2008年07月26日

音楽の「言語性」とは?(152)

ショスタコービチ「交響曲第14番」の第4楽章は、この交響曲の、全部で十一ある楽章に「通常の交響曲」のような四つの区切りを想定していた、という彼の構想では、その第一部分、即ち「冒頭楽章のコーダ」を為す事になるのだが、確かに「そのような操作」は図られているようである。
冒頭と同様な極めて薄いテクスチュアや「基本動機」たる短三度モティーフの繰り返し、前楽章の終わりから続き、そのまま独唱に付き添い続けるチェロ独奏は(最後にはコントラバスの独奏と挿げ代わり薄気味悪いものとして残るのだが)、音色的な変化こそ与えられているものの、その「実質」は冒頭楽章の弦の用法と同様のものであり、まばらに鳴らされるチェレスタや、クライマックスでの変ロ音のチューブラ・ベルの使い方は前楽章のものと全く変わらず、という具合に「回帰性と連続性」への配慮は充分にされている。
「自殺」という題を持つアポリネールの詩については解説しないが(前楽章と同じ詩人である、といいうことも音楽上の類似性の担保になっているのであろう)、この楽章の子守唄のような緩やかな八分の六拍子と、冒頭の「シドシラシドシラ」という音形は、明らかに詩の「三本のゆり」というフレーズから発想されている。(詩はこの後「十字架の無い私の墓の上で」と続くのだが、しかし冒頭の旋律の音列、リズムは明らかに「十字架の形」を示しているが、意図的なものであろう。)
このような「楽章配置」と「材料」からは「新鮮味のある音楽」は期待できそうに無い訳だが、しかし、ありきたりの素材がかえって「象徴性」を生み出す、という事も可能である、という格好の例が結果的には実現しており、前楽章と同様に実際の書法や即興がかった構成は「最上」とは言えないものの、彼のヴェテラン作曲家の「腕の冴え」は、ここでは「シェーナ」として、「オペラ的なもの」として作用して、この楽章を印象を強いものとしている。
このような、ある意味では「ルーティーンな書法」が、アクチュアリティを保ち得るのは驚きでもあるが、それも「作品単体として」の話であって、これが彼の晩年における「基本型」と知れば、その濫用ぶりに辟易もさせられるのではあるが。(以降、次回。)


タグ:音楽
posted by alban at 22:22| Comment(0) | TrackBack(0) | 音楽 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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