2007年12月15日

音楽の「言語性」とは?(139)

ショスタコービチの「交響曲第12番」のフィナーレ第4楽章の驚くべきタイトル「人類の夜明け」が、一体どのような経緯で付けられたものか知らないが、それが「当局」からの要請であるにせよ、「自主的なもの」であるにせよ、彼自身これを「パロディー」と受け取らなかったことは確かであろう。(無論、この交響曲の趣旨からして「そのような扱い」は、有り得ない訳ではあるが。いずれにせよ、リストが「ダンテ交響曲」の最後で「天国を描写しようとした」ものの、「不可能だ」というヴァーグナーの助言に従って「マニフィカト」を付すに留めた、そうした「学ぶべき前例」は、全く役に立たなかったようである。R.シュトラウスですら、「ここまで悪趣味」では無かった。)
なんとか盛り上がろうと努力する音楽は、しかし見事なまでの霊感の無さとルーティーン極まりない書き方によって、問題のタイトルを「貶めるには充分」な出来具合を示しており、彼としては手際の良い循環作法や、紆余曲折とまでも行かないまま予定調和的に辿り着く、ショスタコービチの「栄光の象徴」である「第5」や「第7」のエコーたっぷりの「終結法」も、いかにも感銘を与えない。(彼は、どうもシベリウスの「第2」とか「第5」とかいった「祝典的終結」を持つ作品をここで思い出しているようだが、特に「ニ短調ーニ長調」という調性も合致する「第2」のフィナーレが念頭から消えていないようである。彼はこの期に及んでも「参考」を必要としているのである。)
彼の交響曲としては「簡潔」ですらある見通しの良さも、目指したはずの「名人芸」の切れ味も感じさせず、ただひたすら、この作曲家が「既に終わっている」ことを確認させるまでである。
彼は自分が「交響曲」の「栄えある歴史」の一部であるとは、おそらく見なしていなかったのではあろうが、このようなものを「発表すること」自体が既に何がしかの「欠陥」がこの作曲家に存在することを如実に示しており(ロッシーニとかR.シュトラウスのように「戯作三昧」に耽ることが罷りならぬというのなら、それこそ、シベリウスのように作品を握りつぶし「沈黙する」手もあっただろう。もっとも、「戯作三昧」には「名人芸」が必要であり、「沈黙」には「審美眼」が必要であるが、彼には結局「不充分な持ち合わせ」しか無いのである。)、それはむしろ彼が年を経るにつれ「より強くなっていく運命」にあったようである。
一般に「誤解」されている最晩年の作品の「厳しさ」なるものは、痩せきったインスピレーションの「産物」であり、自己の作品に「甘い」傾向は何ら失われず、結果として、緩みきったタガによる脈略の薄い内容が、好意的に「意味深さ」と思われているだけで、ベートーヴェンの晩年と「比較する」など笑止千万、という出来具合であり、絶対的な「レパートリー不足」の恩恵に過ぎぬ。
前述通り、このような作曲家に今後「何かを期待する」のは無理なように思われるのだが、果たして「最後の一花」は訪れ、死を意識した作曲家が臆面することなく繰り出した一部の作品には、それでも「名誉挽回」に値するものがあり、交響曲では最後の三曲が、それにあたる。
それら全てが「最高」とするにはあたらないかも知れないが、少なくとも一つは「それに近づき」、残りは、少なくとも彼の作品では「高いもの」に属する。(以降、次回。)

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2007年12月08日

音楽の「言語性」とは?(138)

