2008年06月07日

音楽の「言語性」とは?(150)

ショスタコービチ「交響曲第14番」第2楽章には、彼の交響曲ではここが「定位置」となる「スケルツォ」相当の音楽が書かれている。次のアタッカで連する第3楽章にもスケルツォ的な性格が認められ、さらに第4楽章へもアタッカの指示があることを考えると、彼が「第8」でも同じような配置をしていたことが思い出させるが、音楽の密度は全く違っている。
先行楽章と同じ詩人ロルカによる「マラゲーニャ」と題された音楽は、詩人の出身地の民俗舞曲の名で、当然のごとくその音調を模倣することもあり、彼得意のパロディックな「引用」めいたスタイルが、この交響曲で顕著な「無調の調的な使用」と相まって、これまでの作品で散見された「俗性丸出し」の、コピー品のような安っぽい響きとは違った「上の段階」に至っているように思われる。
第1楽章の弱音と短三度、短二度音程の世界を突き破り、いきなりフォルテで現れる調子外れの四度音程の連続による音形は(おそらくギターの音を想定しているのであろう)、この楽章の基調であり、声楽パートも几帳面に音高を変えつつ繰り返される。舞曲調とはいいながら、本来そうであるべき三拍子はトリオ部に相当する「マラゲーニャ」の音調までとっておかれ、短三度、短二度音程の利用もその箇所に集中している。ブツ切れのような流れの悪い「舞曲調」は低弦の半音階と四度音程を繰り返す動きによって連続性が保たれているが、声楽部も不規則な入り方をしており、舞曲の持つ「規則性」と、そこから発生する快感は意図的に除去されている。それを増強するように何度も用いられる、八分音符の刻みから三連符、十六分音符、六連符、三十二分音符という風に細分化されクレッシェンドする刻みの音形は、気付かれにくいが全曲の「結び」の予告でもある。
そして、カスタネットの音色でようやく調子良くなったように見せかけたあげく、主部の再現が省略され、放り出されるように次の第3楽章の鞭の音が響く。(以前の彼ならば、こうした「リズムの快感」を追求したところであろうが、この厳しい「第14番」では、そのような事は完全に「御法度」なのである。)
第1、第2楽章は、彼のこれまでのやり方を踏襲しているに過ぎないようにも見えるが、素材を絞り、コントロールする、という「基本」を改めて踏まえた上での「短く書くこと」への意識が、新たな緊張を生んでいるのである。
これら二つの楽章は「交響曲であるため」の条件付けをこうしてクリアしているのだが、もう一方の側面である「歌であること」の要素は、次の第3、第4楽章で開陳される。(以降、次回。)

タグ:音楽
posted by alban at 20:07| Comment(0) | TrackBack(0) | 音楽 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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