2007年06月16日

音楽の「言語性」とは?(116)

最近ではショスタコービチの「重要作」の一つと見なされている「交響曲第8番」だが、勝利に浮かれた「躁状態」の前作「第7」の巻き起こした一種の「ブーム」の後、一転して内向的な「鬱状態」に浸されたこの曲は、初演以来冷遇され続け、疎んじられ、発表されてもいない「第4」のように、番号打ちされながらも「無いもの」と見なされんばかりの扱いを受けて来たのである。
しかし、彼の「周辺者」の間では、この曲の「重要性」は明白だったとも思われ、曲を献呈されたムラヴィンスキーは、それに応えるべく「客受けなどそっちのけ」で、しばしばこれを演奏し、見事な録音も記録したし、ロストロポーヴィチはこの交響曲を聴いて「模作」を作曲した、と語っており、ザンデルリンクのような人も、かなり早い段階で重要な録音を残している。(それも東ベルリンで!)
とは言え、この曲の「不遇」には、やはり「それなりの理由」もあるのであって、それも「第7」の時のように「外的要因」が「曲そのものを上回る形」で「評価が生まれた」、というのではなく、あくまで「曲自体に原因があった」と考えられるのである。
この曲には、彼の音楽に馴染んだ者にとっては「既知」の音調や手法が多く見られ、それが過去の作品を「かなり具体的に」フラッシュバックさせるのだが(もっとも「これを言い出したら」彼の作品など聴いていられなくなる所がある)、曲の進行自体がそれらの「過去の事例」とは全く違っているため、これによる「違和感」がどうしても拭えないのである。
特に「同工異曲」と言えるほど類似している「第5」と「第8」の冒頭楽章が最大の要因であるが、「第8」で最も長いこの楽章が、明らかに「第5」の時よりも重要性を増しており、「作り直し」らしく「一層の充実」を見せているにも関わらず、現在に至るまでも「最大の成功作」である「第5」の「強い印象」がそれをスポイルし、大筋で似通った「途中経過」を見せながら「第5」とは「全く違う結論」へと至る筋書き、特に「何の解決も与えない」「ネガティヴなフィナーレ」が、さかのぼって「あまりに似ている」冒頭楽章への疑念まで生じさせかねないのである。
「第8」は「第5」を思い出させない訳にはいかず、まるで「影絵」のように響く。(私自身は「第8」の方をずっと好んで来たが、それは「第5」を聴かない、ということを意味している。)
また同じく「戦争」を題材とする前作「第7」との極端な「内容的なギャップ」は、いずれも「ハ短調ーハ長調」を主調とする点も含め、「意図的な書き分け」とかいうレヴェルを完全に逸脱しており、殆ど「謎」に近いほどに大きく感じられる。
「第7」より遥かに「まっとうな音楽」であるこの曲は、このような「他の曲との関係」のために「歪んで見え」、その「ネガティヴなフィナーレ」は、ほとんど「いい加減」とも思えるような主部の書き方や、どういう形であれ「解決の印象を与える」ことを放棄している終結と共に、場合によっては「誤魔化された」印象すら与えかねず、聴き手を「消化不良」にしてしまうのである。
しかし、この曲は兎角「裏の意味」だの「態度の使い分け」だのと言われるこの作曲家が最も「自分に正直に振る舞った」一例であり(「第5」とて「正直」と言えるかどうか、については既に述べた通りである)、「第7」の「超」の付く大成功で「好きな事が出来る」余裕があったか、或いはバルトークに盛られた「薬」が「てきめんに効いた」か、という所であろう。
この作曲家が「内面」に眼を向けた「精神性」が、ここで感じられるのは確かで、彼の交響曲の丁度「真ん中」に位置するこの作品は、その位置にふさわしく「伝統的な形」に沿った上での、彼の「最もまともな交響曲」の一つとなった。(楽章数の差はあるにせよ、彼の「交響曲」で「全体としてイレギュラーな形」でなく、「それらしい」冒頭楽章で始まるものは、十五曲のうち、何と「第4」「第5」「第8」「第10」の四曲しか無いのである。残りは「声楽入り」とか「何かが省略されている」か、「変化球」であるかのいずれかである。)
これは五楽章構成とはいうものの、第2、第3楽章で「スケルツォ的音楽」が連続し、それに緩徐楽章とフィナーレが連続する、という「第5」と同一と言っていいアウトラインを持っている。
但し、第2楽章は「行進曲風」、第3楽章は「無窮動」、第4楽章は序を除いて弱音が続く「パッサカリア」、という具合で、それぞれ明確なキャラクターが打ち出されており、それに「問題の」フィナーレが「第7」同様にアタッカで続く、という具合になっている。(これとそっくりの構成を彼は「弦楽四重奏曲第3番」において、同じような曲想を使って繰り返しているが、こちらの方を「より評価する」向きもあるようである。このような「使い回し」は、多作家である彼の「常套手段」である。)
このような構成は、彼のこれまでの交響曲としては「最もオリジナルなもの」と言えるが、全曲を三つのブロックとも採れる点からは、マーラーが「第3」や「第5」で「第一部」「第二部」というような楽章の「上部構造」を示唆していたのを思い出させるし、「問題の」フィナーレにせよ、冒頭楽章の音楽、特にクライマックスを再現する、というマーラーがよくやる手法が見られる上、楽章自体の性格や構成においてマーラーの「第7」のそれを参考にしている節がある。(ショスタコービチが「マーラーの影響」を見せる事は珍しくは無いが、中でも「第4」と並んで「第8」は、かねてから「マーラー的」とされてきたものである。)
このような「伝統的な手法」を意識した時のショスタコービチは、「妙にツボにはまる」場合があり、これは代表的な一例である。こうした曲が、彼を「交響曲の伝統の継承者」呼ばわりする時の格好の「言い訳」になっているのである。(以降、次回。)

ラベル:音楽
posted by alban at 21:25| Comment(0) | TrackBack(0) | 音楽 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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