2008年03月15日

音楽の「言語性」とは?(146)

もしも、ショスタコービチの「交響曲第13番」が、彼自身の「森の歌」とかプロコフィエフの「アレクサンドル・ネフスキー」のような、俗受けする「肯定的フィナーレ」で結ばれたとしたら、果たしてこの作品が=万人が認めるようなものでも無いにせよ=「傑作と呼ばれるようなもの」として残ったものかどうか、極めて怪しかろう。
これらのカンタータの「讃歌的終結」や、彼の「交響曲」で言えば「第5」とか「第7」とか前作「第12」のような「お馴染みの終止法」は、詩も音楽も「ネガティヴそのもの」の内容の、「第13」に付されたら、これらの作品以上に「取って付けたようなもの」として響くことは確実で、この「交響曲」全体を、まさに「台無し」にしたに違いない。
彼がフィナーレのテキストとして、「出世」という、要するに「出世をしないことを自分の出世とする」という詩の最後の句に象徴される、この曲では守られてきた「反体制」的な内容のものを選んだのは大成功であったが(とは言え、これは「第11」「第12」の作曲家の作品としては幾分空々しく思えるのだが)、それだけでは十分な担保とは言いがたく、この詩にのせて前述のような音楽を「書いてしまう危険」も大いにあったには違いないが、賢明にも彼はここではそれを回避し、しかも「第8」の時のような「不発」にも堕せず、あの「第4」の第3楽章フィナーレと並ぶような「含蓄ある結び」(この曲こそ、「第13」の前にようやく「初演」にこぎつけた、作曲家が発表もせず「番号付き」のまま温め続けたという「おそらく最も重視していた」と思われる作品であった)を書くことに成功した。
しかも、巨大な「謎掛け」のような「第4」のそれと比べて、簡潔さ、理解しやすさ、微妙さという点でアドバンテージを持っており、この後の「変則的」と呼ぶ他無い「第14」「第15」のフィナーレよりも、さらに優れているように思われる。
ベートーヴェン以来、「フィナーレ」は、大曲になればなるほど「難関」となったが、ショスタコービチでは「殆ど常に問題を抱えている部分」であって、特に「交響曲」では「シンフォニスト呼ばわりされる作曲家」仲間のシベリウスなどよりも明らかに見劣りがするが(シベリウスは彼の半分以下の七曲ではあるが、どれ一つとして「同じような終結」を書かなかった。さすがに晩年「沈黙を守る」だけのことはある、という訳である。)、ここでは、初期の「チェロ・ソナタ」や、中期の「ピアノ五重奏曲」のような「成功例」に見られたような、必要以上に肩肘張らない「柔らかい」フィナーレを、しかし他に彼の作品に「類似品」が見いだせないような、絶妙な音楽を残した。
形式的にはこの「交響曲」の中でも最も見通しが良く、素材も限られており、それらの反復と過度でない変化の交替であって、ほぼ「A-B-A'-B'-A"」と見て良いが、比較的短いが極めて印象的な弦のピッツィカートによる「A'」が「再現」というよりは「間奏」の役割を果たした後、展開的な、フガートを含む「B'」、そしてコーダを兼ねた「A"」という具合で良く整理されており、いつもの、やや雑然とした書き方とは大いに異なる。
「A」「B」とも主題そのものは基本的には殆ど変化せず、オーケストレーションの変化と幅次部の変化によって差異が生じるのだが、他の楽章よりも「音楽自体の論理」で動く傾向が強く、これも「フィナーレ」にふさわしい扱いとも言えよう。
第4楽章からアタッカで続くが、二本のフルートによる、明るい主題Aの導入は、ここで初めて現れる「明らかな三拍子」もあって実に鮮やかであり、似たような趣向の「第8」の同様な部分のファゴットよりもはるかに効果的であるが、同音反復と音階順次下降を組み合わせた動きと、続く半音階的な動きは、第1楽章の冒頭主題に倣っており、これ自体が見事な対照を為している。
