2009年03月07日

音楽の「言語性」とは?(160)

グロッケンシュピール・ソロの二打ちと、何やら機械的な動きのフルート・ソロに始まる、ショスタコービチ最後の交響曲「第15番」は、彼がしばしば「拠り所」とした「マーラーの作品」をまたも思い出させる。それはここでは、もう冒頭から「第4」の、例の「お伽の鈴」とフルートによる開始を「なぞっている」ように見えるのだが、マーラーではそれが「導入部」もしくは「前奏」なのであるのに対し、ショスタコービチのこれは「まさに第一主題そのもの」であり、伴奏の弦共々、時折鳴らされるグロッケンシュピールの「合いの手」もそこそこに、薄いオーケストレーションのまま、不定形に引き延ばされ、延々と続く。これは、良く引き合いに出されるように、彼自身の「チェロ協奏曲第1番」の冒頭に酷似しているが、また同時に「交響曲第8番」第2楽章のトリオ部のピッコロ・ソロによる「わざと不出来に書いた」としか思えないような「調子外れ」の音楽と書法も内容も「ほぼ同一」でもあるのだが、その「第8」の当該部分と同じように、ソロがファゴットに変わっても、木管の音色が増えても、一向に威勢のあがる気配の無い音楽は、これが皆が期待するような「大音楽」ではないことを執拗なまでに強調して止まない。
いつもの「深刻ぶり」のかけらも無いこの「軽さ」は、しかし、彼の「第6」のフィナーレや、「第9」の第1楽章や第5楽章でもお馴染みのものでもあるが、ことに「第9」の「人を喰った」それとの類似は明らかであり、トランペットによる、「音色以外には全く対照性の無い」第二主題や、それに続く、「お決まりのリズムと音形」の「出自」を明らかにするべく現れる「ウィリアムテル序曲」の「行進曲」の(それも実に「何度も何度も」現れる!)「そっくりそのままの引用」とあっては、表向きは古典ぶった「第9」のそれよりも「気分を害する」向きも少なく無かろう。
こうなると、後に現れる「第2交響曲」を思い出させるクロス・リズムや、十二音ぶった「複雑な書法」も(実際には「こうした部分」に、「相当に力が割かれて」いる)「実効性のほど」は怪しく、確かにソナタ形式の枠を守っているとは言うものの、全体としては「興に任せて好き放題にやっている」ようにしか聴こえなくなってくるのだが、この「無意味な主要主題」と「露骨な引用」と「頭で書いた複雑な書法」が「メドレーのように並べられた音楽」は無論のこと「確信犯」なのであって、この「感傷無しに回顧的な音楽を書く試み」が成功であったかどうかはともかく、彼は「この後で何をやっても良い免罪符」を手にしたことになり、実際、この後の音楽も「そのように書かれた」のだ。(以降、次回。)
ラベル:音楽
posted by alban at 19:55| Comment(1) | TrackBack(0) | 音楽 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
年末年始の多忙の後に、「ものの見事に体調を崩して」長引かせてしまい、再開が遅れてしまいましたが、「遅々とした歩み」ながらも続けていく積もりでおりますので、ご覧になられている方々、どうか気長にお付き合いください。
Posted by alban at 2009年03月07日 20:00
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