2008年11月08日

音楽の「言語性」とは?(157)

ショスタコービチの「交響曲第14番」に用いられた十一の詩だが、通常ならばそうする例が多いだろう「一人の詩人のテキストで統一がされている」訳では無く、適宜選んだ上で(これもマーラーの「第8」「大地の歌」などの先例が影響している訳だろうか)、第1、第2楽章にロルカ、第3楽章から第8楽章までを占めるアポリネール、最後の第10、第11の二楽章にはリルケ、という具合にシンメトリカルに配置されている。
こうして「非ロシア」詩人の言わば「ビッグ・ネーム」が並ぶ訳だが、わざわざこのバランスを崩して、第9楽章だけにロシアのキュヘルベケルという、「この曲に用いられたので知っている名前」が出てくる。
「おお、デルウィーク、デルウィーク」という題で察せられる通り、この詩は圧政の犠牲となって獄死した友人の名を連呼して始まるもので、付けられた音楽も「ビッグ・ネーム」相手ではやりにくかろう「嘆き節」ほぼ全開、という所で、ここまで回避してきたはずの「感情に溺れる」音楽を披露してしまうのである。
直前の第8楽章同様の「蛇足」が、ショスタコービチの思う所の「必要性」で強行されている、という訳だが、彼は、打楽器を何故か省略した前楽章の楽器編成から、さらにヴァイオリンを引っこ抜き(これは次の第10楽章における最初の楽章のリフレインをヴァイオリン単独の音色で再現する為の準備でもあるのだが)、ヴィオラ以下を分奏することで、バス独唱の「嘆き」を際立たせる手段を用いている。
これは、今までさんざん使われてきた「例の音の動き」を「感情たっぷりに聴かせる」効果を発揮するが、このような「直接性」は、基本的には「既定路線上」だった第8楽章と比べても、明らかに異質であり、曲全体から「浮いてしまっている」のである。(これが重々承知の上で「意図されたもの」かどうかは、彼の「前例」からしても相当怪しい。)
結局のところ、この楽章は、彼によく見られる冒頭楽章の「再現部前」や「フィナーレ直前」の例の「モノローグ」の「変形拡大版」であり、要するに彼は「どうしても、こういう事をやらなければ気が済まない」らしいのである。
こうして満足した彼は交響曲の最初の段階を呼び出すのだが、このタイミングが、それでも「遅きに失した」結果にならないのは、全曲の結末の簡潔さがそれを救っている。
但し、それはかなりの割合で、リルケのテキストのおかげ、なのであるが。(以降、次回。)
posted by alban at 20:23| Comment(1) | TrackBack(0) | 音楽 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
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Posted by @音三昧 at 2008年11月09日 02:26
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