2007年01月27日

音楽の「言語性」とは?(96)

「大作曲家」という言葉は、さしたる根拠も無く「何となく使われがち」であるが、その概念は実に曖昧であって、結局は「主観的なもの」でしかなく余り意味は無い。(誰であれ、自他問わず、そのように「称する」ことは勝手である。)
これを「大作曲家の名にふさわしいか」という具合にでも相対化すると意見は自ずと収斂もされようが、明確に答えが出るものでもあるまい。(結局は「お遊び」であろうが、しかし確かに作曲家の「ランク」は厳然として存在する。)
いわゆる「3大B」とかいうのもブラームス支持者の弁であって、バッハ、ベートーヴェンには誰しも異論は無かろうが、いかなブラームスでも果たしてこの二人と「同等」か、というとそうではあるまい。(勿論「そうではない」ことは本人が一番「良く知っていた」はずである。)これを彼の代わりに「ビートルズ」とするジョークもあるが、ブラームスならばブルックナーの方が、とか、もっと近い所でベルク、ドイツ系以外も入れるとなると、英国人ならブリテンを出すだろうし(フランス人はベルリオーズについて「フランスの栄光に価するかどうか」判断しかねているらしい。ビゼーでも持ち出すつもりか。それともブーレーズ ?そうでもあるまい。)、イタリア人ならベッリーニと言うだろうか。
しかし、「本命」は、やはりバルトークかも知れない。
では「M」なら?まずモーツァルト、そして間違いなくマーラー。メンデルスゾーンは「やや違う」かも知れぬ。ムソルグスキー?マイヤベーア、マスネーは冗談だろう。そう、メシアンがいるが。
「S」は?たくさんいる。シューベルト、シューマンは筆頭だろう。次は?シュトラウス?(一体どのシュトラウス?)シェーンベルク?確かに偉大だが。サン=サーンス?ショーソン、サティ?それは違う。スカルラッティ?(どっちの?)スメタナ?シベリウスなら「近い」かも知れない。スクリャービン?そうだ、ストラヴィンスキーだ! 
何?ショスタコービチだ!?勘弁してくれ、そいつだけは困る。
昨年は「アニヴァーサリー」とかで、やたらとショスタコービチの音楽を耳にすることが多かった。
この作曲家は確かに昔からずっと私の興味を惹いては来たし、どちらかと言えば彼の音楽を好んでもいるが、作品群を概観した印象は結局二重の意味で「いつも同じ」であって、今回も(何度も!)それを「再確認」する破目になった。
確かに「傑作」と呼んでもいい作品もあるにせよ、感銘を受けるものも無いではないにせよ、実に、実にしばしば「雑な仕上げと書き方」「余剰な部分」が目だち(但し、初期の作品には、丁寧に、念入りに書かれているものもある。じっくり「推敲する」とか長年に渡って「暖める」とかいうのは「特殊事例」と言える)、「同じ内容の音楽」が、ジャンル問わず現われて「自己模倣」を際限なく繰り返し、晩年に向かっての「深化」はあるにせよ、それらの「反復」の要素も一層、増えていく。
彼の「傑作」は、何かの風向き加減で「そうなっている」に過ぎず(それを「成るべくして成る」とも言うが。)、「連発」することは余り無く、従って「駄作」も少なからずある。(但し、露骨に「外している」時は、「狙ってそうしている」のかどうか判別し難いことがある。)
いずれにせよ、これらの「結果」を当時の「体制の影響」と関連付け過ぎるのは間違いで、「そのような用途の作品」で無くとも駄作は同様に見受けられる。(また、「そのような用途の作品」でも傑作が「不可能」なものかどうかは、プロコフィエフを見れば解る。)
彼の作曲へのアプローチは、その「作品の印象」とは違って実に明快で、演奏フォーマットがオーケストラとか、それにヴァイオリンとかチェロが加わるものとか、まずそれを決め(これらを「交響曲」とか「協奏曲」とか言う訳だが)、楽章数、その構成と順序などを決めるのだが(だからいつも楽章数が変動する)、それぞれの音楽のキャラクターは幾つかのパターンの中から「ほぼ固定」なのである。以前の作品で「第2楽章」だった音楽が今度は「第4楽章」だったりするが、そこでは「ほぼ同じ事」が行われている。そしてもっと細部だと、それは実にたくさん見つかるのである。
彼は、作品の「外形」を決定すれば、その新作はまずそれで「差異化」されたことになり、極端な話、彼は「同じ音楽」を、またそこに「作曲する」のだが、「容れ物」と「時間の経過」という「違い」のために、微妙な差が生まれ、「違った結果」となる、いう風にも見えるのである。
それは何か、「内側」の要請というより、「決められた器」に「嵌め込んでいく」ような作業であって、彼特有の、余り類例の無いもののように思える。
彼はこの「器」に、ものすごいスピードで作曲していくのだが、本人も「欠点」と認めていたその「速筆」は、作品の「内なる」コンセプトとか、作曲家の「こうしたい」とかいう意思をも飛び越えて「暴走」し、程度の差はあるにせよ、どうも「あるべき姿」とはいつも異なった「結果」をもたらしているように思えるのである。
確かに、彼には「表現すべきこと」はあるのだが、それを「そのように」、「思ったようには」実現していないのではないか。
この「本当はそうじゃないだろう」というのがショスタコービチの「印象」であって、これがまた彼の「個性」とか「持ち味」とも言えなくも無いが、それにしても、どう弁護しても「練り込まれている」とは言えない素材、構成、「無駄な」、或いは「意味の解らない」音符、「いつもの」、「前にも聴いた」フレーズ、明らかに「ピアノで作曲している」ことが透けて見える書き方(例えばピアノの左手の無造作な和音と、右手での「適当」そのもののような「引き延ばし」のパッセージなど。これは誰にでも分かるはずである。)、「速筆」の欠点が前面に出てしまっている。
