2006年01月07日

音楽の「言語性」とは?(41)

このところ、ずっと英国の音楽について考えてきたが、ここでベンジャミン・ブリテンを避けることはやはりどうしても「許されない相談」であろう。音楽家としてはレナード・バーンスタインと並んで多才を誇ったこの人は、指揮者、ピアニストとしても多くの録音を残し(特に「自作自演」は文字通りの「模範的名演奏」で、これもバーンスタイン同様であろう。)、ホールやフェスティヴァルの創設といったことまでやってのけたのだからその能力に舌を巻くが、将来にわたっては、まずやはり「作曲家」として記憶されるべき存在であるのは間違いないところであろう。(とはいえ、一般に知られているのは例の「青少年のための管弦楽入門」や「シンプル・シンフォニー」、「4つの海の間奏曲」といった程度の、数の限られた比較的初期のオーケストラ作品に限られるところではあろう。)
さて、その「作曲家」としてもマルチ・ジャンルではあったが、それほどには「多い」わけでもない「粒よりの作品群」の中でもとりわけ素晴らしいのはオペラを始めとする「声楽」入りの分野であるのは異論のないところであろう。「イリュミナシオン」や「セレナーデ」といった独唱と弦楽オーケストラ(後者は独奏ホルン入り=確かデニス・ブレインを想定していたはずだが。)のための傑作もあるが、フル・スケールのオペラだけでもたぶん十作、一幕物(日本の能に基づく「カーリュー・リヴァー」のような重要作も含まれる。)や少年向けの作品を入れれば十五を超える歌劇では、やはり出世作の「ピーター・グライムズ」が(さきの「4つの海の間奏曲」はここからの管弦楽部分の抜粋である)ポピュラーでもあり、実際極めて良く出来ており親しみ易い。(と言っても愉快な内容ではないが=良く指摘されるようにここではベルクの「ヴォツェック」の様々な影響=最後には水に沈む「愚かな」主人公とかの「仕立て」を初めとして、音楽的にも冒頭の裁判シーンとベルクの冒頭シーンの類似、「酒場」のシーンや民謡風を装う「歌曲の導入」、管弦楽の比重の大きさ、「純音楽的形式の応用」など=が見られるがそれらが見事に「消化」されていて、この作品の「ユニヴァーサルな人気」に結びついている。)
他の作品にも素晴らしいものはあるが、これらが英国以外では、あまり「お目にかかる」機会が無いのは作曲家自身の「様式」、「語法」の完全な「確立」が、そのような外的な(パターン化を帯びた)「解り易さ」から「やや遠ざかった」ことや、後述するが演奏媒体の「道具立て」の点で、独特な、地味な「受けない」要素が(晩年に近づくほど)高まる傾向にあったことが考えられるが(これは彼があまりに「高名」になったために、存命中、望む限りのどんな「実験」も可能になったことと不可分でない。言い換えれば、「ブリテンの新作」ならば、なんでも「演奏され」、少なくとも英国では「受けた」のである。これが本当に「良いこと」だったのかどうか、どうも疑問であるが。)、とは言え、これだけの数のオペラを見事にきっちりと「書き分ける」ことが出来た点では「ワーグナー並み」とも言える。(R.シュトラウスもたいしたものだが、「定説」通り、彼は「アリアドネ」を最後に「自己模倣」を繰り返した、と見ねばなるまい。正確に言うなら「ホフマンスタールの死後は」とでもするべきだろうか。)
ともかく、いわゆる「機会音楽」のようなものもいくらかあるにせよ=「タイトル以外では個々の区別がつかない」ような作品は残しておらず、また主要なものでは作品のテーマ自体に「普遍性」が見られることが多い。ただ、ワーグナーが「女性的なものによる救済」に行き着くことが多かったのとは対照的に=「そのような要素」やラヴ・ストーリーのようなものは意識的に避けられており(「疎外された人物」が主人公であることが多い。)、テノール歌手ピーター・ピアーズとの長年にわたる有名な「実りある協力関係」を始めとして(このためにブリテンの歌劇の「主人公」は、かなり多くがテノールの役となっており=声楽曲も「テノール用」が多い=なかには「そぐわないのではないか」というケースも無くもない。