭い音程と動きを示していることも作用している。この動機は「第5」の冒頭のものとは違って「表情的」「感情的」では無いが、その代わりに聴き手を何か「集中させる力」を持っているのである。
その他の「第5」との相違点としては、各構成ブロックの拡大傾向と共に、第一主題に伴う弦のオスティナート音形が規則的にリズムを刻む「流れる」ものから、付点を持つ「引きずるような」一歩一歩進むようなものになっていること、同様に第二主題部が例の「長ー短ー短」リズムから五拍子の「いびつな」後打ちリズムのものに変わっていること、展開部が拡大されて「二段式」になっていること、そこで現れる「行進曲」が「軍隊調」というよりマーラー「第6」を思い出させるような「戦闘的」なものになっていること、序奏部の再現と展開部の終わりをクライマックスとして一致させる手法の踏襲に続いて、イングリッシュ・ホルンによる長い「モノローグ」が挿入され、それがそのまま第二主題の再現へとつながることなどが挙げられる。(彼に良く見られるこの種の「モノローグ」だが、「いたずらに時間を浪費する」印象のものも少なく無い中で、これは間違い無く「それらの中で最も優れたもの」であろう。)
これらの措置はいずれも的確に「内容の深化」とリンクしており、後年の「第10」の冒頭楽章などよりも、この楽章を「豊かなもの」としている。(それにしても「第7」とは「まるで別人」のような変わりようであり、この「落差」は殆ど「理解不能」に思われる。)
序奏の回想の後に第一主題の要素で閉じられる印象的なコーダは、似たようでいながら「第5」のものとは全く異なっており、前者の「問題」を「保留」し「中断」するような結びとは違って、マーラーのような「morendo」の指示のもとに、ハ長調の、しかし文字通りに「だんだん衰弱し」、そして「死に絶えるような」終止となる。これは彼の音楽の中でも最も厳粛で、美しい時間であり、彼の他の曲にはちょっと見当たらない、「稀な瞬間」である。こうして「不可避」のプロセスは終結するが、しかし交響曲はまだ続く。
この後、彼はおそらく「最善を尽くした」のではあるが、このような「時間」は、もうやってこないのである。それは「必要とされなかった」ためであるのか、「実現出来なかった」ためであるのかは、どうも解らないのだが。(以降、次回。)

ラベル:音楽
posted by alban at 20:56| Comment(0) | TrackBack(0) | 音楽 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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