2009年05月30日

音楽の「言語性」とは?(163)

今まで幾度となく「その出来具合」に閉口させられつつ、結局は最後までお付き合いするはめになった「ショスタコービチの交響曲」にも、今回の「第15番」の第4楽章で「お別れ」、ということになる訳だが、そんな具合に「最後の最後」だと思って待ち構えればなおのこと、この「最終楽章」の開始部は、聴き手に大きな驚きを与えることになろう。
ショスタコービチが、これが「最後の交響曲」の「最後の楽章」であることを意識していたことは、まず間違い無いことと思われるが、それだけに、この「確信犯」そのものの「ヴァーグナーの引用」(誰が聴いても明らかな「ニーベルングの指輪」の「運命の動機」の「そっくりそのままの引用」)は、聴き手を当惑させ、疑念すら抱かせる。(これを最初聴いた時は、レコード会社が「編集間違い」を犯したか、と思った位である。しばらく聴いていれば、それが誤解であることは解るが。)
これは何度聴いても「そのように感じさせる」という点では、まさに「効果抜群」であるが、その「引用の意図」自体は解り易いものであるにせよ、いかにも「やり過ぎ」の感があり(第1楽章の「ウィリアム・テル」同様に)、この「序奏部」に続いて現れる「第一主題」の冒頭が「トリスタン」の開始部の「引用」であり、それに接続されるのが、「グリンカの歌曲の引用」とあっては、「オリジナリティ」としては「スカスカもいい所」であって、この期に及んでも、この作曲家の「本来そんなに高くない音楽的モラル」が、ご本人も重々承知の上での「全開」か、とすら思わせる。
(もっとも、「運命の動機」については、この後も「付きまとうように」ポイントごとに繰り返し現れ、単なる「引用」というよりは音楽の「主要素」として機能しているのだが。)
第一主題部自体も、何故か、ピッツィカートを伴奏にした長調の性格が強い「セレナーデ調」であり、その流れを遮る「運命の動機」はあるにせよ、思いのほか「軽い足取り」が続き、これも聴き手を惑わせる。もっとも、この後、小唄のような木管のエピソードを交えて引き延ばされる第一主題部の作り方は「いつもの感触」であり、スタッカートの金管の合図で流れ出す第二主題部でも、それは変わらない。もっともこの「第二主題」は第一主題の変奏に過ぎず、対照性を殆ど持たないので、それだけに、八分の六拍子のエピソード部を経てから現れる、中間部の重々しい三拍子による「パッサカリア」が実質的にこの楽章の「中心」として機能するのを効果的にしている、とも言えよう。
この「パッサカリア」については「運命の動機」をはじめとする「他人の作品の引用」は自粛され、彼が「シリアスな時」に見せる身振りが顕著であるが(もっとも、五度上行、四度下降からなるパッサカリア主題は、何故かハイドン最後の交響曲「第104番」の冒頭部に酷似しており、これを「引用」と見なす向きもある。確かにそうかもしれぬ。)ここにおけるサラバンドのリズムは、例の「第7」の第4楽章フィナーレにおける、形式的には似通った部分で用いられたものと共通であり、パッサカリア自体も「第8」の、こちらはフィナーレの前に配置された第4楽章の進行に良く似ている。
クライマックス自体も、「第8」や「第10」のエコーをたっぷりと含んでおり、この中間部については、確かに「御期待に添った」出来具合と呼んで良いものの、そのあと第二主題から戻ってくる方法も「第8」そっくりであり、ここまで来ると、意識の上での類似の可能性もある。
しかし、「運命の動機」が繰り返されて以降の主部の復帰は、まるで「薄気味悪い影」のようだった「第8」とは異なり、ここでは、何故か、当初よりも安定して落ち着いた「セレナーデ調」となっており、主題の開始部の一回を最後に「運命の動機」も消え、音楽は、ついに「トリスタン」冒頭の三音と五度下降を接続したものに収束してゆく。すると第2楽章に現れた「他の世界からの響きを示す和音」が音楽を中断するようになり、位相が変わり、「感情性の除去」が始まることになるのである。(この部分にはパッサカリアの回顧も挟まれるが、今度はこちらが「影のような」ものとなり、「他の世界からの響き」に、まるで否定されるかのように、打ち消される。)
チェレスタの第1楽章冒頭の動機の変奏を合図に(これはピッコロでも繰り返され、その出自を明らかにすることになるが、いずれにせよ、登場時のコミカルな性格付けは除かれ、「単なる一要素」として機能している)イ長調の主和音が弦に現れて延々と伸ばされ(これも「第8」の終結部、それから=こちらは短調だが=「第4」の終結部を思い出させるが、それらとは異なり、感情的な「残滓のようなもの」は、もう持っていない。)、打楽器が、まるで昆虫や植物の出す物音のように響き始める。(これも「第4」の第2楽章の終結部の「引用」と言われるが、むしろ「チェロ協奏曲第2番」の終結部の方に、より近い。しかし、これもやはり「残滓の無い響き」に変化している。)
こうして、音楽は「人間的な感触」というよりは、前述したように、太古の地球の「物音」のような、「現象」のような響きをたて始め、最後の最後での、パッサカリア主題や「第10」の終結部の「引用」も、「本来の意味」から切り離された、「物質的なもの」として機能することになる。
このような「終結」は、おそらくは「第14」の、息詰まるニヒリズムの後で「初めて可能だったもの」なのだろうが、ともかくも、この「透明な結び」は、質的にも文字通り「波瀾万丈」だった彼の「交響曲」の、他の誰にも似ていない「締めくくり」をすることになった。
この「第15番」自体への論議は尽きることは無かろうが、このコーダがこの曲の価値を高めているのは確かであり、他には誰も「このような終結」を持つ「最後の交響曲」を書かなかった。
彼は、ここで「凱歌」にも「悲劇性」にも堕しなかったが、それは彼が晩年の三つの交響曲で強くこだわったであろう点であったろう。それは「諦念」、「ニヒリズム」の次には「現象としての音楽」として表出された。ショスタコービチは、この後三年以上生きたが、もう大規模な作品を書かず、室内楽と歌曲という、個人的な内容の作品のみを、幾つか書いた。(以降、次回。)
タグ:音楽
posted by alban at 20:34| Comment(1) | TrackBack(0) | 音楽 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
ようやく、ショスタコービチを終えることが出来ました。前のプロフィエフあたりから、「特に興味を引かれる作品を取り上げる」よりは「全集主義」みたいになってしまい、丁度メモリアル・イヤーにぶつかったこともあり、とうとう全部「お付き合い」するはめになってしまい、正直、かなりつらいものがありました。更新ペースが鈍ったのにも、これは多少影響があったと思います。(「つらい理由」については、ご覧になっていた方には良くお分かりかと思います。)
次は「ロシアもの」でなくて別の、それも「メモリアル・イヤー」のハイドンをやりたくて仕方が無いのですが(それこそ何年かかるかわからないですが)、「どうしても避けて通れない」一人が残っています。
作品の質も幅も在り、スタイルも多様なあの人が。
さて、どうしよう。
これからは気分に応じて、二つのテーマでやろうか、とも思案中です。
Posted by alban at 2009年05月30日 20:47
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント:

この記事へのトラックバックURL
http://blog.seesaa.jp/tb/120507391

この記事へのトラックバック
×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。