大体「ピーター・グライムズ」自体が、「これはバリトンの役ではないか」という気がするのだが。もっとも、それだとますます「ヴォツェック」めいてしまうが。)男声や少年の声の多用(声楽曲でも同様である。)、晩年の一連の「教会オペラ」や最後の「ヴェニスに死す」などに見られる「女声無し」の編成などは、そもそもは彼の「性癖」に起因するものではあろうが、それらの「モノ・トーンな」音色からは、専ら「心理表現」に集中する「様式」と、それに伴って大規模な「劇場性」からは離れる傾向が生まれ(そのためか、彼は早くから小規模編成による「室内オペラ」に取り組んだ。もっともこれは「上演され易さ」という理由も当初はあったようだが。)、音楽的には「密度」も「表現力」も増す一方で、聴き手にとっては「晦渋さ」と見える要素が確かに増していった感もある。オペラのみならず、他のジャンルでも比較的初期の作品が「歓迎され易い」のには、「調性的な語り口」の多さ以外にも、このへんの聴き手にとっていささか「慣れ」と「努力」が必要な要素が少ない点が作用してもいよう。(それに彼自身が=親交を結んでいたショスタコービチ同様に=どうも「若い頃が本当に素晴らしかった類の」作曲家に属していたような気もするのだが。この二人の場合さらに「共通している」のは、「長期にわたって徐々に生命力を奪っていく病気」の影響である。これが「作風」に影響しないわけもない。「友情」は、そんなところにも由縁を求められよう。)いずれ、彼のオペラについても詳しく取り上げようとは思っているが、それには少し時間がかかりそうである。
ところで、声楽曲の分野(合唱曲も多い。)では実に「豊かな」ブリテンであるが(劇音楽、他の英国の作曲家同様に映画音楽も相当数あるようである。)、器楽曲はそれらと比べると、いささか数において見劣りがするものの、比較的初期のものが多いためか「レパートリー」には残っているものが多いようである。(というか、「知られたもの」がこれらであるためにイメージとしては「ブリテンの作品」として「管弦楽曲」は「まず来るもの」なのだが、これが意外なほど少ないうえ、比較的「軽い」、または「機会的な」ものが実は大半なのである。協奏曲、室内楽となるともっと数が減り、ピアノ曲では我々が「知っていそうなもの」は=本人が名ピアニストであったにもかかわらず=どうも「全く無い」ようである。)
日本との「曰く付き」の「シンフォニア・ダ・レクィエム」、近年わりに聴かれる「ピアノ協奏曲」、「ヴァイオリン協奏曲」なども「どちらかといえば異形」であるし、室内楽では珍しく三つある弦楽四重奏曲も、さすがの出来映えではあるが「作り」としては同様で、ヴィオラとピアノのための「ラクリメ」あたりが時たま「しんみりと」演奏されるほかは何か芳しくない感もあり(ロストロポーヴィチのためのいくつかの作品も悪くないが「本人」以外の演奏ではどうも感心しないことも多い。)、どうもブリテンの作品としては「傍系」であるし、少なくとも私にとっては前回まで取り上げていたウォルトンよりは、これらは面白くない。どうも(技術的には申し分なくとも)「結果としての音楽」と「作曲家の本来の意図」が齟齬をきたしているようなものが多いような気がするのである。この人は徹頭徹尾、何がしかの「テキスト」か外的「プログラム」を欲していて、(ベルリオーズがそうだったように。)「純器楽」をやろうとすると、どうにも「居心地が良くない」か、もしくは「異形」(勿論ベルリオーズほどではなく、突飛な結果も生まないが。)になってしまうのではないか、という印象である。
そうして私もまた、ブリテンの「最高の作品」としては、あの「戦争レクイエム」を挙げることになるのである。(以降、次回。)
タグ:音楽
posted by alban at 22:08| Comment(0) | TrackBack(1) | 音楽 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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