2008年08月16日

音楽の「言語性」とは?(153)

ショスタコービチ「交響曲第14番」の中でも、彼の作品を知る者に最も「馴染みのある感じ」を与える第5楽章「用心して」は、第3楽章から第8楽章まで連続して用いられるアポリネールの詩による音楽の中で、第8楽章と共に、六つの楽章を二つに分ける最後の位置にそれぞれ置かれ、一つの「区切り」を与える役目を果たしている。
それは通常の「交響曲」における「スケルツォ楽章」のようにキャラクタライズされた、急速なテンポによる音楽であるが、さきの第2楽章と共に、彼が若い頃から常に得意としてきた、いわば「顔」とも言える部分を為している。通常なら「主たる部分」ではないこの種の音楽に重要な役目を負わせるのは、彼が「マーラーから受け継いだもの」の一つであるが、彼の方法はマーラーのように「重み」と「複雑さ」を与える方法は採らず、「俗な音楽」への嗜好を丸出しに、「皮肉で乾いた音楽」を書いてきたのは周知の通りであって、この楽章もその「お馴染みのショスタコービチ」である。
但し、彼はここで意識的に「十二音」を多用することで「ひねり」を入れており、冒頭の耳慣れた感じの行進曲調のシロフォンの旋律が「調的でありながら」五度、四度音程を中心にしながら短二度の「ずらし」を用いて「実は十二音である」という「工夫をする」ことで(このような「作り」は、明らかに「意識的なもの」で、ショスタコービチが珍しく「注意深く振る舞っている」ことを示す。)、少し後で出る、弦の三連符によるざわざわした音形共々、「十二音の使用」自体が、おそらくは悪意的に「パロディーの対象」とされていることを明らかにしている。
続くトムトムの、これまた彼好みのリズムや他の打楽器の用法は、どうしてもストラヴィンスキーの「兵士の物語」を思い出させずにはおかないが、ソプラノ独唱の使用が「その感じ」を和らげる。
しかしその独唱パートは、リフレインされるシロフォンを始めとする器楽部と比べると、どうも印象が薄く、短二度音程に固執する第1楽章以来の「例の動き」を繰り返し、「聴かせどころ」であるはずの、一度だけ現れる「アダージョ」の指示もさほど効果的ではない。
楽章開始当初の「鮮やかな印象」の薄まりは音量の増加によって補填されるが、最後に再び「兵士の物語」調が喚起され(「意図的でない」とすると「迂闊」と言う他無いのだが)、ショスタコービチが当初のテンションを持続出来ていない印象を与える。
この楽章が「短い」ことは当然で、同様のことは第8楽章でも繰り返される。(以降、次回。)
ラベル:音楽
posted by alban at 19:42| Comment(0) | TrackBack(0) | 音楽 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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