2008年03月22日

音楽の「言語性」とは?(147)

ある作曲家の音楽を「聴き始める」時、大抵は「代表的作品」とされているものから入っていくのが筋であって、それはディスクを通じての場合でも、FM放送を頼りに聴きつなぐ場合でも(要するに「演奏会で取り上げられる頻度」と一致していることが多いので)同じなのだろうが、私が音楽に染まり始めた時分は、最近のように「全集ものセット」などというものが驚くような安価で手に入ることなど想像も出来なかった時代であって、限られた小遣いは当然にベートーヴェンやマーラーに(それも数ヶ月に一度)流れ、おまけに「お望みの音楽を揃えているような図書館」も無い、という具合だと、もっぱらFM放送で「本の上では知っている未知の作品」を心待ちにする他は無かった。
ところが、このような「偶然」に頼っていると、思わぬ「誤解」が生まれるもので、ブラームスを「第2交響曲」で知って「なるほど本に書いてある通りのすごい作曲家」と思い込んで興味を持ったものの、結局現在に至るまで「それ以上に感じられる作品」にお目にかかれなかった(一番がっかりしたのが「第1交響曲」で、書物上では存在する「偉大さ」は全く感じられなかった)時以上の「買いかぶり」をする羽目になったのがショスタコービチで、ご多分に漏れず「第5交響曲」で入った時は、「何となく荒っぽいがとにかく人好きのする音楽」と思って何となく納得した程度だったが、次に聴いた「第14番」には「これはすごい」とすっかり驚いてしまい、何とか機会を捉えては彼の音楽を聴いてきた。交響曲で言えば「第6」とか「第8」「第10」とかの気に入った作品はあったものの、「第5」で感じた「荒っぽさ」「仕上げのマズさ」はやっぱり感じたし、「第1」「第9」は何度聴いても「不真面目」に感じられ、「第15」も当初はそのような作品と思えた。ずっと経ってから聴くことが出来た「第13」と「第4」には「非常に合点がいった」が、「そのほかは論外」だった。勘違いかと思ってどれも何回も聴いたが(当時は誰でもそうするようにカセット・テープに録音する習慣が付いていたので)結論は同じで、その他の作品、協奏曲や室内楽にも、ちらほら「良い作品」もあるにせよ、彼の「交響曲」より「勝っているような点」は、格別、感じられなかった。
ブラームスの時は「うんざりさせられること」(とりわけ「いつまで経っても地べたを這いつくばっている」ような「徘徊趣味」)はあったものの「作品の出来自体にがっかりさせられること」は少なかったが、ショスタコービチでは、その「がっかり」が余りにも多く(「こんな作曲家を褒めそやす理由」に「政治的な問題が関わっていること」を理解する機会は与えてくれたが)、ベートーヴェンやマーラー、ヴァーグナー、ハイドン、それからシューベルトやシューマン、ドヴォルザーク、ベルリオーズなどの「比較的良く耳にする作曲家」の中で、どんどん「ランキング」は低下していき、後から聴いたシェーンベルク、ベルク、ウェーベルンは勿論のこと、ドビュッシーやラヴェル、ルーセル、オネゲルなどのフランス系やバルトーク、コダーイ、ヤナーチェク、シベリウス、英国ならウォルトン、ヴォーン・ウィリアムズ、ブリテン、米国のバーバーやバーンスタイン、同じロシアならプロコフィエフやストラヴィンスキーなどを知るにつれ、彼の「相対的順位」は、文字通り「底なしに」下がっていくのだった。(そして、それは今でも「下がりっぱなし」である。)
このところの「メモリアル・イヤー」とかで彼の音楽が注目された折、丁度このページでも「順番」が巡ってきたので敢えて集中的に取り上げてみたものの、特に「新たな発見」も無く、かえって「ボロ見え」の連続でいい加減にイヤになっていたが、ようやく「第13」に続いて「第14」に辿り着き、かつての「スゴイ作曲家」が、ここでは健在なのを再確認して、安堵した。
ここでの彼は、まるで別人のような集中力を見せ、彼の「交響曲」としても長い部類の一時間弱を、「大地の歌」を思い出させるような二人の独唱者の起用、弦楽オーケストラと打楽器という変則的な編成からは想像しがたいような深みと幅のある響きを引き出し、見事に持ちこたえてみせる。
これは疑いない彼の「最高傑作」であって、彼にはいつも見えていた訳では無い、個人的ヴィジョンを超えた「高み」の感触を、「死」というシリアスこの上ないテーマを通して見せてくれる。
傑作とは言え、彼のこれまでの作品の「エコーたっぷり」の「第13」と比べても、まるで突然変異のような「絶対性」をもって響くこの「第14」は、その「救いの無さ」共々、晩年の彼で無ければ書けなかった、しかし一度限りの「最高傑作」なのであった。(以降、次回。)
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2008年03月15日

