2008年05月17日

音楽の「言語性」とは?(149)

ショスタコービチの最良の作品となった、全曲歌入りの「交響曲第14番」の作曲にあたって、これを単なる「オーケストラ伴奏付き歌曲集」とせず「その名にふさわしいもの」とするためか、最初から、十一からなる楽章を「四つの部分」として構成すること、即ち、通常の「交響曲」における「楽章数」と合致する「区分け」をしたらしいのだが、実際の「結果」として、聴き手がそのような「区切り」を彼の「意図通りに感じ取る」ことが出来るようなものとして仕上がったかどうかは、やや疑わしい。
これは、彼の作品で毎度お馴染みの「計算違い」とも思えるのだが、しかし、ここでは「交響曲」における通常の楽章配置、「ソナタ楽章」「緩徐楽章」「スケルツォ」「フィナーレ」といったものをベースにした構成法はマーラーの前例(「第8」「大地の歌」)もあってか、採用されておらず、むしろ扱われている詩の内容や状況ごとに区分けされ、前述の「交響曲」の楽章におけるキャラクタライズはそれぞれの楽章ごとに「基本的な類型」として認められるに過ぎない。
いずれにせよ、この「交響曲」には最初から、当然それに期待されるべき大規模な「冒頭楽章」が欠落しており、その第1楽章は、むしろ変奏曲における最初の「主題提示」の持つ意味に近いものとして設定されたのだが、「深き所より」という象徴的な題を持つロルカの詩のごとく(例によって詩の内容には立ち入らないが)、間接的、思索的な、不気味に打ち沈んだその音楽は「感傷性」の入り込む余地の無いものとして「死を巡る諸相」への導入を、結果的には見事に果たすこととなった。
「歌入り」のためか、「無調」とは言っても調性感の顕著なこの作品だが、その開始も即座に転調していくとは言え、はっきりとしたト短調であり、執拗に現れる「ドシドラ」と聴こえる音形のため、いくら変化しても調性の影がつきまとう。(この音形は、周知のグレゴリオ聖歌「怒りの日」の引用とされることがあり、本人も「そのつもり」だったかも知れないが、それも含めて、とどのつまりは彼が偏愛する「短三度音程」の「徹底的利用」の一例であって、前作「第13」の冒頭部とも素材的には共通しており、例の「第11」で聴かれたフレーズも入り込んでいる。)
声楽の入りも同様に短三度音程で始まり、素材的には導入の器楽部と全く共通で独立性は無く、歌の導入以後も、背景の弦楽の音調が楽章全体を支配している。(この導入部は彼の「第10」第1楽章のそれを思い出させるが、そこにあったクラリネット主題のような「情緒性」「旋律性」は完全に退けられている。)
五分あまりのこの楽章は、その静止したような時間と詩の象徴性によって全曲の「基調」を提示しており、以後の楽章は、同じ音楽が別の詩で復帰してくる第10楽章も含めて、この「基調」からの「加減具合」によって作り上げられている。
この第1楽章の音楽は、実際に鳴らされていない時も全曲に渡って「存在している」のであり、それがまさに「死」と結びつけられているのである。(それは「基本動機」の利用云々という側面も無論あるのだが、それよりももっと深いレヴェルで「浸透している」のである。)
これはショスタコービチがここに至って発見した「構成法」であり、以後の作品にも用いられることになる。(最も有名な例は「弦楽四重奏曲第15番」であろう。この最後の四重奏は「傑作」とされるようだが、どうも心許無い。あまりに長く、緩い構成であり、それを補うべき緊張が、やはり不足しているように思われる。しかし、彼の「弦楽四重奏曲」の中では、最も良いものには違いない。)
この楽章は彼の書いた「冒頭楽章」としては最もシンプルなものであるが、その位置付け、性格付けによって最も見事な「冒頭楽章」足り得ている。(以降、次回。)

ラベル:音楽
posted by alban at 19:48| Comment(0) | TrackBack(0) | 音楽 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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