2008年09月27日

音楽の「言語性」とは?(155)

ショスタコービチ「交響曲第14番」の最高潮は、前の第6楽章とこの第7楽章であろうが、そこでは、弦と打楽器のみに絞り込まれたオーケストラの音色をさらに絞り込み、音色間の対比をかえって浮き立たせる、という、彼の晩年に顕著になってくる、普段は貧相なことの多い「痩せた書法」が最大の効果を発揮したページであり、彼の書いた中でも「最も独創的な音楽」と言って良いものであろう。
部分部分をつぶさに見てゆくと、やはり「完璧」とは言い難くもあるのだが、それは、「テキストの流れ」と「音楽の要求する構造」に幾分食い違いがあるためで、「オペラティック」と言っても良い、極めて調的な性格の独唱部(歌の出だしから、しばらくは明らかに変ロ短調であり、音の運びも「例によって」短三度、短二度の連続、という具合である)それと対照される無調に傾く弦のトーン、さらに極めて優れた間奏部におけるピッツィカートとコル・レーニョ(ここでは四度音程を中心に書かれ、音色共々「虚ろな感じ」を強く表出させている)、一つのパターンしか叩かないウッド・ブロックによる、弱音域のみの「まばらな音」による象徴的な音楽の対比を、さらに統合(?)しようとした構成が、フィナーレの書法のように聴こえるのも、ショスタコービチが次の第8楽章とのセットで、前述の「四つの部分」の区切りを考えていたのと一致していないように思える。
とは言え、これは明らかに事実上この曲のクライマックスであり、作曲家自身それを意図していた事は確実であろう。
ことに、余りにも印象的な「間奏部」は、意外性とアクチュアリティが融合した「奇跡のページ」であり、彼の書いた最高のものであろうが、この圧倒的な箇所のために、続く低弦による感傷的な旋律(彼が晩年愛用した、いわゆる「月光ソナタの付点リズム」の反復を含む)以下の部分がいささか陳腐に感じられるのは致し方無い所であろうが、これは作曲家も「百も承知」で、間奏部の音楽も復帰し、歌と混ぜ合わせられる。
フォルテッシモはテヌートの四分音符の繰り返しでもたらされるが、結局この楽章をまとめるのは「間奏部」の力によってなのであり、まさにそのように閉じられている。
ショスタコービチの崩れがちな「バランス」は、ここでは馬脚をあらわすことは出来ない。
この楽章の存在が「第14番」の「傑作」たる所以であることは確実であろう。(以降、次回。)
ラベル:音楽
posted by alban at 19:52| Comment(0) | TrackBack(0) | 音楽 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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