2008年11月29日

音楽の「言語性」とは?(158)

二つばかり「余剰」もしくは「蛇足」とも思える楽章を連ねた後、ショスタコービチの「交響曲第14番」は、作曲者が当初から「結末」として考えていたであろう、二つの楽章に辿り着く。
第10楽章「詩人の死」と第11楽章「結び」は、ともに、ここで初めて用いられるリルケの詩に基づいており、動機的にも密接に結びつけられ(とは言っても既出素材の度重なる使用ではあるが)、第10楽章は冒頭楽章の「回顧」であり、最終の第11楽章は丁度、第10楽章と全曲に対して、テキスト上、音楽上での文字通りの「コーダ」を為している上、二つの声が「重唱」の形で用いられる、最初で最後の機会でもあるのだが、これらの操作によって、二つの楽章は連携した上で強固な「締めくくり」を演じることになる。
第10楽章では、全曲を開始したモティーフが、同様に単声でヴァイオリンに現れるが、冒頭楽章ではバス独唱が歌った音楽を、ここではソプラノ独唱が引き継ぐせいもあってか、一オクターヴ上げられ、続く独唱も(テキストのため付加が生じてはいるが)第1楽章のそれとほぼ同一の動きを半音高く(正確にはプラス二オクターヴだが)歌い、冒頭の暗さとは異なる、「影」のような、空虚な「希薄感」を漂わせる。
続いて現れる弦の和声的なモティーフも、主モティーフである「ドシドラ」音形に基づき、帰結感を高めるが、この後、第1楽章の終始続くピアノ乃至ピアニッシモの指示に対して、今度は二度のフォルテが設定され、その一度目には第3楽章「ローレライ」で「異世界からの声」を示した楽器であるヴィヴラフォンが寄り添い(但しここでは同時に用いられていた「天上の響き」であるチェレスタは除かれている。)、この楽章の「実質上のクライマックス」を示している。
しかし、二度目のフォルテへの道行きには、もはや低音弦しか付き添わず、凍り付くような「和声モティーフ」を最後に、主モティーフを奏でながら音楽は解体していくが、第7楽章の「奇跡の間奏曲」の音色である、弦のピッツィカートとコル・レーニョ、前回と全く同じパターンを叩くウッド・ブロック(音色の強化のためカスタネットが重ねられる)が召喚され、「間奏曲」の皮肉な余韻を簡潔に響かせながら、重唱が前楽章の「和声モティーフ」をなぞり、最終楽章が始まる。
スタッカートからレガートへとクレッシェンドしながら、声は「死は全能」という文字通り「総括」のテキストを歌うが、短二度、四度、五度といった「お決まりの動き」を示しながらも、用いられた詩同様の「象徴的な短さ」によって、「特別のもの」足り得ているのだが、終始一貫する第7楽章と同一のリズム・パターンを強奏して終結、と思われた後、最後の最後で突然現れる、リズムを細分化しながらクレッシェンドする不協和音は聴き手を大いに驚かせる。
この、取って付けたような「トーンクラスター」は、その暴力的な響き自体「死」を表現しているとも採れようが、作品の「完全な終結」を拒否しているようでもあり、いずれにせよ、作曲家が「物議を醸すこと承知の上」で書き記したものであろうが、彼の作品でこのような終結をしているのがこの作品のみであることを考えると、効果の賛否はともかく、「意味」は認められてよかろう。
こうして、彼の「最高傑作」は閉じられるが、自らの死を意識していた彼自身、これを「最後」と思っていたことは確実だろう。
しかし、彼はなお生き、「最後の交響曲」は、さらに書かれることになる。
だが、既に「こうしたものが書かれてしまった」以上、もはや方法は「変則技」しか残されておらず、実際、彼は「そうしたもの」を書く事になった。(以降、次回。)

ラベル:音楽
posted by alban at 18:08| Comment(0) | TrackBack(0) | 音楽 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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