ショスタコービチの「交響曲第12番」は、前回触れた第2楽章を「この交響曲では最良の部分」として、後はその「描くべき内容」に反比例して、見事な「下り坂」を辿ることになる。
続けて演奏される第3楽章には何故か「オーロラ」という名が付けられているが、無論これは例の摩訶不思議な「美しい自然現象」のことではなく、無粋にも「革命行動への号砲」を文字通り「ぶっ放した」「巡洋艦の名前」なのだそうである。
この音楽を、そのタイトルのイメージだけで聴くと「全く意味不明」であろうが、その事さえ承知すれば、これはレスピーギの「ローマ三部作」どころかグローフェの「グランド・キャニオン」並みの「解り易い描写音楽」であり、砲声を模した音形や、波の描写など、ショスタコービチの音楽の中でも最も具体的な「映像感」を持っているものの一つであろう。(チャイコフスキーの「1812年
」の演奏で行われることがあるように、「実際の大砲」でも持ち出した方が、この曲での作曲者の「意図」に沿っているような気すらするが、彼はその手の「仕掛け」には無関心だったらしい。)
この楽章が前作「第11番」の第2楽章における「虐殺の場面」の「裏返しの構図」であるのは明白であるが、「ネガとポジ」の関係にしては、実質上「全体のクライマックス」であった「11番」のそれとは違い、作曲家はこの「転換点」の描写に御執心でないか、あまりイマジネーションが湧かないらしく、あれほど執拗だった「虐殺の場面」の延々たる描写に対して、ここでの音楽は四分にも満たない、という「第9」の時のような短い「尺」になっており、明らかに他の楽章とのバランスを欠いている結果となっているが、これは単なる「時間的な長さ」だけでなく、その「描写に徹した」ような書き方、筋書き的には「ヘソ」であるべき部分であることからしても、明らかに不当である。
作曲家としては「フィナーレへの序奏」のつもりなのかも知れないが、一応は「総括」を目指したと思われるフィナーレや他の楽章との「質感の違い」は明らかで、この交響曲の「基調」である、見られている事を十二分に意識しきった「内面的でない内面性」、「共有されるべき内面」という「絵に描いた餅」すらかなぐり捨てた、まるで元も子もない「映画の伴奏音楽」のような響きによって、決して悪いものでない第2楽章の余韻を見事にぶち壊し、「人類の夜明け」という、精神鑑定したくなるような「途方も無いタイトル」が付けられたフィナーレを呼び出すのである。
このような「前口上」を持った第4楽章の内容は「推して知るべし」であって、その「力作」めいたスバラシイ「総括」は、「こんなもの聴くんじゃなかった」という後悔の念を、「第11番」の時以上に、たっぷりと味合わせてくれるのである。(以降、次回。)
ラベル:音楽
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2007年12月01日

音楽の「言語性」とは?(137)

ショスタコービチ「交響曲第12番」の、どうにも拭えない「生彩を欠く」印象は、この作曲者お馴染みの「練りの少ない」ままでの「書き飛ばし」、という「いつものやり方」ではなく、(相変わらず筆が速いとは言え)、構想を良く練り、比較的時間を多くかける、という一般には「結構なもの」と思われる「慣れないスタイル」を採ろうとしたことにも原因があるようにも思える。
比較的短い全体の長さも、いつもと比べると確かに「無駄無く良く書けている」スコアの印象もそれを裏付けているように思われるが、おそらくこの交響曲では「最も良い出来」を示していると思われる第2楽章も、彼としては「無駄の無い」、流麗な筆致にも関わらず、かつて彼が書いた音楽のエコーに浸され、はっきりとした「良い印象」を与えてはくれないようである。
このような緩徐楽章は、今までの交響曲でも繰り返されてきた「タイプ」の敷衍であることは確かだが、例えば、これと良く似た感触の、より短く書かれた「第9」の第2楽章と比べても、晩年の近くなった作曲家らしい「奥行き」が増しており(熱意ある演奏ではそれが如実に感じられる)、素材を絞り、それらも前後の楽章と関連付けられ、いつものような脈絡の薄い突発的な楽想の「乱入」も無く、落ち着いた展開を見せるこの音楽は、このタイプの彼の楽章としても「良い出来」と言える。
しかし、何故かそれは「かんばしい印象」を与えず、要するに「新鮮味」の無い音楽という感じに終始するのである。それは前作「第11番」の冒頭楽章のような「保留状態」をもう一度なぞっているようなこの楽章の性格設定や、何にも増して前作から盛んに彼が繰り返している「革命」関連の自作引用に基づく「お気に入りの動機」が、変化を受けてはいるものの「またしても」ここで顔を出し(曲の趣旨からすれば当然かも知れないが)、結局の所、楽章の主要素材は「それらに限られている」上、第1楽章で指摘した「解り易さ」への配慮に起因すると思われる「お手軽な素材選び」がここでも影を落とし、どうも「制限が加えられている感じ」を強くさせるのである。
この楽章の趣旨が、交響曲後半の「力の解放」に向けての、「沈思黙考」(この楽章には「ラズリーフ」という、かつてレーニンが「革命」を密かに準備した、と伝えられる地名が付けられている、ということになるらしい。)を示すものであるとは言え、ショスタコービチがここで「抑えている」のはまさしく「自己」でもあり、それがおそらく「冴えない感じ」を誘うのである。
もう一つは前述したような「技術の披瀝」のために彼が「このようなスタンス」を採ったこと、即ちこれが「全てを支配下に置く」ために必要な「コントロール」のための「方策」であり(さんざん指摘した通り彼は「自己コントロール」が極めて苦手なタイプの作曲家である)、確かにそれは「技術的には成功」し、少なくともこの楽章に関しては、おそらく「音楽としても成功」しているのだが、その「完成度」は、どうも彼本来の「何か」を妨げているようなのである。
但し、この楽章からは彼の「第13番」以後の交響曲の音楽が垣間見えてもおり、その意味では注目されるものではある。(以降、次回。)

ラベル:音楽
posted by alban at 20:33| Comment(0) | TrackBack(0) | 音楽 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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