2006年01月14日

音楽の「言語性」とは?(42)

「戦争レクイエム(WAR REQUIEM)」は、凡そブリテンの最高の作品というだけでなく=今ではむしろ「古典」とでも言うべきものですらあるが=いわゆる「現代音楽」としては異例なほどに(その大規模かつ特殊な編成とそれに伴う演奏の困難、あまりにも「重い」テーマ性を持つにもかかわらず)「演奏され」、また(とりわけ例外的なことに)「繰り返し聴かれて」もきた、まことに「稀な」音楽である。むしろ、ただ「音楽」というよりも、作品が「演奏されること」そのものが、一種の「厳粛な」、「儀式」そのものにもなり得る性格をも持つ、という点において、バッハの「マタイ受難曲」を始めとするいくつかの宗教作品や、言うにも及ばぬベートーヴェンの「第9」、マーラーの「第2」や「第8」といった作品(つまりは「合唱」=公衆としての声=を伴う音楽であって、しかも何がしかの大きな「世界」を反映したものであり、規模も内容も「高み」をてらい無く目指そうとしたようなもの、とでもいうことになろうか。)などと並んで、演奏者にも聴き手にも最高度の「誠実」と「集中」を要求するような、音楽史上でもメルクマールの一つと呼ぶべきものであろう。
後述するが=この作品の場合には、「レクイエム」としての通常の「典礼文」のほか、戦争詩を用いることで極めてリアルな具体的、心理的「描写」を得てもおり、ある「絶対に風化し得ないもの」(それは「癒えない傷」のことであるかもしれないが)をも含んでいるようにも感じられる。
この、いわばベルリオーズ=マーラー的な作品は(「オペラ作曲家の書いたレクイエム」であるせいか、とりわけ「怒りの日」がいくぶん類似しているせいかヴェルディの「レクイエム」が引き合いに出されることがあるようだが、「空間性」を持った道具立てや「理念的なもの」が「実際的なもの」を明らかに上回っているスタンスからは、むしろこの二人との類似、もしくは影響=マーラーは「レクイエム」自体は書かなかったが、まさに「それに類するような物」はしばしば作曲したことは周知の通りである=が感じられる。)
その「道具立て」であるが、「典礼文」は合唱もしくは少年合唱かソプラノ独唱に(大オーケストラを伴う)、「戦争詩」は(第一次大戦で戦死した英国の詩人ウィルフレッド・オーウェンによる)、「兵士」たる=テノールとバリトンの独唱にゆだねられ(別個に編成された室内オーケストラと組み合わされる)、これによって「群」と「個」、「天」(特に少年合唱)と「地」といったパースペクティヴが生じ「空間化」が図られる。これらの「位相」が様々に交叉しあって全体は進むのであり、結局のところ「形式」もここから「発生」していると見るべきであろう。そのバランスの調整は主に「戦争詩」にその役割の多くがゆだねられており、その「出現」の仕方と「典礼文」との関わり方がその「核心」を為している。
つまり「状況」の説明が行われ、それに対して「コメント」が付され、また冷たく「傍観」されもし、時には背景から「浮かび上がり」、「天から声が聴こえ」、多くは「同意され」、「嘆かれ」、「祈られる」。これらは実に変化に富んだ多様な形で行われ、本質的には「宗教的」であるよりは「劇的な」効果をもたらす。とはいえこれらはブリテン流に「抑制」されてもおり、いかなる時も作曲家の「客観的な」態度は失われない。(このためにこそ作品の「モラリティ」が保証されるのである。)全曲の開始(第一曲「Requiem aeternam」)からその傾向は明白であり、全曲の基調をなす音程c-fis(かつて「悪魔の音程」と呼ばれた三全音でもあり、短調とも長調ともつかない、また「完結しない音程」として「両義性」を持つ。)が同時に鐘(明らかに「弔鐘」であろう。)で鳴らされるのだが、入って来る合唱は決して「歌わず」、同じ音程で「つぶやく」のみである。
(それは硬直したかのように不規則に、ばらばらに語られる。)合唱は第一曲全体を通してこれに「縛り付けられて」おり、やがていくらか「唱和」して声高になろうとも、それは変わらないのである。
