2008年02月02日

音楽の「言語性」とは?(140)

さて、内容、価値の善し悪しはともかくも、作品を積み重ねて「交響曲作家」にとっての「運命の数字」である「第10」を無事クリアしたショスタコービチではあったが、その後の「第11」「第12」では「ほぼ堕落に近い」とも言えそうな、恥も外聞も無いようなものを「交響曲」として発表する、という「ご乱心ぶり」となり、この有様からして=「当局」以外は別としても=最早、彼に「この分野で何か期待する」のは到底無理なようにも思われた。(とは言え「他の分野」に「特筆すべき物」があったとも言えず、お仲間の為に書かれた協奏曲とか、何故か過大評価される、数の割にはどうも中身の乏しい弦楽四重奏曲などが「主なもの」であって、他の作曲家の一部に見い出し得る「晩年の充実」には程遠く、ごく一握りの作品を除けば、御立派な「作品表」とも言い難い。)
実際、この有名な「シンフォニスト」は「第10」を最後に、「栄えある交響曲の歴史」を継ぐような「まさにその名にふさわしい作品」を結局書かなかったのは既に述べた通りである。
さきの二曲は無論「選外」としても、彼の作品としては「傑作」と言って良い最後の三曲も「そういう意味」では結局の所「異形」と呼ぶ他無いもので、「第13」は実質的には「カンタータ」であり、「第14」は「オーケストラ伴奏による連作歌曲集」なのであって、これらがわざわざ「交響曲」と呼ばれているのは「構成上の理由」とか、彼には求め得ない「綿密な主題連関」とかの理由ではなく、その「内容的なヴィジョン」の大きさ、広さによって「その名がふさわしい」とされているからであり、この意味では相当に偏狭なものである「第2」や「第3」、どうみても「交響詩」でしかない「第7」や「第11」「第12」などよりは余程「その資格」があるとも思える。
逆に外見上では唯一「交響曲らしいもの」である「第15」は、しかしその「器」が「極めて自伝的な内容」と「引用とパロディー」によって見事なまでに「意図的に骨抜き」にされており、他の二作と比べても、かえっていまだに聴き手を惑わせる、見ようによってはショスタコービチの「様式の集大成」と言って良いようなものとなっている。
「第13」は当初から「交響曲」として構想されたものでは無いというものの、これらの三作は最終的には「三部作」のような纏まり方をしており、彼が「殆ど死を覚悟」して、「遺言」として書かれた、とも言われる見事な「第14」を中心として、文字通りの「最後の一花」を聴かせてくれる。
「第15」の一見意味不明な内容も、なお生きながらえた末の「最後の交響曲」として狙い済まして書かれていることは明らかで、もはや感傷味の抜けきった不思議な音を鳴らし続ける、自然現象をそのまま映し取ったような、妙に静謐なコーダを響かせて別れを告げるまで、これはこれで見事な「締めくくり」であって、ベートーヴェンでもマーラーでもなかったショスタコービチの「交響曲」を、最後には彼らしく皮肉っぽく閉じていく「幕引き」である。
これらが無くてはショスタコービチの「作品表」は相当「お寒いもの」になることは確かで、例え「第5」が未だに「最高の人気作」であるとは言え、彼が後世に余韻を残す作曲家であるためには、
先に述べた「弦楽四重奏曲」などでは「事足りる」とは到底思えない。
不思議な事に、ここではショスタコービチの音楽は、まだ「豊かさ」を残しており、「ヴィオラ・ソナタ」にしびれる向きには不満だとしても、彼の美点でもある「ポピュラリティ」と「内容」が高いレヴェルで調和した、ショスタコービチの「最高の作品」を見て取れるのである。(以降、次回。)

ラベル:音楽
posted by alban at 22:35| Comment(0) | TrackBack(0) | 音楽 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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