これは弦に移って反復され、やがて日が陰るように半音階が増え(冒頭楽章の金管の半音階に対応する)四拍子に拍子が変化するが、このA部分は反復ごとに器楽による「前奏」「間奏」「後奏」としても機能している、続くB部分は声楽部であるが、極めて「スケルツァンド」であって、それは弦を引き継いで現れる、彼が「狂言廻し」として常用する「ファゴット・ソロ」で早々に明らかになる。その「長ー短ー短」のリズムでも解る通り、続く声楽部もこれまでの「書き方」を忠実になぞっており、特に第1、第2楽章に近いものとされているのは、明らかに意識的なものと思われる。
それまでの音楽が「パロディックに蒸し返されている」訳だが、これは歌詞の内容を考えても「もっともなやり方」であって、またA部分の「特別な三拍子」を引き立てる効果も持っている。
そのA部分の回帰は、ホルンの吹き流しと弦の弱奏の応答(これはシューベルト「大ハ長調交響曲」第2楽章の、シューマンが「天使が降りてくる」と呼んだ有名な部分を思い出させる。)から弦のピッツィカートによって静かに行われる。(三拍子ということもあって、マーラー「第5」の同様な部分が想起されるが、いずれにせよ、実に忘れがたい印象をもたらす。)
半音階的ブリッジに続く発展的なB'はベートーヴェン「第9」に倣ったのか、「器楽によるフガート」を持つが、フガート主題は、声楽の歌い出しの音形に続くシンコペーションのためか(これは先行する弦の半音階的ブリッジ部に存在している)「マタイ受難曲」を思い出させることがあるようで=無論「Laß ihn kreuzigen!-十字架につけるべし」の箇所だが、周知の通り、これはバッハの「独創」なのではなく、記譜上これが「十字架の形」になるためである=これは内容からいっても「意識的な引用」であるのは、珍しくも「間違いない」ように感じられる。
フガートは「お馴染みのクライマックス」を築くが、「ブリッジ」が今度は木管で現れると、ファゴット独奏が段々と口ごもるような動きを見せ、「ついに沈黙」し、音楽はテキストを強調するフォルテシモからアダージョへと移行してコーダに入る。
ハープを伴った弦の和音がしきりに鳴らされ、バス独唱が、全曲で最も「カンタービレな調子」で、しかし穏やかに「結論」を述べていくが、ト長調からト短調に傾斜し、「諦念の気配」を感じさせる。
そして、B冒頭の動機によるバス・クラリネットを「つなぎ」として、温存されていたチューブラ・ベルで主音の変ロ音が鳴らされると、「覚醒する楽器」である管楽器は沈黙し、ソロ・パートの弦でA部分が復帰して、この編成ならではの「甘美さ」を漂わせ、音楽は色合いを変えてゆらめきながら、静かに充足した響きへと達する。
最後の局面で「第4」を閉じた楽器でもあるチェレスタがBの余韻を奏でるが(チェレスタと、その補強のハープは、不協和な長二度下の変イ音を終止まで延ばすようにスコアに書かれているのだが、楽器の性質上、これは不可能なのであって、これは作曲家の「想念」と共に、あくまで「譜面上にのみ存在している」、「不完全終止」なのである)、もはや何も乱されず、音楽は最後に鳴らされるチューブラ・ベルの主音と共に、明るい変ロ長調の主和音の響きと共に消えてゆく。この最後の二分あまりは彼に起こった「奇跡」のようであり、当初の「バビ・ヤール」からは想像も出来なかった「高み」へと我々を誘う。
これを聴くと、ショスタコービチはこれを「最後の交響曲」と考えたかもしれない可能性を感じさせるが、結局あと二作は「交響曲」を書くことになる。
しかし「第14」があるとは言え、彼がこのような「充足した響き」を書くことは、もう無かった。(以降、次回。)

posted by alban at 23:57| Comment(0) | TrackBack(0) | 音楽 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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