2008年10月18日

音楽の「言語性」とは?(156)

ショスタコービチ「交響曲第14番」に含まれる十一の楽章の中で、最後の「スケルツォ系楽章」となる第8楽章だが、しかしながら、同系統の第2、第5楽章や、直前の第6、第7楽章に含まれていた、切れ味鋭い皮肉を含んだ「スケルツァンドな部分」と比べると、どうにも見劣りしているようである。
これもアポリネールによるが、「コンスタンチノープルのサルタンへのザポロージェ・コサックの返事」という長たらしい題名が示すように、ユーモラスなその詩には、これまでの深刻な内容のテキストとは打って変わって、全編に渡る、愚弄と嘲笑、罵詈雑言で埋め尽くされた痛快な文句が綴られているのだが、他の楽章のテキストとは違って「死」と直接的、間接的な内容の繋がりは無く、余りにケッサクな詩の出来具合にショスタコービチが触発され、どうにも落とし辛かったために、半ば無理矢理気味に「ここに押し込んだ」ように思える。
そのせいか、音楽の出来具合も「随分と強引なもの」で、どうも「詩に見合った成果」は挙げていない。
弦を分奏させ、クラスター的に密集させて用いてはいるのものの、出だしの十二音を意識した動機や四度音程が目立つ音の動かし方は、第5楽章におけるシロフォンの動きと同根であり、テキストの都合上、「早口でまくしたてる」他は無いバス独唱も短二度、短三度、同音反復という、どうにも代わり映えのしない「例の動き」をなぞるばかりで、その早さがそれ自体を目立たせ、フィナーレのために温存した積りなのか、それとも万策尽きたのか、何故か用いられない打楽器の「不在」も、この音楽を「なかなか苦しいもの」にしている。
この楽章はこの作品にとって「傷」とまではいかないが、次の感傷味を「盛り込んでしまった」第9楽章同様、「蛇足気味」であることは否めず、作品が前の第7楽章の「高み」から「下り坂」となった感を強くさせる。
第8、第9楽章を「カット」、もしくは第8楽章だけでも省略した方が「全体」としては「より機能した」ように思われもするのだが、ショスタコービチとしては作品が描く「諸相」の「広がり」と「物理的な長さ」が必要だった、という所なのであろう、作品はそうして「そのように書かれ」、こうして聴き手に、つくづく彼が「ショスタコービチ」であることを痛感させてくれるのである。
何度も言うのだが、彼は「ベートーヴェン」とか「マーラー」では「決してない」のである。(以降、次回。)
タグ:音楽
posted by alban at 19:34| Comment(0) | TrackBack(0) | 音楽 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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