2008年03月01日

音楽の「言語性」とは?(144)

ショスタコービチ「交響曲第13番」全五楽章のうち、後半の三楽章は、アタッカで続けて演奏される。これは同じように五楽章構成であった彼の「第8」と同様であるが、楽章の配置と比重は異なっており、ここでは冒頭楽章が「第8」ほどには重くなく(歌われる詩の内容はともかくも)、さほど長い訳でもない上、「第8」では第2、第3楽章にスケルツォ、フィナーレの前に緩徐楽章であるパッサカリアが置かれていたのに対して、ここでは逆に、スケルツォの次に二つの緩徐楽章が続く格好となっており、実際に書かれる音楽はともかく、こうした「構成」には気を配るショスタコービチの好みを良く表す一例となっている。(以前述べた通り、これは実際以上に彼の作品群に「幅があるように見せる」効果があるのだが、実は「ブロック遊び」のようなもので、同じものを組み合わせて色々な形を作ってみせるのだが、彼の場合「ブロック」そのものの種類は多くなく、「同じ音楽が違った順番で現れているに過ぎない」場合が多い。しかし、この「第13番」の場合では「プラス・アルファ」が確かにあり、こうした時に彼の「傑作」は出来上がるのである。)
さて、「二つの緩徐楽章」といっても、そこで扱われる詩には関連性は無く、音楽的にも(いささか似ているものの)書き分けられている。
第3楽章は「商店にて」という題が付けられ、これだけでは何の題材であるかまるで解らないのだが、「ソヴィエト女性のたくましさへの賛美」ということになるらしく(といっても「ファウスト的なもの」や「ヴェーヌス賛美」とは多いに異なる。)、この音楽に感じられる、リズムのシークエンスの多さからくる「子守唄調」の感じも、これと結びつけられたものと言えよう。
冒頭に低弦で出るモティーフは、短三度に固執する動きや同一リズムの繰り返しなどの点からいっても、冒頭楽章の開始主題と関連性があるのは明らかで、独唱の入りに先んじて現れるヴィオラの半音階的な対位線も、同じ部分の金管によるモティーフとの類似が意識されているのは間違いない。
声楽の動きも同様に第1楽章の動きに準じており、弱音での進行がずっと続くのは、単にこの楽章の特徴というよりは、冒頭楽章、第2楽章と同じ「四拍子主体」というハンディキャップを埋める効果もある。(しかもこれは次の第4楽章でも同様で、フィナーレに至って「三拍子主体」の楽想が初めて現れる。このリズム的な単調さはこの曲独特の情調を醸し出す一因となっていることは確かではあるが、これに学んだのか、彼は次の「第14番」では、この問題を見事に回避している。)
過度にエスプレッシヴォでない「子守唄調」は、「第8」の、やはり弱音部ばかり続く第4楽章を思い出させるが(少ししてから現れるホルンの長いオブリガートなども同様に「第8」を彷彿とさせる。)、形式的にも「変奏曲」とも採れるような構成においても類似している。
これまで通り、詩の進行が重視されているのは同様で、かなり自由な構成であり、かつ「第二主題」の扱いはさほど重視されておらず(しかも「差異化」は主部の持続するオスティナート的なシークエンスの中断、合唱の入りと、それに断続的リズムの「伴奏」が現れることで為されるが、素材そのものは「むしろ同一」なのである。この部分に現れるウッドブロック等の効果は印象的だが、これも「第14番」で「より大きな効果」を発揮する。)、クライマックスにおいてその材料が効果的に(しかし部分的に)利用されるものの、むしろ挿入部を持つた「単一主題的な音楽」と言えよう。
序奏のように見える「低弦の旋律」は、実は「主題」であって、声楽部は「派生的」であるのだが、これらが「展開」というのでなく反復、変奏される過程は「第8」の先例同様に「オーケストレーション」に、大きく依存するものの(特に弦とチェレスタ、ハープによる「変奏」は、彼の作曲した中でも文句なしに「美しい」楽段を為している。)、詩に応じて設定される強音部とクライマックスの効果もあって、この交響曲でも最も見事な部分を形成している。
この意図的に「毒抜きされた」ページは、額面通りの「讃歌」なのであって、前作「第12番」の唖然とするような「空虚な讃歌」の嘘くささを知る者には、まさに信じがたいような「成就」である。
しかしながら、この交響曲の「最高の瞬間」は、まだ残されている。
それは「おそらくショスタコービチ最高のフィナーレ」である、第5楽章なのである。(以降、次回。)



ラベル:音楽
posted by alban at 23:12| Comment(0) | TrackBack(0) | 音楽 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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