音楽の「言語性」とは?(146)

もしも、ショスタコービチの「交響曲第13番」が、彼自身の「森の歌」とかプロコフィエフの「アレクサンドル・ネフスキー」のような、俗受けする「肯定的フィナーレ」で結ばれたとしたら、果たしてこの作品が=万人が認めるようなものでも無いにせよ=「傑作と呼ばれるようなもの」として残ったものかどうか、極めて怪しかろう。
これらのカンタータの「讃歌的終結」や、彼の「交響曲」で言えば「第5」とか「第7」とか前作「第12」のような「お馴染みの終止法」は、詩も音楽も「ネガティヴそのもの」の内容の、「第13」に付されたら、これらの作品以上に「取って付けたようなもの」として響くことは確実で、この「交響曲」全体を、まさに「台無し」にしたに違いない。
彼がフィナーレのテキストとして、「出世」という、要するに「出世をしないことを自分の出世とする」という詩の最後の句に象徴される、この曲では守られてきた「反体制」的な内容のものを選んだのは大成功であったが(とは言え、これは「第11」「第12」の作曲家の作品としては幾分空々しく思えるのだが)、それだけでは十分な担保とは言いがたく、この詩にのせて前述のような音楽を「書いてしまう危険」も大いにあったには違いないが、賢明にも彼はここではそれを回避し、しかも「第8」の時のような「不発」にも堕せず、あの「第4」の第3楽章フィナーレと並ぶような「含蓄ある結び」(この曲こそ、「第13」の前にようやく「初演」にこぎつけた、作曲家が発表もせず「番号付き」のまま温め続けたという「おそらく最も重視していた」と思われる作品であった)を書くことに成功した。
しかも、巨大な「謎掛け」のような「第4」のそれと比べて、簡潔さ、理解しやすさ、微妙さという点でアドバンテージを持っており、この後の「変則的」と呼ぶ他無い「第14」「第15」のフィナーレよりも、さらに優れているように思われる。
ベートーヴェン以来、「フィナーレ」は、大曲になればなるほど「難関」となったが、ショスタコービチでは「殆ど常に問題を抱えている部分」であって、特に「交響曲」では「シンフォニスト呼ばわりされる作曲家」仲間のシベリウスなどよりも明らかに見劣りがするが(シベリウスは彼の半分以下の七曲ではあるが、どれ一つとして「同じような終結」を書かなかった。さすがに晩年「沈黙を守る」だけのことはある、という訳である。)、ここでは、初期の「チェロ・ソナタ」や、中期の「ピアノ五重奏曲」のような「成功例」に見られたような、必要以上に肩肘張らない「柔らかい」フィナーレを、しかし他に彼の作品に「類似品」が見いだせないような、絶妙な音楽を残した。
形式的にはこの「交響曲」の中でも最も見通しが良く、素材も限られており、それらの反復と過度でない変化の交替であって、ほぼ「A-B-A'-B'-A"」と見て良いが、比較的短いが極めて印象的な弦のピッツィカートによる「A'」が「再現」というよりは「間奏」の役割を果たした後、展開的な、フガートを含む「B'」、そしてコーダを兼ねた「A"」という具合で良く整理されており、いつもの、やや雑然とした書き方とは大いに異なる。
「A」「B」とも主題そのものは基本的には殆ど変化せず、オーケストレーションの変化と幅次部の変化によって差異が生じるのだが、他の楽章よりも「音楽自体の論理」で動く傾向が強く、これも「フィナーレ」にふさわしい扱いとも言えよう。
第4楽章からアタッカで続くが、二本のフルートによる、明るい主題Aの導入は、ここで初めて現れる「明らかな三拍子」もあって実に鮮やかであり、似たような趣向の「第8」の同様な部分のファゴットよりもはるかに効果的であるが、同音反復と音階順次下降を組み合わせた動きと、続く半音階的な動きは、第1楽章の冒頭主題に倣っており、これ自体が見事な対照を為している。
