2007年04月14日

音楽の「言語性」とは?(107)

ショスタコービチ「第5交響曲」の第2楽章は短く明快なスケルツォであるが、前後楽章の重苦しさの間に置かれて良い「息抜き」となっている。
また、ここではサーカス音楽でも思い起こさせるような「通俗性」が臆面も無く導入されており、辛辣ではあるが底暗さは無く、彼の音楽としては「愛想の良い」ものに属する。
調性感もはっきりとしており(イ短調であるが、マーラーにおいてこの調が持つ意味、「運命の調」たる、殺気立ったような切迫感はまるで無く、中間部含め、長調に傾く部分も多い。)、シンプルな三部形式による構成も実に見通しが良く、この作曲家の同様な楽章で良く見られる「無駄な音符」も少なく、最も「良くまとまった」、「解り易さ」に配慮したスケルツォと言える。
このように陽気な「軽さ」を装っているとは言え、いきなり低弦で導入される主題が第1楽章第一主題の旋律線を殆どそのまま模倣しているように、続く木管のモティーフ、弦による十六分休符を持つ弾むようなフレーズ、これ見よがしな金管のファンファーレなど、後続の材料のいずれもが同様に先行楽章にも見られた音階的順次下降に基づいており、違ったキャラクターが次々と登場するような展開でも「交響曲」としての動機的配慮には事欠かない。
これはトリオ部のヴァイオリン・ソロによる良く知られた旋律でも同様であるが、そこでは跳躍する音程が反復の度に幅を広げる媚びるような動機によって、「引用」されたような通俗性は、より強度なものとなっている。これらの動機群は、彼の「癖」と言って良い、まるで「時間稼ぎ」のような同音反復やジグザグした音階進行で繋ぎ合わされるが、いつもの「即興を書き留めた」ようなものではなく、良く整理され、そのためか五分にも満たない長さながら「必要充分」であり、その「分量」自体も効果的である。
形式は実にシンプルであるが、先の主題に固執するトリオ部、主部の再現におけるオーケストレーションの変化には配慮されており、この面における「繰り返し」を避けることで情報量を上げているが、主部の再現にピッツィカート・セクションが現れるのは、明らかにベートーヴェンの偉大な「第5」を意識している、と思われる。但し、ここではパロディ的な意味合いが強く、あの劇的な効果は微塵も無い。また、コーダでトリオ部の音楽が短く再現されるのもベートーヴェン流儀であるが、例の陽気な旋律が今度は狭い音程で、短調的、半音階的に変化して現れる。但し、これを「暗い」意味においてとらえるのは適切でなく、酒場の合唱のような効果的な結び方も含めて、やはりパロディーと解釈すべきであろう。
三日ほどで書かれた、と伝えられている第3楽章ラルゴは、「純なる緩徐楽章」として評価の高いものということであるらしいが、ショスタコービチの音楽としては、その「主情性」や、なまな「悲劇的表現」によって、むしろ際立って「異例」であり、どうも違和感を感じる。
この楽章は、実質的には冒頭楽章の第一主題部を「感情的に拡大」したものであって、当初の「抽象性」から手元に引き寄せられ、握りつぶさんばかりのオペラティックと言って良いような「悲劇的身振り」へと変化させられ、実際の所「チャイコフスキー的」ですらある。
弦の分奏や金管パートの削除によって「繊細に」オーケストレーションされているが、それはこのような特質を幾分「客観化」し、隠蔽する効果は持つものの、むしろ「ポーズ」でもある。
冒頭の主題は当然のように音階的進行に基づき、三度音程と二度音程を基本としているが、前者には音が一つ付加されて四度進行、後者では短二度でなく長二度の音程が中心となり、このため当初は曖昧な「抑えた感じ」を与える。(多く現れる二度音程は冒頭楽章序奏の二番目の動機に基づくが、そこではシークエンスとして用いられていたことを思い出させる。)
次第に「短調的」な響きが支配的となり、半音階下降の「嘆き」や、これも冒頭楽章の「エコー」であるフルートの旋律、チャイコフスキー風な盛り上がりを経てロシア民謡風な旋律がオーボエで順次現れ「材料」が出揃うが、この「民謡風」な部分が中間部と見なせよう。
主部はこの後、いよいよ「本来の姿」である、激した「悲劇性」を露にして展開されるが、クライマックスに聴かれるグロテスクなシロフォンの響きを除けば、まるでロマン派音楽のようでもあり、
ここでの「表現」が実際どこまで「本気」であるのかについて、かえって疑問を抱かせる。
一般には「額面通り」受け取られている、ここでの「悲劇性」は、「感情性」も含めて「演じられたもの」である可能性、「どうウケるか」考えた上での「感情に直接訴えかける」態度が存在する可能性がある。前述の「純度の高い」オーケストレーションに象徴される(最後も御丁寧にハープによる「民謡風」主題と出し抜けの長調和音によって「具合良く」閉じられる。)「見せ掛け」は、ブルックナーの同様の楽章やマーラーの「第3」や「第4」の緩徐楽章を踏襲したとも思える構成共々「わざとらしい」と感じられてこなかったのは、このような音楽に「疑念」を挟む余地が無い、と信じられていたからであり、「情緒的であること」が音楽としては「問題とするに当たらない」為である。
この楽章は先行する第2楽章同様、実際「俗なるもの」に依存しているのだが、たちの悪いことに、発表以来、交響曲の「内的な核心」であるとされ、次のフィナーレが「勝利の表現」であると信じて疑わない態度を援護した。
そのフィナーレへの「移行」は実際にはスムーズでは無く、そのギャップはこの後「力ずくで」埋められていくのだが、際立って有名なその第4楽章が、これまた「問題」であることは既に述べた通りである。(以降、次回。)
タグ:音楽
posted by alban at 21:14| Comment(0) | TrackBack(3) | 音楽 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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