2006年08月26日

音楽の「言語性」とは?(74)

スクリャービンの第4交響曲「法悦の詩」は、彼の五曲ある「交響曲」の中でも「最も知られたもの」であると共に、彼の作品の大半を占める相当な量のピアノ曲の数々をさしおいて「代表作」とされる位置にある作品である。(「数の問題」ではなく、作曲家自身も管弦楽作品を「極めて重要」と考えていたことは確かで、むしろピアノ曲は、それらに向けての「準備的なもの」と見なしていたふしもある。)
創作の「柱」だったはずのピアノ曲については、比較的初期のものが(つまり、リストやショパンの影響の強いもの)「一般受け」し易く、それゆえ「演奏されやすい」傾向にもあるようだが、、その中でも「核」である十曲の「ピアノ・ソナタ」、特に後期の独創的な単一章形式の「凝縮された」様式による曲は、その「重要性」について常に注目はされにせよ(ある意味で「スペシャリスト」の「腕」と「解釈」とを要する性格が無くもないためか)、実際、思ったほどには「耳にする機会」には恵まれない。
このようなこともあり(最近、状況は変わりつつあるようではあるが)後期スクリャービンの「独自な世界」を一般に伝え得る「ほとんど唯一の機会」として(つまり大オーケストラという「フォーマット」の特質のために、ピアノ作品よりは「玄人受け」云々の話で無くて済み、また作品も「そのようなもの」=「交響曲」として書かれている。この場合、この呼称は「どう聴かれるべきか」についての作曲家の「意思表明」でもある。彼自身、これを極めて強く意識していたと思われるが、これは、彼の「発展」が、「より広い対象」を指向し、そのため当然「大きい演奏媒体」を必要とした「経過」からして当然ではある。ただ、面白いことに音楽自体の構成はむしろ「縮小化」して、例えばマーラー「第8」のような傾向へは向かわなかった。)、他のどの作品にもまして、「法悦の詩」の演奏だけが何故か「突出して行われてきた」のである。
この曲の彼の作品全体における「重要性」は、現在においても、いささかも減じてはおらず、それは実際、彼の晩年における「思想」のエスカレートとそのままリンクしていた、音楽語法上の発展や構成上の(観念的な)工夫といったものが、「机上」に留まらず、見事に「音楽そのものの成果」となって「還元されている」(それは「たまたまそうなった」のかも知れなかったのだが)、という意味で「最もバランスが取れている」からであり、緻密に作られた構造や、念入りにスコアに書き込まれた微細なソノリティの表現も、ここでは我々に「努力」を強いること(彼の「思想」云々に思いを巡らすこと)が無い。ここでは、聴き手は「響きそのもの」に注力することが可能であり、スクリャービン独特の「官能性」の「全開状態」を、充分に「楽しむ余地」があるのである。
(とは言え、これには曲と平行して書かれた難解な「テキスト」があり、それは例によって、曲の理解を「かえって妨げるような」性質を持つ、どうも「別個のもの」である。作曲者は、結果的にはこれをスコアに載せなかったが、この「思想」、「観念」と、実際の音楽との「ギャップ」は、彼の大きな「解決し難い問題」だったかも知れず=それは、「色光ピアノ」の例を持ち出すまでもなく、「音楽で音楽以上のものをやろうとした」ことに起因しているが=実際、この後の「プロメテウス」では「限界を超えて」しまっている場面が、少なからず見受けられるように思われる。)
単一楽章であるためもあってか、「交響曲とは名ばかり」で、実質「交響詩」であるとか思われることも多かったようだが、現在では「拡大されたソナタ形式」が(再現部の後に「第二展開部」を持つ。これは前作の「第3」の第1楽章にも見られた特徴である)確認されている。
但し、シェーンベルクの「室内交響曲」などのように通常の四楽章、ないし三楽章の「構成」の名残りを留めている訳ではない。(もし、あるとすれば、それはこの曲の多数のモティーフの=ほとんどが「ライト・モティーフ」風に断片的である=「性格付け」に反映していると見ることは出来よう。)
いずれにせよ、シベリウスの「第7交響曲」が「交響曲」であると十分認めうるとすれば、これにも同様に「その権利」を与えても良いような作品と言えよう。
序奏、提示部、展開部、再現部、第二展開部、コーダ、という順だが、研究者によれば、これらは各部の「四分音符の拍数」を「三十六の倍数」で整える、という「数の原理」による構成が見られる、ということになるらしい。(バルトークなどにも見られる「小節数」とかでない所が実に解りづらいが、スクリャービンのこれは、どうやら「ギリシャ起源」ということになるらしく、「三十六」はプラトン、「五」部構成はピュタゴラスに因る、ということで、そもそもが「思想的な問題」であるらしい。各部の長さは、それぞれの対比で「一、六、四、十六、三」というバランスであるが、これ自体にどのような「意味」があるのかどうかは解らない。)
はっきりしていることは、これらの「方策」が聴き手に「感じ取れるレヴェル」を完全に超えており(テンポの変動、ルバートなどを考え合わせるまでもなく)、バルトーク流の「黄金分割」でも「どこまで期待出来るか」解らない「心理的効果」、もしくは「そうしなかった場合の影響」を検討し得る「許容範囲」をすら逸脱している、ということである。
これは、スクリャービン自身にとっては確かに「重要な事柄」かも知れず、それはそれなりの「ヒント」を与えてもくれるが(もしかすると彼自身の「テキスト」自体よりは、結果的に「直接に実際の形として反映している」分だけ、「効果的」かも知れない)、もっと興味を引くのは、この「多主題によるソナタ形式の音楽」は、それぞれの「モティーフ」に、作曲者による「はっきりとした定義」が(それもかなり「事細かな」)必ず「あったはず」に違い無いにも関わらず、結局それらはブロック構造のうちに「階層的に」組み上げられ、積み重ねられ、確かに「ソナタ的に」仕上げられた結果、作曲者が張り巡らしたつもりの「連関」とはおそらく異なる「純音楽的なもの」が図らずも「獲得」されていることである。
例の有名な「神秘和音」を筆頭に、モティーフ群は「派生関係」にあり、音楽は何がしかの「物語性」を帯びる、というよりは、結局「自律的に発展する」ほか無くなっているのである。(以降、次回。)
タグ:音楽
posted by alban at 21:54| Comment(0) | TrackBack(0) | 音楽 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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