これは弦に移って反復され、やがて日が陰るように半音階が増え(冒頭楽章の金管の半音階に対応する)四拍子に拍子が変化するが、このA部分は反復ごとに器楽による「前奏」「間奏」「後奏」としても機能している、続くB部分は声楽部であるが、極めて「スケルツァンド」であって、それは弦を引き継いで現れる、彼が「狂言廻し」として常用する「ファゴット・ソロ」で早々に明らかになる。その「長ー短ー短」のリズムでも解る通り、続く声楽部もこれまでの「書き方」を忠実になぞっており、特に第1、第2楽章に近いものとされているのは、明らかに意識的なものと思われる。
それまでの音楽が「パロディックに蒸し返されている」訳だが、これは歌詞の内容を考えても「もっともなやり方」であって、またA部分の「特別な三拍子」を引き立てる効果も持っている。
そのA部分の回帰は、ホルンの吹き流しと弦の弱奏の応答(これはシューベルト「大ハ長調交響曲」第2楽章の、シューマンが「天使が降りてくる」と呼んだ有名な部分を思い出させる。)から弦のピッツィカートによって静かに行われる。(三拍子ということもあって、マーラー「第5」の同様な部分が想起されるが、いずれにせよ、実に忘れがたい印象をもたらす。)
半音階的ブリッジに続く発展的なB'はベートーヴェン「第9」に倣ったのか、「器楽によるフガート」を持つが、フガート主題は、声楽の歌い出しの音形に続くシンコペーションのためか(これは先行する弦の半音階的ブリッジ部に存在している)「マタイ受難曲」を思い出させることがあるようで=無論「Laß ihn kreuzigen!-十字架につけるべし」の箇所だが、周知の通り、これはバッハの「独創」なのではなく、記譜上これが「十字架の形」になるためである=これは内容からいっても「意識的な引用」であるのは、珍しくも「間違いない」ように感じられる。
フガートは「お馴染みのクライマックス」を築くが、「ブリッジ」が今度は木管で現れると、ファゴット独奏が段々と口ごもるような動きを見せ、「ついに沈黙」し、音楽はテキストを強調するフォルテシモからアダージョへと移行してコーダに入る。
ハープを伴った弦の和音がしきりに鳴らされ、バス独唱が、全曲で最も「カンタービレな調子」で、しかし穏やかに「結論」を述べていくが、ト長調からト短調に傾斜し、「諦念の気配」を感じさせる。
そして、B冒頭の動機によるバス・クラリネットを「つなぎ」として、温存されていたチューブラ・ベルで主音の変ロ音が鳴らされると、「覚醒する楽器」である管楽器は沈黙し、ソロ・パートの弦でA部分が復帰して、この編成ならではの「甘美さ」を漂わせ、音楽は色合いを変えてゆらめきながら、静かに充足した響きへと達する。
最後の局面で「第4」を閉じた楽器でもあるチェレスタがBの余韻を奏でるが(チェレスタと、その補強のハープは、不協和な長二度下の変イ音を終止まで延ばすようにスコアに書かれているのだが、楽器の性質上、これは不可能なのであって、これは作曲家の「想念」と共に、あくまで「譜面上にのみ存在している」、「不完全終止」なのである)、もはや何も乱されず、音楽は最後に鳴らされるチューブラ・ベルの主音と共に、明るい変ロ長調の主和音の響きと共に消えてゆく。この最後の二分あまりは彼に起こった「奇跡」のようであり、当初の「バビ・ヤール」からは想像も出来なかった「高み」へと我々を誘う。
これを聴くと、ショスタコービチはこれを「最後の交響曲」と考えたかもしれない可能性を感じさせるが、結局あと二作は「交響曲」を書くことになる。
しかし「第14」があるとは言え、彼がこのような「充足した響き」を書くことは、もう無かった。(以降、次回。)

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2008年03月08日

音楽の「言語性」とは?(145)

