2009年04月25日

音楽の「言語性」とは?(162)

ショスタコービチの「交響曲第15番」の第3楽章は、(演奏にもよるが)5分にも満たない「スケルツォ楽章」となっている。この「短さ」が「他の楽章に比してバランスを欠いている」ことは既に述べたが、まあ「無駄なページに事欠かない」彼の音楽の中では、生涯に渡って得意とした、この「スケルツォ」というフォーマットは、しかし「比較的簡潔に過不足無く」書かれることが多く、交響曲の例では「第1」とか「第5」「第9」「第10」などのスケルツォ楽章が目立って短く、かつ有名でもあるが、やはり前後の「必要でない音符の多い」、いささか長たらしい楽章と比べると「かえって違和感を与える」ことが無いでもなかった。(しかし、だからといって「より長く」書いたところで、「第7」のような「ひどい結果」をもたらす訳だが。)
彼の「スケルツォ」の短さは、「速いテンポ設定」云々よりも、彼があちこちで使い回した、例の「ギャロップ調」だの「ポルカ調」とかいったもので解る「通俗音楽への指向」が、音楽の性格上、「ここで発揮され易い」ためにもたらされた、と見ることもでき、この「第15」でも、十二音をパロディックに扱った書法の向こうに、それが透けて見えているのは言うまでもない。
ドローンの上で繰り返される、前半と後半で鏡像のように見える主題は(ブラームスの「第1」の、どうもあまり感心出来ない第3楽章の主題を思い出させる)、楽章の最初と最後に「縁取り」のように配置され、この楽章の印象を決定しているのだが、それに挟まれた音楽の、いささか散漫な進行そのものは「第8」のフィナーレの「意図的に出来悪く書かれた」音楽に良く似ている。
しかし、ここではコラージュのように、幾つかの要素が「感情を欠いたまま」混ぜ込まれ、その下地に「聞き覚えのあるフレーズが時折聴かれる」、という具合で、途中と最後で現れる、取って付けたような「第4」のスケルツォの「打楽器のリズムの引用」(これは次のフィナーレのコーダ、最後の最後で「主役」を努めることになるのだが)共々、奇妙に断片的な印象を与える。
彼のこれまでの「スケルツォ」と比べて、殊更「違った書き方」が見受けられる訳ではないにも関わらず、何故か今までとは別種の風合いが現れており、それが楽章全体の短さを補っているのである。
そして、その「経過的な性格」からも明らかなように、結局、彼はここで「フィナーレへの序奏」を書いている訳だが、それが次に突然のっけから現れる、ヴァーグナーの「指輪」の「誰にでも解る、そっくりそのままの引用」の正統性を保証している訳ではない。
この「問題の引用」は普通に考えれば「簡潔に書かれた序奏」なのだが、多少改変されているにせよ、その「殆ど全部」は、「ヴァーグナーの書いた音符」なのである。ショスタコービチは、この第3楽章で、それに対しての、「何がしかの埋め合わせ」をしたつもりだったのであろうか。(以降、次回。)
posted by alban at 19:31| Comment(0) | TrackBack(0) | 音楽 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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