2008年09月06日

音楽の「言語性」とは?(154)

ショスタコービチの「交響曲第14番」では、全部で十一という、いささか多すぎる楽章数のため、「引き締め」の手段として「時間的に短い楽章」を相当数、分散配置せざるを得なくなる訳だが、第2、第5、第8楽章のような急速なテンポによる「スケルツォ系」の音楽が「それ」に充てられているのは当然として、例外なのが第6楽章と最後の全曲の「コーダ」として付された第11楽章ということになるのだが、この二つの楽章にもそれぞれ「スケルツォ的性格」が与えられているのは偶然では無かろう。
「完全にシリアスな音楽」を短く書くのは別に不可能ではないが、この交響曲における、深刻この上無い題材による「シリアスさ」の代替物として、道化た、皮肉の強められた性格の音楽を「象徴的に用いる」のが極めて効果的なのは、「まさしくそのもの」である「スケルツォ系楽章」より、さらに屈折させられた第6、第11楽章が良く証明している。(この二つは「スケルツォ系楽章」よりもさらに短く書かれてもいるのである。)
この第6楽章は、次の第7楽章と並んでこの「交響曲」の最高のページに属すると思われるが、これはソプラノが連続して歌う最後の部分であると同時に(ここでは冒頭でバスが六小節ばかり歌うが)前の第5楽章とも連続させられており、その性格はテキストをあっさりと急ぎ足で通過した後、この短い楽章の文字通り「核心」を為す、「笑い」の表出力によって納得させられるであろう。
不安定な離れた音程で引きつって始まる「笑い」は、同音反復による麻痺したようなものから、短二度の「溜息音形」を経て当初の形に戻っていくが、それぞれ音高も表情も変化しており、ショスタコービチではあまりお目にかかれない「絶妙さ」で書かれ、前の楽章の「主役」でもあったシロフォンがこれに付き添うことで明らかに威力を増している。
このシロフォンの効果は前楽章での「効果」を完全に上回っており、トレモロでしか「ニュアンス」を表し難いこの楽器の「表情」を通常と何ら変わらない「使用法」で取り出してみせた見事な「例」で、バス独唱に与えられた次の最も長い第7楽章の間奏部のフガートにおける弦のコル・レーニョの効果と共に、音色と表現が完全に一体化した、ショスタコービチではおそらく「これ以上が無い」見事な出来映えである。(以降、次回。)

タグ:音楽
posted by alban at 19:48| Comment(0) | TrackBack(0) | 音楽 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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