これに対して、ユニゾンの弦が旋律的モティーフを奏するが(明らかにニ短調の性格で始まる)、器楽的レチタティーヴォでもあるこれは本来的には「歌唱旋律」となるべきものであり、ここでは関係の「逆転」が行われることでむしろ「感情移入」を防ぎ、「客観的」、「暗示的」性格を強める措置がとられている、と見るべきである。「来るべきもの」がここではまだ「来ない」こと、即ち、「語られるべきこと」が待ち望まれていることへの「暗示」である。
この弦による「旋律」は様々な動きと抑揚を持っているが、基本的になるリズム形と音程などは、ベートーヴェン「第9」の冒頭主題(及びその影響下にある=リズムは完全に一致する=ブルックナー「第8」の冒頭主題、断片的に、しかし結果的に長く続く「構造」そのものはマーラー「第2」の冒頭に類似する。)の「反映」であることは明らかなように思われる。これは作品の「性格」が同様な「指向」を持つことへ「連想」を誘うための「暗示」でもあり、ある意味「第9」の世界をいくぶんか「引用」している、と言っても良い。
さて、これらの経過が次第に音量を増しつつ「飽和点」に達すると、この作品のもう一つの重要な「位相」であるヘ長調が(fis音は明らかに嬰ヘ短調に結びつけられているが、c音はハ長調でなくヘ長調に関係付けられているのである。)「te decet hymnus」以降の「典礼文」による少年合唱に現れるが=c-fisは弱音でヴァイオリンで交互に現れる=しかしこれは「遠くから」(おそらくは「天から」)響くように終止弱音で「聴こえて来る」。これは反行形と交互に歌い交わされるが、結局のところあまり「調性的」でなく、冒頭からの「不安感」を消し去る力は=もとより「漂って来る」だけである以上=持っていない。案の定、これはc-fis音を繰り返す動きにここでも変わってしまい、そのため再び合唱を「呼び戻してしまう」のである。その合唱はまた弱音の「つぶやき」に戻っており、おののくように黙り込むのであるが、ここでついに室内オーケストラとテノール独唱に「位相」が移り、「来るべき」こと、「語られるべきこと」が述べられる。(ここでもc-fisの響きはハープに現われ、消えることがない。)しかしこれも「感情を込める」ような筋合いのものでなく、イロニーに満ちたトーンで戦場の「実際」を晒すものであるが(オーウェンの詞については本当の所全て引用したい位だが、適宜参照されたい)=無論、戦いのラッパの響きにも欠けていない=独唱の後半では先ほどの少年合唱の旋律が引用され、これによって「天」との(「宗教的」とは言えまいが)結びつきが示される。これを契機にc-fisの音程が旋律的に変形されてさきの「歌い交わし」を再現し、最後に拡大形で少年合唱の出だしを「確認」して独唱が締めくくられると再び鐘が鳴らされ、不意に合唱が=今度は無伴奏で=「Kyrie eleison,Christe eleison 」と弱音でただ一度だけ「歌う」。フレーズの区切りごとに鐘を伴うこの「祈り」は、しかしc-fisの音程の敷衍でもあり、嬰ヘ短調として解釈されるが=つまり第三音は「a」である=短三度の音階をfis音を中心に行き来する動きであるが、常にc-fisで始まり「そこに戻る」。いくつかのクレッシェンドを伴うがそれは「平静であろうと」努めてもおり、またc-fis音程のために常に「不安に満ちて」もいる。
この「祈り」は二度目の「eleison」で終止するのだが、普通ならais=嬰イ音をとるべき最上音は、しかしそのままa音のままであり、その代わりに=fisがf音に滑り込み、終止音は周到に準備されてきたヘ長調の和音へと落ち着くのである。この魔術的な解決の「効果」はしかし完全に「終止形」の印象は与えず(短調の響きが「余韻として」残るだけでなく、無伴奏合唱の使用自体が示す「意味」が、この位置にあることによって強調される。)、またそれゆえに、この最後の音はずっと聴き手の胸に鳴り続けるようにも感じられる。この第一曲は、以上のように「戦争レクイエム」の序章として「三つの側面」を提示して簡潔に、暗示的に閉じられる。こうして舞台は音楽的にも、意味的にも曲の「中心」である第二曲「Dies irae」へと移る。そこでは「妙なるラッパ」は進軍の響きとなり、「怒り」は銃弾や爆弾となって降り注ぐのである。そして兵士は身を晒し、群衆は嘆き、祈る。(以降、次回。)
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