2007年12月08日

音楽の「言語性」とは?(138)

ショスタコービチの「交響曲第12番」は、前回触れた第2楽章を「この交響曲では最良の部分」として、後はその「描くべき内容」に反比例して、見事な「下り坂」を辿ることになる。
続けて演奏される第3楽章には何故か「オーロラ」という名が付けられているが、無論これは例の摩訶不思議な「美しい自然現象」のことではなく、無粋にも「革命行動への号砲」を文字通り「ぶっ放した」「巡洋艦の名前」なのだそうである。
この音楽を、そのタイトルのイメージだけで聴くと「全く意味不明」であろうが、その事さえ承知すれば、これはレスピーギの「ローマ三部作」どころかグローフェの「グランド・キャニオン」並みの「解り易い描写音楽」であり、砲声を模した音形や、波の描写など、ショスタコービチの音楽の中でも最も具体的な「映像感」を持っているものの一つであろう。(チャイコフスキーの「1812年
」の演奏で行われることがあるように、「実際の大砲」でも持ち出した方が、この曲での作曲者の「意図」に沿っているような気すらするが、彼はその手の「仕掛け」には無関心だったらしい。)
この楽章が前作「第11番」の第2楽章における「虐殺の場面」の「裏返しの構図」であるのは明白であるが、「ネガとポジ」の関係にしては、実質上「全体のクライマックス」であった「11番」のそれとは違い、作曲家はこの「転換点」の描写に御執心でないか、あまりイマジネーションが湧かないらしく、あれほど執拗だった「虐殺の場面」の延々たる描写に対して、ここでの音楽は四分にも満たない、という「第9」の時のような短い「尺」になっており、明らかに他の楽章とのバランスを欠いている結果となっているが、これは単なる「時間的な長さ」だけでなく、その「描写に徹した」ような書き方、筋書き的には「ヘソ」であるべき部分であることからしても、明らかに不当である。
作曲家としては「フィナーレへの序奏」のつもりなのかも知れないが、一応は「総括」を目指したと思われるフィナーレや他の楽章との「質感の違い」は明らかで、この交響曲の「基調」である、見られている事を十二分に意識しきった「内面的でない内面性」、「共有されるべき内面」という「絵に描いた餅」すらかなぐり捨てた、まるで元も子もない「映画の伴奏音楽」のような響きによって、決して悪いものでない第2楽章の余韻を見事にぶち壊し、「人類の夜明け」という、精神鑑定したくなるような「途方も無いタイトル」が付けられたフィナーレを呼び出すのである。
このような「前口上」を持った第4楽章の内容は「推して知るべし」であって、その「力作」めいたスバラシイ「総括」は、「こんなもの聴くんじゃなかった」という後悔の念を、「第11番」の時以上に、たっぷりと味合わせてくれるのである。(以降、次回。)
タグ:音楽
posted by alban at 19:55| Comment(0) | TrackBack(0) | 音楽 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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