「実際の音楽の出来」そのものとは必ずしも一致していないにせよ、ショスタコービチが、彼の「交響曲第13番」で、第1楽章「バビ・ヤール」と並ぶ「中心楽章」として「恐怖」という題を持つ第4楽章を書いたらしいことは確かであろう。それは扱われている詩の題材と、その内容の共通性と「重さ」にも一致する訳だが(ここで用いられるチューブラ・ベルの響きもこれを裏打ちしている。)特に「バビ・ヤール」という「固有地名」と「ユダヤ人問題」から、その対象を「ロシア自体」に広げてみせる、という意味では、この楽章には重要な役割があることになろう。
彼の音楽も、ここでは第1楽章には残っていた「芝居がかった身振り」から一歩踏み込んだ「底なしに暗い」晩年の典型的なスタイルを示しているが、前述したように、「歌」の存在が曖昧さと晦渋さを和らげているため、弦楽四重奏に見られるような「唯我独尊」ぶりは見られない。
形式的には極めて自由であって、この「交響曲」の他の楽章で感じられる、何がしかの形式上の「基本形の応用」という面が無く、詩に沿った「通作」に近く、前楽章の静けさを引き継いで始まり、最後も静かにアタッカで第5楽章へと移行してしまうため、全体は極めて経過的、発展的な性格が強く、先行する第3楽章の素材が多く用いられるため、「展開部」風にも見える。
これはマーラーの「第5」の第1、第2楽章の関係にもやや近く、少ししてから現れる、どうしても「マーラーの引用」に聴こえるトランペットの弱奏による三連符のファンファーレ動機=これはマーラーの曲と同じ嬰ハ短調であり、動機の反復の際にフルートが用いられるのも、マーラーの当該楽章の「有名な楽器法」と同様であって、クライマックスの結びにおけるマーラーの第1楽章の響きへの接近や、「革命歌か労働歌の引用」のような合唱のユニゾンによる行進曲風の旋律の存在=これはマーラーの第2楽章に現れる有名なチェロの長いカンティレーナに呼応するようにも感じられる=などもあって、彼が「またしても偉大な先輩を思い起こしている」のは確実であると思われる。
こうした具合で、どうしたことか彼の音楽は奇妙なまでに自作、他作のエコーに満ちており、楽章最初の弦の弱奏のユニゾンによる持続音とティンパニ、テューバによる響きはヴァーグナー「ジークフリート」における大蛇ファフナーをどうしても思い出させるし(これが「引用」だとしても、「あまりにも安易」であろう。同じような「効果」を目指したと思われる、彼の友人ブリテンの先行作品「戦争レクイエム」最終章の冒頭部と比較すると「その差」は歴然としている。)、次いで現れるホルンのソロによる動機は彼自身の「第11」冒頭部に現れるトランペットのものと同様のもので、随所にある付点リズムに象徴される「軍隊調」もお馴染みのものである上、クライマックスに向けて出現する持続する十六分音符による二度音程を繰り返して音階的に動く動機はプロコフィエフの「第7」とチャイコフスキー「第6」の第1楽章を想起させる、という具合で、色々と連想させられる度合いの多さには首を傾げたくなるほどである。
彼はおそらく「極めて真剣」なのであろうが、この「引用だらけ」のような音楽は「その意図」にふさわしいものとも思えず(例によって「そのつもりではない」と考える方が自然なのではあろう)、「皮肉」であるには重すぎる響きも含め、この「交響曲」では「最も問題のある部分」に見える。
しかしながら、最後に和らいだ長調の響きが現れ、フィナーレの変ロ長調へと移る部分はショスタコービチではお目にかかることの少ない「絶妙な瞬間」であって、意外な題を持つ第5楽章フィナーレ「出世」、前述通り、彼の書いた「最高のフィナーレ」にふさわしい「準備」を為している。(以降、次回。)

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2008年03月01日

音楽の「言語性」とは?(144)

