2008年06月28日

音楽の「言語性」とは?(151)

ショスタコービチ「交響曲第14番」では、マーラー「大地の歌」の前例に倣ってか、二人の独唱者が交互に歌う形が採られているが、マーラーのように「楽章ごとに交替する」のでは無く、明らかに意図した上で「バランスが崩されて」いる。
即ち、バス独唱で曲を開始した後、ソプラノ独唱(一部バスが歌う箇所があるが、重唱とはならない。)による楽章が5つも続き、バス独唱による楽章3つを経て、冒頭の音楽が今度はソプラノ独唱と共にリフレインし、最後の、象徴的に短い「結び」で二つの独唱が重ね合わされる、という配置なのだが、これは一見、バランスを欠いているように見えるものの、実際には曲の前半、後半の区切りとも一致し、それぞれの独唱者の「受け持ち時間」の配分も取れている。
第3楽章「ローレライ」にバス独唱の部分が設けられているのも、勿論、アポリネール作による「テキスト上の理由」からではあるが、この「バランス上の問題」から意図された配置でもあることは間違いない。
また、この楽章は比較的長い「オーケストラ間奏部」を持ち、そのため、この交響曲の中でも最も長い楽章の一つとなっているが、これも「後半部」の開始である、バスが歌う第7楽章と対応する特徴で、この二つの楽章の「間奏部」では、十二音列による弦とウッド・ブロックの使用という書法、楽器法上の共通性も設定され、この傑作での実にショスタコービチらしからぬ「絶妙な配置」を見せる部分となっている。
この「間奏部」は、「交響曲」らしく「動機操作」に基づいているのも共通した特徴であるが、この第3楽章ではテキストの流れに即して二度ほど現れ、形式上の拡大にも貢献している。
但し、前楽章から鞭の連打で続く音楽は、その構成上の見事さにはどうも見合っておらず、件の「間奏部」は前作「交響曲第13番」の第4楽章に出てくる、マーラー風の「トランペットのファンファーレ動機にそっくり」で、彼にありがちな「意図的な引用というにはやや不適切」な部類に属するようにも思われ、ここまでで最も「無調感」の強い音楽も、対話式の進行(これもマーラーの「角笛歌曲」の「塔の中の囚人の歌」を思い出させる点がある)に幾分不釣り合いで、「象徴性」の演出には役立つはずの「調性感」をわざわざ回避した理由が、次の楽章への配慮も含めた「曲全体の構成上の問題」から発生しているとは推測されるものの、これが聴き手が「この題材に期待するもの」とはやや異なり、「どうも違和感を拭えない」のも確かであろう。
しかし、この特徴が、さきの「鞭」に対応して二回鳴らされる「第13番」の時と同じ変ロ音チューブラ・ベルで始まる、楽章の後半部のアダージョの「調的な部分」を良く際立たせているのも確かで(但しこれは彼の友人ブリテンの「戦争レクイエム」の第3楽章の「天使の登場」部分の書法に極めて近い。)、旋律そのものは先行部分からの再利用でありながら、全く「別の音楽」を響かせ、この楽章全体を極めて印象深いものに「高める」ことに成功している。
彼は、ここではこうして難しい「綱渡り」に成功した訳であるが、こうした危うさは、ここで訪れた「静けさの印象」と共に、次の楽章にも引き継がれる。(以降、次回。)

ラベル:音楽
posted by alban at 19:50| Comment(0) | TrackBack(0) | 音楽 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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