おそらく彼自身、そんなことは「百も承知」なのだろうが、彼はプロコフィエフのように「改作」したりしなかったし(「事情によって」オペラを書き換えたりはしているが。)、そもそも作曲するにあたって「推敲」していたとは思えない。まるで「なぐり書き」のような印象を受ける事すらある。締め切りに間に合わせなければならない、安っぽいオペラの作曲家のように。(前回までのプロコフィエフと違って、作品の細部に潜り込んでも「面白い」ということは少ない。「何故こうしたのか」が解る、とかいうのではなく、以前どこかで見たものが「そこにも嵌められている」のを発見して、まるで「出来の悪い替え歌」を何パターンも見せられた気分になり、うんざりすることがある。)
結果として、数こそ多いが、無駄を抱え込んだ作品は当然、長くなる傾向にあり、「短い場合」は楽章が少なかったり、何かがごっそり「省略されている」のである。また、「短い」からといっても、「密度」が上げられている訳でも無い事が多い。
彼には「完成度」というものが決定的に欠けているのである。(無論「完全に」では無いが。)
「速筆」は欠点では無いし(「速筆」「多作」の「代表例」であるモーツァルトやシューベルトを見れば良い。逆に、ブルックナーのように、熟慮しながら「同じような事をする」タイプもいるが。しかし彼も晩年には「何かが変わって」来ていた。)、「完成度が足りない」ことも必ずしも「欠点」では無い。
しかし、ここでは明らかにそれらが作品の中の「何かを損ねて」おり、それを「補うもの」も不足しているのである。
或いは「補うべきもの」が「奪い去られている」のである。
彼が、そのような事に「無自覚」であったはずも無く(さきの「欠点」への言及や、自作についての「このようになってしまった」という表現は、この事を裏付ける。)、むしろ「そのようにしか」作曲出来なかった、と考えるべきだが、それは、晩年にいたるまで永く続いた病の影響や、「体制」との関係などが「精神的に与えた」ものが根深く彼の中に巣喰っていて、どうしても「自動筆記」のように、「そのような結果」になってしまうからだ、という感じがする。
彼の相当量の「不備な」作品群は、むしろ、その「未整理」や「矛盾」、強迫的な「自己模倣」が、「好意的聴取者」にとっての「謎解き」の材料を提供しているが、果たして本当に「それがある」のかは、かなり疑わしい。
「体制側」を出し抜いて「別の意味」や「隠された意味」を、作品にパズルのように巧い具合に「収める」ほどには彼の書法は緻密では無いし、またそこに「記号性」を求めるにも、それはいささか貧相である。ショスタコービチは「バッハでは無い」のである。(彼の「親しい周辺者」には解るようなレヴェルでは色々なものが「存在する」のかも知れないが。「内輪では通じる冗談」のように。しかし、それを「交響曲」のようなものに紛れ込ませる事自体「異常」であって、それは「逸脱行為」である。)
良く言われる「引用」の問題にしても、いつもの調子で書き飛ばして「同じ音符」が紛れ込む確率、「どこかで聴いた通俗歌」の旋律を書いてしまう確率、他の作曲家の音楽を「もじってしまう」確率(交響曲第15番のような例は「完全に意識的なもの」だろうが)などが「混じってしまった結果」かも知れず、本人が意図しない所に「意味」を見ようとしている可能性も高い。(繰り返すが、彼の作曲法は「そのような危険性が高い」のである。また、このような「方法」を使えば「能率的に」作品を仕上げることが出来る、と見る事も可能ではあるが。)
こうして出来た彼の作品は、芸術的な「永続性」と結びつけられるよりは、その都度ごとの「時代性」と親しいものであり、それは彼の作曲の仕方がある意味では「必然的に導きだした」ものである。
確かに彼の音楽には外的な「説明」が必要なものが多く、そうでもなければ「訳が分からない」ものが少なく無い。(これが余計「深読み」を誘うのであろう。)
これは「欠点」自体が「特色」であり、それが「価値」でもある音楽であって、むしろその点において「普遍性」を得ている、希有な例と言うべきである。(そのため、この作者は「モニュメンタル」であろうとすると殆ど例外無く「失敗」するのである。逆に、個人的色彩が強くなる晩年の作の方は「聴かれているかどうか自体を気にしない」音楽になっている。)
彼の作品は、どれも見掛け上では「伝統的な」外枠を持っているが、実質的にはもうそれらは「解体」されており、「そうである」必然性に欠けている。
それが最も現れているのが彼の「顔」でもある「交響曲」だが、そこには、実際には「その名にふさわしい」訳でも無いものが含まれ、「そのように見える」ものも実際には「そうでは無い」ものが少なく無い。彼は本当に「シンフォニスト」なのか?
だとしても、もうそれは「伝統的な」「正統的な」ものでは既にない。(以降、次回。)
タグ:音楽
posted by alban at 19:49| Comment(0) | TrackBack(0) | 音楽 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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