2008年12月20日

音楽の「言語性」とは?(159)

ショスタコービチの晩年の作品に、いとも稀なる「深遠な世界」が存在する、と信ずる(私としては「余りそういう筋合いの代物とは言えない」と考えるのは度々述べている通りだが)人々にとって「いささか都合の悪い作品」に違いないのが「交響曲第15番」であろう。
何せ=当否はともかくも=「シンフォニストとして名高い」この作曲家の、こともあろうに「最後の交響曲」であり、大規模なオーケストラ作品としても「最後のもの」となるこの作品は、「それらの事実から期待される姿」、即ち、ベートーヴェンやマーラーの「最も偉大な例」はもとより、ブルックナー、チャイコフスキーらが書いた「それにふさわしい」作品(一部「未完の作品」があるにせよ)、ハイドン、モーツァルト、シューベルト、ブラームス、ドヴォルザーク、プロコフィエフ、ヴォーン・ウィリアムズなどに見られる「結果としての見事な締めくくり」と比べると、明らかに「留保したくなる」要素がある。(それが「確信犯的」であるにせよ。)
とりわけ、「交響曲として肝心の」最初と最後の楽章に顕著な、「解り易い」どころか「そっくりそのまま」と言って良い形を含む「他の作曲家の作品の引用」(それも、「構成上極めて目立つ個所」に置かれているのである)は、多くの聴き手を当惑させるが、彼が「その作品において様々な引用を駆使すること」によって「暗号を埋め込んだ」と思いたがる(これについても「ほぼそういう話ではない」と何度も述べているが)人々にとっても、「実に居心地の悪い結果」なのである。
この露骨なまでの「明快さ」は、彼としては珍しいもので、つまりは「これが意図的であること」を示しているのだが(「たまたま同じ音楽を書いてしまった」のではなく、「明示されている」ので)この「自他の様々な引用をコラージュしたような音楽」は、彼の周辺者によって「自伝的」ともされ、彼なりの「最後の交響曲」として書かれたものであることには違いなかろう。
この操作のために、前作「第14番」などとは違い、この曲には「映像的性質」が与えられることになるのだが、実に出来の良くない「第7」「第11」「第12」といった、他の「映像的な性格の交響曲」(もっともこれらは胡散臭い「政治的意図」が作用しての結果なのだろうが)とは根本的に異なり、様々な要素が「それなりにフィルタリングされた」上での「フラッシュバック効果」が現れ、万華鏡のように「彼自身にまつわる過去」を、「極めて客観的に」映し出す。
このように、「異例なこと」が行われたため、まるで萩原朔太郎の「死なない蛸」のような、例の蛸壺じみた「弦楽四重奏曲の類」と比べて、はるかに「開放的」な性質が音楽に与えられることとなり、全曲の最後における、人間の介在しない太古の地球の「物音」のような「音楽」というよりは「現象」のような結びに至るまで、独特の透明感を持った音楽が生み出されることとなった。
「第14番」を書いてしまった彼が、それでもなお書きたがった「交響曲」は、「彼自身」というよりは「自動筆記」のようにして書かれ、思いもしなかった場所へ、我々を誘う。(以降、次回。)

ラベル:音楽
posted by alban at 23:27| Comment(0) | TrackBack(0) | 音楽 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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