2009年03月28日

音楽の「言語性」とは?(161)

今後、いかなる時代になろうと、誰もが諸手を挙げて「傑作」呼ばわりするようなことにはならないであろうと思われるショスタコービチの「交響曲第15番」だが、既に述べたように、それは両端楽章が、どうも意図的に「そうならないように」作られているらしいからであって、中間の第2、第3楽章に(特に効果的な措置とも思えないが、アタッカで繋げられている。「内容上の必要性」というよりは、彼としては例えば「第8」でやったように、マーラー的な、楽章単位よりもさらに大きい「部」で区切る方法を想定したのであろう。)ついては、彼の「いつもの語り口」が聴かれる「問題の少ないもの」として受け取られるような出来具合にはなっている。(この「いつもの語り口」自体が、彼の場合、実に「問題」なのは、たびたび申し上げたとおりではあるが。)
第2楽章に比べて第3楽章がどう見ても三分の一以下の長さ、というのも「第10」の時の「短すぎた」という反省の弁が(あの時は第2楽章だったが)何の役にも立たなかったかと思わせるが、ともあれ、第2楽章の方は、彼の「晩年の世界」を尊ぶ人々にとっては納得の行くものではあろう。
開始の金管の狭い音程をすべる「コラール」と、続くチェロのソロによる跳躍音程の多い「モノローグ」との交替、という図式は、「第9番」の、独立させるには妥当でない第4楽章にそっくりであり、その情調は、前作「第14番」の第4楽章や、感傷的な第9楽章を思い出させる。
この部分は不定形に変形され、繰り返され、長々と引き延ばされて楽章の前半部となるが、中間部となると、今度は「第11」の葬送行進曲と「第6」の第1楽章の終結部の音調が絡められ、やがてトロンボーンで現れる「晩年の歌曲からの引用とされるもの」(これは「本当にそうであるかどうか」は例によって解らない。)が、「第8」とか「第10」の冒頭楽章の「クライマックスの作り方」で盛り上げられることで、これが結局の所、内容としては「いつもの第1楽章」の代替品であることが明らかになるのだが、「またかよ」という以上に積み重ねられる「自作のエコー」については、彼がここで「回想」をやっているとしか思えないもので、それは殆ど「コラージュ化」してしまっているために、実際にこの音楽が「シリアスな代物」なのかどうか、疑念を生じるほどである。
しかし、わずかだが「新しいもの」は存在する。ここでは何故か、「座標」を示すような、「他の世界からの響き」が時折侵入し、音楽をその都度静止させる。それは木管の高い和音と金管の低い和音が、前後の脈略無く対置される、ごく短いフレーズであるが、クライマックスを出し抜けに「召喚する」のが、まさにこの「和音」であるのは偶然ではなく、何か「意識外のもの」、もしくは「自然界の音」のような、不変、且つ変更不能な「何ものか」を示している。
これはマーラーではお馴染みの「異化効果」であるが、ここではむしろベルリオーズの「レクイエム」に出てくる、木管とトロンボーンの、上層と低層だけで鳴らされる、有名な「驚くべき和音」の効果を思い出させる。
そして、この「空間的な和音」は、フィナーレでも何度か現れ、今度は、全曲のコーダをも「召喚する」役割を担うのである。(以降、次回。)
posted by alban at 19:04| Comment(0) | TrackBack(0) | 音楽 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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