2007年11月17日

音楽の「言語性」とは?(135)

確かに「目立った成果」ではあるのかも知れないが、「困った作品」、もしくは「成功作」と言えども「その要素」には事欠かない「不完全な」ショスタコービチの交響曲群の中でも(無論、交響曲に限った話でも無いが)「最も困った作品」、彼を特に支持しない者は勿論のこと、熱烈に支持する者ですら「言葉に詰まるような」、スバラシイ作品とされるのが「交響曲第12番」である。
「1917年」という副題が付けられたこの曲は、言うまでも無く「11番」の続編として「革命の成就」を描き、その指導者レーニンを賛美する、という内容であって、「十月革命とレーニンのイメージを具象化しようとした」という作曲者の「言わずもがな」の発言が示す通りである。(これに類似する発言は、同じ題材である「第2」の時、それから何故か「第6」の時にも見られた。もっとも、彼は当該作品に対して「上手く行かなかった」と付け加えることも忘れない。)
彼がこだわり続けてきたこのテーマを、「機は熟した」とばかりに取り組んだ訳だが、当時の「国家の重大行事」であるところの「共産党大会」への祝典的な「機会音楽」も兼ねており、作品の肯定的な内容や、良く非難の槍玉に挙げられる「人類の夜明け」という、フィナーレの「正気を疑うような」タイトル付けも、このような「事情」によるものと見ることも出来よう。
いずれにせよ、「11番」の鬱積した「暗さ」と、しかし集中度に欠ける纏まりの無さに対して、「続編」とは言うものの音楽の感触は大きく異なっており、曲はコンパクトに「予定調和的に」進められ、この作曲者としては比較的「無駄の無い構成」を示しているにも関わらず、より「空転」の感じは強くなり、見事に「説得力に欠ける」その出来映えは、前作のような「具体的な情景描写」が不可能であることによる「理念的な内容」と、彼が意図したR.シュトラウス風の流麗なモティーフ操作が「不一致」を生じていることが主な原因だと思われる。
作曲者は、「やろうと思えば出来る」と言わんばかりに、ヴェテラン作曲家ならではの「名人芸」を示そうとしているのだが、第1楽章の、絵に描いたような「序奏付きアレグロ楽章」が示す通り、何か「借り物」であるかのような印象(彼の成功した「交響曲の第1楽章」が、いつも「ゆっくりしたテンポ」によるものであることは良く知られている。彼は「本格的な交響的アレグロ」を書く、という意欲を示す発言を「第10」の発表後にもしている、ということらしいが、「第1」や「第9」のような「変則技」のようなものしか書いていないのは確かである。)が拭えない。
それは、ショスタコービチがR.シュトラウスやラヴェルのような「職人芸」とは「遠い存在」であることを示すばかりであり、いつも不徹底であるとは言え、彼の「美点」である「内的な傾向」を、ここでは意図的に欠いていることで生じた表現と内容の「実体の無さ」が、その技術的な高さにも関わらず「第12」を衆目一致する「駄作」としているのである。
これは一種の「罠」であって、「1961年」という信じ難い作曲の年を度外視しても、「名のある作曲家」が本気で取り組んだものとしては殆どあり得ないような「空虚さ」は、前述通り、この後の作曲家に、何がしかの「豊かな実り」があろうとは到底想像出来ないようなものなのである。(以降、次回。)

タグ:音楽
posted by alban at 19:55| Comment(0) | TrackBack(0) | 音楽 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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