2007年02月10日

音楽の「言語性」とは?(98)

ショスタコービチ19才時にして初の大作、そして国際的にも「出世作」となった「交響曲第1番」は、名だたる作曲家達の「第1」の中での「最年少記録」という訳では無いものの(何せモーツァルトとかシューベルトのような人が居る)、「レパートリー」として「生き残っている作品」としてはビゼー17才(!)の「ハ長調」に次ぐ「若書き」の「記録」となろうか。
ベートーヴェン以来「交響曲」には「特に慎重な態度」で臨んで来た作曲家が多かった中、実に大した「度胸」であるが、それで実際に記念すべき「成功」を収めて見せたのだから、世間が驚いたのも無理は無い。(合計十五曲も書けたのは、この早い時点での「第1」が、かなり「効いている」のは確かである。やはり若いうちから「作曲家として完成」していたブラームスなども同じ様にしていたら、それこそ全部で「九曲」位は書いたかのかも知れないが。しかし彼は自己批判を繰り返し、周知の通り「第1」に二十年以上を費やした。それは確かに、ショスタコービチのものよりは「重要な作品」になった。)
作曲家も、この曲の初演日だかを「第二の誕生日」として祝っていたという位、まさに「順風満帆」の「出発」だったのだが、この後の「経過」は思わぬ方向へ逸れていってしまう。(この曲を賞賛したトスカニーニとかブルーノ・ワルターが「第2」とか「第3」のような作品を「交響曲」として発表したことに、いったいどのような反応をしていたのか知りたいものである。これらの作品に見られるアヴァンギャルドな態度の後、この作曲家の「作風」は、まだまだ若いうちに決定的に変わってしまう。若いショスタコービチに感じられる、底知れぬような「潜在力」は感じられなくなり、「精神的要素」が前面に出て来る代償として、ルーティーンと自己反復が始まる。)
これは音楽院の「卒業作品」であって、「お行儀の良い」面、幾分「教科書的」な部分が無い訳ではないが(しかし、序奏冒頭の和音処理に関して、師グラズノフの「常識的解決」の勧めにいったんは従ったものの、結局は逆らった、という話が残っている。)、その「用途」のためもあってか、むしろ後年の作品よりも丁寧に書かれており、良く考えられた構成を持ち、結果として、この作曲家としては「無駄」の少ない、見事な作品となっている、と言って良い。
「最初の作品にその作家の全てが既に含まれる」というような事が言われることがあるが、ショスタコービチの場合にも、それは確かに該当するだろう。しかし、後年の作品と比べて何か「異質な感じ」がする面があるのも確かで、それは前述のような「作曲のされ方」や、何よりも「新鮮さ」がここにあり、後年の「習い性」ともなる「曖昧さ」を排する態度が、ここでは顕著だからであろう。
ただ、これは確かに「交響曲」と呼ぶ他無いものであるにも関わらず、何か「正攻法」というよりは「変化球」のような所があり(プロコフィエフの「第1」、である「古典交響曲」が、非常に「ひねた形で」巧妙に実現して見せたのとはまた別のアプローチだが)、「協奏的」な、或いは「室内交響曲」的な楽器法(ソロの多用、薄いテクスチュア)、ピアノの導入(時々「ピアノ協奏曲」のように聴こえる)、「意表を突く」ことへの執着(「予想と違う」結び方や、流れの意識的な途絶など)、一部の動機的連関に何か「意味」を付与しようとする態度など、相当「引っ掛かり」が多く、これらが若いショスタコービチの「意欲の現れ」であるにせよ、「正統的なスタイル」からはやや距離があるようにも感じられ、「実際の大きさ」よりもこの曲を「小さく見せる」原因ともなっている。(演奏にもよるが、この曲は「第9」「第2」「第3」よりは長く、「第6」と同程度か、いくらか長いはずである。もう一つ何か「薄く感じられる」ポイントがあるとすれば、前半2楽章よりも後半2楽章が「長くなる」にも関わらず、音楽の「密度」と「構成」において前半よりも劣り、何か「標題的なもの」の関与がより強く感じられる点であろう。)
彼の本格的な、文句無しの「フル・スケール」の交響曲は、「第4」(しかし三楽章構成)が未発表のままであったことを考えると、実にあの「第5」まで待たねばならないのである。