ショスタコービチ「交響曲第13番」全五楽章のうち、後半の三楽章は、アタッカで続けて演奏される。これは同じように五楽章構成であった彼の「第8」と同様であるが、楽章の配置と比重は異なっており、ここでは冒頭楽章が「第8」ほどには重くなく(歌われる詩の内容はともかくも)、さほど長い訳でもない上、「第8」では第2、第3楽章にスケルツォ、フィナーレの前に緩徐楽章であるパッサカリアが置かれていたのに対して、ここでは逆に、スケルツォの次に二つの緩徐楽章が続く格好となっており、実際に書かれる音楽はともかく、こうした「構成」には気を配るショスタコービチの好みを良く表す一例となっている。(以前述べた通り、これは実際以上に彼の作品群に「幅があるように見せる」効果があるのだが、実は「ブロック遊び」のようなもので、同じものを組み合わせて色々な形を作ってみせるのだが、彼の場合「ブロック」そのものの種類は多くなく、「同じ音楽が違った順番で現れているに過ぎない」場合が多い。しかし、この「第13番」の場合では「プラス・アルファ」が確かにあり、こうした時に彼の「傑作」は出来上がるのである。)
さて、「二つの緩徐楽章」といっても、そこで扱われる詩には関連性は無く、音楽的にも(いささか似ているものの)書き分けられている。
第3楽章は「商店にて」という題が付けられ、これだけでは何の題材であるかまるで解らないのだが、「ソヴィエト女性のたくましさへの賛美」ということになるらしく(といっても「ファウスト的なもの」や「ヴェーヌス賛美」とは多いに異なる。)、この音楽に感じられる、リズムのシークエンスの多さからくる「子守唄調」の感じも、これと結びつけられたものと言えよう。
冒頭に低弦で出るモティーフは、短三度に固執する動きや同一リズムの繰り返しなどの点からいっても、冒頭楽章の開始主題と関連性があるのは明らかで、独唱の入りに先んじて現れるヴィオラの半音階的な対位線も、同じ部分の金管によるモティーフとの類似が意識されているのは間違いない。
声楽の動きも同様に第1楽章の動きに準じており、弱音での進行がずっと続くのは、単にこの楽章の特徴というよりは、冒頭楽章、第2楽章と同じ「四拍子主体」というハンディキャップを埋める効果もある。(しかもこれは次の第4楽章でも同様で、フィナーレに至って「三拍子主体」の楽想が初めて現れる。このリズム的な単調さはこの曲独特の情調を醸し出す一因となっていることは確かではあるが、これに学んだのか、彼は次の「第14番」では、この問題を見事に回避している。)
過度にエスプレッシヴォでない「子守唄調」は、「第8」の、やはり弱音部ばかり続く第4楽章を思い出させるが(少ししてから現れるホルンの長いオブリガートなども同様に「第8」を彷彿とさせる。)、形式的にも「変奏曲」とも採れるような構成においても類似している。
これまで通り、詩の進行が重視されているのは同様で、かなり自由な構成であり、かつ「第二主題」の扱いはさほど重視されておらず(しかも「差異化」は主部の持続するオスティナート的なシークエンスの中断、合唱の入りと、それに断続的リズムの「伴奏」が現れることで為されるが、素材そのものは「むしろ同一」なのである。この部分に現れるウッドブロック等の効果は印象的だが、これも「第14番」で「より大きな効果」を発揮する。)、クライマックスにおいてその材料が効果的に(しかし部分的に)利用されるものの、むしろ挿入部を持つた「単一主題的な音楽」と言えよう。
序奏のように見える「低弦の旋律」は、実は「主題」であって、声楽部は「派生的」であるのだが、これらが「展開」というのでなく反復、変奏される過程は「第8」の先例同様に「オーケストレーション」に、大きく依存するものの(特に弦とチェレスタ、ハープによる「変奏」は、彼の作曲した中でも文句なしに「美しい」楽段を為している。)、詩に応じて設定される強音部とクライマックスの効果もあって、この交響曲でも最も見事な部分を形成している。
この意図的に「毒抜きされた」ページは、額面通りの「讃歌」なのであって、前作「第12番」の唖然とするような「空虚な讃歌」の嘘くささを知る者には、まさに信じがたいような「成就」である。
しかしながら、この交響曲の「最高の瞬間」は、まだ残されている。
それは「おそらくショスタコービチ最高のフィナーレ」である、第5楽章なのである。(以降、次回。)



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posted by alban at 23:12| Comment(0) | TrackBack(0) | 音楽 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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