2007年04月07日

音楽の「言語性」とは?(106)

かねてから天下周知の「大名曲」とされるところのショスタコービチ「第5交響曲」であるが、彼の名が専らこの曲によって「あまねく知られていた」頃ならいざ知らず、他の作品についても比較的良く知られるようになった昨今、交響曲で言えば「第7」とか「第9」「第10」といった「聴かれていない訳でも無かった」もの以外にも、晩年の最後の三曲や「第8」、それから「第4」などに対する認識は、「第5」の地位を、少なくとも「絶対的ではない」ものにした、と言って良かろう。(無論、「ショスタコービチから何か一曲」という時に、まずこれが「筆頭に挙がる」状況は変わらないだろうが。特に、彼の音楽に熱心でもない演奏者が「まあ、やってみようか」という時には、この曲は外見、内容共に最も「無難なもの」として映るであろうことは確かである。)
これが「最高傑作」かどうかについての論議はともかくとしても、十五曲の内の五番目(実質的には二番目か三番目であるが)であるこの曲の突出したポピュラリティが、彼としては珍しいオーソドックスな楽章構成や入念な動機操作、全体の流れを「ベートーヴェン・タイプ」に見せかけた内容と共に、「解り易さ」に配慮した、耳触りの良い旋律や響きの(良く似た素材による「第4」の不協和音の多さと全体の巨大さに比較すると、これが扱いなれた材料による「再構成品」であることは明らかである。)もたらす「俗受けする要素」に富んでいることに起因しているのは確かで、これは彼の「ひねた」作品群の中では、むしろ「異例」ですらある。(この傾向をさらに誇大妄想的に拡大したのが「第7」だろうが、こちらは質的、内容的価値はさておき、「ともかく人気だけは」ある。)
ことに、ブラームスの「第1」同様、曲の「人気の源」である例のフィナーレ(吹奏楽編曲などで派手派手しく「ショウ・ピース」的に演奏されることもある。)は、この交響曲に付けられていた「革命」とかいう、いわれの無い馬鹿げた「副題」(この類なら御本人が「命名」したものが他に複数ある)がようやく取れた最近になって、やれ「二重の意味」だの「裏の意味」だのと取り沙汰されるものの、これが聴衆に対して持つ「効果」について充分配慮しつつ「狙い済まして」組み上げられたものであることは否定出来ず、ここで「失敗」することが絶対出来ない作曲当時の「状況」を考え合わせると、到底「裏の意味」など盛り込むような余裕など無かったとも思われる。(そんな「芸」が出来る位なら、そもそも「第4」を引っ込めたりはしないだろう。)
これは「第5」の「書き直し」のように見える「第8」と、その「アンチ・フィナーレ」の存在が裏打ちしており、そこでは作曲家が「ここで本当に書きたかったもの」に再度取り組んでいる印象を与えるが、少なくともそれは「内容」においては「第5」を完全に超克している。
ともあれ、自己のスタイルを確立した彼が「一発必中」として書き、そしてものの見事に「当てて見せた」最大のヒット作品は、確かにそれに価する出来映えを示しており、良く練られた構成はこれを「交響曲」として申し分無い外見上のバランスに仕立てている。
これは無駄の無い(この作曲家としては極めて異例な)冒頭楽章が如実に示しているところで、限られた材料によって、比較的遅いテンポを基本としながらも簡潔にまとめられており、この作品でも最も見事な楽章となっている。
冒頭には導入部が置かれ、カノンによる上昇ー下降の音形、順次音階下降(「ミレドレドシド」という具合に次第に下降する)の音形が順次提示されるが、後にも折につけ現れる。前者は「縁取り」のような意味を持ち、その序的性格を保持されたまま挿入句として用いられ、後者は主題に挟み込まれるように一体化されて頻繁に利用されるが、必ず順番は不変のまま、隣接して用いられる。
さらにこれには重要な「材料」が含まれ、後の音楽の進行を決定する。
一つはバッハのオルガン・トッカータの開始のようなフランス風序曲の付点リズム、もう一つはその導入句に含まれる「d-a」の四度音程で、特に後者の四度音程は、この曲の主題群の「基本音程」となる。この二つの材料を組み合わせたものが伴奏音形として定着すると、順次音階下降による主題が導入されるが、「第4」の回で述べたとおり、これは前作の第2楽章スケルツォのトリオ部で現れた旋律に酷似しており、三拍子から四拍子に移されているものの、音高も一致しており、殆ど「引用」と言って良いほどである。
これこそ、「その意図」について考えさせられるが、この楽章の深刻そうな素振りの「底にあるもの」の在処について示しているようにも思われる。
主題は序の材料を交えながら切れ切れに、曖昧に進行するが、所々に印象的な「調的な響き」が現れ、聴き手の興味を引き続ける。このような「流れの重視」は、やはり「第4」のトリオ主題に用いられた「長ー短ー短」の同音反復によるリズム・オスティナートに伴われた「第二主題」たる、ビゼーの「ハバネラ」をどうしても思い出させる部分(これも「引用」だろうか。フレーズを不規則に引き延ばし、何とか「バレる」のを避けようとしているようにも見える。)でも顕著で、調的な響きが重視される。「長ー短ー短」のリズムは「ラドシ」「ドミレ」といった三度音程の動機に変化し、断片的な進行が第一主題部の感じを導入するが、これが展開部への準備となる。
展開部では、これまでのゆったりした進行を埋め合わせるようにアレグロのテンポが導入されるが、「動機的展開」というよりも同一の音楽が「加速」されている感じが強く、そのため「歪んだ」印象を与える。これは第一主題がグロテスクな「行進曲」として現れる部分で決定的なものとなり、何か標題楽じみたもの、或いは交響詩的な「意味」を思い起こさせる。
再現部への移行は巧妙であり、導入部の付点リズム部分が速いテンポのままクライマックスとして拡大されて現れ、「第4」の冒頭楽章の同様な部分のような「つなぎ」のユニゾンによる「レチタティーボ」、「長ー短ー短」リズムの再帰から第二主題で元のテンポとなり、さんざん利用された第一主題の再現は省略され、コーダにおいてその「雰囲気」が回想されるのである。
再現部の音楽はかなり短縮され、変化を受けるが、響きと流れはかえってスムーズなものとなり、主題の伴奏音形に乗ったコーダもむしろ不安感は薄らいでいる。主題の逆行形がフルートで奏される導入も何か象徴的であるが、提示部では目立たなかったオーボエによる「ミファミラ」といったショスタコービチでは必ず出て来る音形が今度はソロ・ヴァイオリンで「シェエラザード」のように現れ、当初の深刻さはどこかに消えてしまっている。
こうして、簡潔で「陽気」といっても良いようなスケルツォが呼び出されるが、消え去った音楽は派手なフィナーレにおいて「より攻撃的な姿」で復帰する。
第1楽章は明らかに「問題」を「保留」しているのだが、そもそも、それ自体が「存在したかどうか」は、主題の「引用」も含め、開始部の「思わせぶりな態度」共々、実際は明らかではない。
この楽章は「第4」の終結部と同様、本当はリアリティを欠いているのだが、やはり「悲劇的な外見」が実際以上に「効果」を生じている一例なのである。(以降、次回。)
タグ:音楽
posted by alban at 20:33| Comment(0) | TrackBack(0) | 音楽 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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