第1楽章には序奏が付けられているが、主部との関連性が強く、実際ここに含まれる動機が全曲の主題群に浸透しており、この後の第一主題も例外では無く、直接的な派生関係が見られる。(第1楽章においては節目ごとに序奏の材料が現れ、この関係が確認されている。)
主たる要素は、冒頭に見られる順次半音階下降と四度、五度下降などを組み合わせる音形であるが、これは徹底して全曲に用いられ、後年には殆ど見られなくなる動機労作による、他の派生要素との組み合わせ、拡大、短縮などの形でも現れたりするため、音楽を「似通ったトーンで埋め尽くす傾向」が無いとも言えないが、それで得られる「統一感」は後の交響曲には無いものである。
また、この「対策」として「リズムによる差異化」が意図されており、主題ごと、楽章ごとにリズム・パターンが書き分けられている。この周期的なリズムの変化(多くの場合テンポ変化も伴う)による推進力もこの曲の特徴と言える。
但し、全体として四拍子、二拍子に固執する傾向があり、それを意識したためか、スケルツォ楽章(これも四拍子)のトリオで明らかな四拍子の旋律をわざわざ三拍子で記譜する、という訳の分からないことをやっている。(一部変拍子が混じるが、主題自体は四拍子にしか聴こえない。)
「明らかな三拍子」は第1楽章の第二主題のみであるが、このワルツ調は第一主題の行進曲調と良い対比を為しているが、これは序奏と第一主題が「地続き」であることから、また、この後のスケルツォが前述通り第1楽章と同じ四拍子であることからも「妥当な措置」と言える。
序奏の、何か「保留する感じ」から行進曲のリズムで抜け出る第一主題は、三連符と十六分休符を挟む、マーラー「第2」の第1楽章を思わせるリズムを持つが、執拗な半音階進行とリズム反復によって独自性を保っている。序奏冒頭の素材なども挟まれるが、「いかにも行進曲らしい」フォルテ全奏は現れず、第二主題へと移る。これは第一主題よりは全音階的ではあるが、短二度音程と四度、五度音程の組み合わせであって、序奏に由来している。明るくも無く、暗くも無く、確たる性格を持ってはいないが、重要なのはワルツのリズムそのものである。
展開部は長く無いが良く考えられており、序奏の最後部で出て来た動機から始まり、冒頭、第二主題の要素と組み合わせられるが、弦楽器が分奏されており、この後のオーケストラのフォルテシモ(これまで回避されていた。この印象的な部分はコーダ部でも再現される。)を効果的にする。
第一主題の再現はそのクライマックスを引き継いで沈静化させる形になるが、ごく短く、第二主題の再現へと移る。序奏の材料が示された後、第一主題、クライマックスの再現となるが、予想されるフォルテによる終結はやって来ず、第一主題から序奏の再現へと逆戻りし、そのために冒頭の「保留する感じ」のまま弱音で終結を迎える。この「はっきりしない終わり方」は、聴き手を「煙に巻く名人」ショスタコービチの「本領」が早くも発揮されているようにも見えるが、実際には楽想的に関連性の強い第2楽章スケルツォへの「アタッカ」としての「つなぎ」の性格が強い。(この「アタッカ」的な手法は、第3楽章からフィナーレへの移行でも用いられており、彼が「前半」「後半」の区切りを意識していたことを示している。このような考え方は、マーラーに由来すると思われる。)
この「第1」には、同じ調性(ヘ短調)によるチャイコフスキーの「第4交響曲」を「下敷き」にしたと思わせる所が随所にあるのだが、この第1楽章では、序奏の材料の利用の仕方やリズム要素の反復、半音階の使用法、第二主題部の表情の共通性などがチャイコフスキーの第1楽章を思い出させる。
他の楽章でもそのような「対応関係」は見られるが、最も「成功」と初演以来言われ続けて来た次の「スケルツォ」にもそれは該当する。(以降、次回。)
タグ:音楽
posted by alban at 18:53| Comment(0) | TrackBack(0) | 音楽 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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